古代の製鉄
北小松の奥に製鉄の旧跡がある。
鉄は国家なりと誰かの名言だが、志賀地域にもそれがあったようだ。歴史の一端を担ってきた。
喜ばしいことだ。
志賀、湖西の古代の鉄生産
自身の住む土地が世の中の何かに貢献していたと思うのは、何事に
寄らず、嬉しいことだ。その点で、製鉄の持つ歴史的な意義も含めてその
残り香に逢うことは、1千年前への想いを高める。
1.志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より
平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
今でも、このいくつかの遺構では、赤さびた鉄滓が探し出すことが出来る。
僅か流れでも1千年以上前の残り香を嗅げる。
なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。
小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事
全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年
であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。
だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を
ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した
としても不思議ではない。
さらに、
武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。
国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。
そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」
とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい
等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の
比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。
これに関しては、志賀町史でも指摘がある。
古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。
交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト政権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことに関係する。、、、
古代近江は鉄を生産する国である。
湖西や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的
地方支配の拠点が置かれていたことにより、七世紀末以後には大津市や草津市
等の湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では
鉄生産がおこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。
それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れをみわたさなければならない。
鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。
それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していた
ばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。権力の世界でも
生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。当時の製鉄方法の
詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くからおこなわれていた。
しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が朝鮮半島
洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入されてた慶尚道の鉄延であったと
みられる。三世紀なかばのことを書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は
鉄を出す。韓、わい、倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の
初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部まで駐屯
させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が難しくなった。五世紀
なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動する
のは、鉄の本格的な国産化を必要とする時代となっていたことを示す、という。
2.古代の豪族たち、和邇部氏と小野氏
農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡る
ようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、
つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの
統一に向かって原始的な国家の形態へと発展していく。
それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。
鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり
の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の
副葬品が増えてくる。
鉄が武器となり、農耕具としてその活用が高まるのは、それなりの集団が形成
されているからである。この周辺では、和邇部氏と小野氏を考えておく必要がある。
1)和邇部氏
志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、
ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地
東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団
でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。
和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇
大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、
和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。
中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を
利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権
での地位を高めたと思われる。
以下の記述は、和邇部氏が鉄素材を運んだルートの想定としても面白い。
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。
そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、
椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門か
または服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。
2)小野神社
和邇部氏も、製鉄に関係していたようであるが、小野氏の小野神社の祭神で
ある「米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)は、元来、鍛冶師の神であり、
鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇部氏の後、和邇臣配下の鍛冶師に供給していと
思われる。「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。
「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は
タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには
餅搗の神と思われていたとされる。
米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。
火が信仰の対象となったり、古事記や日本書紀にあるように剣がその伝説と
なったり、代表的な金屋子信仰にあるように鉄に対する信仰はあったはずであり、
この地では、小野神社がそれの役割となった気もする。
3)日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。
古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、
「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命いしこり
どめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本
書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし天香山の金を採りて
日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、天羽ぶきに作る。これを
用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す日前神なり」とあって、技術的に
かなり具体的になっている。
この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用するほどに
進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。
弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存
して天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく
粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、
叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていた
かのように述べてもいる。
この比良山系にも、何条もの煙が山間より立ち上り、琵琶湖や比良の高嶺に
立ち昇っていたのであろう。
3.古代近江の鉄生産
古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。
日本における精練・製鉄の始りは 5世紀後半ないしは6世紀初頭 鉄鉱石精練法
として大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が
日本で製鉄が行われたとの確認が取れる初期の製鉄遺跡と言われている。
滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が
始められていた。滋賀県埋蔵文化財センターでは、7世紀から9世紀の滋賀県
製鉄遺跡が3地域に分けられるという。
伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、
としている。
①大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
②西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓の鉄鉱石を使用
③高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓の鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を
使用して現地で製鉄して いたと考えられる。
マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を
専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる」の文があり、近江国で有力な
官人・貴族たちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山を
めぐる争いを記している。
天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占して
いたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っている。
野坂山地の磁鉄鉱は、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、
「大師藤原恵美朝臣押勝に、近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との
記載があり、浅井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも
高品質の鉄鉱石であったことが知られている。
鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度
であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定
は至難の技だった)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者
の指導で金生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒した
といわれている。岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法
で造った藤原兼正氏作の刀が御神体として納められている。
しかし、この隆盛も、鉄原料の不足からだろうか、備前、備中などの砂鉄を基本
とする製鉄勢力に奪われて行ったのだろうか。
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀
には岩鉄製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国
近代製錬は、砂鉄製錬と同義といってよい。
岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退
していったとみられる。
砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と
良質な砂鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。
しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場
まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り
崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が
必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)
砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、
大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、
最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。
1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと
考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも
ありました。たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を
満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、
たたら製鉄の面影を認めることができます」。
ただ、現在の棚田や山林の景観は、荒れた山野をいかに修復し、保全すると
いった先人の努力の結果でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、
雨量の少ない地域では百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。
さほど雨量が多いと言えない湖西では、仏閣建設の盛んだったころ、その伐採を
禁じた文書もあるくらいであるから、近世までこのような製鉄事業ができたか、
は疑問だ。多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきた
こともあり、この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。
ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。
比良での製鉄,志賀町史より
志賀町史第1巻にその記述がある。
⇒
P228
比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が五〇〇メートルから七五〇メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在一二か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる。
また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
六世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平一四年七四三年十二月十七日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
本町域にはすくなくとも二十基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が七,八世紀には
操業していたようである。詳細は242ページにある。
さらに、本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、
P245
近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
催行していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
これを燃料として操業を続けたのであろう。
P254
古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。
交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト政権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことに関係する。、、、
古代近江は鉄を生産する国である。
個性や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的
地方支配の拠点が置かれていたことにより、七世紀末以後には大津市や草津市
等の湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では
鉄生産がおこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。
それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れをみわたさなければならない。
鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。
それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していた
ばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。権力の世界でも
生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。当時の製鉄方法の
詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くからおこなわれていた。
しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が朝鮮半島
洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入されてた慶尚道の鉄延であったと
みられる。三世紀なかばのことを書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は
鉄を出す。韓、わい、倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の
初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部まで駐屯
させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が難しくなった。五世紀
なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動する
のは、鉄の本格的な国産化を必要とする時代となっていたことを示す。
⇒
P258
5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
近江と播磨がある。
日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
秘められていたと思われる。
「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも優良かつ
大規模なものであったと推測される。
本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
ようである。
高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王となった
継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への供給であったと
考えざるを得ない。
彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模生産が
行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったこと
を示唆している。
264
角山君の祖先たちは、古くから高島郡マキノ町、今津町域で餅鉄による製鉄を
行っていたと思われる。今津町の妙見山古墳群から鉄滓が発見されているし、
甲塚古墳群からは精錬滓が見つかっている。また、和邇部氏はヤマト朝廷の
和邇臣に所属する疑似同族であり、本質的な関係を持っていた。
更には、天理の和邇はヤマト朝廷を支える巨大豪族であり、鍛冶師に
由来する社会的機能集団でもあった。そのため、和邇部氏は和邇しと結びつく
時に合わせ、比良山地の餅鉄を集めて鉄素材を生産し、和邇氏は以下の
鍛冶師集団に供給していたと考えられる。小野氏は和邇部氏よりも後に
この地域に進出してきたようであるが、小野神社の始祖であるタガネツキ
大使主命は、元来は鍛冶師の神であり、和邇部氏の始祖神と思われる。
このことなどから鉄素材をタガネで小割して、和邇臣配下の鍛冶師に
供給していたと考えられる。
本町域は、湖北や高島と並んで、日本最古の製鉄が始まった地域でもあった
と推測される。
ーーーーー
志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より
平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。
なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。
P56
小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事
全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年
であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。
だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を
ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した
としても不思議ではない。
武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。
P65
国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。
そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」
とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい
等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の
比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。
ーーーーーー
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
田野健 HP ( 48 設計業 ) 09/02/19 AM10 【印刷用へ】
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九
州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあ
ったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄
の2次加工を行う鍛冶工房である。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5
世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
(リンク~日立金属HP)
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来
朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工
を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、
鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子
技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
(リンク~日立金属HP)
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である
。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産
地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂
鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク)
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から
製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭
を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言え
る。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸
時代には大鍛冶技術として完成する。
謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄
生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本の
たたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できて
いない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインド
まで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のい
ずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われ
る。
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境
に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくして
いくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依
存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧と
して国内の統合を加速したのかもしれない。
しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降
の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。
※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたの
か?)
ーーーーーー
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったという
のが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見
はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が
得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶
金技術をもっていた。
最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡で
はないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西
本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわ
れるものも発掘されています。
弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するた
め、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。し
かし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもし
れませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。
ーーーーーーー
日本の製鉄起源をどう求めるのか:古代文明の様相を探る
それでは、日本の場合、製鉄起源をどう求めればよいのか。あるいは、製鉄技術の面
から、日本の古代文明の発祥の様相をどう分析すればよいのかの問題提起を行いたい。
現在、蓋然性が伴うと考えられる要素を以下に示した。しかし、これは全く順不同で
あり、優先順位をつけたものではない。
○弥生時代から製鉄が始まった(青銅器の技術とともに輸入された)
前項で整理したように、日本の鉄器は弥生時代から確認されている。しかし青銅器と
鉄器が並立していることにより、一般的な科学的法則性に反する事態となっている。し
たがって、もともと製鉄技術を持っていなかった日本古代文明に、中国の2つの技術(
鉄器と青銅器)が伝わり、日本でも製鉄が広まった。この時、同時に2つの技術が伝わ
ったので、日本の場合は段階的な発展過程を経ず、青銅器と鉄器が並立することになっ
た。
○世界中の文明と同様に、日本にも古代鉄の製法があった
古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である
。この技術は、赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱と木炭を原料として、椀型の炉で通風し、100
0度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術なので、日本の古代文明でも十分
に可能である。世界中では、14世紀後半まで続けられていた普遍的な製鉄技術である
から、日本にもこの「低温製鉄法」が存在し製鉄を行っていた。
○縄文式土器の製造技術の上に、世界最古の製鉄技術が存在していた
日本文明が世界最古で人類初である可能性は、縄文式土器の制作による。この土器は
1万6千年前から作られていたので、中国の製陶技術より桁違いに古い時代から、日本
には「製陶技術」が存在していた事になる。中国での製鉄技術の段階的な発展過程から
考えれば、それより古い時代から「火を使って自然物を加工する」科学技術を持ってい
た日本古代文明の方が、中国より早く製鉄技術を獲得していたのではないか。
これ以外にも、製鉄の起源を巡る仮説はたてられるかも知れない。だが、いくつかの論
点は整理することが出来る。
①まず、いずれの場合も、原材料(鉄資源と燃料・木炭等)無しには、語れないであろ
う。どの製鉄方法(仮説)をとるにしても、大量の原材料が必要になる。万物の全ての
事象には、必ず原因があって結果が存在する以上、鉄器の制作には、莫大な原材料の議
論が前提になると考える。
②現実的には考古学的発掘成果から「鉄器」や「制作跡」が出土することが望ましい。
しかし、数千年や数万年単位の古代遺跡からの鉄資源の報告は確認出来ていない。また
出たとしても、現在大陸や半島から持ち込んだとの理解(定説)があるため、検証の対
象から外されている可能性がある。
③神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証の対象とすること。これまで、この
分野はほとんど研究されてこなかったといっても過言ではない。特に戦後は架空の話し
としてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから
口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性が
ある。最善の資料は「金屋子神話」である。したがい、この分野からのアプローチは欠
かせないであろう。
志賀、鉄への想い(ブログ)
宮本常一の「塩の道」は生活の必需品であった塩がどのように広まったか、
それに対して人々はどのように対応してきたか、を考えさせられるきっかけ
であった。さらに、塩以上に社会の拡大に大きな役割を果たしていった鉄についても
同様の疑問が出てきた。「鉄」は、どのように広がっていったのであろうか。
さらに、この湖西、志賀、地域は古代鉄生産ではかなりの有力な地域であったと、
志賀町史などに書かれている。まだまだ浅学非才のレベルであるが、少しでも
その認識を深めていきたい。
1.志賀での鉄生産とは、
志賀町史では、以下の記述をベースに、その場所の探査なども含め、
鉄への想いを深める。
「比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が500メートルから750メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在12か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる」。
更には、
「また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
6世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平14年743年12月17日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
本町域にはすくなくとも20基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が7,8世紀には
操業していたようである」ともある。
記述のある念仏山の弁天神社周辺は、小さな水の流れがあり、その水音だけでも
落ち着くところであるが、鉄滓らしきものもその小川の中に見られる場合もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、」。
また、平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。
2.日本の鉄文化の始まり
「弥生の鉄文化とその世界」の記述では、
「発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見て
まず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。
例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。
また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断
されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了する
ことになります。
さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
は確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
卸)は後世になると思われます」。
と書かれてもいます。ただ、製鉄が行われたのが、弥生時代なのか、さらに後なのか
色々と説はあるようですが、弥生時代にはまず武具として、その後、農具として
使われていったようである。これは福岡や佐賀県で出土したものからも言えるらしい。
また、鉄の生産開始を推測される以下のような記述もある。
欽明天皇記に「鉄屋(くろがねのいえ)を得て還来り」とあるのは、朝鮮半島の戦いで
製鉄の工人を連れ帰ったことという考えもあるようだ。
農耕経済を中心とした弥生文化が急速な発展をし、全国的に鉄器が広がるにつれて、
農産物の生産量が増え、さらに経済力は強まった。これにより集落が小国家の
ような組織体となり、原始的な国家形成へと進んだ。
このため、鉄は、武具、農具としても重要な役割を果たしていく。
3.志賀の鉄生産の状況
全国的な国家形成、強化の中で、志賀も鉄生産の拠点として重要な位置を占めていた。
日本の鉄歴史の中に志賀での記述はほとんど見られない。しかし、古代、
この地域が国の発展に欠かすことが出来ない場所であったということは、町史の記述が
やや我田引水的要素があったとしても、素晴らしいことである。
志賀町史はさらに言う。
「近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
採掘していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
これを燃料として操業を続けたのであろう」。
4.なぜ、湖西なのか、継体天皇の誕生、和邇氏とのつながり
志賀町史での指摘は中々に、面白い。
5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
近江と播磨がある。
日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
秘められていたと思われる。
「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも
優良かつ大規模なものであったと推測される。
本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
ようである。
高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王
となった継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への
供給であったと考えざるを得ない。
彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模
生産が行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったことを示唆
している。
さらに、
角山君の祖先たちは、古くから高島郡マキノ町、今津町域で餅鉄による製鉄を
行っていたと思われる。今津町の妙見山古墳群から鉄滓が発見されているし、
甲塚古墳群からは精錬滓が見つかっている。また、和邇部氏はヤマト朝廷の
和邇臣に所属する疑似同族であり、本質的な関係を持っていた。
更には、天理の和邇はヤマト朝廷を支える巨大豪族であり、鍛冶師に
由来する社会的機能集団でもあった。そのため、和邇部氏は和邇しと結びつく
時に合わせ、比良山地の餅鉄を集めて鉄素材を生産し、和邇氏は以下の
鍛冶師集団に供給していたと考えられる。小野氏は和邇部氏よりも後に
この地域に進出してきたようであるが、小野神社の始祖であるタガネツキ
大使主命は、元来は鍛冶師の神であり、和邇部氏の始祖神と思われる。
このことなどから鉄素材をタガネで小割して、和邇臣配下の鍛冶師に
供給していたと考えられる。
本町域は、湖北や高島と並んで、日本最古の製鉄が始まった地域でもあった
と推測される。
武器や農具など鉄需要の高まりとヤマト政権とのつながりの深さ、比良山系の豊富な
木材などが大きな要素となって湖西でも本格的な製鉄が進められたのかもしれない。
先ほどの調査でも、言っているが、近世、独占的になされた中国地方の砂鉄に
よる製鉄のイメージが強すぎるためか、例えば、司馬遼太郎の鉄についての記述でも
中国地方がほとんど、近江での製鉄については、脚光を浴びることがなかったものの、
この地域での製鉄の歴史への関与がそれなりにあったという歴史的な事実は
再認識すべきかもしれない。
しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場
まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り
崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が
必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)
砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、
大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、
最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。
1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと
考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも
ありました。
たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったから
です。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めること
ができます」。
ただ、これは、荒れた山野をいかに修復し、保全するといった先人の努力の結果
でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では
百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと
言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。
多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきたことにより、
この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。
ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。
弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存して
天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく
粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、
叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていたかのよ
うに
述べてもいる。比良でも多くの山間から数十条の煙がたなびき、広く伸びる
低い草木の上を琵琶湖へと流れていく光景が見られたのではないだろうか。
農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡るようにな
ると、
農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、つまり首長との
生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの統一に向かって
原始的な国家の形態へと発展していく。それがヤマト政権として更なる発展拡大して
いった。鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり
の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の
副葬品が増えてくる。
和邇氏、古代の鉄に関する諸関係
http://ameblo.jp/taishi6764/entry-12089825159.html
近江の鉄?息長氏・和邇氏?
2015-11-20 08:37:19
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【鉄を制するものが天下を制す】
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとす
る加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。金海大成洞遺跡からは4世
紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い
政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く
攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国
の単位になっていた可能性が高い。
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。
五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加
耶との交流が始まった。
須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海
・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物
と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。
出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは
、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。
大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
★日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのは
(日立金属HPより)
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九
州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあ
ったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺
跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡
で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)で
は多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世
紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
★6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
(日立金属HPより)
『古事記』によれば、
応神天皇の御代に「百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝した」とあり
、
また、敏達天皇12年(583年)「新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金
の鍛冶技術の伝授を受けた」と記されている。
その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろう
か。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていた
かもしれない。
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である
。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、
東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境
に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくして
いく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、
朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。
ブログ?古代日本の渡来人
5世紀以降、九州地方では見られなかった横穴式石室が出現、そこから騎馬用馬具が出
土している。これらは伽耶移住民の大量進出による。
6~7世紀は韓人が中心で、背景には加耶諸国(562年)、百済(660年)・高句麗(66
8年)それぞれの滅亡がありました。
鉄の覇権をめぐって朝鮮 諸国との連携や大量の渡来人の流入が生じる中、鉄の覇 権を
握った大和が次第に日本諸国を統合して日本骨格を作っていく。大和は同時に渡来人の
技 術をいち早く吸収し、鉄の自給についても、早くから大規模精錬を開始し、この鉄
の力をもって諸国を 統一し、7 世紀初頭には律令国家を作り上げ、飛鳥・奈良時代を
作ってゆく。大和朝廷の勢力の源泉と なったのが、朝鮮からの鉄の移入と同時に吉備
国の鉄とこの近江国での鉄自給と考えられている。
【和邇氏と息長氏】
近江は和邇氏の本貫地でもあり息長氏の本貫地でもある。
和邇氏・息長氏は、諸氏族のなかでも際立った性格をもつという。
和邇氏・息長氏は、格段の多さで「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」である。
(雄略~敏達)
?初期ヤマト政権の和邇氏・息長氏
ブログ?「初期ヤマト政権~山辺の道~」で書きましたように、和爾氏の氏神「和爾下
神社」の社殿は和爾下神社古墳と呼ばれる前方後円墳の後円部上に建っている。
和邇氏は早く奈良市の東南端の和邇下神社から春日大社へといたる間に居地をもち、
息長氏は、平城京の北西部に居地をえている。
三輪山裾の出雲氏・尾張氏・吉備氏等と同様、弥生時代に倭国の王都近くへその集落を
移し、国政に参与した。おそらく弥生文化の母胎となる初期漢・韓人の渡来時、一斉に
各地に配置された枢要の人々がその地域を代表する形で大和の地に拠地をえている。
?河内政権の和邇氏・息長氏
ブログ?「飛鳥時代~「河内飛鳥」~」で書いた、大阪府の東南部に位置する、羽曳野
市・藤井寺市を中心に広がる古市古墳群は、(4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ15
0年の間に築造された。)和邇氏・息長氏に出自する皇后をもち、この地域が和邇氏・
息長氏の河内での氏地であることから皇妃・皇子・皇女墓を含めて、この地を「奥津城
」としている。
?息長氏
近江水系を支配した息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす
。
息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心
とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。
天武天皇の八色姓においては応神天皇系の真人であり、重要な氏族。真人は、八色の姓
の最高位の姓で基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた
と言われているが実際には、天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけ
の意味ではなく、壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八
色の姓の最高位である真人姓を与えた。
息長氏と継体天皇
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である真人は基本
的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。
応神天皇系 息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系 三国真人・酒人真人
宣化天皇系 多治比真人・為名真人
敏達天皇系 大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系 当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系 三嶋真人
天智天皇系 淡海真人
天武天皇系 高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上
真人
『古事記』応神天皇
継体天皇の祖父 意富富等王は次の八氏族の祖であると記されている。
息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏
という事は、天武朝において息長氏が継体天皇の親族として評価されていた。
応神天皇
|
若野毛二俣王
|
意富富等王
|
|-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
|-筑紫末多君・布施君
|-継体天皇
天武朝以前には
舒明天皇の 和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこ
と)」
その意味は、「息長氏が養育した額の広い(聡明な)天皇」と読むことができる。
『日本書紀』皇極天皇元年十二月条
「息長山田公、日嗣をしのび奉る」
とあり、舒明天皇の殯(もがり)において、息長山田公が「日嗣」(皇位継承の次第)
を 弔辞したという。
舒明天皇の父親は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫の(息長氏の)実家である。
息長真手王(おきながのまてのおおきみ)
|
敏達天皇ーーー広姫
|
押坂彦人大兄皇子
|
舒明天皇
|ーー|
天智 天武
息長真手王(おきながのまてのおおきみ)は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻
績郎女・広姫。娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫「敏達天皇」の
皇后・広姫である。
意富富等王の後裔が名のったという「息長」を冠する名前は、それ以前にも見られる。
倭建命
|
息長田別王
|
杙俣長日子王 ( くいまた ながひこのみこ )
|
息長真若中比売ーーー応神天皇
|
若野毛二俣王
|
意富富等王
|
|-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
|-筑紫末多君・布施君
|-継体天皇
開化天皇
|
日子坐王
|
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
|
迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
|
息長宿禰王ーーー葛城之高額比売
|
大多牟坂王
息長帯比売命(神功皇后)
虚空津比売命
息長日子王
「開化天皇の系統」と「倭建命の系統」とは結局の所意富富等王でつながるという事だ
開化天皇 倭建命
| |
日子坐王 息長田別王
| |
息長帯比売命(神功皇后) |
| |
応神天皇ーーーーーーー息長真若中比売
|
若野毛二俣王ーーーー百師木伊呂弁(長真若中比売の妹)
|
意富富等王
塚口義信氏によると
「開化天皇の系統」の山代之大筒木真若王と迦邇米雷王は
山代之大筒木真若王右矢印山背国綴喜(つづき)郡
迦邇米雷王右矢印山背国蟹幡(かむはた)郷
などの山背南部の地名が多く登場する事からこの系譜の伝承荷担者集団を「山背南部の
一族(集団)」であるとした。
また、息長帯比売命(神功皇后)の母方は『古事記』によると新羅の王子「天之日矛」
の末裔にあたる。
息長帯比売命(神功皇后)応神天皇を天之日矛系渡来人の後裔とする伝承はかなり古い
時代から伝承されてきたものであったと推定している。応神天皇を「山背南部に移住し
ていた和邇系のヤマト政権(畿内政権)を構成する有力な政治集団の男性」と「山背南
部に移住していた朝鮮半島系渡来者集団出身の女性」が婚姻して生まれた子息であった
と推測している。
また、息長氏については「天之日矛」が一時期滞在したという伝承をもつ「坂田郡阿那
郷付近」に居住していた「天之日矛」の人物と、若野毛二俣王・意富富等王系の人物と
の婚姻によって生まれてきた可能性を指摘している。
?和邇氏
【若狭から大和への経路】
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。そのルー
トは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、椿井大塚山古墳のあ
る京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門かまたは服属
する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。
石原氏によると
ワニが古代朝鮮で剣あるいは、鉄をいみするところから製鉄に関わった氏族であり、琵
琶湖の和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄の遺跡が残っていると述べている。
ブログ?近江国~近江の豪族~
真野郷を除く滋賀郡三郷に百済系漢人らが勢力を張ったのは6世紀以降のことで、それ
以前はこの郡内全域に和邇氏の勢力が及んでいたと考えられる。と書いた。
近江では上古の早い時期からかなり強固な基盤を築き、滋賀郡を中心に繁衍を見せる。
5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族であり、出自
については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説が
ある。
本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。
5世紀後半から6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。
春日・帯解・櫟本には、和邇氏及びその同族氏族が多く居住していた。
北から春日・大宅・小野・粟田・櫟本・柿本の各氏族が連なって居住していた。
遣唐使、遣隋使を多く輩出している典型的な海人系の氏族
「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」大和の有力な豪族として応神天皇以後7代
(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされてい
ます。
和邇氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたらし
ひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。
『古事記』孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記さ
れています。
東大寺山古墳(竹林) 櫟本高塚遺跡(公園) 和爾坐赤坂比古神社 和爾坂下 伝承地道
, ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族。
和邇氏の一族には、水運・港津管掌、近江統轄といった職 掌がみられる。
【近江を制するものは天下を制する】
「近江を制するものは天下を制する」
と言われ、権力者の争奪の的となった。
古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。
?鉄鉱石精 練
日本における精練・製鉄の始りは 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭 鉄鉱石精練法とし
て大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が日本で製鉄が
行われたとの確認が取れる初期の製 鉄遺跡と言われている。
滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が始められてい
た。
滋賀県埋蔵文化財センターでは、7 世紀~9 世紀の滋賀県製鉄遺跡が 3 地域に分けられ
るという。
伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、と
しています。
1 大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
2 西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓 ?鉄鉱石を使用
3 高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓 ?鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を使用して
現地で製鉄して いたと考えられる。
マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し
貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、近江国 で有力な官人・貴族た
ちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山をめぐる争いを記していま
す。
天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたよ
うで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。
野坂山地の磁鉄鉱は、、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、「大師藤原
恵美朝臣押勝に、 近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との記載があり、浅
井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であった
ことが知られます。
鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度で
あるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の
技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金
生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれている。
岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法で造った藤原兼正氏作の刀
が御神体として納められている。(同町の表佐(垂井町表佐)には通訳が多数宿泊して
いたという言い伝えがある。
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれてる。
ブログ?美濃国一宮 南宮大社(なんぐうたいしゃ)
?砂鉄精練
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀には岩鉄
製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国近代製錬は、砂
鉄製錬と同義といってよい。
岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退してい
ったとみられる。
砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と良質な砂
鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。
【継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住】
継体天皇といえば、6世紀初頭、越前の武生から大和に進出する際、三尾氏、坂田氏、
息長氏、和邇氏など近江の豪族達の女を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出
路を確保するとともに、その鉄資源の確保をねらっています。
近江国高島郡
継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住していた。
三尾君氏、都怒山臣(君)氏
熊野本古墳群(新旭町)、田中大塚古墳群(安曇川町)
鴨稲荷山古墳
古墳の築造時期は6世紀前半と位置づけられている。当地で生まれたとされる継体天皇
(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した
豪華な副葬品の中には、朝鮮半島の新羅王陵のそれとよく似ていものがあり朝鮮半島と
の強い交流が見られる古墳である。
『日本書紀』継体天皇即位前条によると、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王は近江
国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代
継体天皇)を儲けたという。
継体天皇の在位は6世紀前半と見られており、三尾氏とつながりがあったことは同氏か
ら2人の妃が嫁いだことにも見える。そうした『日本書紀』の記述から、本古墳の被葬
者としては三尾氏の首長とする説が広く知られている。
近くには白髭神社がある。
【滋賀県高島郡の鉄生産の特徴】
1、古墳時代後期(6世紀)
2、奈良時代には鉄生産が盛んに行われていた
3、製鉄原料として、主に鉄鉱石を使用している
4、墳圏史料に高島郡の鉄生産に関連する記事が記載されている
5、奈良時代の鉄生産に当時の有力者が関与している(藤原 仲麻呂)
6、製鉄遺跡群が存在していること
高島郡マキノ町のマキノ製鉄遺跡群
北牧野と西牧野の二つの古墳群が大規模である。
鉄の歴史3
金屋子神社他、奥出雲タタラの里
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/mononoke/monolink11.htm
http://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/environmental-facts/part-3/
奥出雲地方で盛んに行われていた「鉄穴流かんなながし」は、山を切り崩して土砂を流
し、それに含まれる砂鉄を採取する方法です。
この鉄穴(かんな)流しは、山を切り崩すことはもとより、大量の土砂を河川に流すこ
とから、
流域の環境に大きな影響を与えました。川底が上がり洪水を起こしやすい「天井川てん
じょうがわ」(川底が周囲の平地よりも高くなった川)となることや、流域の農業用水
路が埋まることなどは負の側面です。その一方で、先人達は鉄穴流しの跡地を棚田に造
成したり、川を流れ下った土砂を利用して新田開発を行うなど、跡地や土砂を有効に利
用してきました。
http://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-4/
中国地方では、古墳時代後期から箱形炉による製鉄が一貫して続けられ、おそらく室町
時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代
の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み
重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているた
たら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自
の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。
中国地方における製鉄遺跡の概要
6世紀後半から11世紀頃まで――吉備きび国に集中
中国地方のたたら製鉄遺跡は、石見いわみ(島根県西部)、出雲いずも(島根県東部
)、伯耆ほうき(鳥取県)、備前びぜん(岡山県南東部)、備中びっちゅう(岡山県西
部)、備後びんご(広島県東部)、美作みまさか(岡山県北東部)、および播磨はりま
(兵庫県西部)の各地で確認されています。この地域では、6世紀後半から11世紀頃の
製鉄遺跡が現在のところ70余り確認されています。中でも、備前、備中、美作と備後に
またがる地域、古代日本においては吉備きび国にあたる地域にその大半が集中していま
す。
11世紀から16世紀頃まで――中国山地周辺、石見・出雲に移動
これに対して、11世紀以降16世紀ころまでの製鉄遺跡は、石見、出雲、伯耆、安芸あ
き(現在の広島県西部)、備中、美作、播磨で多数確認されています。それまで大半を
占めていた吉備においては、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消し中国山地の備
中北部と美作に限られる一方、現在の島根県にあたる石見・出雲地域が多くを占めるよ
うになります。
たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。すなわち、古代におけ
る初期の製鉄では原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世
に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは砂鉄のみが用いられていることです。
近世(江戸時代初期以降)――「近世たたら」の確立へ
近世たたらの製鉄遺跡は石見、出雲、伯耆、安芸、備後、備中、美作、播磨などの地
域で多数確認されますが、これは11世紀以降に製鉄遺跡が展開する地域と重なっており
、たたら製鉄の生産地域は、古代ではなく、古代末から中世にかけて形成されたものを
継承していることを示しています。
そして、17世紀末の天秤鞴の発明という技術革新を経て、たたら製鉄は完成されたの
です。
鉄の歴史2
製鉄の原料には鉄鉱石と砂鉄がありますが、私はてっきりと砂鉄を原料とする製造方法
のほうが古いのだと思い込んでいました。
ところが、≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流≫だったのです。
≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、
鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。≫
日本では、鉄鉱石はすぐに枯渇してしまったようです。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-11.html
≪古代吉備を探るⅡ
連載第11回 限りある資源を大切に
文/岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武≫
≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く 吉
備」たらしめたと言えるでしょう。≫
≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが
、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。つまり、文字史料
から変化が読み取れた平安時代は、ちょうど原料が鉄鉱石・砂鉄両用から砂鉄のみに一
本化する過渡的段階にあたると判断できます。≫
≪砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で
大量に採取できます。「たたら」が中国山地を中心に発展した背景には、砂鉄の豊富な
存在があげられます。対して鉄鉱石は産出場所・量が限られるため、枯渇(こかつ)が
生産の枷(かせ)となります。713年、備前北半部の花崗岩地帯が美作として分国され
ました。分国のせいで備前では鉄鉱石が枯渇した時に、代わりの原料となる砂鉄が十分
に調達できなくなったと言えます≫
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
≪弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったとい
うのが現在の定説です。≫
しかし、≪・・・5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
≫
≪弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明する
ため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。
≫
≪いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かで
しょう。≫
≪この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょ
う≫
引用は不充分でしょうが、確認したいことは次のことです。
① 日本では、製鉄は弥生時代後半から始まっていたようだ。
② 鉄原料は朝鮮半島に依存していたようだ。(ただし、日本にも遺跡はあった)
③ 日本では、製鉄の原料は鉄鉱石から砂鉄に移行した。
日本には鉄鉱石はそれほど埋蔵されていないようです。
たとえば、前回問題にした勿禁(ムルクム)の鉄鉱山は、今では採掘は中止されている
ようですが、最近まで行なわれていたようです。
最初に検索した時に、渡来人の研究をしている方たちの掲示板
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
の、製鉄集団の渡来’(2006年3/6)を目にして「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅」を知
りました。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/kankoku.kaji.htm
・佳村里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山・・6世紀・・製鉄遺跡は共通して山の端で平
野が開ける小高い丘に立地している。
・凡魚里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山
・≪勿禁邑鉄鉱山・・・慶尚南道 梁山
洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
最近まで採鉱されていたが今は採算が取れず鉄鉱石は止めている、との事だった。≫
梁山(ヤンサン)の製鉄遺跡は6世紀のものだそうですから、勿禁邑鉄鉱山はずいぶん
と長いこと稼動していたことになります。それでは余りに長すぎますから、当時の鉄鉱
山は別の場所だったかもしれません。
それにしても、鉄鉱山は梁山(ヤンサン)地区にあったのでしょうから、日本の吉備の
埋蔵量と比べると、雲泥の差であったことは想像できます。
鉄は当時大変な貴重品で、戦略物資だったようです。
弥生時代末期以降の鉄器の普及は朝鮮半島の鉄鉱石と技術者のおかげかもしれません。
ということは、古代日本にとって南朝鮮が領土の一部ということは、経済生産活動に構
造上必要なことであったといえるでしょう。
失うようなことがあれば、大変な打撃となるわけです。
技術者だけを連れてきても、日本では鉄鉱石の埋蔵量が少ないために、すぐに壁に突き
当たるはずです。
白村江の敗戦により、日本は朝鮮の鉄鉱石を原料に使用できなくなり、(あっという
間に、わずかな日本の鉄鉱山は枯渇し、交易で鉄鉱石または製品を輸入することはでき
たにしても)豊富に存在した砂鉄に製鉄の原料を移行せざるを得なくなったのでしょう
。
技術革新は行なわれたのでしょうが、最初は大変だったでしょう。
石油が入らなくなり、石炭に戻ったようなものだったかもしれません。(わかりません
が、多少はそういう状況に近かったのではないでしょうか)
古事記の神功皇后のところでは、朝鮮・新羅が宝の国とされていました。
宝とは金とか銀とかの貴金属を指しているのかと考えましたから、ずいぶんと大げさな
表現だと感じていました。しかし、鉄が宝だったと思えば納得できるのです。
さて、日本列島を揺るがす製鉄技術の導入は、247年の戦争が契機になったと思われま
す。(5世紀以前に製鉄は始まっていたはずです。大きな技術革新は5,6世紀だとしても
)
当時、北九州は卑弥呼と卑弥弓呼の奴国があり、南朝鮮と緊密な関係で、既に製鉄文明
を謳歌していたでしょう。(たぶん)
関門海峡はまるで封鎖されたような状況にあり、(実際に封鎖していたというのではあ
りませんが、思いつきでいいますと、難民の流入があってもおかしくはありません。ち
ょっかいは熊襲だけではなかったかもしれません)瀬戸内以東と北九州の格差は大きか
ったと考えています。
この247~250年ごろが、日本列島の寒気の底でした。穀物生産も瀬戸内以東では最悪で
あったでしょう。
この格差是正がこの247年の戦争だったといえるのです。(今から思えば)
(以前に書いていますが、この戦争は、「記・紀」では『神武東征』として書かれてい
ますが、実際の進路は逆で、スサノヲと兄・五瀬命が明石・須磨から北九州・奴国に攻
め込んだものです。スサノヲは正面衝突では敗北しますが、奇襲によって、卑弥呼・卑
弥弓呼を破ります。
卑弥呼・卑弥弓呼は亡くなり奴国は乱れますが、卑弥弓呼の娘・トヨが卑弥呼になり収
まります。しかし、スサノヲは卑弥呼トヨを孕ませ(妊娠させ)たために、御子を産む
ために卑弥呼トヨは瀬戸内海を渡りスサノヲの元に行こうとします。・・・と同時に列
島は温暖化に向かいます。・・以前に書いています。付け加えると、卑弥呼と同時かど
うかはわかりませんが、農耕集団、製鉄集団も加わっていたのではないでしょうか)
スサノヲは、後に半島に行ったものと思います。(以前は行く必要がないと考えてい
ましたが、その必要はあったでしょう)
どういう形態になったかは、わかりませんが、南朝鮮を押さえたはずです。そうでな
いと、鉄が日本に流入しないでしょう。
鉄鉱山、製鉄所、技術者などを支配しようとしたはずです。
スサノヲが朝鮮に渡っていたなら制圧していたはずです。(支配形態としてはゆるい
ものだったかもしれませんが)
大和朝廷の朝鮮半島・任那に対する執着は、鉄に起因するところが大きいのではない
か、というのが今回の仮説です。
まとめると、概要文のようになります。
「古代日本での、製鉄の原料は、鉄鉱石から砂鉄に移ります。日本には鉄鉱石の埋蔵は
少量でしたが、砂鉄は豊富にあったからです。
しかし、日本の鉄器文明の最初の契機は、朝鮮半島の鉄鉱石だったようです。
247年の北九州でのスサノヲと卑弥弓呼の戦争と、663年の白村江の戦いは、鉄に対する
希求の表れだったと思えます。」
ーーーー
1.製鉄の起源を探る意味:製鉄の起源と日本文明の起源
日本の古代文明の有り様は、謎のままで明らかになっていない。その国の歴史が未だ
かつて明らかになっていないのは、世界中でも日本だけの特殊な事態である。
民族の歴史が不明であるという事は、その民族の本当の意味でのアイデンティティが
未確立であることを意味している。そのため、その民族は国際社会では確固とした行動
をとれないばかりか、国内的には不測の事態に対応できない構造を形作る。
一般に人類の歴史の発展過程は、多くの場合サイエンスとテクノロジーの発展過程と
対応している。私は、「火を使って自然物を加工する」科学技術の獲得をもって、文明
の端緒と考えている。
日本の古代文明は、この火を使って自然物を加工する科学技術を、人類社会で最初に
手に入れた文明である。1万6千年前から弥生時代まで、約1万4千年間も作り続けら
れた縄文式土器がそうである。
また、日本古代文明の特殊性は、青銅器と鉄器が弥生時代から並立して存在している
ことである。人類史の中では、鉄器時代は青銅器時代の後にやってくる。なぜなら、こ
れはサイエンスとテクノロジーの発展過程の問題であり、科学技術的には青銅器の後に
しか鉄器は存在できなかったからである。
したがって、日本古代文明の様相を探り、その謎を解き明かすには、本来文明の発展
過程に対応しているサイエンスとテクノロジーの傾向を分析する必要に迫られる。
結局、製鉄の起源を探る意味は、製鉄の起源から日本古代文明の起源を解き明かす役割
と可能性をいうのである。
2.人類の製鉄の起源の概略:中国の鉄の起源と発展過程
人類社会で製鉄技術を最も早く獲得し見事に実用化したのは、中国の古代文明だと考
えられており、現在これが定説となっている。この節では、まず中国の鉄の起源とその
発展過程を整理することにより、人類の製鉄の起源の概略を示したい。
中国の研究者によると、中国では紀元前14世紀の隕鉄が見つかっており、これはヒ
ッタイトの紀元前12世紀を上回るという。製鉄技術の古さを言わんとしているが、恒
常的な製鉄は、紀元前7世紀頃から始まったと考えられている。
古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である。
この原理は・・・富鉄鋼(赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱)と木炭を原料として、椀型の炉に入
れて通風し、1000度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術で、職人は、
炉の中から、半熔解状態の海綿状の塊をとりだして鍛造し、性質を改善し器に鍛え上げ
ていた。・・・と分析されている。この製法は、中国を除くと14世紀後半まで、世界
中で続けられていた普遍的な製鉄技術である。
その後、中国では紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄の発明があり、中国が世界で初めて
銑鉄を作る技術を獲得した。この作り方は、高い炉を造り、送風の強化によって炉内温
度を上げ(1146度C~1380度Cが予測される)原料の鉱石を溶かしたと考えら
れている。
紀元前3世紀に個体脱炭鉄(脱炭法の開発)=白銑鉄を酸化させて脱炭し、その後さ
らに銑鉄版を脱炭し鉄鋼を作り、次に再加熱鋳造し、各種の器物を製作する技術を開発
している。
紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。これは、融化した銑鉄に送風し、1150度
~1200度に熱したままでかき混ぜて酸素を送り込んで炭素を取り除く方法である。
紀元後2世紀には、ドロドロに溶かした液体の銑鉄と錬鉄を混ぜ合わせて侵炭して鋼に
する技術を発明した。(炭素濃度をコントロールする技術)
中国は、永い間これらの製鉄技術の国外流出を防いでいたが、製鉄資源の枯渇ととも
に東南アジアやシルクロードを逆送し、やがてヨーロッパにも伝わっていった。スウェ
ーデンで発見されたヨーロッパで最も古い製鉄炉は、中国の炉の形をしている。
この概略をさらに暦年的に整理すると以下のようになる。
・紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄が発明された。
・紀元前3世紀に、固体脱炭鋼が発明された。
・紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。
・紀元後2世紀頃、製鋼技術が発明された。
最後の紀元2世紀後の技術が、現在の溶鉱炉による製鉄技術として、世界中に普遍化
している。
3.サイエンスとテクノロジーの発展過程:科学的法則性
ここで重要な問題は、これらのサイエンスとテクノロジーの発展過程が、どのような
様相の中で起こったかを分析することである。
これらの科学技術の発展過程、いわゆるなぜ中国で最初に銑鉄技術が出来上がったのか
という原因について考えられる要因は、以下の要素と順番に整理できる。
①長期にわたる豊富な製陶技術があったこと。
中国では新石器時代から製陶技術が発祥したと考えられている。煙突と煙道が設けられ
ているものは、最大1280度の高温環境を作れたと考えられている。
②青銅鋳造技術が高度に発達していたこと。
紀元前14世紀頃(商・周)時代には、すでに大型の青銅器が作られている。稀少で高
価な銅や錫にかわって、安価な鉄を使う技術的基礎が作られた。
③これらを技術的基礎に白銑鉄の発明と鋳鉄のもろさを改良する焼き鈍しの技術を生み
出した。銑鉄の広範な使用が始まった結果、白銑鉄、脱炭鋳鉄、可鍛鋳鉄の生産が大量
に可能になった。
つまり、鉄器の制作技術の前段には、青銅器の制作技術があり、さらにその前段には陶
器の制作技術があったことが分かるのである。これは、サイエンスとテクノロジーの発
展過程における科学的法則性に一致する状況で、下位の技術から上位の技術へと、順番
に科学が発展していることが系統的に示されている。
前にも述べたが、人類社会全般には、青銅器時代から鉄器時代がやってくるのはこの科
学的法則性に基づいている。にもかかわらず、日本の場合だけ弥生時代から青銅器と鉄
器が並立していることは、人類社会全般のサイエンスとテクノロジーの発展過程におけ
る科学的法則性に反する事態が起こった可能性を示唆している。
4.日本の製鉄起源をどう求めるのか:古代文明の様相を探る
それでは、日本の場合、製鉄起源をどう求めればよいのか。あるいは、製鉄技術の面
から、日本の古代文明の発祥の様相をどう分析すればよいのかの問題提起を行いたい。
現在、蓋然性が伴うと考えられる要素を以下に示した。しかし、これは全く順不同で
あり、優先順位をつけたものではない。
○弥生時代から製鉄が始まった(青銅器の技術とともに輸入された)
前項で整理したように、日本の鉄器は弥生時代から確認されている。しかし青銅器と
鉄器が並立していることにより、一般的な科学的法則性に反する事態となっている。し
たがって、もともと製鉄技術を持っていなかった日本古代文明に、中国の2つの技術(
鉄器と青銅器)が伝わり、日本でも製鉄が広まった。この時、同時に2つの技術が伝わ
ったので、日本の場合は段階的な発展過程を経ず、青銅器と鉄器が並立することになっ
た。
○世界中の文明と同様に、日本にも古代鉄の製法があった
古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である
。この技術は、赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱と木炭を原料として、椀型の炉で通風し、100
0度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術なので、日本の古代文明でも十分
に可能である。世界中では、14世紀後半まで続けられていた普遍的な製鉄技術である
から、日本にもこの「低温製鉄法」が存在し製鉄を行っていた。
○縄文式土器の製造技術の上に、世界最古の製鉄技術が存在していた
日本文明が世界最古で人類初である可能性は、縄文式土器の制作による。この土器は
1万6千年前から作られていたので、中国の製陶技術より桁違いに古い時代から、日本
には「製陶技術」が存在していた事になる。中国での製鉄技術の段階的な発展過程から
考えれば、それより古い時代から「火を使って自然物を加工する」科学技術を持ってい
た日本古代文明の方が、中国より早く製鉄技術を獲得していたのではないか。
これ以外にも、製鉄の起源を巡る仮説はたてられるかも知れない。だが、いくつかの論
点は整理することが出来る。
①まず、いずれの場合も、原材料(鉄資源と燃料・木炭等)無しには、語れないであろ
う。どの製鉄方法(仮説)をとるにしても、大量の原材料が必要になる。万物の全ての
事象には、必ず原因があって結果が存在する以上、鉄器の制作には、莫大な原材料の議
論が前提になると考える。
②現実的には考古学的発掘成果から「鉄器」や「制作跡」が出土することが望ましい。
しかし、数千年や数万年単位の古代遺跡からの鉄資源の報告は確認出来ていない。また
出たとしても、現在大陸や半島から持ち込んだとの理解(定説)があるため、検証の対
象から外されている可能性がある。
③神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証の対象とすること。これまで、この
分野はほとんど研究されてこなかったといっても過言ではない。特に戦後は架空の話し
としてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから
口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性が
ある。最善の資料は「金屋子神話」である。したがい、この分野からのアプローチは欠
かせないであろう。
以上、古代製鉄の起源を探るための概略をまとめた。製鉄の起源を探る意味は、製鉄の
起源から、結局は、日本古代文明の起源を解き明かすことが出来ないであろうかという
命題である。
サイエンスとテクノロジーの発展過程は、ほぼ絶対に文明の発展過程と何らかの形でリ
ンクしている。しかし、日本の古記録である古事記や日本書紀及び風土記には、このサ
イエンスとテクノロジーの記録だけが書かれていないという、極めて不思議な出来事が
ある。
この問題も含めて、製鉄の起源と日本古代文明の起源を解き明かすことができれば、日
本国家最大の課題であり、民族的問題の解決に道がつくであろう。
島根県立大学北東アジア地域研究センター市民研究員
山陰古代史研究会設立準備委員会代表
古代史研究家 田中 文也
鉄の歴史1
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったという
のが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見
はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた
。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶
金技術をもっていた。
最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡で
はないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西
本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわ
れるものも発掘されています。
弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するた
め、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。し
かし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもし
れませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。
日本における鉄の歴史 ①日立金属のHPより
2010年 11月 26日
この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。
稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~
4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧
(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたこと
は、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平
野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます
。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及
ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時
代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材
などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃっ
たんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中
の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど
、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、
首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになりま
す。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が
行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。
弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作
の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分
かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭
人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かりま
す。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、
銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭
素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。
◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。
福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり
鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作
を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時
代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあり
ます。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で
、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの
高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いな
いでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに
吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によ
れば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れ
るのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
○鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することにな
ります。
さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
は確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
卸)は後世になると思われます。
●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?
弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったという
のが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見
はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた
。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶
金技術をもっていた。
最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡で
はないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西
本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわ
れるものも発掘されています。
弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するた
め、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。し
かし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもし
れませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。
◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」につ
いて書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30
とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったよ
うです。
●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでし
ょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄
を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだった
と思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされ
たものでしょう。
古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝
したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を
招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。
その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっ
たでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含
まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による
製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以
前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古
来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。
●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を
用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を
示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)
と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は
、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを
暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9
世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも
広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認めら
れます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。
このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のル
ーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。
各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、
12月
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集
中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。
11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構
造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m
、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入る
と、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小
舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。
日本の金属の歴史
メソポタミア地方で発見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジ
アなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入
ってきました。
弥生時代
日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工
③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半
島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や
腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使
い分けも行われたようです。
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込
む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど
、石型から始まっています。
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり
、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り
固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来
るようになります。
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わって
います。
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判って
いません。
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えて
います。
初期の石の鋳型 合わせ型 土型
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古墳時代
古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが
、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作
られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地
金を輸入し、溶解鋳造していたようです。
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。
これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に
木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されていま
す。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大
和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であっ
たと考えられています。
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土
していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神
陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」
であったと考えられています。
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたと
いう意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記
事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩していま
す。
1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡 古墳と出土した鉄器
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奈良、平安時代
平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていった
ようです。 銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈
良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡として
は岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通
風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代に
なってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、
この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるよ
うになりました。
日本各地への鋳物業伝播
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鎌倉~安土桃山時代
群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規
模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されてい
たことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡
菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国
地方一帯に普及しました。
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持で
きなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残さ
れています。
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの
制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術
を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、
第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土
を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型
として鋳造しています。
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがら
くり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。
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江戸時代
鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすこ
とが出来ません。
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温
を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸
時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられて
います。
又、鋳造業の栄えた地域としては、
盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢
、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、
広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建
造などが必要となります。
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各
藩で争って築造されました。
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど
建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コ
ークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代
的な鋳物工場が誕生することになります。
たたらの構造 こしき炉
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「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(
アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)
鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも
鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における
鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
グラフで概観を捉えてみてください。
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地
域だったことがわかります。
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この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元
前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器
や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、
前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めて
おり、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、
鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は
朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品
に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。
半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品
質な砂鉄が分布していた。
朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の
鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶
連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始してい
たとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗
できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に
中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一し
たのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。
東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとす
る加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡
からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い
政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く
攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国
の単位になっていた可能性が高い。
伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀
後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との
交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀
前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶
諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を
安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト
朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年
には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。伽耶諸国の歴史(3)
~半島内での進軍と衰退
最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九
州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあ
ったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5
世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。(日立金属HP)
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来
朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工
を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、
鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子
技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。(日立金属
HP)
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である
。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、
東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境
に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくして
いく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、
朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
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