2023.06.19

群れる人

都会の片隅

人は群れる

それは寂しさの故
居酒屋であったり
BARのカウンター
そこに上澄みを払いのけた本音が
少し虚飾の本音
吐き出す溜息と不満の大海に小さな渦を
渦は似た渦と同化し
大きな渦となって人を飲み込む
そこに漂流物が巻き込まれ
渦の力をもらい明日への希望に光明を見るもの
その深さに引き込まれ全人格さえ失うもの
恋の渦
失望の大きな渦
でもそれは死に比べたら小さきもの
死の波動を正面に受けたものは来ない
真の深き苦悩や苦悶は己が受けてその体に溶かしこまねばならない
なぜ火とは渦に入ろうとする
他人は助けてくれない

梅雨に紫陽花は見栄えよく咲き誇る
薄く張った水膜に眼が行った。
その隙間に伸び盛る稲がその緑色を見せた。
梅雨は夏へのいざないであり、さらなる深緑への調べとなる。

2023.06.15

九相死

梅雨に戯れた。
細雨に眼を流し薄墨の空に身を躍らす。
比良の山並みも雨にくすぶり灰色に映えている。

遺骸

藪に犬がいた
触っても1ミリほども動かない
死んでいた
首に太い傷口があり血は固まっていた光を失った眼が
天を睨んでいた
それは生への執着だった
遺骸は形を変えていった
醜悪な姿形
身体が膨れ上がり体色は変色する
腐敗し皮膚が破れていた
骨がその灰色を露出し
さらに腐敗し蠅がたかりウジが口や眼からわいた
カラスや獣がむさぼり食べていた
白骨にわずかに皮膚や肉が残るだけ
綺麗な白骨に化し
その形は残ったまま
自然循環にものと化す
彼は土に還り消滅し無に帰っていく
人も同じ
見目麗しい若者も夕刻には姿を変え
この犬と同じ道をたどる
輪廻転生の理から生あるものは逃げられない

2023.06.10

saka

下り落ちる先に群青の太湖
霞みに灰色の影を見せる対岸の山並み
下る感覚
上る足触りは久しくない
一歩踏み出す勇気もなくなった
未来は見えていた
見えているからこそ踏み出せない
この傾斜に立ち向かう力は消えた
降りるは自然の理
何の努力も覚悟もいらない
ただ右足を踏み出せばよいだけ
だが怖い
未来にある恐怖の姿を知っているから
風がふいと背を押す
覚悟も意識さえなく歩き始める
多分太湖は幻想だ
そう思うことが唯一の慰め
太湖はやがて白き棺となり
わたしを優しく抱く
包まれるわたしが微笑む
微笑みの訳を誰も知らない
すべてから解き放たれる嬉しさ
老いたるものしかわからぬ快感
そして灰となって新しい姿で太湖に抱かれる

2023.06.08

梅雨

梅雨の風情を紫陽花に見る。細糸の雫が薄い膜をはり、艶やかな色合いを見せる。
しっとりとした空気に肌もその質感を輝かせる。
荒んだ人の心、世間の情、一時の心の安らぎが湧いてくる。
郷愁と思うにはその風景は霞み、根無し草のわたし。


朝焼け

東の空山端小さな連なりのシルエット
ピンクと赤に染まった小さな山裾
いくつかの東の空が燃え始める
鶏の一番鳴くのが凍えた大気を切り裂く
二番、三番鶏がそれに続く
消滅するかを悩んでいた星たちが
思いついたように消えていく
朝日はさらにその焔を増し
西空に残った星たちを焼き尽くす
夜に蓄えた生気の焔
さざめく鳥
木々の語らい
草のささやき
地上の生き行くものすべてが
生命の焔をに焼かれ
新しく誕生する
人もまた太陽に額づきそのエネルギーを体内に
細胞も活性化し新しい力が生まれる

2023.06.04

水は清く陽は透き

太湖は静かな面立ちを見せていた。6月は四方に多くの彩と緑の綾を見せている
人の心も一段と軽やかさを、大気も踊っている。
庭の花々も桃色や黄色、白さを加え猫たちも喧しい。このまま1年間過ぎて欲しい。
老年のせめてもの願いだ。

水に踊る

ふと違う感覚に襲われた
私は煌めく光の中にいた
魚になった
大な魚がゆらりと動いている
その影が梅花藻をなぞり、緑の藻と散りばめられた白い花に
一瞬の闇を射しこむ
梅花藻は踊る
黒みがかった緑、雨に濡れそぼる夏の深緑、若竹の色の黄緑
見えない水の流れと魚の動きに微妙な反応となって左右に
小さな踊り子の可愛い手足のごとく上下した
陽が薄い雲に覆われていた
その光が湖の底に染み透るように底の小さな変化
少し隆起した底の影が薄く周りに敷き詰められた砂に映りこんでいる
岸辺から覗き込む母の顔が透かしガラスに映るように水面に見えた
白く輝く母の顔と魚の銀色の鱗、梅花藻が水面で混じり合い
彼女もまた緑と銀色を放つ
遠くで起きたわずかな湖面の揺れ
それはさざ波と呼ぶにはあまりにも弱々しい動きであった
母の顔がゆっくりと歪んでいく
射しこむ光の筋もまた少し偏曲し光の網となって魚たちに覆いかぶさる
遠く先のわずかに青みがかった水中に揺らめき動く魚の鱗
薄銀色の小さな真珠の連なりを見せる
初めて湖に身を沈めた
晩秋の寒さが身を引き締めたが湖水はむしろ温かく私を迎えた
驚いた白く澄んだ世界があった
闇と光の二つの世界に交わった
己が湖と同化したと思うほど呼吸の苦しさはない
この驚きはどれほどの時間が経とうとも脳が萎縮し
他の多くのことを忘れようと変わらない
記憶が心に染み入った
自分の汚れきった身体、心、この澄み切った何分の一でもあったらと
悔悟の気持ちがわく
不意に祖父母、老犬の青白く光る死顔が浮かぶ
死んだ魚にも見えた。だからここの魚を採らない
採ることで魚に死を与えることが怖かった
あの忌まわしい情景が薄闇に
それは心に黒い澱みや汚泥が漏れ出した時この清冽な中に溶け出す
湖面がひどく波立つ
眼を薄く開けると淡い夜光灯が私を見下ろしていた。

2023.06.02

愛犬に捧ぐ

愛犬に捧ぐ

風が枯れ木の葉を落とした
3枚の錆色と茶色の葉が宙を舞った
2枚の葉が小さな円を描き
互いに寄り添い落ち葉の群れに舞い降りた
彼は眼でその姿を追い大きく一息吐くと静かに眼を閉じた
それが彼のこの世の最後の仕草となった
現世との最後の別れ
白く輝く魂がふわりと中に踊った
最後の飛翔していた葉に混じりあい
枯れ葉は高々と舞い上がった
10年間絶えず脇にいた
愛らしい瞳が見つめて心の休まりを得た
病気に負けず3か月頑張った
ルナよお前は賢く控えめ
上目遣いの瞳に心が溶けた
ボーダーコリー特有の白と黒毛をなびかせ
広場を駆け抜けたその姿
眼を閉じるとその雄姿が軽やかな足音とともに聞こえてくる
彼の死が私の寿命をさらに短くした
空っぽ心は彼の微笑みだけが占めていた
虚脱と無力感の波間に根無し草の私
悲しみの大海に浮き沈む
死と生の循環にまもなくお前と会える
その希望に薄く雲の空いた青深い空が応えた

2023.02.21

鉄と信仰

たたら製鉄の遺跡の前にいる。
観光客向けか、ひどく綺麗に見えるが、何かが違った。
古代、鉄は神の手になる神聖なものである。それは、日本書紀、古事記にも
書かれている。たしかに戦闘向けや農事のための重要な道具でもあった。
それが消え去っていた。

現在は意識もされない鉄。しかし、古代では、農業の拡大や武具としての勢力拡大には
必須の存在であり、さらにはその神秘的な成り立ちから信仰とのかかわりが深かった。
鉄の持つ力と火を仲介とした生活へのかかわりからこれを信仰の対象とすることが
各地で多く見られる。
鉄は信仰。

「鉄の生活史」より
窪田蔵郎氏は、この本の冒頭に言っている。
古代における生産活動は宗教と切っても切り離せない関係にあった。物の製造は
生産要素の1つ1つを神の行為とし、その超自然的な力によって生産を順調にし、
その結果生まれ出てきた製品にも神格を認める、という考え方に支えられていた。
鉄の生産も同じであって、まず鉄を作る火が崇拝の対象となった。火は食物を
調理し、人間に暖を与え、動物の危害を防いでくれるが、その反面、雷火、噴火、
火災をもたらす世にも恐ろしいものであった。だから、火はとうといものというより
魔物であった。その火の中から鉄が生まれる。そこで災いを転じて福とすべく、
この荒ぶる火の魔火の精霊をなだめて、少しでも多くの鉄がとれるようにと火神崇拝
の思想が芽生え、その中から製鉄神崇拝の思想が独立していった。
これが荒神の始まりである。さらに、中国からの陰陽5行説の影響もあり、原始宗教
の自然物崇拝や偶像崇拝が絡み合い、鉄山独特の信仰形態が出来上がっていった。

こうして古代の拝火教要素を持つ火の信仰の発達した荒神、つまり竈神に5行思想の
産物である金神が結び付き、顔が3面、手が6本の金山荒神が鉄山の守護神として
できあがった。この荒神に大年神の子である出雲系の奥津彦神、奥津姫神、火産日神
の3人をあてたのはずっと後のことである。「仮名暦略注」によれば、庚申も金神
の転化したものという。
東北へ行くと醜面を竈神にささげる習俗があり、タタラの天秤吹子の上部にも
泥面を作る風習があるが、これらは偶像化の名残りであろう。そして、この迷信は
山岳宗教である修験道の要素が加わり、さらに仏教、特に真言宗と触れ合っていった。
修験道自身、鉱山師の集団であった要素が強い。

2.神社と鉄
全国の神社の祭神等からそれを少し見ていきたい。
以下のような考えをまとめている方もいる。
1)稲・・稲妻・・雷神・・餅・・
武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)
賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を
伝えた秦氏の氏神)
建御雷神(塩釜神社)
2)稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))
御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷
3)蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―
建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社
蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神
(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社
4)金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)
5)金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
・・金屋子神社(島根)
6)一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・
多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)
風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、
法隆寺の鎮守)
7)風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)
・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)
・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)
8)天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・
出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)
9)火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社
(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)
10)百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)
・二荒山(大巳貴神)
11)東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神
タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮
経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島
神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)
12)山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)
三島大社(静岡)
大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)
13)湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴
いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)
天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅
・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)
14)朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・
・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)
15)木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶
・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社
16)お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱
泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

色々な言い伝えがあるが、例えば、
稲荷の起源は鉄を作る民衆独特の信仰対象が発展したものと言う人もいる。
古来から東南風のことをイナサと呼び、これが転化してイナセとも呼ばれているが、
これが稲荷に変化氏のでは、ともいわれる。例えば、南宮大社をはじめ
静鉄関係の神社建築には東南向きが多く、また古い鉄山のことばに
「東名風は黒金をもとおす」という言い伝えがあって、野たたらの遺跡も
山際の東南斜面に多い。
江戸年中行事には「十月八日吹子祭り、此の日鍛冶、鋳物師、白銀細工、
すべて吹革を扱う職人、稲荷の神をまつる。俗にほたけという。
ほたけは火焼也」とあって、稲荷信仰に従来言われているような農業や
商業の神とは違った一面があることを説いている。そして五行説や鉄治金
と強く結びつくと、出雲の製鉄神金屋子神となって現れる。

さらには、
「鉄山必要記事」によると、製鉄技術を伝えた神は金山毘古命かなやまひこのみこと
金山毘売命かなやまひめのきことの二柱の神であって、播磨国志相郡岩鍋
の地で、鍋釜などを製造する鉄器製造の技術を伝授し、さらに「吾は西方を
主る神なれば西方に赴かば良き宮居あらん」と白鷺に乗って、天空を飛翔し、
出雲国能儀郡比田村黒田の奥にあった桂の木の枝に天下り、ここで、「吾は
金屋子神なり、今よりここに宮居し、タタラを立て、鉄吹術を始むべし」と
宣せられた。そのとき多くの犬を連れて狩りに来ていた現金屋子神社神職
安部氏の先祖安部正重に、砂鉄収集から製鉄法までの一貫した製鉄技術
を伝授し、土地の豪族朝日長者の資力を背景として操業せしめたと言われている。
ただ、注意しなければならないのは、金屋子神が白鷺に乗って飛来したという
形になっているが、これは明らかに製鉄民俗の漂白を物語っていること、もう一つは
この神社が長い年月はたしてきた中国地方の鉄山に対する冶金技術指導の
功績である。

3.諏訪大社の歴史から思う
諏訪大社にまつわる話も面白い。
祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得で
きず諏訪に逃げてきた神である。
土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命
は藤の枝を使って戦った。
藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。
御柱の起源をたどると、
諏訪地域は縄文文化がかなり栄えたといわれ、特に森と諏訪湖の水に恵まれた
この地域は農耕の神として崇めるのに適した場所でもあった。
また、黒曜石が多く採れ、それが矢じりや農耕具として様々に使われたため、
大きな勢力を持つことになる。
縄文時代の1大勢力であったのだろう。それもあるのか紀元前10世紀に渡来した
水田稲作の波はここでは受け入れられず、弥生時代へは各地の色々な事情が
あったのであろう。ここでは米よりも森の恵みで生活したのだ。
土着の農耕の神として、御左口神みしゃぐらという名で、崇められ、その土偶も
発掘されている。だが、古事記のある通り、出雲の勢力争いに敗れたタケミナカタ
の神がこの地に来ることで大きく変わった。
最後はタケミナカタが勝利をおさめ、今は諏訪大明神と
して祭祀されている。しかし、ミシャグチも漏神もれやのかみとしてそのまま
残り、その名残が御柱の起源とされている。諏訪大社が御柱を受け入れることは
山の神を里の神が受け入れることになる。このミシャグチの末裔が守矢家として
代々子の御柱の祭事を取り仕切ってきた。守矢は洩神からきているのであろう。
各地の勢力争いとそれに使われた鉄器による征服が読み取れるのが面白い。


神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証するのは面白い。
これまで、この分野はほとんど研究されてこなかったという。特に戦後は架空の話し
としてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから
口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性が
ある。「金屋子神話」や古事記などに記述されている伝承は大いに参考になるようであ
り、
「鉄の道」なるものも見えてくるのでは、それは「塩の道」以上に生活から社会体制
にまで深くかかわってくるようだ。


鉄と生活史

147
古代における生産活動は宗教と切っても切り離せない関係にあった。物の製造は
生産要素の1つ1つを神の行為とし、その超自然的な力によって生産を順調にし、
その結果生まれ出てきた製品にも神格を認める、という考え方に支えられていた。
鉄の生産も同じであって、まず鉄を作る火が崇拝の対象となった。火は食物を
調理し、人間に暖を与え、動物の危害を防いでくれるが、その反面、雷火、噴火、
火災をもたらす世にも恐ろしいものであった。だから、火はとうといものというより
魔物であった。その火の中から鉄が生まれる。そこで災いを転じて福とすべく、
この荒ぶる火の魔火の精霊をなだめて、少しでも多くの鉄がとれるようにと火神崇拝
の思想が芽生え、その中から製鉄神崇拝の思想が独立していった。
これが荒神の始まりである。さらに、中国からの陰陽5行説の影響もあり、原始宗教
の自然物崇拝や偶像崇拝が絡み合い、鉄山独特の信仰形態が出来上がっていった。


こうして古代の拝火教要素を持つ火の信仰の発達した荒神、つまり竈神に5行思想の
産物である金神が結び付き、顔が3面、手が6本の金山荒神が鉄山の守護神として
できあがった。この荒神に大年神の子である出雲系の奥津彦神、奥津姫神、火産日神
の3人をあてたのはずっと後のことである。「仮名暦略注」によれば、庚申も金神
の転化したものという。
東北へ行くと醜面を竈神にささげる習俗があり、タタラの天秤吹子の上部にも
泥面を作る風習があるが、これらは偶像化の名残りであろう。そして、この迷信は
山岳宗教である修験道の要素が加わり、さらに仏教、特に真言宗と触れ合っていった。
修験道自身、鉱山師の集団であった要素が強い。


150
稲荷の起源は鉄を作る民衆独特の信仰対象が発展したものとも考えられる。
古来から東南風のことをイナサと呼び、これが転化してイナセとも呼ばれているが、
これが稲荷に変化氏のでは、ともいわれる。例えば、南宮大社をはじめ
静鉄関係の神社建築には東南向きが多く、また古い鉄山のことばに
「東名風は黒金をもとおす」という言い伝えがあって、野たたらの遺跡も
山際の東南斜面に多い。
江戸年中行事には「十月八日吹子祭り、此の日鍛冶、鋳物師、白銀細工、
すべて吹革を扱う職人、稲荷の神をまつる。俗にほたけという。
ほたけは火焼也」とあって、稲荷信仰に従来言われているような農業や
商業の神とは違った一面があることを説いている。そして五行説や鉄治金
と強く結びつくと、出雲の製鉄神金屋子神となって現れる。

152
「鉄山必要記事」によると、製鉄技術を伝えた神は金山毘古命かなやまひこのみこと
金山毘売命かなやまひめのきことの二柱の神であって、播磨国志相郡岩鍋
の地で、鍋釜などを製造する鉄器製造の技術を伝授し、さらに「吾は西方を
主る神なれば西方に赴かば良き宮居あらん」と白鷺に乗って、天空を飛翔し、
出雲国能儀郡比田村黒田の奥にあった桂の木の枝に天下り、ここで、「吾は
金屋子神なり、今よりここに宮居し、タタラを立て、鉄吹術を始むべし」と
宣せられた。そのとき多くの犬を連れて狩りに来ていた現金屋子神社神職
安部氏の先祖安部正重に、砂鉄収集から製鉄法までの一貫した製鉄技術
を伝授し、土地の豪族朝日長者の資力を背景として操業せしめたと言われている。
ただ、注意しなければならないのは、金屋子神が白鷺に乗って飛来したという
形になっているが、これは明らかに製鉄民俗の漂白を物語っていること、もう一つは
この神社が長い年月はたしてきた中国地方の鉄山に対する冶金技術指導の
航跡である。

156
金山毘古神はイザナミノミコトの御子といわれ、尊が迦具大神を御生み
になるとき吐りの中から生まれたということが「美濃風土記」にしるされている。
この金山毘古神をまつる神社として有名な南宮大社が岐阜県垂井市にあるが、同神
をまつる神社は東北から中国の東部よりにいたるまで広く分布しており、
金属加工業者および販売業者の崇敬を集めている。南宮大社の社伝によれば
神武東征のおり金鶏を現して戦勝をもたらしたものは、一に金山毘古神の神霊の
加護によるものとされ、平定完了後、天皇即位の年二月二三日に河内国
狭山郷丹南郡日置荘大久保に金山神社をまつられたというのである。
もう少しぐたいてきにいうと、神武東征に比定されるような戦乱のおり、
金山毘古命の子孫と称する金屋の一団が社殿が建てられ、社領を与えられた
ということであろう。

この神社の祭神は信仰形態は同じでも、年代によって祭神が異なっていることは
注意すべきで、金山毘古神として祭ったのはいつのことか不明だが、その後、
仏教の盛んになるにおよび、社殿の権現造りでも明らかなように金属神を
体現した仏体をまつったものである。これは欽明天皇の元年(539)
八月に帰化人を召して戸籍を整理し、その後もこの付近に白鳳三年、四年
と唐人を配置している。したがって、そうとうおおぜいの帰化人がこの付近
にいじゅうっしていたので、やがてこれらが集団化し、その中の金屋の一団が
行った部族神としての祭祀が基になってその火神や金神に密教が結び付き
金剛蔵王権現が形成され、神仏習合の状態で祀られてきたのであろう。
したがって、同大社が国府の南に魔除けの宮を兼ねて建設されたというが、
そうした政策的なことよりもむしろ背後にある金屋集団の移住ということに
大きな意義が認められる。
その後明治時代になって仏教と神道が分離し、金剛蔵王権現のような中間的
宗教は認められず、神仏いずれか一方にせざるを得なくなって、南宮大社の場合は
背後地に神宮寺を建立して別寺とし、同神社は金山毘古神をまつることになったもので
ある。
同じような理由で、ほかの製鉄関係の神社で虚空蔵菩薩をまつっていたものは
二八代の安閑天皇を、勾大兄広国押武金日天皇の名から冶金に関係ありとして
まつるようになったが、これなども付会もはなはだしい。

鉄生産と神々

2023.02.20

昔話

湖西は幸いなことにいまだ昔の話しが広く生きづいている。
比良の山並みに琵琶湖の息ぶきが融合し攪拌し新しい大気が満ち溢れている。

昔話と日本人の心


ノイマンの「意識の起源史」から24ページの意識体系をまずは理解する、
32ページの西洋と日本物語の違い。
33から35の「消え去る女性」は日本での典型的な構成でもある。
ウグイスの里、能の黒塚がある。
38ページにある日本の昔話は「女性の目」で見るとその全貌がみえる。

山姥の登場 41ページ。遠野物語にもある。338ページを読むこと。
49、50ページ
山姥の何もかも呑み込んでしまう属性は小さい自我を捉えその成長を
阻む太母そのもの。

81,82ページ
奪われた女性を色々な手段で取り返す「美女奪還」を古事記や日本書紀で
見ている。

85
鬼について、鬼とは何かを馬場晶子の「鬼の研究」に見る。

86,87
母と娘の一体性、その原初的な関係を打ち破る男性の侵入
その強さが鬼に関して昔話としても残っている。

101
鬼の笑いは神の笑いに通じる者としても考えられる。柳田国男は「笑いの文学の起原」
で指摘している。

110
白鳥の姉  日本では珍しい結婚、救済が語られている。
イニシエーションの日本的表現となっている。

118
記紀に語られる多くの物語は、「兄と妹」「姉と弟」の関係の重要さを示している。
柳田国男の「妹の力」
兄妹の関係が異性の関係へと発展する昔話も多くある。さんせう大夫が典型的な例
(131)。

134
「あわれ」と「うらみ」が両立した関係で我が国の母性優位な文化に適合する女性像を
創り出している。

138
浦島太郎の物語は風土記や御伽草子、ほか多くの記録にある。これは「神仙思想」の
展開でもある。

144
母と息子の関係を語る話からは人間の自我と無意識の関係を現しているとユングは考えた。

146
神話に示された「永遠の少年」日本文化の構成を考えることには重要である。152,153
亀と亀姫をテーマとする物語は風土記、万葉集などを含め色々とあるが、羽衣伝説も含め日本人の抱く女性像には2つある(163)

166
他界(無意識の世界)とのつながりの難しさ。
日本的な意識の在り方は常に境界を曖昧にして全体を未分化になままで把握する。
(168)

171
人間以外の存在が人間の女性の姿となり男性との間に婚姻が成立する。
鶴女房とグリムのカラスを比較した表がある。(177)

179
異類女房  蛙、蛇、蛤、魚、狐、猫、等多彩だ。
181ページに表がある。

異類婚の参考、小沢の「世界の民話」

199
人間は自然の一部ありながら、自然に反する傾向を持っている。
201ページの指摘は面白い。

204
手なし娘
213ではグリムとの比較。
その共通性は女性の耐える姿あるいは受動的な性格。216ページ

231
柳田国男の「海神少童」では竜宮童子の分析をしている。239ページ

233
火男の話退行現象を示す

245
老いの意識、その両面性とその破壊性の共存

251
父と息子、母と娘のコンステレーション(共通点)

258
水底の3者構造を理解する。母と息子、父と娘、から祖父、母、息子の形態が重要。
これはキリスト教の神の三位一体説に通じる。
ユングには最重要課題でもあった。
さらには、補償する存在としての四位一体のイメージを全体として考えた。(262)
266,267ページではもう少し説明している。

274,275
意識化の重要性、無との関係、

277
東西の「見るなの座敷」をひかくし、それを通じて西洋近代化の自我と。日本人ンお自我の相違について考察した。日本人の自我はむしろ女性像で表現する方が適切ではないか、と示唆しておいた。このような観点から日本の昔話の特性をこれまで明らかに
してきたが、枝葉と日本の自我の在り方の相違の背後には、三位一体の神と絶対無の
神の相違という深い問題が存在していることが分かった。


278
炭焼き長者にある「女性の知」が重要となる。283ページも参考。

289
母権的意識の過程を述べている。

307
人間存在の全体性ということに関わってくる。昔話が人間の深層構造に深く関連するものあるだけに、男性の状況のみに関わらず未来を先取りするようなことにもなった。
ここに提出した女性像は意味を持つ。

付録

一度じっくり読む必要がある。

ウグイスの里
忠臣ヨハネス
三つ目の男
飯食わぬ女
鬼が笑う
白鳥の姉
浦島太郎
鶴女房
手なし娘
炭焼き長者

 この七月で、河合隼雄さんが亡くなって三年になります。時の経つのはほんとうに早い。ここのところ河合さんの著作に手が伸びる機会がふえています。ご本人がいらっしゃらなくなっても本は残る──このあたりまえの事実をあらためて意識します。本というメディアはじつにありがたいものだとおもいます。

 河合さんの突然の不在になれるまでは時間がかかりました。しかし遺された著作に触れているあいだは、河合さんの声がよみがえります。人間が「物語」をぬきにしては生きていけないものであるということを、河合さんはさまざまな本による変奏を響かせながら、繰り返し私たちに問いかけてくる。

 グローバリズムがひろがり、小説、映画、音楽といった表現を世界でほぼ同時に享受することが加速度的に可能になりつつあります。しかし物語というのはもっと長い時間の濾過装置を経て伝わってきたものです。ひとつの民族のなかでだけ共有されていた物語が、人々の移動と時間の流れのなかで驚くほど広い範囲に伝わることもあれば、世界各地で同時発生的に、同じような物語が生まれ、語られていた場合もあったでしょう。しかし、物語が語り継がれてゆくには、それぞれの民族のこころに物語が降りてゆき、しっかりと腑に落ちなければならない。いつしか消えていった物語も無数にあったにちがいない。

 本書は、表題にあるとおり、日本人が語り継いできた「昔話」をとりあげながら、その物語に現れている日本人の「心」のありかたを読み解いてゆこうとするものです。単行本として刊行されたのが1982年。バブル経済も、グローバリズムも、まだその大きな影をみせてはいない時期でした。当時の女性は、出産を期に退社するのは当たり前で、結婚退社すら自然なことだと思われていました。男女雇用機会均等法も施行される以前のことです。

 今回、再読してさまざまな刺戟を受けましたが、日本の昔話に登場する女性の生き方、結婚というむすびつきに繰り返しあらわれる物語のパターン、そして日本における圧倒的な母性原理の強さが、西欧の昔話とはかなり質を異なるものにしている、ということが論じられています。河合さんの他の著作でも何度となく検討されているテーマでありながら、本書はなぜか河合さんのなかにある確信のようなものが、はっきりと打ち出されています。河合さんのヴォイスにみなぎる力はどこからやってきたのか。

 本書の後半では、キリスト教の三位一体の考え方、すなわち「父なる神」=父権性原理だけでは心の全体性をあらわすことが難しいとし、四位一体説をとなえたユングの思想が補助線として引かれています。ユングは三位一体に「悪」という四つ目の軸を導入します。この「悪」の導入についての河合さんの言葉がすばらしい。


『昔話と日本人の心』は、河合隼雄の数多い著作の中でもとくに名著として名高い。河合は、西洋の近代的自我の成立過程を解き明かしたユング派分析家エーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』における方法論を援用しながら、日本の昔話を分析することで、日本人のアイデンティティの探ろうとしている。ただし、河合はノイマンの方法論をそのまま日本の昔話分析にあてはめるわけではなく、独自の方法を見出すことも本書の狙いであるとする。まず、西洋における自我は神話や昔話の英雄に象徴されるように男性像によって表されるが、それに対して河合は日本人の自我は女性像で示すのが適切であるという。また、印象的なのは、「抽象的な議論よりも、ともかく昔話のもつ直接的な衝撃力に触れることの方が、説得力が第である」(第1章)という河合隼雄の昔話に対する姿勢である。確かにぼくは「手なし娘」を読んで、言葉にならないほど大きなショックを受けた。この昔話の存在を知るだけでも『昔話と日本人の心』を読む価値がある。
 他界から現れては消える女性像。これが河合の考える昔話にみる日本人の自我のありようであり、「うぐいすの里」「飯くわぬ女」「鶴女房」「手なし娘」「炭焼長者」などの昔話をたどりながら、はかなく消える女から、うらみを抱く女、耐える女を経て、意志する女に至る過程を浮き彫りにしている。
「うぐいすの里」では、女の禁止を破り座敷の中をのぞいたうえ、たまごを壊してしまう男に「人間ほどあてにならぬものはない、あなたはわたしとの約束を破ってしまいました。あなたはわたしの三人の娘を殺してしまいました。娘が恋しい、ほほほけきょ」と言い残して姿を消す。「日本の昔話の特徴をよくそなえている」という「うぐいすの里」は、あわれの美意識を体現しており、その成立のためにはくりかえし女が消え去らねばならず、河合はこれを日本文化の宿命としている。
 他界(無意識の世界)に消えた女性は何度でも戻ってくる。あるときは、「飯くわぬ女」のような山姥として、またあるときは「鶴女房」のような異類のものとして。しかし、問題は、彼女らがこの世に留まろうとしたときである。
「手なし娘」では、継母に嫌われた娘が家を追い出され、山の中で実の父親に斧で切り付けられる。祭りを見に行くと言われて家を連れ出された娘が歩き疲れて、昼飯を食べた後、居眠りを始めた。
「それを見ると、父さまはこのときだと思って、腰にさしていた木割で、かわいそうに娘の右腕から左腕まで切りおとして、泣いている娘をそこに残して、ひとりで山を降りてしまいました。『父さま、待ってくなされ、父さま、いたいよう』といって、娘は血まみれになって、ころげながら後を追いかけて行きましたが、父さまは後も見ないで行ってしまいました」
 ここから娘の苦難の運命が始まるのだが、彼女がこんなにも苦しまねばならないのは、逃げないからである。「ほほほけきょ」と一声鳴いて、この世から姿を消すことができれば、このような七転八倒の苦しみを味わうことはない。しかし、苦難の末、娘はこの世に自分の居場所を作ることに成功する。それは優しい若者とその母親の助けがあったからだが、河合は第9章「意志する女」において、ついに自分の意志で伴侶を選ぶ女の姿を見出すことになる。女は、生まれる前からの許嫁と別れ、貧しい炭焼き男に「わたしの望みだから、ぜひ嫁にして下され」という。感動的な一言である。
『昔話と日本人の心』は、複数の昔話にみる女性像のありようを通じて、日本人の自我確立のストーリーを再構成しているわけだが、河合も指摘しているように、これは「発達段階」というよりも「発達状態」として受け止められるべきことであり、したがって、私たちの文化では、やはりどこかで「ほほほけきょ」と鳴いている女がいて、「手なし娘」の地獄の苦しみを味わっている女がいるのである。
 ここからは、ぼくの勝手な連想になるのだが、戦後、成瀬巳喜男、木下恵介、小津安二郎(さらに『祇園の姉妹』の溝口健二、『洲崎パラダイス赤信号』の川島雄三を加えてもいいが)、こうした映画監督たちが、くりかえし女の受難の物語を撮り続けたのは、あたかも戦後の日本人のアイデンティティを問い直す試みであったかのような錯覚さえ覚える。つぎつぎに男に裏切られる『女が階段を上る時』、二人の男に愛され、引き裂かれるような思いをする『遠い雲』、そうしたデコちゃんの苦悩を経て、『麦秋』で子持ちの男と結婚を決めた原節子は言う。「子どもくらいある人のほうが却って信頼できると思うのよ」
 これは「炭焼長者」の女が決められた男をふって、炭焼きに結婚を申し込むのにぴたりと重なるせりふである。しかし、これでめでたし、めでたしではない。ぼくらはみんな一度は意志して選ぶことによりアイデンティティを形成するからだ。一度は「手なし」の苦しみを通過する。だから、みんな「手なし娘」を読むといい。

 神と悪魔とを完全に分離し、三位一体の絶対善の神とそれに敵対する悪魔との戦いのなかで、人間がいかに神にのみ従おうとしても無理である。人間の心理的現実を直視するならば、われわれが悪をいかに拒否しようと努めても、それに従わされることを認めざるを得ないであろう。人間は絶対善を求めるよりも、むしろ、善悪の相対化のなかに立ちすくみ、それに耐える強さを持たねばならない。そのとき、われわれの意識的判断を超えた四位一体の神のはたらきが、われわれを救ってくれることを体験するであろう。

 日本人と女性性をめぐっての河合さんの示唆に富む指摘を最後にもう一カ所だけあげておきましょう。このくだりを読めば、本書がたんなる過去の名著ではなく、これからも両義的に読み継がれることが可能であり、そのように求められてゆく幅と奥行きのある本だということがおわかりになるのではないかと思います。

 第1章において、女性の姿によってこそ日本人の自我は示されるのではないか、と示唆しておいた。怪物を退治して女性を獲得する男性の英雄ではなく、耐える生き方を経験した後に、反転して極めて積極的となり、潜在する宝の存在を意識していない男性に、意識の灯をともす役割をもつ女性は、日本人の自我を表わすものとして最もふさわしいものではないかと思われる。もっとも、このような姿は、後にも述べるように、日本人の現在の姿よりも未来を先取りしているものと解釈する方が妥当であるとも考えられる(後略)。

 海外の昔話の定型には、「男性が困難を乗り越え、女性と結婚する」というハッピーエンドが多い。一方で日本の昔話は、それが限りなく少ない。「浦島太郎」「かぐやひめ」などは、男女が出会っても結婚はせず、終わり方もハッピーエンドとは言い難い。また、「鶴の恩返し」の場合は、結婚から物語が始まるが、別れをもって閉幕となる。

 この違いは一体、何なのだろうか?「文化の違い」と言ってしまえば、それまでだが、その文化が生まれた理由に、「心の在り方の違い」があるのではないかと考えることができる。『定本 昔話と日本人の心』(河合隼雄:著、河合俊雄:編/岩波書店)は、「深層心理学の立場に立って」「日本の昔話と海外の昔話を比較検証してみることで」「日本人の心の在り方を見出そうとする」学術書である。

 本書の内容とズレが生まれてしまう可能性もあるのだが、記事にするにあたり、敢えて簡略に結論を述べてしまうと、「昔話」からは「自我の確立の過程」がうかがえるのだ。そして、西洋の昔話では「結婚」が「自我の確立」において重要な行動であり、日本においては、「西洋近代的な自我」がないので、「結婚」が重要視されないのである。


二つのお話を比べてみよう。


日本の「鶴女房」と西洋のグリム童話「からす」というお話がある。

前者は「鶴の恩返し」と限りなく近い話だ。鶴を助けた男性のもとに、女性に化けた鶴が現れ、夫婦になる(=結婚する)が、正体が露見して消え去る(=離婚する)。

これと正反対の構成になっているのが、「からす」である。

「からす」は王女が母親の呪いで「からす」にされてしまう。そのことを男性に告げ、救済を求める。男の行動により、からすは王女へと戻り、二人は結婚する……というもの。


この二つの物語の要点を比較すると、


鶴女房:動物が人間になる/鶴から男性に会いに行く/鶴は本性を隠している/「転」は男性の「妨害」がある(約束を破り、見てはいけないという部屋をのぞいてしまう)/女の本性が露見し、離婚する。

からす:人間が動物になる/男性が女性(からす)に出会う/からすは本性を明かして、男性に救済を求める/「転」は男性の「活躍」が描かれる/男性の仕事の成就により、結婚する。

 この「作り」の違いを、「深層心理学」の考え方から検証してみた場合、以下のようになる。

 その前に、本書の大前提を三つ。

・西洋の昔話は「男性目線」で分析し、日本の昔話は「女性」を主軸としている。これは本書の方法論なので、昔話自体にそういった特徴があるわけではない。

・しかし、この「男性」と「女性」は、生物学的な区別ではなく、「男性性」「女性性」と表すことができる。つまり、「意識」の問題であり、男性でも「女性性」を持つことは可能。

・「自然」の考え方については、「人間は自然の一部でありながら、自然に反する傾向を持っている」とする。
○西洋

男A(自我が確立されていない/意識と無意識が区別されていない/自然)は、「仕事」を行い、困難を乗り越える(心理学的にいうと、≪母親殺し≫≪父親殺し≫という行動)ことにより、自我を得る(無意識から意識を得る)=男Bになる。

しかし、この男Bは「自然」と切断された状態であり、人は「自然」と関わりなく生きてはいけないので、自我を手に入れた後、女性(無意識/自然)と「結婚する」ことで再統合を図る。自我のある人として、自然と統合する=男Cになる。男Cは男A、Bよりも高次元の存在である。

○日本

前提:「動物が人間になる」のは、自然と人間を一体と考えている表れ。

女A(自我が確立されていない/意識と無意識が区別されていない/自然)は、男性と出会うことで「自然から離れようとする」=自我が芽生え始める。

 だが、自我が生じることによって、「自分も自然の一部だと知る。知れば知るほど自然との切り離しが起こる(切断する役目が、約束を破る男)。本来「自然」のものである女Aは自然と切り離されたら生きていけないので、それに抵抗できず、消え去って行く(=自然に還る)。

 以上、説明を省いて、ほぼ結論だけをまとめてしまったので、「どういうこと?」と思う部分も多々あると思われる。そういった方は、ぜひ本書で詳細を読み込んでほしい。

 ちなみに、日本において「自我の確立がない」ことを、著者は「劣っている」「近代的ではない」と結論づけているわけではなく、むしろ「多重の自我」があるのではないかと論説を展開させている。「多重の自我」という考え方は、西洋近代的な自我の限界を迎えつつある昨今、世界中の人々にとって意味があるのではないかとも考えているようだ。

 暑い夏、いつもの「分かりやすい本」だけではなく、やや思考力が試されるような本を読んでみるのもいかがだろうか?

2023.02.18

季節の移ろいに思う

冬の寒さに近頃は秋の涼やかさを憧れる。
大雪、普通の雪、細雪、空の賑わいは今年は多いようだ。
季節の移ろいに己の時間を感じる。
好きなエッセイや花言葉を綴ってみた。

秋の日
 今森光彦より

参考に春の花

樹齢
朝の光は、土手の隙間からはじけ、刈田の表面をなめるように照らし出す。
ふと見ると、柿の実があちこちに落ちて散らばっている。無造作に転がった
柿の実たちは熟れるには少し早い色をしていて、傷がついたり穴が開いたり
して痛々しい。行儀の悪いカケスの仕業か、それともかぜのいたずらか。
柿の古木は、そんなことを気にもしない様子で、ゆっくりとのぼっていく
太陽の光をうけてただ立っている。
腰をふって踊っているような姿の柿の幹は、こけを宿してごつごつしている。
樹齢は何年だろう。まえに、老婆に尋ねたことがある。その答えは、
自分の小さなころからこの木は、ここで同じ大きさで立っていた、というのである。
となると、おそらくこの古木は、100歳を超えているだろう。
陽が少しづつ高くなり、果実の匂いにひかれてやってきたハチの羽音が聞こえ始める。

刈田
秋の田んぼは、一面黄金色というより、ところどころ刈り取られたところがあって、
パッチワークのようになっているのが一番美しいと思う。刈田には藁が干してあって
それを見るのがまた楽しい。藁は、農家の人によってまとめ方が違う。束ねた
藁を3つに割ってテントのように立てる人もいれば、頭をそろえて規則正しく
あぜ道に並べていく人もいる。ここの田んぼの持ち主は、又兵衛さんだったか、
それとも五平さんだったか。刈田を見ていると、人の顔が浮かんでくるから
面白い。小さい田んぼの味わいは、何といっても藁の匂いとともに農家の人の
個性がうかがえることだ。

展覧会
雑木林の中は、いろいろな植物たちの晴れの展覧会。赤、青、紫、結実した
作品の数々は、見事というほかはない。
実のなる植物は、どれもそうだが、雑木林のすみずみに均等にちらばっている。
よくこんなにうまく種がこぼれるものだと思っていたら、実は、鳥が運んでいる
のだという。ヒヨドリ、メジロ、ツグミなど、いろいろな鳥がついばんでは
飛び去り、離れたところで小休止して糞をすr。鳥の胃袋を通過して糞と
ともに排泄される種は、不思議と生命力を持っていて、地上に落下すると
勢いよく発芽する。植物たちは、そのことをお見通しで、鳥を呼ぶために
目の覚めるような美しさを披露する。

山は水の塊
山を仰ぐと、まぶしいばかりの紅葉。沢を伝って山の嶺まで上るにはもってこいの
季節だ。赤や黄色に染まった落葉樹の森と、深い緑が色褪せない杉の林を
ぬうようにして、山道は続く。山頂までたどり着けば、そこはブナの森。
今頃は、人里より紅葉が一段と進んでいるに違いない。
くねくねした尾根道は、ふった雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺。
青々とした湖面を見渡せる尾根道の左側と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る右側の景色とでは、全く趣が違う。そこは、天から落ちてくる
水が、山に沁み込んで森を育み、沢が出来る始まりの場所。
青空の下で堂々としている山面をながめていると、「山は水の塊」とだれかが
いったのをふと思い出した。


大切な時間
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。あわい紫と黄色が、たおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めることに気が付いた。
えいようをたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はすごく
大切な時間なのだろう。

香りの渦
あぜ道を上っていくと、秋の匂いがした・見ると、農家の人が土手を焼いている。
草が焼ける匂いは、体をリラックスせてくれる。なぜだかわからないけど、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって棚田を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働。草の焼ける匂いは、自然の力に負けぬように
頑張ってきた人の汗の匂いなのかもしれない。
赤い炎は、土手の上を走り、枯草を炭にして白い煙をたちのぼらせる。
午後の光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、大気の中に静かに浸透していく。


共存の知恵
彼岸花の炎のような花のつぼみにとまるのは、ナツアカネ。このとんぼは
自分が全身真っ赤な色をしていて、ここがお似合いであることをよく知っている
かのようだ。彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ。
この花の成長にはそつがない。農家の人が土手を草刈りすると、植物たちの
背丈は一時的に低くなる。そんな時を見計らって竹のごとくまっすぐ生えてくるのが、
彼岸花だ。その後数日のあいだに花を咲かせ、ほかの植物たちが背比べに
挑んできたときには、すでに種子を実らせている。
こんなに完璧に農家の人の暮らしと歩調を合わせる植物が、大陸からやってきた
外来種だと聞くと意外な気がしてしまう。きっと彼岸花は、もともと共存の
智慧を授かっている植物なのだろう。土手の向こうから農家の人の笑い声が
聞こえてきた。いよいよ収穫がはじまる。


細い道
旧家のなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。土壁の蔵や苔むした石積み、
そのどれもに歴史が感じられる。そういえば、この村は数年前に、稲作を始めてから
千年という節目を祝うお祭りがあったばかり。燻し色に輝く金箔の御神輿は、
あでやかで美しく、はるか昔の物語を今に伝えている。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。これらのあつい信仰
もまた、長い歴史の中で確実に生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんがこしをかがめながら、野菊をだきかかえて歩いてきた。
野仏に甘い香りが供えられると、村は一段と秋らしくなっていく。

演奏会
黄ばみかけた空を背に、あぜ道を歩く。普通ならそのまま家に帰ろうとする
ところだが、秋の日だけは寄り道をしてしまう。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえてくるからだ。
たくさんの才能豊かな演奏家たちに出会えるのは、一年の内でこの季節だけ。
この叢の音色観賞が、ちょっとした楽しみになっている。
チリチリチリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、今度はジーンジーンという
脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。それと同時に、チンチロリンというマツムシ
ガチャガチャというクツワムシ、リリリリリというカンタンなど、待ってましたと
いうように一斉に翅をふるわせはじめる。ススキの穂をそっと見上げると、
小さな黒い影。今日の演奏会はどうやらツユムシからはじまるらしいい。


萌木の国
157
ほんの30年前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、湖というのは、
地元のものにとってはそれこそ家の一部だといってもいいほど親しみのある存在だった

ところが、旧家と湖とのあいだに、幅の広い舗装道路が出来た。遠浅の砂浜は
ほかからもってきた土砂で埋められ、岸辺はコンクリートで固められてしまった。
そのことによって、湖と人々の間に深い溝が出来てしまった。別に工事によって
岸辺が何キロも、離れてしまったわけではない。距離で言うと、たった30メートル
ほど後退しただけだ。それなのに、湖岸に住んでいた私たちは、湖が全く手の届かない
ところへ行ってしまったような寂しい気持ちになってしまった。
「タップン、タップン」という波のささやきを失った私たちは、不安ですらある。
人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、早くも昔の語り草のようになってしまった。

割り木はよく使われていた。それは、お風呂をたくときにだ。そのころ、釜に割り木を
入れる仕事をさせられた。黄昏のほの暗い庭と、深い紺色をした空、そして、油煙
という黒い煤と、香ばしい割り木の香りをはっきりと覚えている。このとき、
大津界隈の家は、割り木をまとめて買っていた。毎年秋の終わりになるころ、何百、
いや何千束という割り木を大型トラックに積んで行商のおやじがもってきた。
割り木はすべてクヌギやコナラだった。

私は、眼を閉じて昔の湊風景を想像してみた。
木の桟橋がいくつも張り出した静かな港に、丸子舟が何艘モ停泊しており、長い
桟橋を人々がせわしなく行き来している。湖岸の際まで続く畑や水田にも人の姿
があり、黄緑色をしたセキショウモがなびく小川が音を立てて湖に流れ込んでいる。
その風景のそこここに、木造りの「にう」が狐色の屋根を光らせている。
採られた割り木は藁で屋根を作ったこの「にう」の中ニびっしりと並び、
しばらく乾燥されてから丸子舟であちこちに運ばれた。
湖の周辺の街で子供のころから親しんできた木の木片がこのような形で運ばれていた。
初めて知った心持だった。割り木は、帆を張って揺れる丸子舟に身を任せ、
青く澄んだ湖面を旅していたのだ。だが、そのような雑木林の最盛時代は、
湖周りの開発とともに終わった。


武蔵野 秋の情景

昔の武蔵野は萱原かやはらのはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢ならの類たぐいで冬はことごとく落葉し、春は滴したたるばかりの新緑萌もえ出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞かすみに雨に月に風に霧に時雨しぐれに雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈ていするその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のことで、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。
「秋九月中旬というころ、一日自分が樺かばの林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生なま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合そらあい。あわあわしい白しら雲が空そら一面に棚引たなびくかと思うと、フトまたあちこち瞬またたく間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧さかし気げにみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空あおぞらがのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦そよいだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語ささやきの声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末こずえを伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈くまなくあかみわたッて、さのみ繁しげくもない樺かばのほそぼそとした幹みきは思いがけずも白絹めく、やさしい光沢こうたくを帯おび、地上に散り布しいた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨わらびの類たぐい)のみごとな茎くき、しかも熟つえすぎた葡萄ぶどうめく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
 あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬またたく間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢が褪さめてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡ぬれたばかりの細枝の繁みを漏もれて滑りながらに脱ぬけてくるのをあびては、キラキラときらめいた」
 すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭ぼうとうにある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類たぐいでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重ちんちょうするに足らないだろうと。
 楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨しぐれが私語ささやく。凩こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体はだかになって、蒼あおずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視ていしし、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適かなっているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
 鳥の羽音、囀さえずる声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢くさむらの蔭、林の奥にすだく虫の音。空車からぐるま荷車の林を廻めぐり、坂を下り、野路のじを横ぎる響。蹄ひづめで落葉を蹶散けちらす音、これは騎兵演習の斥候せっこうか、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高こわだかに話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音つつおと。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪おとない、切株に腰をかけて書ほんを読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥ねていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹くりのきもずいぶん多いから。
 もしそれ時雨しぐれの音に至ってはこれほど幽寂ゆうじゃくのものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜もりを越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過ゆく時雨の音のいかにも幽しずかで、また鷹揚おうような趣きがあって、優やさしく懐ゆかしいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨しぐれのさらに人なつかしく、私語ささやくがごとき趣はない。


参考
春の花

春 の 花


クロッカス  菫(スミレ)  椿(ツバキ)  木蓮(モクレン)  桃(モモ) 
 沈丁花(ジンチョウゲ)  ストック  ヒヤシンス
ラナンキュラス  桜(サクラ)  かすみ草(カスミソウ)  カーネーション  
桜草(サクラソウ)

【PR】 イーフローラならお届けしたお花の商品の画像をお届け!(全国配送料無料)
 クロッカス
クロッカス

●アヤメ科クロッカス属
●原産国:ヨーロッパ南部
●花期:2~4月

早春に顔を出すので、ヨーロッパでは春の訪れを告げる花として親しまれています。
白、黄、紫など色が豊富で、80種類以上の品種があります。
高さは5~10cm、葉は松葉のように細長く伸びます。
花が咲くのは昼間だけで、夜には閉じるのが特徴。

◆花言葉:切望、私を信じてください、焦燥、青春の喜び
 菫(スミレ)
クロッカス

●スミレ科
●原産国:日本、中国。
●花期:3~4月

とても種類が多く、日本には60種類以上のスミレが自生しています。
花の形が大工道具の"墨入れ"に似ていることから「スミレ」と呼ばれるようになったと
いわれていますが、定かではありません。
葉は丸く、花はやや下向きか斜めにつけるのが特徴。

◆花言葉:小さな愛、誠実、小さな幸せ
 椿(ツバキ)
椿(ツバキ) ●ツバキ科
●原産国:日本、中国。
●花期:3~5月 (種類によっては12月頃~)

冬のイメージがありますが、文字通り、3月~5月頃に開花する春の木です。古くから観
賞用の庭木として栽培されていて、江戸時代にはブームにもなったほど人気がありまし
た。その頃、様々な品種が改良され、現在も多数残っています

色も紅色や桃、白、紅地に白斑入りなど多様です。

◆花言葉:理想の愛、控えめ、慎み深さ、美徳、至上の愛らしさ、完全な愛
 木蓮(モクレン)
木蓮 ●モクレン科
●原産国:中国
●花期:3~5月

日本には薬用として渡来したと言われています。花弁の外側は濃い紫色、内側は淡い紫
色。紫色の花が咲くので紫木蓮(シモクレン)とも呼ばれます。3~5mになる落葉小高
木。
昔は蘭(ラン)のような花が咲くことから木蘭(モクラン)と呼ばれていましたが、蘭
よりも蓮の花の方に似ていることから、「木蓮(モクレン)」と呼ばれれるようになり
ました。とてもいい香りがします。
高木で分枝の多い枝に白い花を多数つける白木蓮(ハクモクレン)は別品種。

◆花言葉:自然への愛、恩恵
 桃(モモ)
桃(モモ) ●薔薇(バラ)科
●原産国:中国
●花期:3~5月

非常に古くから栽培されてきた果樹のひとつ。日本には弥生時代に伝わったとされ、古
事記や万葉集にも登場しています。当初は薬や厄よけ、観賞用とされていて、実を食べ
るようになったのは平安時代の末期になってから。
葉はギザギザのある披針形。
果実や花木に広く栽培されていますが、観賞用に使う品種をハナモモともいいます。
ピンクの他に白、紅色のものもあります。
樹形も立性・枝垂れ性・矮性があります。

◆花言葉:チャーミング、私はあなたのとりこ、人柄の良さ
 沈丁花(ジンチョウゲ)
沈丁花(ジンチョウゲ) ●沈丁花(ジンチョウゲ)科
●原産国:中国
●花期:3~4月

かなり強い香り。
室町時代に日本にやって来たと言われています。
中国名は[瑞香(ずいこう)]。

◆花言葉:永遠、優しさ、おとなしさ
 ストック
ストック ●油菜(アブラナ)科
●原産国:ポルトガル
●花期:3~5月  (種類によっては11月頃~

開花すると強い香り。
花束には「私の最も大切な友」という意味が込められているそうです。

◆花言葉:豊かな愛、永遠の美、逆境の忠節、思いやり
 ヒヤシンス
ヒヤシンス ●百合(ユリ)科
●原産国:ギリシャ、シリア、トルコ
●花期:2~4月

ギリシャ神話のアポロの愛人である美少年ヒヤキントスから名付けられました。
香りが高く、青、紫、白など色も豊富です。

◆花言葉:遊戯、スポーツ、静かな愛
 ラナンキュラス
ラナンキュラス ●金鳳花(キンポウケ)科
●原産国:中近東、ヨーロッパ東部。
●花期:4~5月

花びらが幾重にも重なってとてもかわいくて上品。
色も赤、ピンク、黄色、白など多様です。

◆花言葉:かわいらしさ、晴れやかな魅力、名誉
 桜(サクラ)
サクラ ●薔薇(バラ)科
●原産国:日本
●花期:3~4月

日本の国花。
白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせます。
種類は大変多く、日本で自生しているものだけでも100種類以上、栽培しているものも
加えると300種類以上あると言われています。

◆花言葉:高尚、教養、心の美
 かすみ草(カスミソウ)
●ナデシコ科
●原産国:地中海沿岸
●花期:5~7月

多年草と一年草があります。
一重咲きから八重咲きまであり、よく見かけるのは八重咲きのもの。
細い小枝にたくさんの白い小花をつけます。
花束には欠かせない花ですね。
白の他にピンクの花もあります。

◆花言葉:清い心、切なる喜び
 カーネーション
カーネーション ●ナデシコ科
●原産国:地中海沿岸
●花期:3~6月

母の日に贈る花として有名ですね。
古代ギリシャ時代から栽培されていました。
香りがよく、香料の原料にもなっていて、美しいので西洋の切り花ではバラとカーネー
ションが最も多く栽培されていると言われています。
スペイン、モナコなどの国花でもあります。

◆花言葉:愛を信じる(赤)、尊敬(白)
 桜草(サクラソウ)
桜草(サクラソウ) ●サクラソウ科
●原産国:日本、中国
●花期:4~5月

花の形が桜に似ていることから名づけられました。
江戸時代から栽培されていて、日本人にはなじみの深い花。その頃から盛んに品種改良
がおこなわれていて、現在では300種類程あります。

◆花言葉:希望、長続きする愛情

2023.02.06

春に向けて。人の心の理解

立春を迎えるころになってしまった。
東風も吹かず比良おろしもこれからだが、残雪に飛び交う鳥たちも心なしか元気がない。
増しては後期高齢者ともいわれる身ではさらに活動は鈍い。フキノトウも土の下で
様子をうかがっているようでいまだその身を隠したままだ。
氷魚も最盛期、これを醤油で味付けすると絶品だ。
伏見神社では初午でもともと田の神を山から里に迎え豊作
を祈る意味もあったそうだ。
地元のお稲荷さんにお参りするのも縁起がいいのでは。
ウグイっすの姿もいまだ見えないが、ウグイス餅は春を運んでくれた。
ようやく新作ができた。風邪などで10日観ほど動けなかったが、
春の1作は文体を変えてみた。さあ、どうなるのか不安と希望が入り混じる年の初め。

集合的無意識、その不可思議

集合的無意識という人間の奥底にある共通意識の存在を明確にしたのは、ユングである。
彼の「人間と象徴」「個性化とマンダラ」などを読むと浅学非才ながらその存在に
わずかながらではあるが、納得感が生ずる。身近な例で言えば、絵画や造形作品の
美しさにふれた時の人々の反応ではないのだろうか。10数か国それも一刻の訪問では
あったが、各地の風景、情景に接した時の言い知れないつながりや違和感を感じない
その場の雰囲気なのではないだろうか。ゴッシク建築の中で感じる荘厳さへの想いや
仏像に対峙した時のうける印象や感じの差異なき感覚がその1つかもしれない。

ユングはさらに深く人の心の成り立ちまで追求しているが、才なき私はそこまでは無理だ。
だが、集合的無意識を一番近くでそれを感じるのは、やはり仏像を拝する時の心根である。
そしてそれがわたし的には、仏像に皆が魅かれる根本的な要因ではないか、と勝手に
思ってもいる。火影のなかにわずかに忍び込む光を映し出している仏像を拝している
人々の心根には、その一瞬に古代から流れ来たるイメージが見えない糸を手繰りだし
つなぎとめている。そのそこはかとない温かさと絹衣に包まれる様な思いがまたこの場所に人々をいざない来たる。白洲正子の「十一面観音巡礼」「かくれ里」などに時代を超えた
人気があるのは、その表れの一つでもある。また、神話がその成否はともかくとしてわたしたちの心根に強く響き染み込むのもそれなのであろう。更には、芳賀日出夫の「日本の民俗」等にのっている人々の写真が私の気持ちを揺り動かすのも奥底に眠る何十代もの記憶との共鳴から生まれるのではないだろうか。

ユングの「個性化とマンダラ」に以下の一文がある。
「元型的人格とその行動を患者の夢、空想、妄想を手掛かりにして注意深く研究してみれば、それが神話的イメージと広い直接的な関係を持っていることを強く感じさせる。
、、、、、
それらの内容を、すなわちそれらの具体的な現れである空想の素材を調べてみると、そこには多くの太古的「歴史的」な関連が、すなわち元型的な性質を持ったイメージが見いだされる。この特有の事実から、心の構造の中でアニマとアニムスが位置している「部位」を推論することが出来る。それらは明らかに無意識の中のかなり深い層、すなわち私が集合的無意識と名付けた、系統的発生的に言って深い層の中に、生きており機能している。この位置づけによってそれらの奇妙な性質の多くが説明される。すなわちそれらは遠い過去に属する未知の心の生を、かりそめの意識のなかへもたらすのである。それは我々が知らない祖先の精神であり、祖先の考え方や感じ方、彼らが生や世界や神々や人間を経験した仕方である。この太古的な層があるあるという事実はおそらく、「前世」からの生まれ変わりや記憶が信じられていることの基礎である。身体は系統的発生の歴史の一種の博物館であるが、心も同じである。」
ここで言っている「太古的層」がそうなのでろうが、多分それは時の経過の中で、堆積される層に違いがあるように集合的無意識の少しづつ変容が加えられるのではないだろうか。
私たちは個人と言う特性を持ちつつも、生きている時代の時代精神、所属している集団の
意識も備えているものであり、そういった普遍的意識が想定できる。時代精神という
普遍的意識は、その時代の前の時代を土台にして成り立っているものであるから、歴史の
すべてが普遍的無意識となり、今の問題だけではなく、過去、しかも私たちが生きていない過去までも、見ていくことが肝要なのであろう。生きていない過去までもわたしたちの
心の底の底に積み重ねられている。そしてそれは今ある自分をさえ支配している。

ユングがこの集合的無意識の存在に気が付いた1つには、曼荼羅があったという。
曼荼羅は仏教の世界観であり、長く続く人の心に安寧を与えてきたことからも、
その存在は納得される。

同じく、「個性化とマンダラ」には以下のような記述もある。
「祭式用のマンダラが常に特別な様式と、内容に関しては限られた数の典型的なモチーフ
しか示していないのに対して、個人のマンダラはいわば無限といえるほどたくさんの
モチーフやシンボル的表現を利用している。それらを見れば容易に分かるように
それは個人の内的外的世界体験の総体を表現しようとしているか、それとも個人の
根本的な内的中心点を表現しようとしている。その対象は自我ではなく、自己である。
自我は意識の中心にすぎないのに対して、自己は心の全体そのものであり、
意識と無意識の両方を含んでいる。個人のマンダラがきまって明るい半分と暗い半分
とに分割され、それぞれの典型的なシンボルをともなっていることが稀でないのは
まさにそのためである。この種の歴史的な例はヤコブ・ベーメの論文「こころに
ついての40の問い」のなかにあるマンダラである。それは同時にそういう形に
描かれた神の像である。」

この本に載っている様々なマンダラの図は、視点を変えるとこのようにも考えられる、
と言う点で中々に面白い。もっとも、マンダラ図に対するユングの解説をそのまま
受けいるには、抵抗のあるものもあるが。

更には、ユングが集合的無意識を提唱するはるか以前から仏教の考えの中に、唯識思想という考えがあった。それは、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)
に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。仏経書によれば、
八識説の概念は、まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識であると考える。
感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。
これは総称して「前五識」と呼ぶ。その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて六識
または現行(げんぎょう)という。その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が
想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は
意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。さらに
その下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識
を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると
思っているものも生み出していると考えられている。
この阿頼耶識(あらやしき)が集合的無意識に当たるのであろう。そして、仏教では
阿頼耶識(あらやしき)を如何に自身の行為、行動に活かしていくのかが、課題として
捉えていることが面白い。例えば、「人生で何が一番大切か」と言うことを絶えず
意識している人は少ないが、一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちにそのような価値観
によって支えられ人生を作って行く。しかもそれは、単なる個人レベルではなく、もっと
広い共通意識をベースとしている。
とはいうものの、個人的には、以下のような意識行動が必要なのであろう。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る

更には、ビルやアスファルトなど人工物に覆われ自然と言われるものが覆いかぶされ、
情報のみが効率よく伝わることを使命とした世界が急激に広がる現実では、この共通的
意識、無意識にも厚い蓋がかぶされ、社会は表面的に蓄積された情報で動かされる
人工的世界のみとなっていく。それが真に望ましい社会なのであろうか。

2023.01.28

十一面観音

大寒、まさにこの言葉通り。
寒い、雪かきを二回もした。あまり記憶がない。二〇センチほどの雪が二日間降るとは。
家に籠る日々。電車の運休が当たり前のようにあった。
でも、悪いことだけでもない。
好きな十一面観音のおさらいができた。

 

十一面観音

 

このブログでは、社会的な視点での過去、現在、未来を気のつくまま書いているが、
今回は以前からも興味深くフォローしてきた十一面観音について、それに理解の深
い人の言葉から少し省みたい。自分の振り返りもあるが。

 

十一面観音は特長的な観音像だ。様々な仏面を11も持ち、一般の我々に御利益を下さ
る、と言われている。
先ずその構成は、
・頂上仏面(如来相)
・正面三面菩薩
・右三面の瞋怒面(怒り)
・左三面の狗牙上出面
・後一面の笑怒面
であり、10種の勝利(現世の利益)、4種の果報(死後成仏)を衆生にもたらすとされて
いる。別に、今後も、来世に期待はしないが、人の欲望は、尽きぬもののようで有る。

 

私が十一面観音に出会ったのは、20年以上前になるのか、聖林寺で何げなく対面した
ことに始まる。それは、前後して読んでいた和辻氏の古寺巡礼の影響かもしれない。
暫らく像の前で佇んでいた記憶がある。
こちらがエネルギーを持っているときは芸術的な鑑賞としての十一面観音となるが、
悩みや仕事で落ち込んだときはその対面から何かを戴いてきた、と思う。
まことに不思議な観音像である。

 

和辻哲郎の基本的な日本文化への想いが良く書かれている。
1)和辻哲郎の「古寺巡礼」より
「これらの文化現象を生み出すに至った母胎は、我国の優しい自然であろう。
愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせこの自然とも同じく
底知れぬ神秘を持った我国の自然は、人体の姿に表せばあの観音(ここでは
中宮寺観音)となるほかにない。
自然に酔う甘美な心持ちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、
その根は、あの観音と共通に、この国土の自然から出ているのである。
葉木の露の美しさも鋭く感受する繊細な自然の愛や一笠一杖に身を託して
自然に溶け合って行くしめやかな自然との抱擁やその分化した官能の
陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見、この観音と甚だしく異なるように
思える。しかし、その異なるのは、ただ、注意の向かう方向の相違である。
捕らえられる対象こそ差別があれ、捕らえにかかる心情には、極めて近く
相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た
同じ子孫に賦与した。我国の文化の考察は、結局我国の自然の考察に歸て
行かなくてはならぬ。

 

その基本意識は、
人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とか言う風に泰然と区別してしまう
ことは、正しくない。それは、具体的な1つの生活をバラバラにし、生きた全体
として掴むことを不可能にする。しかし、1つの側面をその美しい特徴によって、
他と区別して観察すると言うことは、それが、全体の一側面であることを
忘れられない限り、依然として必要なことである。

 

芸術は衆生にそのより高き自己を指示する力の故に、衆生救済の方便として
用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性
を実現したのである。しかし、芸術は、たとえ方便として利用されたとしても、
それ自身で、歩む力を持っている。だから、芸術が僧院内でそれ自身の活動
を始めると言うことは、何も不思議なことではない。
芸術に恍惚とするものの心には、その神秘な美の力が、いかにも、浄福のように
感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方が如何に
容易であるかを思えば、かかる事態は、容易に起こり得たのである。

 

仏教の経典が佛菩薩の形像を丹念に描写している事は、人の知る通りである。
何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これは、まず、
第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また、人びとも法華寺経
を指してそれが幻像のでないといいえまい。それは、
まず、第一に佛を主人公とする大きな戯曲的な詩である。観無量寿経の如きは、
特に詳細にこれらの幻像を描いている。佛徒は、それの基づいてみづからの
眼を持ってそれらの幻像を見るべく努力した。観佛は、彼らの内生の
重大な要素であった。仏像がいかに刺激の多い、生きた役目を務めたかは、
そこから容易に理解される。

 

観世音菩薩は、衆生をその困難から救う絶大な力と慈悲とを持っている。
彼に救われるには、ただ、彼を念ずればよい。彼は境に応じて、時には、仏身
を現じ、時には、梵天の身を現ずる。また、時には、人身も現じ、時には、
獣身をさえも現在ずる。そうして、衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。
かくのごとき菩薩は、如何なる形貌を備えていなくてはならないか。
まず、第一にそれは、人間離れした超人的な威厳を持っていなければならない。
と同時に、もっとも人間らしい優しさや美しさを持っていなく絵ならぬ。
それは、根本においては、人ではない。しかし、人体を借りて現れることで、
人体を神的な清浄と美とに高めるのである。

 

・聖林寺11面観音より
切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、
全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、
また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と
人間のものならぬ美しさが現されている。
薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人のこころと運命を見通す観自在の
まなこである。、、、、、、
この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。
、、、四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現
されていながら、しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。
殊に、この重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも
軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。
これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。

 

・百済観音について
漢の様式の特有を中から動かして仏教美術の創作物に趣かせたものは、
漢人固有の情熱でも思想でもなかった。、、、、、、
抽象的な天が具体的な仏に変化する。
その驚異を我々は、百済観音から感受するのである。
人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、それを嬰児の如く新鮮な感動によって迎えた
過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得る
に至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感じることは、
彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来毎であった。

 

・薬師寺聖観音について
美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。、、、、、、
つややか肌がふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。
衣文につつまれた清らか下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を
表現したものである。しかも、それは、人体の写実的な確かさに感服したが、
、、、、、、、、
もとよりこの写実は、近代的な個性を重んじる写生とはおなじではない。
一個人を写さずして人間そのものを写すのである。」

 

特に十一面観音の記述については、その後の私の意識からは離れない。

 

2)井上靖の「星と祭」より
この本では、十一面観音の記述とともに近江の十一面観音について詳しく
書かれている。
十一面観音の記述部分、
「十一面観音信仰は古い時代からのもので、日本でも八世紀初めの頃からこの観音像
は盛んに造られはじめている。この頃から十一面観音信仰はその時代の人々の生活
のなかに根を張り出しているのである。この観音信仰の典拠になっているものは、
仏説十一面観世音神呪経とか十一面神呪経とか言われるものであって、この経典に
この観音を信仰する者にもたらせられる利益の数々が挙げられている。それによると
現世においては病気から免れるし、財宝には恵まれるし、火難、水難はもちろんの
こと、人の恨みも避けることができる。まだ利益はたくさんある。来世では地獄に
堕ちることはなく、永遠の生命を保てる無量寿国荷生まれることが出来るのである。
また、こうした利益を並べ立てている経典は、十一面観音像がどのようなもので
なければならぬかという容儀上の規定も記している。まず十一面観音たるには、
頭上に三つの菩薩面、三つの賑面、三つの菩薩狗牙出面、一つの大笑面、一つの仏面、
全部で十一面を戴かねばならぬことを説いている。静まり返っている面もあれば、
憤怒の形相もの凄い面もある。また悪を折伏して大笑いしている面もある。
いずれにしても、これらの十一面は、人間の災厄に対して、観音が色々な形に
おいて、測り知るべからざる大きい救いの力を発揮する事を表現しているもの
であろう。
観音が具えている大きな力を、そのような形において示しているのである。
十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典が挙げている数々の
利益によるものであるに違いないが、しかし、そうした利益とは別に、その信仰が
今日まで長く続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い姿ではないかと、
加山には思われる。利益に与ろうと、与るまいと、人々は十一面観音を尊信し、
その前に額ずかずにはいられなかったのであろう。そういう魅力を、例外なく
十一面観音像は持っている。
それは例外なく、宗教心と芸術精神が一緒になって生み出した不思議なものであった。
美しいものだと言われれば美しいと思い、尊いものだといわれれば、なるほど
尊いものだと思う意外仕方のないものであった。十一面観音の持つ姿態の美しさを
単に美しいと言うだけでなく、他のもので理解しようと言う気持が生まれたように
思う。そうでなかったら頭上の十一の仏面は、加山には異様なもの以外の
何者でもなかったはずである。それが異様なものとしてでなく、力強く、美しく、
見えたのは、自分がおそらく救われなければならぬ人間として、十一面観音
の前に立っていたからであろうと思う。救われねばならぬ人間として、救う
ことを己に課した十一面観音像の前に、架山は立っていたのである。」

 

 

3)白洲正子の「十一面観音巡礼」より
この本のあとがきは、中々に面白い。
「私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力ある存在であったが、
怖ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな無智
なものにでも出来る。手ぶらで歩けるということは、私の気持をほぐし、
その上好きな観音様にお目にかかれると言うことが、楽しみになった。
が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい、
初めの予感が当たっていたことを、思い知らされる始末となった。私は
薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変幻自在な観世音に幻惑され、
結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさとる
だけであった。
私の巡礼は、最後に聖林寺へ戻るところで終わっているが、再び拝む天平の
十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」というように
見えた。私はそういうものが観音の慈悲だと信じた。もともと理解しようと
したのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、めくるめく
ような多彩な光は、一つの白光の還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。
見れば目が潰れると信じた昔の人々のほうが、はるかに観音の身近に
参じていたのだと。」
白洲氏は、十一面観音を求めて、滋賀や福井、岐阜、奈良などと様々な
地域を巡り歩いている。旅行で近くに行ったときには、是非これを片手に
ちょっとでも立ち寄ってみるのも楽しいもの。

 

最後に再び、井上靖の「星と祭」の渡岸寺の十一面観音の記述を味わって
もらいたい。

 

「渡岸寺と言うのは字の名前でして、渡岸寺と言う寺があるわけではない。
昔は渡岸寺と言う大きな寺があったそうだが、今は向源寺の管理となっています。
、、、
堂内はがらんとしていた。外陣は三十五、六畳の広さで、畳が敷かれ、
内陣の方も同じぐらいの広さで、この方はもちろん板敷きである。
その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体の
仏像が置かれている。中央正面が十一面観音、その両側に大日如来と
阿弥陀如来の坐像。二つの大きな如来像の間にすっくりと細身の十一面観音
が立っている感じである。体躯ががっちりした如来坐像の頭はいずれも
十一面観音の腰あたりで、そのために観音様はひどく長身に見える。
架山は初め黒檀か何かで作られた観音様ではないかと思った。
肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そして、また、
仏像と言うより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように
見えた。もちろんこうしたことは、最初眼を当てた時の印象である。
仏像といった抹香臭い感じはみじんもなく,新しい感覚で処理された近代
彫刻がそこに置かれてあるような奇妙な思いに打たれたのである。
架山はこれまでに奈良の寺で、幾つかの観音様なるものの像に
お目にかかっているが、それらから受けるものと、いま眼の前に
立っている長身の十一面観音から受けるものとは、どこか違っている
と思った。一体どこが違っているのか、すぐには判らなかったが、やがて、
「宝冠ですな、これは、みごとな宝冠ですな」
思わず、そんな言葉が、加山の口から飛び出した。
丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でも戴いている
様に見える。いずれの仏面も高々と植えつけられてあり、大きな冠を
形成している。、、、、、
十一の仏面で飾られた王冠と言う以外、言いようが無いではないかと思った。
しかも、飛び切り上等な、超一級の王冠である。ヨーロッパの各地の博物館で
金の透かし彫りの王冠や、あらゆる宝石で眩く飾られた宝冠を見ているが、
それらは到底いま眼の前に現れている十一観音の冠には及ばないと思う。
衆生のあらゆる苦痛を救う超自然の力を持つ十一の仏の面で飾られているのである。
、、、、
大きな王冠を支えるにはよほど顔も、首も、胴も、足もしっかりしていなければ
ならないが、胴のくびれなどひとにぎりしかないと思われる細身でありながら、
ぴくりともしていないのは見事である。しかも、腰をかすかに捻り、左足は
軽く前に踏み出そうとでもしているかのようで、余裕綽々たるものがある。
大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。
観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たるものがあって、
凛としてあたり払っている感じである。金箔はすっかり剥げ落ちて、ところどころ
その名残を見せているだけで、ほとんど地の漆が黒色を呈している。
「お丈のほどは六尺五寸」
「一本彫りの観音様でございます。火をくぐったり、土の中に埋められたりして
容易ならぬ過去をお持ちでございますが、到底そのようにはお見受けできません。
ただお美しく、立派で、おごそかでございます」
たしかに秀麗であり、卓抜であり、森厳であった。腰をわずかに捻っているところ、
胸部の肉つきのゆたかなところなどは官能的でさえあるあるが、仏様のことであるから
性ではないのであろう。左手は宝瓶を持ち、右手は自然に下に垂れて、掌を
こちらに開いている。指と指とが少しづつ間隔を見せているのも美しい。
その垂れている右手はひどく長いが、少しも不自然には見えない。両腕夫々に
天衣が軽やかにかかっている。」

 

この仏像は今もなお、周辺の人々に手厚く守られている。これが特に十一面観音
の本来の姿では、この仏像の前に立つたび、そう思う。

 

最後に、私が小浜のお寺を訪れ、十一面観音と対面した時の印象を。
「室町時代の面影が感じられる建物である。厨司が開いて、すらりとした
十一面観音が、ろうそくの織り成す火影のもとに浮かび上がった。
そのきらびやかさに思わず眼が行った。切れ長の大きな眼、ふっくらとした優しさ
の頬と気品の高い唇、頭上の仏面も含め女性のやわらかさが伝わってくる。
渡岸寺のイメージが強いのか、思ったより華奢なお姿で、彩色が鮮やかに
残っている。細く伸びた指は美しく、元正天皇の御影とされたのも、何と無く
分かる。若々しい観音様である。全体から漂う幼いふくらみ、その指、その掌の
清潔で細微な皺、頬に差し込む蝋燭の火影の漆黒と金箔の綾、その鬱したほど長い睫、
黒地に施した螺鈿のように黒い小さな額にきらめく池水の波紋の反映の、
ひたと静まる空気感がある。時代は平安初期、檜の一本造りで、
このような仏像が、若狭にあった、自分の不勉強さに思わず目をつむる。
好きな人と並んで話した時に覚えたあの心の弾みと甘酸っぱさを思い出す。」

 

 

 

 

 

石道寺(しゃくどうじ)

 

そのとき、初めて加山の眼に厨司に納められている三体の11面観音
の姿が入ってきた。中央の一体は大きく、その両側の二体は小さかった。
中央の一体の顔に眼をあてたままで、「きれいな観音さまですね」
加山は言った。おもわず口から出た言葉だった。美人だと思った。
観音様というより、美人が一人立っている。
加山は中央の十一面観音に眼をあてたまま、厨司の前に進んでいった。
そこに立っているのは、古代エジプトの威ある美妃でもなければ、
頭に戴いているのは王冠でも、宝冠でもなかった。なんとも言えず
素朴ないい感じの美しい観音様だった。唇は赤く、半眼を閉じている
ところは、優しい伏眼としか見えなかった。腰をわずかに捻り、左手
は折り曲げて褒瓶を持ち、右手は自然に垂れて、数珠を中指にかけ、
軽く人差し指を開いている。、、、三体のうち、向って右手の小さな
観音像は、中央の観音像の膝辺り、左手のはそれよりやや大きいが、
やはり中央の観音像の腹部ぐらいの背丈である。この二体はいずれも
真っ黒になっている。まだ小さい方には顔の一部や体の一部に、ごく
僅かに金色が残っているが、もう一体の方は全身に煤が厚く塗られている。
この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに
現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れする
ような魅力をお持ちになっている。野の匂いがぷんぷんする。笑いを
含んでいる様に見える口元から、しもぶくれの頬のあたりにかけては、
殊に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も、王冠といった
いかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。
腕輪も、胸飾りもふんわりとまとっている天衣も、なんとよく映えている
ことか。それでいて、観音さまとしての尊厳さはいささかも失っていない。
しかし、近寄り難い尊厳さではない。何でも相談に乗って下さる大きく
優しい気持を持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟げんかの裁きも、
嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引き受けて下さりそうな
ものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。
加山は実際に、石道の観音様からこのような印象を受けたのである。
渡岸寺の観音像からも大きな感動を受けたが、ここの観音像からも、
それに劣らぬ鮮烈な印象を与えられていた。二つの観音像は全く対照的であった。
一つは衆生の苦しみを救わずにはおかぬ威に満ちたものであり、
一つはどんな相談にも乗って下さる優しさに溢れている。
、、、、、
「なにしろ、お若うおすわ、この観音さんは。拝む度に若うならはってます。
口元を見なされ、お若うのうては、あんな口元でけしまへんが」
もう1人が言った。観音様もいいが、この女の人たちもいいと、加山は
思った。いかにもみなで、この十一面観音をお守りしている感じである。
観音様を褒められれば、みながわがことのように悦んでいる。
加山はもう一度、その若いといわれる観音像の前に立った。堂内の光線は
前の扉からのと、横手の扉からのもので、さして明るくも無いが、暗くも無い。
ほどほどのやわらかい光線が、小さなお堂の内部に漂っている。厨子の内部は
当然そこだけ暗くなっているが、十一面観音像の面には、さいわい正面の
扉からの光線が当たっている。
観音像の姿は若いが、しかし、造られた年代は、重要文化財の指定を受けている
くらいだから古いに違いない。像全体が元の彩色を失って、古色に包まれており、
その中で唇に残る微かな赤さが目立っている。あるいはこの唇の紅は、
長い年月の間に、誰かが観音像に化粧してあげたのであろうか。
気安くそんな事をする気を起こさせ、また気安くそんなことをお受けに
なりそうな観音さまである。

 

2023.01.23

古代の製鉄

北小松の奥に製鉄の旧跡がある。
鉄は国家なりと誰かの名言だが、志賀地域にもそれがあったようだ。歴史の一端を担ってきた。
喜ばしいことだ。

志賀、湖西の古代の鉄生産

自身の住む土地が世の中の何かに貢献していたと思うのは、何事に
寄らず、嬉しいことだ。その点で、製鉄の持つ歴史的な意義も含めてその
残り香に逢うことは、1千年前への想いを高める。

1.志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より
平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。

今でも、このいくつかの遺構では、赤さびた鉄滓が探し出すことが出来る。
僅か流れでも1千年以上前の残り香を嗅げる。
なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。
小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事
全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年
であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。
だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を
ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した
としても不思議ではない。

さらに、
武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。
国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。
そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」
とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい
等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の
比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。

これに関しては、志賀町史でも指摘がある。

古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。
交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト政権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことに関係する。、、、
古代近江は鉄を生産する国である。
湖西や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的
地方支配の拠点が置かれていたことにより、七世紀末以後には大津市や草津市
等の湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では
鉄生産がおこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。
それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れをみわたさなければならない。
鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。

それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していた
ばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。権力の世界でも
生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。当時の製鉄方法の
詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くからおこなわれていた。
しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が朝鮮半島
洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入されてた慶尚道の鉄延であったと
みられる。三世紀なかばのことを書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は
鉄を出す。韓、わい、倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の
初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部まで駐屯
させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が難しくなった。五世紀
なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動する
のは、鉄の本格的な国産化を必要とする時代となっていたことを示す、という。

2.古代の豪族たち、和邇部氏と小野氏
農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡る
ようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、
つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの
統一に向かって原始的な国家の形態へと発展していく。
それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。
鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり
の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の
副葬品が増えてくる。

鉄が武器となり、農耕具としてその活用が高まるのは、それなりの集団が形成
されているからである。この周辺では、和邇部氏と小野氏を考えておく必要がある。
1)和邇部氏
志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、
ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地
東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団
でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。
和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇
大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、
和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。
中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を
利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権
での地位を高めたと思われる。

以下の記述は、和邇部氏が鉄素材を運んだルートの想定としても面白い。
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。
そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、
椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門か
または服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。

2)小野神社
和邇部氏も、製鉄に関係していたようであるが、小野氏の小野神社の祭神で
ある「米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)は、元来、鍛冶師の神であり、
鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇部氏の後、和邇臣配下の鍛冶師に供給していと
思われる。「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。
「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は
タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには
餅搗の神と思われていたとされる。

米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。
火が信仰の対象となったり、古事記や日本書紀にあるように剣がその伝説と
なったり、代表的な金屋子信仰にあるように鉄に対する信仰はあったはずであり、
この地では、小野神社がそれの役割となった気もする。

3)日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。
古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、
「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命いしこり
どめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本
書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし天香山の金を採りて
日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、天羽ぶきに作る。これを
用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す日前神なり」とあって、技術的に
かなり具体的になっている。

この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用するほどに
進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。
弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存
して天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく
粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、
叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていた
かのように述べてもいる。
この比良山系にも、何条もの煙が山間より立ち上り、琵琶湖や比良の高嶺に
立ち昇っていたのであろう。

3.古代近江の鉄生産
古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。
日本における精練・製鉄の始りは 5世紀後半ないしは6世紀初頭 鉄鉱石精練法
として大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が
日本で製鉄が行われたとの確認が取れる初期の製鉄遺跡と言われている。
滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が
始められていた。滋賀県埋蔵文化財センターでは、7世紀から9世紀の滋賀県
製鉄遺跡が3地域に分けられるという。

伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、
としている。
①大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
②西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓の鉄鉱石を使用
③高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓の鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を
使用して現地で製鉄して いたと考えられる。

マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を
専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる」の文があり、近江国で有力な
官人・貴族たちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山を
めぐる争いを記している。
天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占して
いたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っている。
野坂山地の磁鉄鉱は、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、
「大師藤原恵美朝臣押勝に、近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との
記載があり、浅井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも
高品質の鉄鉱石であったことが知られている。

鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度
であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定
は至難の技だった)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者
の指導で金生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒した
といわれている。岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法
で造った藤原兼正氏作の刀が御神体として納められている。

しかし、この隆盛も、鉄原料の不足からだろうか、備前、備中などの砂鉄を基本
とする製鉄勢力に奪われて行ったのだろうか。
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀
には岩鉄製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国
近代製錬は、砂鉄製錬と同義といってよい。
岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退
していったとみられる。
砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と
良質な砂鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。

しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場
まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り
崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が
必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)
砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、
大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、
最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。

また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。
1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと
考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも
ありました。たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を
満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、
たたら製鉄の面影を認めることができます」。

ただ、現在の棚田や山林の景観は、荒れた山野をいかに修復し、保全すると
いった先人の努力の結果でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、
雨量の少ない地域では百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。
さほど雨量が多いと言えない湖西では、仏閣建設の盛んだったころ、その伐採を
禁じた文書もあるくらいであるから、近世までこのような製鉄事業ができたか、
は疑問だ。多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきた
こともあり、この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。
ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。

比良での製鉄,志賀町史より

志賀町史第1巻にその記述がある。

P228
比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が五〇〇メートルから七五〇メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在一二か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる。

また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
六世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平一四年七四三年十二月十七日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
本町域にはすくなくとも二十基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が七,八世紀には
操業していたようである。詳細は242ページにある。

さらに、本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、

P245
近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
催行していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
これを燃料として操業を続けたのであろう。

P254
古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。
交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト政権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことに関係する。、、、
古代近江は鉄を生産する国である。
個性や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的
地方支配の拠点が置かれていたことにより、七世紀末以後には大津市や草津市
等の湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では
鉄生産がおこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。
それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れをみわたさなければならない。
鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。
それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していた
ばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。権力の世界でも
生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。当時の製鉄方法の
詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くからおこなわれていた。
しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が朝鮮半島
洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入されてた慶尚道の鉄延であったと
みられる。三世紀なかばのことを書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は
鉄を出す。韓、わい、倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の
初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部まで駐屯
させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が難しくなった。五世紀
なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動する
のは、鉄の本格的な国産化を必要とする時代となっていたことを示す。


P258
5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
近江と播磨がある。
日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
秘められていたと思われる。
「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも優良かつ
大規模なものであったと推測される。
本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
ようである。
高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王となった
継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への供給であったと
考えざるを得ない。
彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模生産が
行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったこと
を示唆している。

264
角山君の祖先たちは、古くから高島郡マキノ町、今津町域で餅鉄による製鉄を
行っていたと思われる。今津町の妙見山古墳群から鉄滓が発見されているし、
甲塚古墳群からは精錬滓が見つかっている。また、和邇部氏はヤマト朝廷の
和邇臣に所属する疑似同族であり、本質的な関係を持っていた。
更には、天理の和邇はヤマト朝廷を支える巨大豪族であり、鍛冶師に
由来する社会的機能集団でもあった。そのため、和邇部氏は和邇しと結びつく
時に合わせ、比良山地の餅鉄を集めて鉄素材を生産し、和邇氏は以下の
鍛冶師集団に供給していたと考えられる。小野氏は和邇部氏よりも後に
この地域に進出してきたようであるが、小野神社の始祖であるタガネツキ
大使主命は、元来は鍛冶師の神であり、和邇部氏の始祖神と思われる。
このことなどから鉄素材をタガネで小割して、和邇臣配下の鍛冶師に
供給していたと考えられる。
本町域は、湖北や高島と並んで、日本最古の製鉄が始まった地域でもあった
と推測される。


ーーーーー
志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より

平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。

なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。
P56
小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事
全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年
であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。
だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を
ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した
としても不思議ではない。

武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。
P65
国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。
そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」
とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい
等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の
比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。


ーーーーーー
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
 
田野健 HP ( 48 設計業 ) 09/02/19 AM10 【印刷用へ】
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九
州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあ
ったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄
の2次加工を行う鍛冶工房である。

>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5
世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
(リンク~日立金属HP)

6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来
朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工
を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、
鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子
技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
(リンク~日立金属HP)

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である
。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産
地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂
鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク)
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から
製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭
を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言え
る。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸
時代には大鍛冶技術として完成する。

謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄
生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本の
たたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できて
いない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインド
まで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のい
ずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われ
る。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境
に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくして
いくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依
存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧と
して国内の統合を加速したのかもしれない。

しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降
の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたの
か?)


ーーーーーー
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったという
のが現在の定説です。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。


古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)

弥生時代に製鉄はあった?

一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見
はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が
得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶
金技術をもっていた。

最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡で
はないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西
本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわ
れるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するた
め、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。し
かし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもし
れませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。

ーーーーーーー
日本の製鉄起源をどう求めるのか:古代文明の様相を探る

 それでは、日本の場合、製鉄起源をどう求めればよいのか。あるいは、製鉄技術の面
から、日本の古代文明の発祥の様相をどう分析すればよいのかの問題提起を行いたい。
 現在、蓋然性が伴うと考えられる要素を以下に示した。しかし、これは全く順不同で
あり、優先順位をつけたものではない。

○弥生時代から製鉄が始まった(青銅器の技術とともに輸入された)
 前項で整理したように、日本の鉄器は弥生時代から確認されている。しかし青銅器と
鉄器が並立していることにより、一般的な科学的法則性に反する事態となっている。し
たがって、もともと製鉄技術を持っていなかった日本古代文明に、中国の2つの技術(
鉄器と青銅器)が伝わり、日本でも製鉄が広まった。この時、同時に2つの技術が伝わ
ったので、日本の場合は段階的な発展過程を経ず、青銅器と鉄器が並立することになっ
た。

○世界中の文明と同様に、日本にも古代鉄の製法があった
 古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である
。この技術は、赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱と木炭を原料として、椀型の炉で通風し、100
0度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術なので、日本の古代文明でも十分
に可能である。世界中では、14世紀後半まで続けられていた普遍的な製鉄技術である
から、日本にもこの「低温製鉄法」が存在し製鉄を行っていた。

○縄文式土器の製造技術の上に、世界最古の製鉄技術が存在していた
 日本文明が世界最古で人類初である可能性は、縄文式土器の制作による。この土器は
1万6千年前から作られていたので、中国の製陶技術より桁違いに古い時代から、日本
には「製陶技術」が存在していた事になる。中国での製鉄技術の段階的な発展過程から
考えれば、それより古い時代から「火を使って自然物を加工する」科学技術を持ってい
た日本古代文明の方が、中国より早く製鉄技術を獲得していたのではないか。

これ以外にも、製鉄の起源を巡る仮説はたてられるかも知れない。だが、いくつかの論
点は整理することが出来る。

①まず、いずれの場合も、原材料(鉄資源と燃料・木炭等)無しには、語れないであろ
う。どの製鉄方法(仮説)をとるにしても、大量の原材料が必要になる。万物の全ての
事象には、必ず原因があって結果が存在する以上、鉄器の制作には、莫大な原材料の議
論が前提になると考える。

②現実的には考古学的発掘成果から「鉄器」や「制作跡」が出土することが望ましい。
しかし、数千年や数万年単位の古代遺跡からの鉄資源の報告は確認出来ていない。また
出たとしても、現在大陸や半島から持ち込んだとの理解(定説)があるため、検証の対
象から外されている可能性がある。

③神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証の対象とすること。これまで、この
分野はほとんど研究されてこなかったといっても過言ではない。特に戦後は架空の話し
としてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから
口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性が
ある。最善の資料は「金屋子神話」である。したがい、この分野からのアプローチは欠
かせないであろう。


志賀、鉄への想い(ブログ)

宮本常一の「塩の道」は生活の必需品であった塩がどのように広まったか、
それに対して人々はどのように対応してきたか、を考えさせられるきっかけ
であった。さらに、塩以上に社会の拡大に大きな役割を果たしていった鉄についても
同様の疑問が出てきた。「鉄」は、どのように広がっていったのであろうか。
さらに、この湖西、志賀、地域は古代鉄生産ではかなりの有力な地域であったと、
志賀町史などに書かれている。まだまだ浅学非才のレベルであるが、少しでも
その認識を深めていきたい。
1.志賀での鉄生産とは、
志賀町史では、以下の記述をベースに、その場所の探査なども含め、
鉄への想いを深める。
「比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が500メートルから750メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在12か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる」。
更には、
「また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
6世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平14年743年12月17日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
本町域にはすくなくとも20基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が7,8世紀には
操業していたようである」ともある。
記述のある念仏山の弁天神社周辺は、小さな水の流れがあり、その水音だけでも
落ち着くところであるが、鉄滓らしきものもその小川の中に見られる場合もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、」。

また、平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。

2.日本の鉄文化の始まり
「弥生の鉄文化とその世界」の記述では、
「発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見て
まず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。
例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。
また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断
されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了する
ことになります。
さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
は確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
卸)は後世になると思われます」。
と書かれてもいます。ただ、製鉄が行われたのが、弥生時代なのか、さらに後なのか
色々と説はあるようですが、弥生時代にはまず武具として、その後、農具として
使われていったようである。これは福岡や佐賀県で出土したものからも言えるらしい。

また、鉄の生産開始を推測される以下のような記述もある。
欽明天皇記に「鉄屋(くろがねのいえ)を得て還来り」とあるのは、朝鮮半島の戦いで
製鉄の工人を連れ帰ったことという考えもあるようだ。
農耕経済を中心とした弥生文化が急速な発展をし、全国的に鉄器が広がるにつれて、
農産物の生産量が増え、さらに経済力は強まった。これにより集落が小国家の
ような組織体となり、原始的な国家形成へと進んだ。
このため、鉄は、武具、農具としても重要な役割を果たしていく。

3.志賀の鉄生産の状況
全国的な国家形成、強化の中で、志賀も鉄生産の拠点として重要な位置を占めていた。
日本の鉄歴史の中に志賀での記述はほとんど見られない。しかし、古代、
この地域が国の発展に欠かすことが出来ない場所であったということは、町史の記述が
やや我田引水的要素があったとしても、素晴らしいことである。
志賀町史はさらに言う。
「近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
採掘していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
これを燃料として操業を続けたのであろう」。

4.なぜ、湖西なのか、継体天皇の誕生、和邇氏とのつながり
志賀町史での指摘は中々に、面白い。
5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
近江と播磨がある。
日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
秘められていたと思われる。
「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも
優良かつ大規模なものであったと推測される。
本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
ようである。
高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王
となった継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への
供給であったと考えざるを得ない。
彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模
生産が行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったことを示唆
している。
さらに、
角山君の祖先たちは、古くから高島郡マキノ町、今津町域で餅鉄による製鉄を
行っていたと思われる。今津町の妙見山古墳群から鉄滓が発見されているし、
甲塚古墳群からは精錬滓が見つかっている。また、和邇部氏はヤマト朝廷の
和邇臣に所属する疑似同族であり、本質的な関係を持っていた。
更には、天理の和邇はヤマト朝廷を支える巨大豪族であり、鍛冶師に
由来する社会的機能集団でもあった。そのため、和邇部氏は和邇しと結びつく
時に合わせ、比良山地の餅鉄を集めて鉄素材を生産し、和邇氏は以下の
鍛冶師集団に供給していたと考えられる。小野氏は和邇部氏よりも後に
この地域に進出してきたようであるが、小野神社の始祖であるタガネツキ
大使主命は、元来は鍛冶師の神であり、和邇部氏の始祖神と思われる。
このことなどから鉄素材をタガネで小割して、和邇臣配下の鍛冶師に
供給していたと考えられる。
本町域は、湖北や高島と並んで、日本最古の製鉄が始まった地域でもあった
と推測される。

武器や農具など鉄需要の高まりとヤマト政権とのつながりの深さ、比良山系の豊富な
木材などが大きな要素となって湖西でも本格的な製鉄が進められたのかもしれない。
先ほどの調査でも、言っているが、近世、独占的になされた中国地方の砂鉄に
よる製鉄のイメージが強すぎるためか、例えば、司馬遼太郎の鉄についての記述でも
中国地方がほとんど、近江での製鉄については、脚光を浴びることがなかったものの、
この地域での製鉄の歴史への関与がそれなりにあったという歴史的な事実は
再認識すべきかもしれない。

しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場
まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り
崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が
必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)
砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、
大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、
最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。
1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと
考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも
ありました。
たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったから
です。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めること
ができます」。

ただ、これは、荒れた山野をいかに修復し、保全するといった先人の努力の結果
でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では
百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと
言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。
多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきたことにより、
この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。
ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。

弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存して
天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく
粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、
叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていたかのよ
うに
述べてもいる。比良でも多くの山間から数十条の煙がたなびき、広く伸びる
低い草木の上を琵琶湖へと流れていく光景が見られたのではないだろうか。


農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡るようにな
ると、
農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、つまり首長との
生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの統一に向かって
原始的な国家の形態へと発展していく。それがヤマト政権として更なる発展拡大して
いった。鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり
の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の
副葬品が増えてくる。


和邇氏、古代の鉄に関する諸関係

http://ameblo.jp/taishi6764/entry-12089825159.html

近江の鉄?息長氏・和邇氏?
2015-11-20 08:37:19
テーマ:【ブログ】
【鉄を制するものが天下を制す】


★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとす
る加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。金海大成洞遺跡からは4世
紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。

金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い
政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。

金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く
攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国
の単位になっていた可能性が高い。


★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。

五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加
耶との交流が始まった。

須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海
・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物
と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。

出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは
、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。

大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。

★日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのは
(日立金属HPより)
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九
州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあ
ったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺
跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡
で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)で
は多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世
紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。

★6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
(日立金属HPより)
『古事記』によれば、
応神天皇の御代に「百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝した」とあり

また、敏達天皇12年(583年)「新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金
の鍛冶技術の伝授を受けた」と記されている。

その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろう
か。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていた
かもしれない。

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である
。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、
東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境
に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくして
いく。

結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、
朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。


ブログ?古代日本の渡来人
5世紀以降、九州地方では見られなかった横穴式石室が出現、そこから騎馬用馬具が出
土している。これらは伽耶移住民の大量進出による。
6~7世紀は韓人が中心で、背景には加耶諸国(562年)、百済(660年)・高句麗(66
8年)それぞれの滅亡がありました。
鉄の覇権をめぐって朝鮮 諸国との連携や大量の渡来人の流入が生じる中、鉄の覇 権を
握った大和が次第に日本諸国を統合して日本骨格を作っていく。大和は同時に渡来人の
技 術をいち早く吸収し、鉄の自給についても、早くから大規模精錬を開始し、この鉄
の力をもって諸国を 統一し、7 世紀初頭には律令国家を作り上げ、飛鳥・奈良時代を
作ってゆく。大和朝廷の勢力の源泉と なったのが、朝鮮からの鉄の移入と同時に吉備
国の鉄とこの近江国での鉄自給と考えられている。


【和邇氏と息長氏】

近江は和邇氏の本貫地でもあり息長氏の本貫地でもある。


和邇氏・息長氏は、諸氏族のなかでも際立った性格をもつという。
和邇氏・息長氏は、格段の多さで「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」である。
(雄略~敏達)


?初期ヤマト政権の和邇氏・息長氏
ブログ?「初期ヤマト政権~山辺の道~」で書きましたように、和爾氏の氏神「和爾下
神社」の社殿は和爾下神社古墳と呼ばれる前方後円墳の後円部上に建っている。
和邇氏は早く奈良市の東南端の和邇下神社から春日大社へといたる間に居地をもち、
息長氏は、平城京の北西部に居地をえている。

三輪山裾の出雲氏・尾張氏・吉備氏等と同様、弥生時代に倭国の王都近くへその集落を
移し、国政に参与した。おそらく弥生文化の母胎となる初期漢・韓人の渡来時、一斉に
各地に配置された枢要の人々がその地域を代表する形で大和の地に拠地をえている。


?河内政権の和邇氏・息長氏
ブログ?「飛鳥時代~「河内飛鳥」~」で書いた、大阪府の東南部に位置する、羽曳野
市・藤井寺市を中心に広がる古市古墳群は、(4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ15
0年の間に築造された。)和邇氏・息長氏に出自する皇后をもち、この地域が和邇氏・
息長氏の河内での氏地であることから皇妃・皇子・皇女墓を含めて、この地を「奥津城
」としている。

?息長氏
近江水系を支配した息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす

息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心
とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。

天武天皇の八色姓においては応神天皇系の真人であり、重要な氏族。真人は、八色の姓
の最高位の姓で基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた
と言われているが実際には、天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけ
の意味ではなく、壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八
色の姓の最高位である真人姓を与えた。

息長氏と継体天皇
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である真人は基本
的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。

応神天皇系  息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系  三国真人・酒人真人
宣化天皇系  多治比真人・為名真人
敏達天皇系  大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系  当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系  三嶋真人
天智天皇系  淡海真人
天武天皇系  高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上
真人


『古事記』応神天皇
継体天皇の祖父 意富富等王は次の八氏族の祖であると記されている。
息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏

という事は、天武朝において息長氏が継体天皇の親族として評価されていた。

応神天皇
 |
若野毛二俣王
 |
意富富等王
 |
 |-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
 |-筑紫末多君・布施君
 |-継体天皇

天武朝以前には
舒明天皇の 和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこ
と)」
その意味は、「息長氏が養育した額の広い(聡明な)天皇」と読むことができる。

『日本書紀』皇極天皇元年十二月条
「息長山田公、日嗣をしのび奉る」
とあり、舒明天皇の殯(もがり)において、息長山田公が「日嗣」(皇位継承の次第)
を 弔辞したという。


舒明天皇の父親は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫の(息長氏の)実家である。

息長真手王(おきながのまてのおおきみ)
        |
敏達天皇ーーー広姫
     |      
  押坂彦人大兄皇子
     | 
    舒明天皇
     |ーー|
    天智  天武


息長真手王(おきながのまてのおおきみ)は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻
績郎女・広姫。娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫「敏達天皇」の
皇后・広姫である。

意富富等王の後裔が名のったという「息長」を冠する名前は、それ以前にも見られる。

倭建命
 |
息長田別王
 |
杙俣長日子王 ( くいまた ながひこのみこ )
 |
息長真若中比売ーーー応神天皇
        |
     若野毛二俣王
        |
      意富富等王
        |
        |-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
        |-筑紫末多君・布施君
        |-継体天皇


開化天皇
 |
日子坐王
 |
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
 |
迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
 |
息長宿禰王ーーー葛城之高額比売
      |
    大多牟坂王
    息長帯比売命(神功皇后)
    虚空津比売命
    息長日子王


「開化天皇の系統」と「倭建命の系統」とは結局の所意富富等王でつながるという事だ

開化天皇        倭建命
 |           |
日子坐王       息長田別王
 |           |
息長帯比売命(神功皇后) |
 |           |
応神天皇ーーーーーーー息長真若中比売
       |
    若野毛二俣王ーーーー百師木伊呂弁(長真若中比売の妹)
       |
     意富富等王

塚口義信氏によると
「開化天皇の系統」の山代之大筒木真若王と迦邇米雷王は
山代之大筒木真若王右矢印山背国綴喜(つづき)郡
迦邇米雷王右矢印山背国蟹幡(かむはた)郷
などの山背南部の地名が多く登場する事からこの系譜の伝承荷担者集団を「山背南部の
一族(集団)」であるとした。
また、息長帯比売命(神功皇后)の母方は『古事記』によると新羅の王子「天之日矛」
の末裔にあたる。
息長帯比売命(神功皇后)応神天皇を天之日矛系渡来人の後裔とする伝承はかなり古い
時代から伝承されてきたものであったと推定している。応神天皇を「山背南部に移住し
ていた和邇系のヤマト政権(畿内政権)を構成する有力な政治集団の男性」と「山背南
部に移住していた朝鮮半島系渡来者集団出身の女性」が婚姻して生まれた子息であった
と推測している。

また、息長氏については「天之日矛」が一時期滞在したという伝承をもつ「坂田郡阿那
郷付近」に居住していた「天之日矛」の人物と、若野毛二俣王・意富富等王系の人物と
の婚姻によって生まれてきた可能性を指摘している。

 


?和邇氏
【若狭から大和への経路】

和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。そのルー
トは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、椿井大塚山古墳のあ
る京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門かまたは服属
する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。

石原氏によると
ワニが古代朝鮮で剣あるいは、鉄をいみするところから製鉄に関わった氏族であり、琵
琶湖の和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄の遺跡が残っていると述べている。

ブログ?近江国~近江の豪族~
真野郷を除く滋賀郡三郷に百済系漢人らが勢力を張ったのは6世紀以降のことで、それ
以前はこの郡内全域に和邇氏の勢力が及んでいたと考えられる。と書いた。

近江では上古の早い時期からかなり強固な基盤を築き、滋賀郡を中心に繁衍を見せる。

5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族であり、出自
については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説が
ある。

本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。
5世紀後半から6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。
春日・帯解・櫟本には、和邇氏及びその同族氏族が多く居住していた。
北から春日・大宅・小野・粟田・櫟本・柿本の各氏族が連なって居住していた。


遣唐使、遣隋使を多く輩出している典型的な海人系の氏族
「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」大和の有力な豪族として応神天皇以後7代
(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされてい
ます。

和邇氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたらし
ひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。

『古事記』孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記さ
れています。

東大寺山古墳(竹林) 櫟本高塚遺跡(公園) 和爾坐赤坂比古神社 和爾坂下 伝承地道
, ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族。

和邇氏の一族には、水運・港津管掌、近江統轄といった職 掌がみられる。


【近江を制するものは天下を制する】

「近江を制するものは天下を制する」
と言われ、権力者の争奪の的となった。
古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。


?鉄鉱石精 練
日本における精練・製鉄の始りは 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭 鉄鉱石精練法とし
て大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が日本で製鉄が
行われたとの確認が取れる初期の製 鉄遺跡と言われている。

滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が始められてい
た。
滋賀県埋蔵文化財センターでは、7 世紀~9 世紀の滋賀県製鉄遺跡が 3 地域に分けられ
るという。

伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、と
しています。

1 大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
2 西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓 ?鉄鉱石を使用
3 高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓 ?鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を使用して
現地で製鉄して いたと考えられる。


マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し
貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、近江国 で有力な官人・貴族た
ちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山をめぐる争いを記していま
す。

天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたよ
うで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。

野坂山地の磁鉄鉱は、、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、「大師藤原
恵美朝臣押勝に、 近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との記載があり、浅
井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であった
ことが知られます。


鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度で
あるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の
技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金
生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれている。

岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法で造った藤原兼正氏作の刀
が御神体として納められている。(同町の表佐(垂井町表佐)には通訳が多数宿泊して
いたという言い伝えがある。
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれてる。

ブログ?美濃国一宮 南宮大社(なんぐうたいしゃ)


?砂鉄精練
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀には岩鉄
製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国近代製錬は、砂
鉄製錬と同義といってよい。

岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退してい
ったとみられる。

砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と良質な砂
鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。

【継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住】

継体天皇といえば、6世紀初頭、越前の武生から大和に進出する際、三尾氏、坂田氏、
息長氏、和邇氏など近江の豪族達の女を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出
路を確保するとともに、その鉄資源の確保をねらっています。

近江国高島郡
 継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住していた。
 三尾君氏、都怒山臣(君)氏
 熊野本古墳群(新旭町)、田中大塚古墳群(安曇川町)

鴨稲荷山古墳
古墳の築造時期は6世紀前半と位置づけられている。当地で生まれたとされる継体天皇
(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した
豪華な副葬品の中には、朝鮮半島の新羅王陵のそれとよく似ていものがあり朝鮮半島と
の強い交流が見られる古墳である。

『日本書紀』継体天皇即位前条によると、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王は近江
国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代
継体天皇)を儲けたという。

継体天皇の在位は6世紀前半と見られており、三尾氏とつながりがあったことは同氏か
ら2人の妃が嫁いだことにも見える。そうした『日本書紀』の記述から、本古墳の被葬
者としては三尾氏の首長とする説が広く知られている。
近くには白髭神社がある。

【滋賀県高島郡の鉄生産の特徴】
1、古墳時代後期(6世紀)
2、奈良時代には鉄生産が盛んに行われていた
3、製鉄原料として、主に鉄鉱石を使用している
4、墳圏史料に高島郡の鉄生産に関連する記事が記載されている
5、奈良時代の鉄生産に当時の有力者が関与している(藤原 仲麻呂)
6、製鉄遺跡群が存在していること


高島郡マキノ町のマキノ製鉄遺跡群
北牧野と西牧野の二つの古墳群が大規模である。


鉄の歴史3

金屋子神社他、奥出雲タタラの里
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/mononoke/monolink11.htm
http://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/environmental-facts/part-3/
奥出雲地方で盛んに行われていた「鉄穴流かんなながし」は、山を切り崩して土砂を流
し、それに含まれる砂鉄を採取する方法です。

この鉄穴(かんな)流しは、山を切り崩すことはもとより、大量の土砂を河川に流すこ
とから、
流域の環境に大きな影響を与えました。川底が上がり洪水を起こしやすい「天井川てん
じょうがわ」(川底が周囲の平地よりも高くなった川)となることや、流域の農業用水
路が埋まることなどは負の側面です。その一方で、先人達は鉄穴流しの跡地を棚田に造
成したり、川を流れ下った土砂を利用して新田開発を行うなど、跡地や土砂を有効に利
用してきました。
http://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-4/
中国地方では、古墳時代後期から箱形炉による製鉄が一貫して続けられ、おそらく室町
時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代
の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み
重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているた
たら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自
の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。

中国地方における製鉄遺跡の概要

6世紀後半から11世紀頃まで――吉備きび国に集中
 中国地方のたたら製鉄遺跡は、石見いわみ(島根県西部)、出雲いずも(島根県東部
)、伯耆ほうき(鳥取県)、備前びぜん(岡山県南東部)、備中びっちゅう(岡山県西
部)、備後びんご(広島県東部)、美作みまさか(岡山県北東部)、および播磨はりま
(兵庫県西部)の各地で確認されています。この地域では、6世紀後半から11世紀頃の
製鉄遺跡が現在のところ70余り確認されています。中でも、備前、備中、美作と備後に
またがる地域、古代日本においては吉備きび国にあたる地域にその大半が集中していま
す。

11世紀から16世紀頃まで――中国山地周辺、石見・出雲に移動
 これに対して、11世紀以降16世紀ころまでの製鉄遺跡は、石見、出雲、伯耆、安芸あ
き(現在の広島県西部)、備中、美作、播磨で多数確認されています。それまで大半を
占めていた吉備においては、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消し中国山地の備
中北部と美作に限られる一方、現在の島根県にあたる石見・出雲地域が多くを占めるよ
うになります。
 たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。すなわち、古代におけ
る初期の製鉄では原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世
に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは砂鉄のみが用いられていることです。

近世(江戸時代初期以降)――「近世たたら」の確立へ
 近世たたらの製鉄遺跡は石見、出雲、伯耆、安芸、備後、備中、美作、播磨などの地
域で多数確認されますが、これは11世紀以降に製鉄遺跡が展開する地域と重なっており
、たたら製鉄の生産地域は、古代ではなく、古代末から中世にかけて形成されたものを
継承していることを示しています。
 そして、17世紀末の天秤鞴の発明という技術革新を経て、たたら製鉄は完成されたの
です。


鉄の歴史2

製鉄の原料には鉄鉱石と砂鉄がありますが、私はてっきりと砂鉄を原料とする製造方法
のほうが古いのだと思い込んでいました。

ところが、≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流≫だったのです。
≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、
鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。≫
日本では、鉄鉱石はすぐに枯渇してしまったようです。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-11.html

≪古代吉備を探るⅡ
連載第11回 限りある資源を大切に
文/岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武≫
 ≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く 吉
備」たらしめたと言えるでしょう。≫
 ≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが
、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。つまり、文字史料
から変化が読み取れた平安時代は、ちょうど原料が鉄鉱石・砂鉄両用から砂鉄のみに一
本化する過渡的段階にあたると判断できます。≫
 ≪砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で
大量に採取できます。「たたら」が中国山地を中心に発展した背景には、砂鉄の豊富な
存在があげられます。対して鉄鉱石は産出場所・量が限られるため、枯渇(こかつ)が
生産の枷(かせ)となります。713年、備前北半部の花崗岩地帯が美作として分国され
ました。分国のせいで備前では鉄鉱石が枯渇した時に、代わりの原料となる砂鉄が十分
に調達できなくなったと言えます≫

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
≪弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったとい
うのが現在の定説です。≫
しかし、≪・・・5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

≪弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明する
ため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。

≪いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かで
しょう。≫
≪この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょ
う≫

引用は不充分でしょうが、確認したいことは次のことです。
① 日本では、製鉄は弥生時代後半から始まっていたようだ。
② 鉄原料は朝鮮半島に依存していたようだ。(ただし、日本にも遺跡はあった)
③ 日本では、製鉄の原料は鉄鉱石から砂鉄に移行した。


日本には鉄鉱石はそれほど埋蔵されていないようです。
たとえば、前回問題にした勿禁(ムルクム)の鉄鉱山は、今では採掘は中止されている
ようですが、最近まで行なわれていたようです。
最初に検索した時に、渡来人の研究をしている方たちの掲示板
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
の、製鉄集団の渡来’(2006年3/6)を目にして「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅」を知
りました。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/kankoku.kaji.htm

・佳村里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山・・6世紀・・製鉄遺跡は共通して山の端で平
野が開ける小高い丘に立地している。
・凡魚里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山
・≪勿禁邑鉄鉱山・・・慶尚南道 梁山
洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
最近まで採鉱されていたが今は採算が取れず鉄鉱石は止めている、との事だった。≫

梁山(ヤンサン)の製鉄遺跡は6世紀のものだそうですから、勿禁邑鉄鉱山はずいぶん
と長いこと稼動していたことになります。それでは余りに長すぎますから、当時の鉄鉱
山は別の場所だったかもしれません。
それにしても、鉄鉱山は梁山(ヤンサン)地区にあったのでしょうから、日本の吉備の
埋蔵量と比べると、雲泥の差であったことは想像できます。

鉄は当時大変な貴重品で、戦略物資だったようです。
弥生時代末期以降の鉄器の普及は朝鮮半島の鉄鉱石と技術者のおかげかもしれません。
ということは、古代日本にとって南朝鮮が領土の一部ということは、経済生産活動に構
造上必要なことであったといえるでしょう。
失うようなことがあれば、大変な打撃となるわけです。
技術者だけを連れてきても、日本では鉄鉱石の埋蔵量が少ないために、すぐに壁に突き
当たるはずです。

 白村江の敗戦により、日本は朝鮮の鉄鉱石を原料に使用できなくなり、(あっという
間に、わずかな日本の鉄鉱山は枯渇し、交易で鉄鉱石または製品を輸入することはでき
たにしても)豊富に存在した砂鉄に製鉄の原料を移行せざるを得なくなったのでしょう

 技術革新は行なわれたのでしょうが、最初は大変だったでしょう。
石油が入らなくなり、石炭に戻ったようなものだったかもしれません。(わかりません
が、多少はそういう状況に近かったのではないでしょうか)
 古事記の神功皇后のところでは、朝鮮・新羅が宝の国とされていました。
宝とは金とか銀とかの貴金属を指しているのかと考えましたから、ずいぶんと大げさな
表現だと感じていました。しかし、鉄が宝だったと思えば納得できるのです。

さて、日本列島を揺るがす製鉄技術の導入は、247年の戦争が契機になったと思われま
す。(5世紀以前に製鉄は始まっていたはずです。大きな技術革新は5,6世紀だとしても

当時、北九州は卑弥呼と卑弥弓呼の奴国があり、南朝鮮と緊密な関係で、既に製鉄文明
を謳歌していたでしょう。(たぶん)
関門海峡はまるで封鎖されたような状況にあり、(実際に封鎖していたというのではあ
りませんが、思いつきでいいますと、難民の流入があってもおかしくはありません。ち
ょっかいは熊襲だけではなかったかもしれません)瀬戸内以東と北九州の格差は大きか
ったと考えています。
この247~250年ごろが、日本列島の寒気の底でした。穀物生産も瀬戸内以東では最悪で
あったでしょう。
この格差是正がこの247年の戦争だったといえるのです。(今から思えば)

(以前に書いていますが、この戦争は、「記・紀」では『神武東征』として書かれてい
ますが、実際の進路は逆で、スサノヲと兄・五瀬命が明石・須磨から北九州・奴国に攻
め込んだものです。スサノヲは正面衝突では敗北しますが、奇襲によって、卑弥呼・卑
弥弓呼を破ります。
卑弥呼・卑弥弓呼は亡くなり奴国は乱れますが、卑弥弓呼の娘・トヨが卑弥呼になり収
まります。しかし、スサノヲは卑弥呼トヨを孕ませ(妊娠させ)たために、御子を産む
ために卑弥呼トヨは瀬戸内海を渡りスサノヲの元に行こうとします。・・・と同時に列
島は温暖化に向かいます。・・以前に書いています。付け加えると、卑弥呼と同時かど
うかはわかりませんが、農耕集団、製鉄集団も加わっていたのではないでしょうか)

 スサノヲは、後に半島に行ったものと思います。(以前は行く必要がないと考えてい
ましたが、その必要はあったでしょう)
 どういう形態になったかは、わかりませんが、南朝鮮を押さえたはずです。そうでな
いと、鉄が日本に流入しないでしょう。
 鉄鉱山、製鉄所、技術者などを支配しようとしたはずです。
 スサノヲが朝鮮に渡っていたなら制圧していたはずです。(支配形態としてはゆるい
ものだったかもしれませんが)

 大和朝廷の朝鮮半島・任那に対する執着は、鉄に起因するところが大きいのではない
か、というのが今回の仮説です。
 まとめると、概要文のようになります。
「古代日本での、製鉄の原料は、鉄鉱石から砂鉄に移ります。日本には鉄鉱石の埋蔵は
少量でしたが、砂鉄は豊富にあったからです。
しかし、日本の鉄器文明の最初の契機は、朝鮮半島の鉄鉱石だったようです。
247年の北九州でのスサノヲと卑弥弓呼の戦争と、663年の白村江の戦いは、鉄に対する
希求の表れだったと思えます。」

ーーーー
1.製鉄の起源を探る意味:製鉄の起源と日本文明の起源

 日本の古代文明の有り様は、謎のままで明らかになっていない。その国の歴史が未だ
かつて明らかになっていないのは、世界中でも日本だけの特殊な事態である。
 民族の歴史が不明であるという事は、その民族の本当の意味でのアイデンティティが
未確立であることを意味している。そのため、その民族は国際社会では確固とした行動
をとれないばかりか、国内的には不測の事態に対応できない構造を形作る。
 一般に人類の歴史の発展過程は、多くの場合サイエンスとテクノロジーの発展過程と
対応している。私は、「火を使って自然物を加工する」科学技術の獲得をもって、文明
の端緒と考えている。
 日本の古代文明は、この火を使って自然物を加工する科学技術を、人類社会で最初に
手に入れた文明である。1万6千年前から弥生時代まで、約1万4千年間も作り続けら
れた縄文式土器がそうである。
 また、日本古代文明の特殊性は、青銅器と鉄器が弥生時代から並立して存在している
ことである。人類史の中では、鉄器時代は青銅器時代の後にやってくる。なぜなら、こ
れはサイエンスとテクノロジーの発展過程の問題であり、科学技術的には青銅器の後に
しか鉄器は存在できなかったからである。
 したがって、日本古代文明の様相を探り、その謎を解き明かすには、本来文明の発展
過程に対応しているサイエンスとテクノロジーの傾向を分析する必要に迫られる。
結局、製鉄の起源を探る意味は、製鉄の起源から日本古代文明の起源を解き明かす役割
と可能性をいうのである。
2.人類の製鉄の起源の概略:中国の鉄の起源と発展過程

 人類社会で製鉄技術を最も早く獲得し見事に実用化したのは、中国の古代文明だと考
えられており、現在これが定説となっている。この節では、まず中国の鉄の起源とその
発展過程を整理することにより、人類の製鉄の起源の概略を示したい。 
 中国の研究者によると、中国では紀元前14世紀の隕鉄が見つかっており、これはヒ
ッタイトの紀元前12世紀を上回るという。製鉄技術の古さを言わんとしているが、恒
常的な製鉄は、紀元前7世紀頃から始まったと考えられている。
古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である。
この原理は・・・富鉄鋼(赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱)と木炭を原料として、椀型の炉に入
れて通風し、1000度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術で、職人は、
炉の中から、半熔解状態の海綿状の塊をとりだして鍛造し、性質を改善し器に鍛え上げ
ていた。・・・と分析されている。この製法は、中国を除くと14世紀後半まで、世界
中で続けられていた普遍的な製鉄技術である。
その後、中国では紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄の発明があり、中国が世界で初めて
銑鉄を作る技術を獲得した。この作り方は、高い炉を造り、送風の強化によって炉内温
度を上げ(1146度C~1380度Cが予測される)原料の鉱石を溶かしたと考えら
れている。
 紀元前3世紀に個体脱炭鉄(脱炭法の開発)=白銑鉄を酸化させて脱炭し、その後さ
らに銑鉄版を脱炭し鉄鋼を作り、次に再加熱鋳造し、各種の器物を製作する技術を開発
している。
紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。これは、融化した銑鉄に送風し、1150度
~1200度に熱したままでかき混ぜて酸素を送り込んで炭素を取り除く方法である。
紀元後2世紀には、ドロドロに溶かした液体の銑鉄と錬鉄を混ぜ合わせて侵炭して鋼に
する技術を発明した。(炭素濃度をコントロールする技術)
 中国は、永い間これらの製鉄技術の国外流出を防いでいたが、製鉄資源の枯渇ととも
に東南アジアやシルクロードを逆送し、やがてヨーロッパにも伝わっていった。スウェ
ーデンで発見されたヨーロッパで最も古い製鉄炉は、中国の炉の形をしている。
 この概略をさらに暦年的に整理すると以下のようになる。
 ・紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄が発明された。
 ・紀元前3世紀に、固体脱炭鋼が発明された。
 ・紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。
 ・紀元後2世紀頃、製鋼技術が発明された。
 最後の紀元2世紀後の技術が、現在の溶鉱炉による製鉄技術として、世界中に普遍化
している。

3.サイエンスとテクノロジーの発展過程:科学的法則性

 ここで重要な問題は、これらのサイエンスとテクノロジーの発展過程が、どのような
様相の中で起こったかを分析することである。
これらの科学技術の発展過程、いわゆるなぜ中国で最初に銑鉄技術が出来上がったのか
という原因について考えられる要因は、以下の要素と順番に整理できる。

①長期にわたる豊富な製陶技術があったこと。
中国では新石器時代から製陶技術が発祥したと考えられている。煙突と煙道が設けられ
ているものは、最大1280度の高温環境を作れたと考えられている。
②青銅鋳造技術が高度に発達していたこと。
紀元前14世紀頃(商・周)時代には、すでに大型の青銅器が作られている。稀少で高
価な銅や錫にかわって、安価な鉄を使う技術的基礎が作られた。
③これらを技術的基礎に白銑鉄の発明と鋳鉄のもろさを改良する焼き鈍しの技術を生み
出した。銑鉄の広範な使用が始まった結果、白銑鉄、脱炭鋳鉄、可鍛鋳鉄の生産が大量
に可能になった。

つまり、鉄器の制作技術の前段には、青銅器の制作技術があり、さらにその前段には陶
器の制作技術があったことが分かるのである。これは、サイエンスとテクノロジーの発
展過程における科学的法則性に一致する状況で、下位の技術から上位の技術へと、順番
に科学が発展していることが系統的に示されている。
前にも述べたが、人類社会全般には、青銅器時代から鉄器時代がやってくるのはこの科
学的法則性に基づいている。にもかかわらず、日本の場合だけ弥生時代から青銅器と鉄
器が並立していることは、人類社会全般のサイエンスとテクノロジーの発展過程におけ
る科学的法則性に反する事態が起こった可能性を示唆している。
4.日本の製鉄起源をどう求めるのか:古代文明の様相を探る

 それでは、日本の場合、製鉄起源をどう求めればよいのか。あるいは、製鉄技術の面
から、日本の古代文明の発祥の様相をどう分析すればよいのかの問題提起を行いたい。
 現在、蓋然性が伴うと考えられる要素を以下に示した。しかし、これは全く順不同で
あり、優先順位をつけたものではない。

○弥生時代から製鉄が始まった(青銅器の技術とともに輸入された)
 前項で整理したように、日本の鉄器は弥生時代から確認されている。しかし青銅器と
鉄器が並立していることにより、一般的な科学的法則性に反する事態となっている。し
たがって、もともと製鉄技術を持っていなかった日本古代文明に、中国の2つの技術(
鉄器と青銅器)が伝わり、日本でも製鉄が広まった。この時、同時に2つの技術が伝わ
ったので、日本の場合は段階的な発展過程を経ず、青銅器と鉄器が並立することになっ
た。

○世界中の文明と同様に、日本にも古代鉄の製法があった
 古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である
。この技術は、赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱と木炭を原料として、椀型の炉で通風し、100
0度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術なので、日本の古代文明でも十分
に可能である。世界中では、14世紀後半まで続けられていた普遍的な製鉄技術である
から、日本にもこの「低温製鉄法」が存在し製鉄を行っていた。

○縄文式土器の製造技術の上に、世界最古の製鉄技術が存在していた
 日本文明が世界最古で人類初である可能性は、縄文式土器の制作による。この土器は
1万6千年前から作られていたので、中国の製陶技術より桁違いに古い時代から、日本
には「製陶技術」が存在していた事になる。中国での製鉄技術の段階的な発展過程から
考えれば、それより古い時代から「火を使って自然物を加工する」科学技術を持ってい
た日本古代文明の方が、中国より早く製鉄技術を獲得していたのではないか。

これ以外にも、製鉄の起源を巡る仮説はたてられるかも知れない。だが、いくつかの論
点は整理することが出来る。

①まず、いずれの場合も、原材料(鉄資源と燃料・木炭等)無しには、語れないであろ
う。どの製鉄方法(仮説)をとるにしても、大量の原材料が必要になる。万物の全ての
事象には、必ず原因があって結果が存在する以上、鉄器の制作には、莫大な原材料の議
論が前提になると考える。

②現実的には考古学的発掘成果から「鉄器」や「制作跡」が出土することが望ましい。
しかし、数千年や数万年単位の古代遺跡からの鉄資源の報告は確認出来ていない。また
出たとしても、現在大陸や半島から持ち込んだとの理解(定説)があるため、検証の対
象から外されている可能性がある。

③神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証の対象とすること。これまで、この
分野はほとんど研究されてこなかったといっても過言ではない。特に戦後は架空の話し
としてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから
口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性が
ある。最善の資料は「金屋子神話」である。したがい、この分野からのアプローチは欠
かせないであろう。

以上、古代製鉄の起源を探るための概略をまとめた。製鉄の起源を探る意味は、製鉄の
起源から、結局は、日本古代文明の起源を解き明かすことが出来ないであろうかという
命題である。
サイエンスとテクノロジーの発展過程は、ほぼ絶対に文明の発展過程と何らかの形でリ
ンクしている。しかし、日本の古記録である古事記や日本書紀及び風土記には、このサ
イエンスとテクノロジーの記録だけが書かれていないという、極めて不思議な出来事が
ある。
この問題も含めて、製鉄の起源と日本古代文明の起源を解き明かすことができれば、日
本国家最大の課題であり、民族的問題の解決に道がつくであろう。

島根県立大学北東アジア地域研究センター市民研究員
山陰古代史研究会設立準備委員会代表
古代史研究家         田中 文也


鉄の歴史1

弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったという
のが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。


古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)

弥生時代に製鉄はあった?

一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見
はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた

4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶
金技術をもっていた。

最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡で
はないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西
本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわ
れるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するた
め、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。し
かし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもし
れませんね。


島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


日本における鉄の歴史 ①日立金属のHPより
2010年 11月 26日
この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~
4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧
(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたこと
は、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
f0215268_15234950.jpg


弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平
野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます
。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及
ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時
代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材
などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃっ
たんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中
の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど
、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、
首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになりま
す。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が
行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作
の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分
かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭
人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かりま
す。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、
銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭
素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
f0215268_15454941.jpg


●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作
を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時
代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあり
ます。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で
、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの
高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
f0215268_15312430.jpg

発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いな
いでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに
吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によ
れば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れ
るのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

○鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することにな
ります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
は確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったという
のが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
f0215268_15534076.jpg


弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見
はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた

4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶
金技術をもっていた。

最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡で
はないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西
本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわ
れるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するた
め、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。し
かし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもし
れませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
f0215268_15553790.jpg

*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」につ
いて書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったよ
うです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでし
ょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄
を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだった
と思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされ
たものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝
したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を
招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっ
たでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含
まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による
製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以
前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古
来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を
用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を
示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)
と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は
、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを
暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
f0215268_16325.gif

炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9
世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも
広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認めら
れます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。
このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のル
ーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、
12月
f0215268_165091.gif

中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集
中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構
造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m
、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入る
と、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小
舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。


日本の金属の歴史

メソポタミア地方で発見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジ
アなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入
ってきました。

弥生時代
日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。

①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工
③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半
島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や
腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使
い分けも行われたようです。
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込
む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど
、石型から始まっています。
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり
、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り
固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来
るようになります。
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わって
います。
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判って
いません。
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えて
います。

初期の石の鋳型 合わせ型 土型
↑戻る


古墳時代
古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが
、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作
られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地
金を輸入し、溶解鋳造していたようです。
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。
これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に
木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されていま
す。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大
和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であっ
たと考えられています。
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土
していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神
陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」
であったと考えられています。
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたと
いう意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記
事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩していま
す。

1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡 古墳と出土した鉄器
↑戻る


奈良、平安時代
平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていった
ようです。   銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈
良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡として
は岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通
風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代に
なってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、
この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるよ
うになりました。
日本各地への鋳物業伝播
↑戻る


鎌倉~安土桃山時代
群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規
模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されてい
たことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡
菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国
地方一帯に普及しました。
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持で
きなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残さ
れています。
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの
制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術
を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、

第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土
を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型
として鋳造しています。
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがら
くり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。

↑戻る


江戸時代
鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすこ
とが出来ません。
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温
を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸
時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられて
います。
又、鋳造業の栄えた地域としては、

盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢
、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、
広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建
造などが必要となります。
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各
藩で争って築造されました。
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど
建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コ
ークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代
的な鋳物工場が誕生することになります。

たたらの構造 こしき炉

↑戻る
「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(
アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)

鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも
鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における
鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
グラフで概観を捉えてみてください。
画像の確認
↓応援お願いします。
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ
 にほんブログ村 歴史ブログへ

下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地
域だったことがわかります。
画像の確認
この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元
前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器
や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、
前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めて
おり、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、
鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は
朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品
に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。
半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品
質な砂鉄が分布していた。
朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の
鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶
連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始してい
たとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗
できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に
中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一し
たのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。
東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとす
る加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡
からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い
政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く
攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国
の単位になっていた可能性が高い。
伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀
後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との
交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀
前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶
諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を
安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト
朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年
には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。伽耶諸国の歴史(3)
~半島内での進軍と衰退
最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九
州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあ
ったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷
遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺
跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)
では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5
世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。(日立金属HP)
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来
朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工
を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、
鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子
技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。(日立金属
HP)
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である
。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、
東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境
に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくして
いく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、
朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。
鉄の自給が作り出した国家としての基盤

2023.01.18

神戸震災から28ねん、長いのか、短かったのか

日本中を震撼させた神戸震災、あれから28年経った。多くが中年を迎えた。
震災の瓦礫に生まれた青年が話をしていた。
当然、その時の記憶はないが、28年という歳月に彼は何を学び経験してきたのだろう。
震災児のラベルを張り続けられた心情は想像しえない。
生き残った人との断絶はいかなるものものだったのだ。
紙や映像では語れない生の現実はその被害者の心に宿るだけだろう。
人は故郷を持って生きている。
だが、それが一瞬なくなる。根無し草なった人も多い。
そこに人生は変わる。

集合的無意識、その不可思議

集合的無意識という人間の奥底にある共通意識の存在を明確にしたのは、ユングである。
彼の「人間と象徴」「個性化とマンダラ」などを読むと浅学非才ながらその存在に
わずかながらではあるが、納得感が生ずる。身近な例で言えば、絵画や造形作品の
美しさにふれた時の人々の反応ではないのだろうか。10数か国それも一刻の訪問では
あったが、各地の風景、情景に接した時の言い知れないつながりや違和感を感じない
その場の雰囲気なのではないだろうか。ゴッシク建築の中で感じる荘厳さへの想いや
仏像に対峙した時のうける印象や感じの差異なき感覚がその1つかもしれない。

ユングはさらに深く人の心の成り立ちまで追求しているが、才なき私はそこまでは無理だ。
だが、集合的無意識を一番近くでそれを感じるのは、やはり仏像を拝する時の心根である。
そしてそれがわたし的には、仏像に皆が魅かれる根本的な要因ではないか、と勝手に
思ってもいる。火影のなかにわずかに忍び込む光を映し出している仏像を拝している
人々の心根には、その一瞬に古代から流れ来たるイメージが見えない糸を手繰りだし
つなぎとめている。そのそこはかとない温かさと絹衣に包まれる様な思いがまたこの場所に人々をいざない来たる。白洲正子の「十一面観音巡礼」「かくれ里」などに時代を超えた
人気があるのは、その表れの一つでもある。また、神話がその成否はともかくとしてわたしたちの心根に強く響き染み込むのもそれなのであろう。更には、芳賀日出夫の「日本の民俗」等にのっている人々の写真が私の気持ちを揺り動かすのも奥底に眠る何十代もの記憶との共鳴から生まれるのではないだろうか。

ユングの「個性化とマンダラ」に以下の一文がある。
「元型的人格とその行動を患者の夢、空想、妄想を手掛かりにして注意深く研究してみれば、それが神話的イメージと広い直接的な関係を持っていることを強く感じさせる。
、、、、、
それらの内容を、すなわちそれらの具体的な現れである空想の素材を調べてみると、そこには多くの太古的「歴史的」な関連が、すなわち元型的な性質を持ったイメージが見いだされる。この特有の事実から、心の構造の中でアニマとアニムスが位置している「部位」を推論することが出来る。それらは明らかに無意識の中のかなり深い層、すなわち私が集合的無意識と名付けた、系統的発生的に言って深い層の中に、生きており機能している。この位置づけによってそれらの奇妙な性質の多くが説明される。すなわちそれらは遠い過去に属する未知の心の生を、かりそめの意識のなかへもたらすのである。それは我々が知らない祖先の精神であり、祖先の考え方や感じ方、彼らが生や世界や神々や人間を経験した仕方である。この太古的な層があるあるという事実はおそらく、「前世」からの生まれ変わりや記憶が信じられていることの基礎である。身体は系統的発生の歴史の一種の博物館であるが、心も同じである。」
ここで言っている「太古的層」がそうなのでろうが、多分それは時の経過の中で、堆積される層に違いがあるように集合的無意識の少しづつ変容が加えられるのではないだろうか。
私たちは個人と言う特性を持ちつつも、生きている時代の時代精神、所属している集団の
意識も備えているものであり、そういった普遍的意識が想定できる。時代精神という
普遍的意識は、その時代の前の時代を土台にして成り立っているものであるから、歴史の
すべてが普遍的無意識となり、今の問題だけではなく、過去、しかも私たちが生きていない過去までも、見ていくことが肝要なのであろう。生きていない過去までもわたしたちの
心の底の底に積み重ねられている。そしてそれは今ある自分をさえ支配している。

ユングがこの集合的無意識の存在に気が付いた1つには、曼荼羅があったという。
曼荼羅は仏教の世界観であり、長く続く人の心に安寧を与えてきたことからも、
その存在は納得される。

同じく、「個性化とマンダラ」には以下のような記述もある。
「祭式用のマンダラが常に特別な様式と、内容に関しては限られた数の典型的なモチーフ
しか示していないのに対して、個人のマンダラはいわば無限といえるほどたくさんの
モチーフやシンボル的表現を利用している。それらを見れば容易に分かるように
それは個人の内的外的世界体験の総体を表現しようとしているか、それとも個人の
根本的な内的中心点を表現しようとしている。その対象は自我ではなく、自己である。
自我は意識の中心にすぎないのに対して、自己は心の全体そのものであり、
意識と無意識の両方を含んでいる。個人のマンダラがきまって明るい半分と暗い半分
とに分割され、それぞれの典型的なシンボルをともなっていることが稀でないのは
まさにそのためである。この種の歴史的な例はヤコブ・ベーメの論文「こころに
ついての40の問い」のなかにあるマンダラである。それは同時にそういう形に
描かれた神の像である。」

この本に載っている様々なマンダラの図は、視点を変えるとこのようにも考えられる、
と言う点で中々に面白い。もっとも、マンダラ図に対するユングの解説をそのまま
受けいるには、抵抗のあるものもあるが。

更には、ユングが集合的無意識を提唱するはるか以前から仏教の考えの中に、唯識思想という考えがあった。それは、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)
に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。仏経書によれば、
八識説の概念は、まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識であると考える。
感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。
これは総称して「前五識」と呼ぶ。その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて六識
または現行(げんぎょう)という。その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が
想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は
意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。さらに
その下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識
を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると
思っているものも生み出していると考えられている。
この阿頼耶識(あらやしき)が集合的無意識に当たるのであろう。そして、仏教では
阿頼耶識(あらやしき)を如何に自身の行為、行動に活かしていくのかが、課題として
捉えていることが面白い。例えば、「人生で何が一番大切か」と言うことを絶えず
意識している人は少ないが、一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちにそのような価値観
によって支えられ人生を作って行く。しかもそれは、単なる個人レベルではなく、もっと
広い共通意識をベースとしている。
とはいうものの、個人的には、以下のような意識行動が必要なのであろう。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る

更には、ビルやアスファルトなど人工物に覆われ自然と言われるものが覆いかぶされ、
情報のみが効率よく伝わることを使命とした世界が急激に広がる現実では、この共通的
意識、無意識にも厚い蓋がかぶされ、社会は表面的に蓄積された情報で動かされる
人工的世界のみとなっていく。それが真に望ましい社会なのであろうか。

2023.01.16

私の影

この二週間眠い。寝不足が続いていた。
すぐに大寒だ。でも、意外と暖かい、それが原因なのか。
眠気に頭も変調を起こし書く文章にも冴えがない。
コロナ第八波に高齢者は死を招く。
わたしもその何100万人の一人だから死の川縁に立っているのは間違い。
でもお迎えが見えない。
死はどんなもの、死後はあるの?様々な考えが行きかうが一向にそのままだ。
死は私の堆積した悪行や善行を断ち切るはず。

私の影

わたしたちは普通自己の存在は1つしかないものと考えている。それは普段の行動でも
思考でも自分自身とは相いれない何かに気づかず過ごし、そのような局面になったとしても思い違い程度としてすましていることがほとんであろう。つまりもう1人の自分が
いるなどと思うこともない。でも、心理学では少し違う見方がある。「影」の存在を
認めている。そしてそれが如実に表れるのが「夢」だとも考えている。
たしかに、夢の中では、自身が意識している自分と全く正反対の人間が登場することが
よくある。
たとえば、決断や行動を素早くできると思っているが、時に気弱で優柔不断な男の夢を
見たことはないだろうか。個人的には、時に朝目覚めた時、何か不可思議な自分が
板という記憶がある。記憶もそれが何度か紡がれていくとさすが鈍感な私でも夢の
人間は誰なんだ、と思うことがあった。

河合隼雄の「影の現象学」はその点で面白く読める。
ちょっと以下の文はいかがであろうか。
「まず、自我は影の存在を意識していないが、影によって何らかの影響を受けている
場合がある。こんな時、われわれは思いもかけない失敗をしたり、物忘れをしたりする
ことが多い。これはわれわれの心の中の小さいトリックスターの餌食になっているとき
であるとも言うことが出来る。
言ってはならないことことをつい言ってしまったり、厳粛な場面で笑いが込み上げて
きたりする。これを逆に言うと、われわれはあまりにも馬鹿げた失敗を繰り返すときには、
どのような類の影が自我に働きかけようとしているのかについてよく考えてみることである。
そこで、相手を明確にすることができれば、後に述べるように、われわれはそれと関係
が持てるのである。影が普遍的なものに近くなり、働いている層が深くなるほど、
自我のうける影響は不可解なものとなる。それは幻覚となったり、妄想となったりする。
そのインパクトの強さのため、われわれは外界と内界の識別さえ難しくなるのであろう。
このような自我と影の関係は、昔話や神話の表現によると、正体不明の怪物によって
国や町などが脅かされている状態ということになるだろう。
ここで影の力が強くなり自我がそれに圧倒されるときは、完全な破滅があるだけである。」

このように自身の行動を考えたことはないだろうか。
さらに、ある夢の分析から少しその意識が深まるのでは。
「25歳男性の夢
わたしの兄が何か反社会的なことをしたため、逮捕されることになる。夢の中では、
それは武士の時代のようになっていて、兄は拘引されるより切腹を希望する。わたしも
それを当然の琴と思っている。ところが、切腹の時になって私は「死」を意味することが
はっきりとわかり、必死になって兄をとめる。「死なないで、ともかくどんなことが
あっても生きていれば、会うこともできるし話し合いもできる。死んだらおしまいだ。
死なないで」と私は叫ぶ。
この夢を見た人は、社会的な規範を守り、その線で合理的に割り切って生きていく人
であり、その兄は何とか現状を打ち破り法律を曲げてでも状態をよくするために
行動する人であるという。この対照的な性格を示す兄が影であることは言うまでもない。
兄が反社会的なことを犯したという点にもそれが表されている。しかし、夢の舞台
を「武士の時代」に設定するという巧妙な手段をとって、本人と影との間に役割の変化や
関係が生じてくるようにする。、、、そして最後の瞬間にこの人の態度は逆転し、
社会的通念に反して、生きることを兄にすすめる。彼はここで社会的規範を破って
自分の心の中に流れる感情に従って行動し、影の死を救う。「生きている限り話し合える」
と彼が叫んだことも意義が深い。、、、、」

卑近な例として人格者と呼ばれる人の子供がどうしようもない夜の外れものだったり、国や集団の影をいけにえ的に弱いものに押し付けたり、自分の影を外向的に照射するような行動を時折見かけるが、これも「影の投影」という考えがあるという。

「われわれ人間はだれしも影を持っているが、それを認めることはできるだけ避けようとする。
その方策としてもっともよく用いられるのが、「投影」の機制であろう。
投影とはまさに自分の影を他人に投げかけるのである。しかし、投影と言っても誰かれなく相手を選ばずにするのではない。その意味において、投影を受ける側も投影を引き出すに値する何かを持っていることも事実である。
自分の周囲にいる「虫が好かない」人を取り上げ、それをひたすら攻撃する。自分は
お金のことなどあまり意に介してないのだが、同僚はお金にやかましすぎる。、、、、
結局は、この人が自分自身の影の部分、お金の問題を同僚に投影していたことが分かり、
この人がもう少し自分の生き方を変え、影の部分を取り入れていくことによって問題が解決された。」

このように影の世界、この存在を意識しておくだけでも自分の行動に幅が出るとも思える。また、2つ目の文例のように影と自分の会話、内面での会話、がより自分を高めていくということは素晴らしいことであろう。
夢分析なんて単なる心理学者の妄言だという否定的な人には関係ないだろうが、
でも、ことの有無はべつとしても「人間とは面白い生きモノ」であることには同意
してもらえるかもしれない。

2023.01.15

職人の技

くず突く天気にやや曇り疲れあw座にどんど焼のオレンジの焔が薄茶のしめ縄を赤く染めあ上げていく。
映える子供の赤い頬がまぶしい。焔を車輪の要としたそのつながりに酔った。
薄い白い花びらが空よりゆっくりと舞い落ちてきた。
かじかんだ掌を焔に差し出す。
手に乗った小片の雪は瞬く間に消えて小さな水溜まりと変化する。
雪は淡い手作業の技となって自由奔放な作品を作る。
彼らの作品は芸術だ。人はそれに憧れる。
世はウクライナ、価格の高騰、コロナの蔓延、喧しく騒ぎ立てるテレビや新聞。
人は少し賢く振舞わないと悲嘆だけの世界になる。

職人の文化

「職人」という言葉は元々、手先の技術でモノ作りをしている人達のことであり、
大工から伝統工芸の職人、さらには、精密機器メーカーの製造現場で活躍する人
も入るのだろう。緻密な作業を妥協せず、辛抱強くやり遂げる人を指すことが多い。
ここでは、伝統工芸を中心とした職人の話としたい。

司馬遼太郎は、この国のかたちの39章でも言っている。
「職人。じつにひびがいい。そういう語感は、じつは日本文化そのものに
根ざしているように思われるのである。、、、、、
室町末期から桃山期にかけて、茶道が隆盛を極めた。とくに利休が出るに
およんで、茶の美学だけでなく、茶道具についての好みが頂点に達した。
彼らは絵画など純粋美術を好むだけでなく、無名の職人が作った道具という
工芸に、目の覚めるような美を見出したのである。、、、、、、
多くの職人たちは、そういう無償の名誉を生活の目標としてきた。
「職人を尊ぶ国」
と、日本痛のフランク・ギブニー氏がいったが、日本社会の原型的
な特徴といっていい」。

わたし自身もメーカーにいたわけで、旋盤やその他の機械を巧みに操り
そこから生まれ出てくる製品のすばらしさに感動したこともある。
だが、人肌に近い工芸品は、それ以上の感動を与えてくれる。それは「手仕事」
の素晴らしさが目の前で行われているという思いがあるのだからだろう。
京都でも、そのような伝統工芸の職人グループに関わったこともあった。
だが、そこで感じたのは、採算性やビジネスモデルを無視した孤高の
仕事ぶりだった。それが彼らを消滅の危機へと向かわせているのも事実だった。
しかし、30年ほど前に書かれた柳宗悦の「手仕事の日本」は違う視点も
見させてくれた。

以下に、「手仕事の日本」からの記述を示す。
今でも、充分考えさせられる内容であることが分かると思う。そして、
我々が如何に、自然との協奏の中にいる事を、強く感じさせる。さらには、
その担い手が職人たちであることもあらためて思い出させてくれる。

「あなた方はとくと考えられたことがあるでしょうか、今も日本が素晴らしい
手仕事の国であるという事を。
西洋では、機械の働きがあまりにも盛んで、手仕事の方は衰えてしまいました。
しかし、それに片寄りすぎては色々の害が現われます。それで各国とも手の技を
盛り返そうと努めております。なぜ機械仕事と供に手仕事が必要なので
ありましょうか。機械に依らなければ出来ない品物があると供に、機械では、
生まれないものが数々あるわけでありす。全てを機械に任せてしまうと、第一に
国民的な特色あるものが乏しくなってきます。機械は世界のものを共通に
してしまう傾きがあります。それに残念なことに、機械は兎も角利益のために
用いられるので、出来る品物が粗末になり勝ちであります。それに人間が
機械に使われてしまうためか、働く人からとかく悦びを奪ってしまいます。
こういうことが禍して、機械製品には良いものが少なくなって来ました。
(現在の高度に精密加工できる工作機械と熟練の技では、この指摘は、必ずしも
正しくはない。しかし、この文意にもあるが、昨今のグローバリぜーションの
拡大で、「国民的な特色が乏しくなる」と言う点を真摯に受け取ると、
日本文化をキチンと承継し、高めていくにはこの指摘は重要である)

しかし、残念なことに日本では、かえってそういう手の技が大切なものだと言う
反省が行き渡っていません。それどころか、手仕事などは時代に取り残された
ものだという考えが強まってきました。そのため多くの多くは投げやりに
してあります。このままですと手仕事は段々衰えて、機械生産のみ盛んに
なる時が来るでしょう。しかし、私どもは西洋でなした過失を繰り返したくは
ありません。日本の固有の美しさを守るために手仕事の歴史を更に育てる
べきだと思います。
今日眺めようというのは、他でもありません。北から中央、さては西や南に
かけて、この日本がいまどんな固有の品物を作ったり用いたりしているかという
ことであります。これは何より地理と深い関係を持ちます。気候風土と離れて
しなものは決して生まれてはこないからです。どの地方にどんなものが
あるかという事を考えると、地図がまた新しい意味を現してきます。、、、、

こんなにも様々な気候や風土を持つ国でありますから、植物だとて鳥獣だとて
驚くほどの種類に恵まれています。人間の生活とても様々な変化を示し、
各地の風俗や行事を見ますと、所に応じてどんなに異なるかが見られます。
用いる言葉とて、夫々に特色を示しております。これらのことはやがて各地で
作られる品物が、種類において形において色において、様々な変化を示す
事をかたるでありましょう。いわば、地方色に彩られていないものは
ありません。少なくとも日本の本来のものは、それぞれに固有の姿を持って
生まれました。

さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、2つの大きな
基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは歴史であります。
自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と言うのは人間が開発した
努力の跡であります。どんなものも自然と人間との交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。日rんを仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、

前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました。
何者もこの自然を離れて存在することが出来ません」。

あらためて考えるべきことが多様に織り込まれているのではないだろうか。

そして、その体現者である職人の言葉には、含蓄ある、考えさせられる言葉も多い。
永六輔の「職人」という本にも、そのような言葉が散見される。
本にある「職人語録」の内からは、

「ウチナーの人間は、その日が楽しければいいの。明日はもっと楽しくしようとは
思わないのさ。だからヤマトの仕事は合わないの。余計に儲けなくたっていいんだ。
向上心がないのとはちがうのさ。欲がないだけのことさ。」
(沖縄でゆっくりと仕事をする、ある大工さんの言葉。)
「人間、ヒマになると悪口を言うようになります。悪口を言わない程度の忙しさは
大事です。」
「職業に貴賤はないと思うけど、生き方には貴賤がありますねェ。」
「人間、<出世したか><しないか>ではありません。<いやしいか><いやしくな
いか>ですね。」
「残らない職人の仕事ってものもあるんですよ。えェ、私の仕事は一つも残って
ません。着物のしみ抜きをやってます。着物のしみをきれいに抜いて、仕事の跡
が残らないようにしなきゃ、私の仕事になりません。」・・・
政治家等が自分の名・業績を残す為に、名声を得る為に、あえて無駄な大事業を
起こしたり自分の銅像を建てる事とは正反対に、陰徳を行なう様に名を出さず
密かに善い仕事を行なっている職人の言葉。

威勢の良い、粋な姿・言葉を表現する職人たち。自分の名を売ろうとせず、
目立とうとせず謙虚に、小さな町工場や工房、商店等で働き「清貧」を表す職人たち。
利益・儲けよりも、誇り・意地・遣り甲斐を優先し大事にする職人たち。
目利きを持ち、物事の真偽や人の才能や能力を見分けて育てる力を持つ職人たち。
こういう人たちが少なくなっているのが残念だ。

しかし、最近は、伝統工芸品、工芸品への理解が高まり、各地で若い職人と
大学などとのコラボやデザイナーの積極参加で伝統工芸の技や素材を
活用した新しい製品造りが盛んになっている。私の近くでも、京都の
工芸のスキルを織物や木工品に適用して、今までにない形でのものの
提供を図っている人々が多くなっている。日本文化の発信として、国
全体としての取り組みが少しづつ具体的な形になって来たのであろう。
また、民間でも、企業ベースで、地域の工芸技術を活用した様々な
製品が創出されている。これを更に大きなうねりとすることが柳さんたちの
想いを結実することとなろう。それは、また、最近忘れ去れつつある
日本文化の見直しとその原点の認識を更に、多くの人に理解してもらい、
より精細な文化創造物を生み出すことの推進力にもなる。


 「怒ってなきゃダメだよ、年寄りは。」
 「昔は伜(せがれ)に他人の飯を食わせるということをやったもんです。職人や芸人
なんか、とくにそうやって修業したもんです。ところがマイホーム主義なんていうよう
になって、親の手元で修業する例が増えています。つまり、修業が甘くなっているんで
す。」
 「褒められたい、認められたい、そう思い始めたら、仕事がどこか嘘になります。」
 「職人が愛されるっていうんならいいですよ。でも、職人が尊敬されるように
なっちゃァ、オシマイですね。」
(役人等のお上の決める黄綬褒章等についての言葉)
 「批評家が偉そうに良し悪しを言いますけど、あれは良し悪しじゃなくて、単なる好
き嫌いを言っているだけです。」
 「職人の仕事そのものが名前だと思うんですけどねェ。名前だけをありがたがる人が
いるのも、困ったもんですよ。」
 「名声とか金は、歩いた後からついてくるものだった。名声と金が欲しくて歩いてい
る奴が増えてますねェ。」
 「自分の評判なんて気にするんじゃない!気にしたからって、何の得もない。」
なるほど、と思う。

「粋」は「いき」でもあり「すい」でもあります。腕の良さ、技能の良さだけでは
無く、その「粋(いき)」な姿・言葉と同時に、「粋(すい)」な心、純粋な心
を持って働く事から、単なる労働者とは異なった職人の素晴らしさが有る。
江戸時代においての江戸や上方等では、職人たちは大事にされた(それは司馬さんの
言葉にもある)。その名残として、紺屋町・鍛冶屋町・大工町等が現在も地名
として残っている。名古屋の徳川美術館には職人衆を優遇する伝統が残っており、
職人は入館無料という。
そして。その職人たちを活かしてきたのが、日本の文化なのであろう。

江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、
日本各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化が
あることを知ったという。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について
語らううち、「名も無き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美
がある」という民藝の考え方が定まった。その特性を柳は「実用性、無銘性、
複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、他力性」の言葉で説明した。

再び、柳宗悦の言葉を味わえば、
「寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました。」

ここ数年、伝統工芸品、工芸品への理解が高まり、各地で若い職人と
大学などとのコラボやデザイナーの積極参加で伝統工芸の技や素材を
活用した新しい製品造りが盛んになっている。私の近くでも、京都の
工芸のスキルを織物や木工品に適用して、今までにない形でのものの
提供を図っている人々が多くなっている。日本文化の発信として、国
全体としての取り組みが少しづつ具体的な形になって来たのであろう。
また、民間でも、企業ベースで、地域の工芸技術を活用した様々な
製品が創出されている。これを更に大きなうねりとすることが柳さんたちの
想いを結実することとなろう。それは、また、最近忘れ去れつつある
日本文化の見直しとその原点の認識を更に、多くの人に理解してもらい、
より精細な文化創造物を生み出すことの推進力にもなる。

ーーーーーーーーーーー
山田宗美そうび
鉄板1枚から様々な精巧な動物を作り出す。瓦に止まる鳩、ウサギの置物など。
彼は早世したこともあり、その凄い技が途絶えた。例えば、11センチの
ウサギの耳を作ろうとするが、途中で割れてできない。精巧な目の周辺の
かたちや肌触り、鉄板1枚から本当にできるの??一言のみだ。


例えば、和辻哲郎は、言う。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう。」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。)
しかし、もう1つ他に
大きな基礎をなしているものがあります。それは一国の固有な歴史であります。

歴史とは何なのでしょうか。それはこの地上における人間の生活の出来事であります。
それが積み重なって今日の生活を成しているのであります。、、、、、、
どんなものも歴史のお陰を受けぬものはありません。
天が与えてくれた自然と、人間が育てた歴史と、この二つの大きな力に
支えられて、我々の生活があるのであります。
我々は日本人でありますから、出来るだけ日本的なものを育てるべきだと思います。
丁度シナの国ではシナのものを、インドではインドのものを活かすべきなのと、
同じであります。西洋の模造品や追従品でないもの、すなわち故国の特色あるものを
作り、またそれで、暮らすことに誇りを持たねばなりません。たとえ西洋の
風を加味したものでも、充分日本で咀嚼されたものを尊ばねばなりません。
日本人は日本で生まれた固有のものを主にして暮らすのが至当でありましょう。
故国に見るべきものがないなら致し方ありません。しかし幸いなことに、
まだまだ立派な質を持ったものが各地に色々と残っているのであります。
それを作る工人たちもすくなくありません。技術もまた相当に保たれている
のであります。ただ残念なことにまえにも述べたとおり、それらのものの
値打ちを見てくれる人が少なくなったため、日本的なものはかえって等閑に
されたままであります。誰からも遅れたものに思われて、細々とその仕事を
続けているような状態であります。それ故今後何かの道でこれを保護しない
限り、取り返しのつかない損失が来ると思われます。それらのものに
再び固有の美しさを認め、伝統の価値を見直し、それらを健全なものに
育てることこそ、今の日本人に課せられた重い使命だと信じます。

 本書は、著者自身が以前にある雑誌に連載していた「無名人語録」の中から、職人た
ちの言葉の数々を再び取り上げて編集しまとめたものが中心となっています。その江戸
言葉等で語られる職人たちの言葉や、怒ったり叱ったりする職人たちの言葉に触れるだ
けでも、その活気や意気の盛んな様子が伝わって来て、私自身がその元気をもらってい
る様に感じます。
 「職人」と「作家」との違い。また同様に、「芸人」と「芸術家」との違い。消費税
が導入される前までは、「職人」の作るモノには物品税が掛けられていた様で、反対に
「作家」の作るモノには物品税は掛けられなかったとの事。また、一つの名も無き地方
の田舎で作られた小さな「雑器」が、都会の有名な「工芸館」に暫く飾られるだけで、
世間の見る目が変わってしまうとの事。その様に日本では、法律や世間体等によって、
職人が生きにくい様な状態に陥らされています。
 職人(や芸人)の世界は徒弟制度であるのだが、最近は労働基準法がそれを認めてい
ないせいもあって、本来は弟子が親方に月謝を払うべきところを、修行中の弟子にも月
給を払わなければならないとの事。

 最近はテレビ等でもよく職人が人前に出演してその腕前を披露している番組が有りま
すが、しかし著者はその様にテレビ等に出て名を売ったり目立ったりする事は、「粋」
では無く「野暮」だと言います。
 
 本来は旅芸人である落語家の噺である落語の主人公は、大抵が職人たちとの事。
著者は、「職人というのは職業じゃなくて、『生き方』(及び考え方)」と言います
。そして、「『人間国宝』と書いてあると、それだけで良く見えちゃうっていうの、あ
るじゃないですか。


…(中略)…。むずかしいけれど、自分自身の基準をもたなくちゃ
ね。他人があまり評価しないものをいいなと思っちゃう場合もあるし、だれもが認めて
いるものを、なんでこれがいいの?ということもあるでしょう。そのとき、自分のほう
を大事にする。自分の目に自信を持つ。ときには失敗しますけど、その失敗が月謝にな
るんです。……(後略)。」。

本書を読むと、かつて永六輔が尺貫法の存続にあれほどこだわって、おかみを相手に、
まるで綱渡りのような、たぶんに冗談っぽいけど、じつはからだを張った真剣勝負を挑
んだ理由がわかる。

「他人と比較してはいけません。
 その人が持ってる能力と、その人がやったことを比較しなきゃいけません。
 そうすれば褒めることができます」

「批評家が偉そうに良し悪しを言いますけど、
 あれは良し悪しじゃなくて、
 単なる好き嫌いを言っているだけです」

「安いから買うという考え方は、買物じゃありません。
 必要なものは高くても買うというのが買物です」

 無名人語録、対談、講演原稿など、雑然とした軽快な構成のなかに背骨がひとすじ通
っているところが、いかにも永さんらしいスタイル。随所で人生の極意をさらりと語っ
て嫌味にならないのはさすがですね。

2023.01.14

日本人って

小正月、小寒のころ近くの神社でもどんど焼きがある。
15日は10日、11日に続き年始めの催事があり、新年も
終わり心新たに、いつまでも正月気分ではない。
昔は小豆粥がでたものだが、多くのものが食事や慣習から消えた。
隣の庭では狼狽がプラステsssssっそれもmられなくなったたが、
それも過去のどこかにきえた。
寂しさのつのる昨今だ。
日本人の何かが消し去られていく。

山本七平の「日本人とは何か」

日本人とは何か  山本七平

内容
山本七平が築き上げた「日本学」の集大成

 日本人はなぜ、明治維新を成功させることができ、スムーズに近代化ができたのか。また戦後はなぜ、奇跡の経済復興を遂げ、民主主義をも抵抗なく受け入れることが出来たのか――そんな素朴な疑問に答えるべく、著者は、神代から幕末までの日本人の意識と行動をたどっていくことで、その秘密を解き明かそうとする。その試みは奇しくも、著者が長年にわたって独自に築き上げてきた「日本学」の集大成の観を呈するにいたった。

 著者他界の二年前に上下二巻で刊行された名著を、今回一巻にまとめて再刊!(カバーより)

 独特の視点から日本人の特質を鋭く描いてみせる山本七平。彼が外国人から受けた質問などを問答形式で紹介しながら、縄文時代から明治時代直前に至る迄の日本の様相を歴史を追って解説した、集大成のような一冊だ。

上巻113から116ページ
神についての新井白石と本居宣長の定義ついてが面白い。

「古事記伝 抜き書き」と楷書で太く記されている。手に取り、ページを送ると、
「神」の定義と記された文が見えた。
「凡て迦微(かみ)とは、古(いにしえ)の御典等(おふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其の祀れる社に坐(いま)す御霊をも申し、また人はさらにも言わず鳥獣木草の類、海山など、そのほか何にまれ尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)と云うなり。抑(そもそも)、迦微(かみ)は如此(かくのごと)く種々(くさぐさ)にて、貴きもあり、賤(いやし)きもあり、強きもあり弱気もあり、善きもあり悪しきもありて、心も行(しわざ)もそのさまざまに随いて、とりどりにしあれば、大方一むきに定めては論(い)いがたき物になむありける。  (中略)
すぐれたるとは尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず。悪しきもの奇(くす)しきもなども、よにすぐれて可畏(おそれるべ)きをば神というなり。さて人の中の神は、先ずかけまくもかしこき天皇(すめらみこと)は、御世御世みな神坐(いま)すこと、申すもさらなり。其は遠つ神と申して、凡人(ただひと)とじゃ遥かに遠く、尊い可畏く坐しますが故なり。かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり。又天の下を受け張りてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし。さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代人皆神なりし故に、神代とは云うなり。さらに日本書紀、万葉集では、木霊も虎も猿もカミといわれ、海山も「磐音、木株、草葉のよく言語(ものいい)し類なども皆神なり」


上巻157から164
神の意志による審判、神慮の発生。
なお、これの詳細は別に「日本神判史」という本がある。
下巻288から302まで
富永仲基の「加上」という考え方が面白い。

 日本の歴史は日本史の授業でそれなりには学んだが、言葉や年代を覚えるのに忙しく、その背景事情や経緯、影響についてまではなかなか理解できていない。また、他の国の同様の状況と比較したり、その違いから日本人の特性について考察してみたりなど、なかなかそこまで発展しない。この著書にはそういったことが分かりやすく解説されていて面白い。


 例えば日本人はエコノミック・アニマル(経済的動物)と呼ばれるが、近代に入ってから急にそうなったわけではなく、もっとはるか以前からずっとそうだったことが、ここでは紹介されている。日本人が経済に強いイメージはあまりなかったが、ここでは日本で流通した貨幣の凄まじさが紹介されていて面白い。


 当初は日本でも、貨幣はなかなか定着しなかったという。銅の精錬技術が伴わなかったせいだが、この状況を一変させたのが平清盛だ。自国で貨幣が造れないなら、中国から輸入してしまえと、1164年に周囲の反対を振り切って断行した。するとものすごい勢いで貨幣は日本に定着。およそ100年後には相互銀行のようなものができ、武士の私領も金で売買され、庶民のものになってしまう事態が出て来た。幕府は何度もそれを禁止。しかし貨幣の勢いは止まらず、1239年には「通貨禁止令」を発布して貨幣の流通を場所を限定して禁じようとまでした。


 これが韓国ではどうだったか。先の「通貨禁止令」より180年後に、韓国では貨幣を流通させるため、米や布などを貨幣代わりとする物品貨幣の使用を厳罰で禁じている。日本では貨幣が流通しすぎて禁じなければならなかったほどなのに、なかなか定着せず苦労したあとがうかがわれる。また、この頃日本に来た韓国の使節は、日本国内ではお金さえあれば他に何もなくても旅ができることに驚き、別の使節は乞食が食べ物を乞うのではなくお金を乞うことに驚いている。


 結局韓国では家綱の頃まで貨幣は定着しなかったし、ベトナムでも貨幣は18世紀頃まで定着しなかったそうだ。爆発的に貨幣が流通した日本の方が、東アジアでも異質だったようだ。


 そして中国では、銅銭の流出が凄まじかったため、1115年に銅銭輸出禁止令が出されたが、それでも解決しなかったため、ついに紙幣が発行された。今も日本人はすごい勢いで何かを輸入することがあるが、この傾向もこの当時から変わらなかったようだ。


 日本史の授業では、確かに「渡来銭」や「通貨禁止令」などについても習ったが、他国の通貨を輸入して使うという発想は、今改めて考えてみると奇妙に思える。また、日本人がお金を使うことにそこまで積極的だったという認識もなかった。


 このようにさまざまな例を挙げながら紹介してあると、日本人の傾向が次第に見えてくる。近い位置に超先進国の中国があり、強烈に憧れながらも来たら全力で打ち払わねばならないという畏怖を持っていた。こうした先進の文化を輸入しては、自分たちの歴史と照らして共鳴する部分は積極的に掘り起こして日本流に変換し、共鳴しない部分は一向に受け入れない。その憧れとする対象はやがて西欧となり、戦後はアメリカとなったのだろう。どちらかというと後進国だが、ひとたび改革がおこるとものすごい勢いでそれらを浸透・変化させ、一躍世界のトップにも躍り出る。一方では変化しない部分を根強く持ち続け、それがあるからなのか、驚く程大胆な変革を平然と行う。


 その背後には、日々の仕事の中で黙々と工夫を凝らし、各々の興味のあることを着実に進歩させようと努力する日本人の姿が見えてくる。現在の日本の状況は、日本の負の部分が噴出しているように思えるが、こうして見てみると、いったんスイッチが入りさえすれば、駆け足で大きな変革を成し遂げるのかもしれない。


 目次も興味深かったので全部書いてみたけれど、あまりに長くなるので2章以降は読みたい人だけどうぞ。

目次
序文 新しい“菊と刀”
プロローグ 『体勢三転考』の日本――伊達千広が描いた歴史観
日本人の模倣と独創性
「骨(かばね)・職(つかさ)・名」――日本史を三つに区分する根拠
第一部 「骨(かばね)の代」から「職(つかさ)の代」へ
1章 日本人とは何か
東アジアの最後進民族
縄文人とは、いかなる民族か
今も根強く残る縄文時代の食文化
縄文人が話していた日本語とは
稲作はどこから来たか
中国の史書に現れた一世紀から三世紀の日本
登呂遺跡にみる日本文化の原点
前期古墳文化と、伊勢神宮の火鑽具(ひきりぐ)
中国江南部との深い関係
津田左右吉(そうきち)博士の日本神話分析
「骨(かばね)の代」の氏族体勢とは
2章 文字の創造
日本史の画期的事件「かなの創造」
キリシタン宣教師が見た日本のかな文字文化
「万葉がな」に見る日本語の文字化の苦闘
三千年以上前のアッカド人の苦闘
「かな文字」と「かな文章」は、いかにして誕生したか
自国語を自国の文字で語る喜び
文字と文学と統一国語の併行的形成
3章 律令制の成立
科挙抜きで律令制を導入した日本
大化の改新による中央集権国家への脱皮
律令体勢の基本は「班田収授の法」
「貧窮問答歌」に描かれた下層民の生活
律令制を崩壊させた農民の逃亡
日本では、なぜ科挙を実施しなかったのか
天皇家が一二〇代以上存続してきた理由
4章 神話と伝説の世界
日本における「カミ」とは何か
神話時代から二十世紀までの継続性
天孫降臨にいたるまでの神々の行状
海幸山幸、二人の兄弟の物語
神話に裏付けられた天皇の正統性
「アラヒトガミ」とは何か
5章 仏教の伝来
日本人の宗教は何か
国家の宗教であっても国教ではない不思議
日本が受容した中国仏教の特質
僧形(そうぎょう)の儒者がキリスト教を攻撃する図
神道と仏教はいかにして結びついたか
日本に浸透していた道教の存在
鎮護国家仏教の功罪
加持祈祷と末法思想による日本仏教の変質
念仏のみを選択(せんじゃく)した法然(ほうねん)
浄土宗に対抗した高僧・明恵(みょうえ)
日本独自の仏教の誕生
6章 〈民主主義〉の奇妙な発生
日本で民主主義が成功し、キリスト教が失敗した理由
日本に民主主義の文化伝統は存在したか
多数決は「数の論理」ではなく「神意」の現われ
中世に諸大寺が強訴(ごうそ)を繰り返した理由
僧兵はいかにして生まれたか
超法規的空間「荘園」内の秩序
第二部 「職(つかさ)の代」から「名の代へ」
7章 武家と一夫一婦制
なぜ武士の時代を「名の代」と名づけたのか
盗賊の横行と自警団としての武士の台頭
清盛の登場、「公地公民」との訣別
頼朝はいかにして実質上の支配権を得たか
一夫多妻を罪だとした北条重時
女性への失礼を戒める家訓
主従関係と血縁関係を、いかに調整するか
現代の日本人に通ずる「気くばり」のすすめ
8章 武家革命と日本式法治国家の成立
「承久の乱」は守護・地頭の人事権をめぐる正面衝突
朝廷への叛乱を正当化する理論武装
新しい武家的秩序の確立を目指した「貞永式目」
「貞永式目」の起請文が意味するもの
「式目」は中国の法律とは全く無関係
武士も民衆も「律令」を知らなかった
泰時が「式目」と名づけた理由
脱中国・日本式法治国家の成立
9章 武家法の特徴
土地の所有権を規定する二つの条文
一度所有した土地の相続は一切自由
女子にも同等の権利と義務
相続権を渡した妻と離婚したらどうなるか
土地相続に幕府が介入する数少ない例外
功績も責任も罪科も、一族ではなく個人にある
「縁座」を認めない日本、罪九族に及ぶ中国
『十六夜日記』の主人公は、なぜ鎌倉へ向かったのか
朝幕併存という日本独特の体勢の誕生
10章 エコノミック・アニマルの出現
室町時代に貨幣経済が定着していた日本
中国銭を輸入した平清盛の功績
見返りに大量の金(きん)を輸出した日本
鎌倉幕府の根幹を揺るがした貨幣経済の猛威
高利貸し、銀行の誕生、変質する土地所有形態
幕府による通貨禁止令の発令
銭泥棒の発生にみる貨幣経済の浸透ぶり
幕府体勢の基本、惣領制の崩壊
11章 下克上と集団主義(グルーピズム)の発生
鎌倉幕府は、なぜ倒壊したのか
「一揆」という契約集団の成立
勢い強まる国人一揆
守護の罷免を実現した国人一揆
血縁社会の崩壊、惣領制の消滅
日本的平等主義・集団主義の原型
日本に奴隷制はあったか
12章 貨幣と契約と組織――中世の終わり
なぜ足利将軍は、豪奢な生活が可能だったのか
「中国土下座外交」の元祖
各種金融機関に支えられた室町幕府
徳政一揆にかかげた幕府の制札
部下が主君の行為を規定する法律制定
起請文にみる毛利元就と家臣団の力関係
その四十年後の毛利家起請文
なにが戦国時代を終息させたのか
第三部 名の代・西欧の衝撃
13章 土一揆・一向宗・キリシタン
日本人の心の中の終末的感覚
下剋上の日本、農民の成長
蓮如はなぜ、一代で真宗王国を築き上げたのか
一向一揆による「百姓の持ちたる国」の出現
ザビエルの来日とキリシタン伝道
蓮如の布教方式を継承したヴァリニャーノ
イエズス会による印刷・出版活動の目的
14章 貿易・植民地化・奴隷・典礼問題
宣教師たちは、日本に何をもたらしたか
シナ生糸と綿布貿易の仲介で巨額の利益を得たイエズス会
秀吉のキリシタン禁止令の不思議
キリシタンに突きつけた五カ条の詰問状
秀吉を激怒させた最大の理由
中国、ヴェトナム、タイがキリスト教を禁止した理由
キリシタン禁止令の真意
サン・フェリーペ号航海士失言事件
日本におけるキリシタン問題の特異性
15章 オランダ人とイギリス人
漂着リーフデ号のヨーステンとアダムス
オランダ国王から家康に宛てた手紙
イギリス人使節の観察した日本
家康はなぜ、オランダ・イギリスを優遇したか
16章 「鎖国」は果たしてあったのか
家康のキリシタンに関する最終結論
「島原の乱」に至る道
「島原の乱」もう一つの真相
「寺請制度」の果たした役割
「神(デウス)に誓って神(デウス)を信じません」という転宗の誓約
17章 キリシタン思想の影響
不干斎(ふかんさい)ハビヤンは、なぜ自ら転向したか
ハビヤンを笑えない現代人
知識人に歓迎された「自然神学」的伝道方針
ハビヤンがキリスト教を棄てた理由
東アジアの異端にして西欧キリスト教の異端
第四部 伊達千広の現代
18章 家康の創出した体制
「武家は武家」の政治体制を築いた家康
鎌倉幕府以来の伝統を受け継ぐ
実質上、統制下におかれた朝廷と寺社勢力
参勤交代制という巧妙な発明
貨幣制度を確立した家康
幕府の「統治神学」となった朱子学
19章 幕藩体制の下で
戦いの時代から経済の時代へ
加賀藩の画期的な藩政改革
農民の武装解除から「兵農分離」へ
『日本永代蔵』にみる新しい産業の勃発
新しい農具と技術の導入
乞食でも大金持ちになれる世の中
役割を失った武士の存在意義
20章 タテ社会と下剋上
日本はヨコ社会か、タテ社会か
朝鮮外交をめぐる柳川調信(しげのぶ)の立場と役割
柳川事件の驚くべき展開
裁判の判決が意味することとは
主君「押込(おしこめ)」の正統化
藩政改革を阻む大きな力――阿波藩の場合
厳密な意味の「専制君主」はいなかった
21章 五公五民と藩の経営
五公五民は農民搾取だったという常識のウソ
生産性をあげるほど有利になる農民
自給体制を促進した鎖国
紙づくりで成功した津和野藩の場合
渋沢栄一が記した藍作農家の税
なぜ日本の農民に、ある程度の余裕があったか
武士の困窮ぶりと内職の実態
22章 幕藩体制化の経済
日本中の富が集中した大坂
新しい「経済的人間」の出現
鉄砲の大量生産を支えた日本の砂鉄
日本独特のたたら製鉄の完成
世界最大の銅精錬業者だった住友
藩札発行の問題点、加賀藩の場合
日本の鎖国を許さなくなった各藩の経済事情
23章 江戸時代の技術
暦にも時間にも使われる十干十二支の知恵
世にも不思議な不定時法――時計を造り出した日本人
渡来の時計に日本人が無関心だった理由
いかにして、朝夕と季節で針の動きを調整したか
なぜ、時刻が九八七六五四となるのか
丸い文字盤も針もない日本独特の「尺時計」
和時計の技術が精密工業の基礎を作った
24章 江戸時代の民衆生活
江戸時代の庶民の基本法とは
一人前とは何歳からか
離婚なら、夫は妻に持参金を返却
「小糠三合あれば養子に行くな」
隠居しても親権は不滅
核家族化は江戸時代に始まっていた
長子相続制だったという大いなる誤解
25章 江戸時代の思想
日本独特の「町人学者」の出現
いかに幕府統治の正統性を理論づけるか
幕藩体制を認めなかった純粋なる朱子学者・浅見絅斎
中国絶対化からの明確な脱却
なぜ絅斎は、諸侯からの招聘をすべて断ったのか
「絶命の辞」に見る正統性ある王朝へのこだわり
思想が人を動かす時代の到来
「仏法即世法」と説いた鈴木正三
農業も日々の仕事もすべて仏行
正三は、商人の利潤をどう考えたか
石田梅岩による「石門心学」のはじまり
正三と梅岩が築いた日本資本主義の精神
李退溪と日本の朱子学者との共通点と相違点
26章 現代日本人の原型
“言論の自由”が生み出した独創的思想家群
不世出の天才・富永仲基
キイワードである「加上(かじょう)」とは何か
仲基を高く評価した本居宣長
独創的・現代的な天才の思想
本業は升屋の番頭、異色の学者・山片蟠桃
明治の日本人が進化論を抵抗なく受け容れた理由
祖先の祭祀に対する蟠桃の考え方
地動説も万有引力も知っていた山片蟠桃
仲基的・蟠桃的考え方の系譜
27章 現代日本国の原型
西欧に先んじた日本の数学
関孝和の正統の後継者、本多利明
儒学と訣別した「脱亜入欧」の先駆者
本多利明の説く日本の「四大急務」とは
人口論におけるマルサスとの類似
辺地の開拓振興を説く
自給自足的経済論を否定、時代に先がけた開国論者
「虚学」を排し「実学」を提唱した海保青陵
商業を蔑視する武士気質を批判
青陵の“藩株式会社”論
エピローグ 明治維新の出発点

2023.01.12

夢、老残そして老醜

束の間の小春日和か。猫も東側の部屋で腹を出して寝ている。
春菊を鍋で美味しく味わった。
十日戎もよく行ったが、最近はテレビ観戦で済まし気味。やはり年は心も枯れさせる。
鏡開きも餅を切り分けることもなく紙細工の餅で済ました。
仕事始めの振袖姿も20年ほど前には消えていった。
30代ごろまでの風景は霞と消えていく。
これを時代への郷愁と呼ぶべきか、老人の戯言というべきか。
だが、確実に人生のつまらなさが増えている。
人はハレを求めそこに人生の節目を見てきたはず。
はずがはずでないしごく当たり前の生活に何を期待するのだ。
老残、老醜、いやな言葉だ。だが、多くの高齢者はそれでも性に
しがみつき若者に侮蔑されときに暴行されるがそれでもベッドにしがみつき
明日への生きざまを楽しみにしている。
これを情けないと一蹴すべきなのか
よくここまで生きてきたとほめるべきなのか
さて、自分はどうする??

夢は人の深層を語る。

夢の持つ力

夢には自分の奥底に隠された何かを知らせる情報、と多くの心理学者は言う。
精神的に問題がある人、普通の生活をしているものの何かの影に影響を受けている人、
その現れ方は様々なようだが、それは心の門が何かの拍子に開いたとき、
誰にでも現れるもののようだ。

だが、多くの人は目覚めとともに記憶の彼方へとそれらを押しやっている。
でも、
夢に現れた物は、本人とどんな関わりがあるのか?
本人の過去と何か関連性があるのかないのか?
本人以外のものとの関係は?
等と考えるのも、自身の新しい自分を再発見するのによいのでは。

多くの小説にもその場面が登場してくる。

川端康成の「山の音」にも老人の夢が何回か出てくるが、例えば、
「無邪気な夢なので、朝起きたら話そうと楽しみながら、信吾は雨の音を聞く間もなく
寝入ったのに、やがて邪悪な夢でまた目覚めた。
信吾は尖り気味の垂れ乳を触っていた。乳房は柔らかいままだった。張ってこないのは、
女が信吾の手に応える気もないのだ。何だ、つまらない。乳房に触れているのに、
信吾は女が誰かわからなかった。わからないというよりも、誰かと考えもしなかったのだ。
女の顔も体もなく、ただ2つの乳房だけが宙に浮いているようなものだ。
そこで、初めて、誰かと思うと、女は修一の友達の妹になった。しかし、信吾は良心も
刺激も、起きなかった。その娘だという印象も微弱だった。やはり姿はぼやけていた。
乳房は未産婦だが、未通と信吾は思っていなかった。純潔の後を夢に見て、
信吾ははっとした。困ったと思ったが、そう悪いとは思わないで、
「運動選手だったことにするんだな。」とつぶやいた。
その言い方におどろいて、信吾の夢はやぶれた。
、、、、、、、、
夢のなかの言葉と結びつけたのは、信吾の自己遁辞であろう。
夢の信吾は愛も喜びもなかった。みだらな夢のみだらな思いさえなかった。まったく、
なんだ、つまらない、であった。そして味気ない寝覚めだ」。
多分、老境の人は似たような夢に出会ったことがあるのでは、勝手に思う。

さらに、ユングの「人間と象徴」では、様々な夢の症例とその解釈が載っている。
例えば、
「彼女がみたのは、彼女自身のような若い女の列に自分が並んでいる夢であった。
そして、彼女たちが進んでいくほうをみると、各人が列の先頭に来た時、断頭台で
首を切り落とされるのが見えた。夢を見た当人は何の恐怖も感じないで、自分の番が
きたとき、同様な扱いにまったく喜んで従うつもりで列に残っていた。
これは、彼女が頭で生きるという習慣をやめる用意が出来ていたことを意味する。
すなわち、彼女が肉体の自然な性的反応を発見し、母性と言う生物学的な役目を
果たすために自分の肉体を開放する術を学ばねばならないのだ。彼女は男性的な
英雄の役目を犠牲にしなければならなかったのだ。」
これは心理療法を受けているキャリアウーマンの女性がその夢について語ったものである。
そしてこのような多くの夢分析から人の奥底に眠る普遍的無意識に気づいていった
のではないだろうか。

私も以下に近い夢を見たことがあった。近いというのは、覚醒後の記憶があいまいで
あったからだ。
私は、散らかり放題の1階の部屋にいる。横には、灯明の火影が小さな影を飛散
させている。そのゆらめきの中に艶やかな黒塗りの仏壇が浮かび上がっている。
鏡の前でじっと自分の顔を見るが、それが自分の顔なのか判別できない。恐る恐る
伸ばすの手の先に黒髪に混じって白髪が仄明るい光に映えている。
それは枯野に細雪がかかるごとく徐々に黒き風景をおおっていく様に似ている。
昨日抜いたと思ったが、今日にはまた白髪になっている。そんな日々が続いていた。
鏡の前にいる時間がすべてのような気になっていた。白髪を抜いているうちに
私らしい頭は白くなっていく。1本の白髪を抜くと、その隣の黒い毛が2、3本、
すうっと白くなる。私は白髪を抜きながら、さらに白さの増す頭を鏡の中に
見据えている。1本ずつ丹念に抜いていくが、痛さは感じない。やがて、白髪も
黒髪もない赤薄く汚れただれた頭の皮のみとなっている顔があった。
その茫洋とした鏡の顔をもっと見たくなり、鏡に顔を寄せる。鏡の中の顔が
にやりと笑った。その顔に驚き、思わず身を引いた。雲間から一筋の光が半白の障子に
差し込んだが、鏡には何も映っていない。思わず手を顔に寄せた時、夢から覚めた。
慌てて洗面所の鏡の前に行くが、そこにはいつもと変わらぬ顔があった。
黒髪の中にまばらに見える白髪と腫れぼったい目、弛みシミが目立つ頬、すべてが
そのままだった。心の底でよかった、と安堵の気持ちがふくらんでいく。
夢を少しながら分析していくと、結構面白いものである。
最初はなんだかよく分からない支離滅裂な内容で、「怖い」とか「不安だ」とか
いった感情の記憶だけが残るような夢だったのが、徐々に1つのストーリーとなっていく。
これは、自分の中にある“恐れ”の感情や“迷い”を克服して自立していくテーマかもしれない。

ユングも先ほどの本の中で、同様のことを言っている。
「その生涯を通じて彼は失敗の恐怖と結びついた不安の周期的な発作に襲われてきた。
しかし、彼の業績は職業面でも個人的な関係でも平均以上であった。夢の中で
彼の9歳の息子が中世の騎士の輝く鎧を着て、18か19の若い男として現れる。
若い男は黒服の男たちの一団と戦うために召し出されるのである。そこで、まず、
彼は戦おうとかまえる。それから突然、彼は冑を脱いで、恐ろしい一団の指導者に
笑いかける。彼らが争わないで友達になるだろうということは明らかである。
夢の中の息子はこの人自身の若い自我である。かれは、しばしば自己懐疑の
形をとった影に脅かされていたのだ。彼はある意味で、成人して以来ずっと、この敵に
たいして戦いを挑み勝利を収めてきたのだ。そして今、そのような懐疑なしに
息子が成長しているのを見て実際に勇気づけられたためでもあるが、とりわけ、
彼自身の環境の型に最も近いかたちの、適切な英雄の像を形成したために、彼は
もはや個人的な優越感のための競争に駆り立てられることはなくなって、民主主義的な
共同体をつくるための文化的な仕事に参画させられていた。このような結末は
充実した人生に到達したとき、英雄的な課題を越えて、ほんとうに成熟した態度に
人間を導いていくのである。」
何かから自立しようとしていることの表れは彼の多くの事例でも語られている。
徐々に進行する夢のテーマからは何かが得られるのである。
人は複雑な生き物だ。心理療法の事例を読むにつれますますその思いは強まる。

2023.01.11

枯野の大地に春を思う

ここしばらく3月から4月の気候だそうだ。比良の稜線も久しく見えなかったが、
青く澄んだ透明のガラスにも似て白い稜線が明瞭に浮き出ている。
猫たちも陽だまりに集まりその温かさを押下しているようにも見えた。
外猫のちびも一時の安寧をむさぼるかのように車のうえで伸びきった体を横たえている。
しかし、茶褐色の大地は何の変化も起こさずまだ喜ぶには早いと言っているようだ。
朝晩の寒さはいまだ零下であり、その寒さに思わず身を縮めた。
正月の賑わいも十日戎と鏡開きで時の速さに追われるように人は
1月も普通の生業に戻っていく。
世の中は相変わらず多くが膠着状態ながら見えない変化が足元を揺らしている。

自然と人とのかかわりとその想い

この街に住んで20年数年ほどとなった。5回ほどの転居の最後の土地
になるのであろう。琵琶湖の近くに住んでみたい、それが理由であったが、
それはここの湖西地域でなくとも、東側の湖東地域でもよかったわけだ。
だが、住んでみてこの地に来たことは正解であった。
比良山系と間近な琵琶湖、良い意味での開拓の進まなかった手つかずの
自然の残る土地が少なくなかった。

「木戸の歴史めぐり」というかっての木戸村の村史の序文からは、短い
ながらこの地に住む人々の自然との関わり、その思いが伝わってくる。

自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、神々しく輝く
偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。

また、湖西の自然に筆を執った作家も少なくない。司馬遼太郎の「街道をゆく」
では、その始まりをこの湖西の旅から始めているし、井上靖は「夜の声」で
朽木を含めたこの湖西の自然が人間の汚濁から逃れている地として、心の
よりどころを求めた。1000メートル級の山並みが続く比良山系と間近に
迫る海のごとき蒼き琵琶湖、その自然の調和が彼らや多くの人々を惹きつけているのだ。
さらには、都の北端で都人の交流、比叡山延暦寺の仏教文化の余波を受けるという
余燼の文化的な微風を感じる土地でもある。

春のこの辺の情景を描写してみたい。
穀雨(こくう)とは、二十四節気の第6番目であり、4月20日ごろである。
田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころであり、穀雨とは、
穀物の成長を助ける雨のことである。そして、穀雨の終わりごろ(立夏直前)
に八十八夜がある。春雨が地面に染み入り、芽を出させる頃となり、各地の
竹林では筍が収穫の時期を迎える。街の奥にある竹林でも、筍が元気な姿を
見せる。筍の魅力は、春を感じる独特の香りとコリコリとした独特の歯応え
であり、それを楽しむ方法はここの郷土料理にはたくさんあるが、中でもよく
親しまれているのが佃煮。細かく刻み、木耳(きくらげ)や椎茸などと混ぜ
合せることで、食感が更に引き立つ。その味は、食べたものでしか分からない。

すでに彼方此方から桜の開花や花見の様子が伝えられていたが、このあたりは
少し遅い様で穀雨前後に桜も満開となる。公園や坂を少し下った道沿いの桜も
まだ固く蕾のままである。
しかし、農作業はすでに始まり、田圃にも水が張られ、気の早い蛙は日夜その
独唱に励んでいる世でもある。水を湛え始めた田圃にも生気が蘇り、畦道にも
命の息吹が見えていた。ハコベの緑に加えタンポポの小さな黄色が幅を利かして
いたし、紫の小さな花々がその横に一団となって咲いている。水の入っていない
休耕田であろうか、透明感のある小さな桃色の花が一面をおおっている。蓮華草の
花畑だ。昔は、肥料として使うため、蓮華草の種を夏の終わりに播いたという。
その葉が放射状に刈田に広がり緑の絨毯となって冬を過ごすのだ。
そして、春を待ちかねたように桃色の世界を田の中に演出していく。そこに、
蜜蜂も訪れ、春の賑わいをさらに高めていく。
気の早い人はすでにトラクターの騒がしい音を畑や田圃一杯に響かせている。
雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。
松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。

比良の若葉山の姿は、やはりこのあたりから見るのが良いように思った。
山並みの傾斜と直立する杉の木々との角度、これに対する見るものの位置が
あたかもころあいになっているのである。
その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった
杉の樹の数と高さがわざわざ人が計画したもののように好く調和している。
このあたりの人の考えでは、山は山の自然に任せておけば、永くこの状態は
保ちえられると思っている。琵琶湖の水蒸気はいつでも春の木々を紺青にし、
これを取り囲むような色々の雑木に花なき寂しさを補わしめるような複雑な
光の濃淡を与える。山に分け入る人は、単によきときに遅れることなく、
静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、
自然の絵巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。

そんな事を考えながら、雑木林を抜け、街のはずれの竹林の中を落ち葉の
かさかさする音と踏みしめる足元の心地よさを味わっていた。
通り過ぎる家々の壁はその陽射しの中で新しい灰色、キチンと刈り込まれた
生垣の緑色、庭の芝生も黄緑の色を濃くしていた。それに対抗する様にユキヤナギ
の木々が5弁で雪白の小さな花を枝全体につけてその白さを誇っているよう
に繁っている。雑草が一本も生えていない花壇には、クロッカスの紫の花が
行儀よく2列をなしている。家々は春の装いの最中なのだ。

明治の終わりから大正の初め、進む工業化や近代化に危機感を持ち、「自然
を離れて人生はなく、花鳥風月を語るのが、日本文学の伝統であった」と考えた
文人が少なくなかった。情感のない無味乾燥した空気の漂う今の時代、その時代の
日本人の心根を描いたものを見直すことも重要な視点となってきている。
唐木順三の「日本人の心の歴史」に描かれている一節を少し見ていきたい。

徳富蘆花の「自然と人生 湘南雑事」
早起き、若水を汲んで顔を洗い、雑煮を祝い終わり、桜山に登りて、富士を望むに、
雲に潜んで見えず。山を下りて、逗子の村をすぐれば、人家の椿に四十輪の花あり。
椿に隣れる梅のさがたるに、点々として胡蝶の羽のかかれる如きを諦観すれば、梅花の
すでにひらけるなり。日当たり良きところには、稀にスミレタンポポの一朶両朶えだ
を見る。舟にはおのおの旗を立て松を飾りたり。村の子女晴れ着して羽子をつき、凧を
飛ばすなど、淋しきながらも流石に正月なり。

国木田独歩の「武蔵野」について、
本文を写すとある。
「秋の中ごろからから冬の初、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田谷、または小金井の奥の林を訪ねて,暫く座って散歩の疲れを休めてみよ。これ等物音(鳥の声、風のそよぎ、虫の音、荷車の音など)、忽たちまち起こり、忽ち止み、次第に近づき、次第に遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちて微かな音をし、それも止んだ時、自然の静寂を感じ、
永遠の呼吸身に迫るを覚えるであろう。」
という。
その武蔵野の本文の一節をよめば、
「我武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野には
けっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。
それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台のところどころが低く窪くぼんで
小さな浅い谷をなしているといったほうが適当であろう。この谷の底はたいがい水田である。
畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさまざまの区劃をなしている。
畑はすなわち野である。されば林とても数里にわたるものなく否いな、おそらく一里に
わたるものもあるまい、畑とても一眸いちぼう数里に続くものはなく一座の林の周囲は
畑、一頃いっけいの畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさら
にこれを分割している。すなわち野やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、たちまち林
に入るかと思えば、たちまち野に出るというような風である。それがまたじつに武蔵野
に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そ
のままの大原野大森林とは異なっていて、その趣も特異である。

稲の熟するころとなると、谷々の水田が黄きばんでくる。稲が刈り取られて林の影が
倒さかさに田面に映るころとなると、大根畑の盛りで、大根がそろそろ抜かれて、
あちらこちらの水溜みずためまたは小さな流れのほとりで洗われるようになると、
野は麦の新芽で青々となってくる。あるいは麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊
が風に吹かれている。萱原かやはらの一端がしだいに高まって、そのはてが天ぎわを
かぎっていて、そこへ爪先つまさきあがりに登ってみると、林の絶え間を国境に連なる
秩父ちちぶの諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ってはまた地平線下
に没しているようにもみえる。さてこれよりまた畑のほうへ下るべきか。あるいは
畑のかなたの萱原に身を横たえ、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避よけながら、
南の空をめぐる日の微温ぬるき光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつき煌きらめき
輝くのを眺むべきか。あるいはまたただちにかの林へとゆく路をすすむべきか。
自分はかくためらったことがしばしばある。自分は困ったか否いな、けっして困らない。
自分は武蔵野を縦横に通じている路は、どれを撰えらんでいっても自分を失望ささない
ことを久しく経験して知っているから。」

さらに、長塚節の「土」についての漱石の発言を言及している。
「作者は鬼怒川沿岸の気色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究している。
畠の物、畔に立つ樹々、蛙の声、鳥の音、彼の強度に存在する自然なら、一点一画
の微に至るまで悉くその地方の特色を具えて叙述の筆に上っている。だから
何処に何う出てきても必ず独特である。その独特な点を普通の作家のてになった
自然の描写の平凡なのに、比べて余は誰も及ばないというのである。」

加えて、島崎藤村の「千曲川のスケッチ」や「春」について書こうと思っていた、とあるが。
千曲川のスケッチ、その一節も中々に味わい深いものだ。
「麦畠
青い野面のらには蒸すような光が満ちている。彼方此方あちこちの畠側わきにある樹
木も活々いきいきとした新葉を着けている。雲雀ひばり、雀すずめの鳴声に混って、
鋭いヨシキリの声も聞える。
火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠たはたはすべて石垣によって支え
られる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、
柿の樹だ。黄勝きがちな、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
小諸はこの傾斜に添うて、北国ほっこく街道の両側に細長く発達した町だ。
本町ほんまち、荒町あらまちは光岳寺を境にして左右に曲折した、主おもなる商家の
あるところだが、その両端に市町いちまち、与良町よらまちが続いている。
私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町あいおいちょうの道路を横ぎり、
古い士族屋敷の残った袋町ふくろまちを通りぬけて、田圃側たんぼわきの細道へ出た。
そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように
見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた。
田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労つかれたらしい男があった。青麦の穂は黄緑こうりょくに熟しかけていて、大根の花の白く
咲き乱れたのも見える。私は石垣や草土手の間を通って石塊いしころの多い細道を歩いて
行った。そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
若い鷹たかは私の頭の上に舞っていた。私はある草の生えた場所を選んで、土のにおい
などを嗅かぎながら、そこに寝そべった。水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂
と穂が擦すれ合って、私語ささやくような音をさせる。その間には、畠に出て「サク」
を切っている百姓の鍬くわの音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水
の響も伝わって来る。その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。しばらく私はその
音を聞いていた。しかし、私は野鼠のように、独ひとりでそう長く草の中には居られない。
乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても
長く熟視みつめていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成る
ようなものだ。
で、復また私は起き上った。微温なまぬるい風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は
額へ掩おおい冠かぶさるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
畠の間には遊んでいる子供もあった。手甲てっこうをはめ、浅黄あさぎの襷たすきを
掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、
急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。そして、
畠中で、大きな乳房の垂下った懐ふところをさぐらせた。私は無心な絵を見る心地ここ
ちがして、しばらくそこに立って、この母子おやこの方を眺ながめていた。草土手の雑
草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。」
ともに、その地を愛した思いが伝わってくるようだ。

さらに、柳田国男の「雪国の春」にもある雪深い地域の人と自然のかかわりでは、
森敦の「月山」が好きだ。月山を見ながら冬を過ごす寺の居候となった男の眼を通して
みた村人の冬の生活情景には、独特の湿潤な空気が醸し出され、私にはとても味わえない
不思議な、というより少し黄泉の世界に近い肌合いがある。

「渓越しの雪山は、夕焼けとともに徐々に遠のき、更に向こうの雪山の頂を
赤黒く燃え立たせるのです。燃え立たせると、まるでその火を移すために
動いたように、渓越しの雪山はもとのところに戻っているが、雪山とは
思えぬほど黒ずんで暗くなっています。こうして、その夕焼けは雪の山を
動かしては戻しして、彼方へ彼方へと退いて行き、すべての雪の山々が黒ずんで
しまった薄闇の中に、臥した牛さながらの月山が一人燃え立っているのです。
かすかに雪の雪崩れるらしい音がする。私は言いようのない静寂にほとんど
叫び出さずにいられなくなりながら、どこかで唄われてでもいるように、
あの念仏のご詠歌が思い出されてきました。」

さらに、秋の一情景からもそれが感じられる。

「山々はほとんどところどころが濃密な杉林、畑地、草刈り場になっているだけで、
いずれもイタヤクヌギの雑木林に覆われている。私が寺に来た頃頃は、ヒグラシ
の声もし、まだまだ夏の気配があって、それが滴るばかりの緑を見せていました。
しかし、月山はさすがに潅木の茂みになっているのでしょう。そうした緑の中に
ひとり淡淡と苔色を帯びていたのですが、そのながながとした稜線のあたりが
夕映えたようにほの紅く見えるのです。じじつ、月山は夕映えの中でしばしば
そう見えたので、わたしはしばらくそれが月山の紅葉し始めたためだとは
知らずにいたのです。しかも、その紅葉は次第に山々の頂に及んで、
あたり一面紅葉になって来ました。なんの木の葉が紅くなるのか、
黄色くなるのか、また同じ木の葉でも紅くもなり、黄色くもなるのか、
私には分かりませんでしたが、その紅も黄色も驚くほど鮮やかで、
なにかこう、音響を感じさせるばかりではありません。
僅かな日差しの動きや違いに、その音響は微妙に変化して、酔い痴れる
心地にさせるのです。しかし、紅葉はいつとなく潮のように退いて行き、
散り遅れた数葉をまばらに残して、裸になった木々の間から、渓を作る
明るい斜面が遠く近く透けて見えるようになりました。散り敷いた
落ち葉を踏んで行きながら、その一枚を拾うと、蝕まれて繊細な
レース網みのように葉脈だけになった葉にも、まだいくらかの紅や
黄色の部分があって、心地良い残響にも似たものが感じられるので
あります。」

志賀はこの月山ほどの雪の深さはないものの、一、二月は何回か雪に覆われることがある。
冬以外、ほかの四季も歴然とその姿を見せる。
この志賀の良さに憧れて移住してきた人々も少なくない。
この地へ移住してきた人々はその想いを語っている。
ある陶芸家と木工作家、画家の想いを聞くと、それがよく分かる

・ある陶芸作家の想いより
琵琶湖の自然は「インスピレーションの源」である。
眼下に琵琶湖が一望できる工房からは、毎日異なった「空の青」と「湖の青」
が広がっている。この風景が作品に大きく影響している。
琵琶湖の白波に感動しては青磁に白い線を入れ、命の源である「水」を表現する。
大自然と対話を繰り返しながら作品作りを進めた。
作品は徐々に評価され始めたが、まだ失敗を繰り返すことも多く、技法に限界
を感じかけていた2005年、日本伝統工芸展に出品した作品が、宮内庁
買い上げとなった。「何か大きな力」が自分を後押ししてくれるように感じました。
これからも人に力を与えられるものを作りたい。
願わくば、焼き物への関心が低い人へも」

・桶職人と言うよりか、木の工芸家の方は、
比良工房で製作している桶は、大きな檜などの原木から作り上げていきます。
材木屋さんから丸太で届いた木は、割るのにも一苦労。
小さなぐいのみも、おひつも、まずはこの作業から始める。
大人がしゃがんだ高さほども直径がある木か形を創って行きます。
ここまで育つのに、どれくらいの年数がかかったのでしょう。
「樹齢と同じ年数使える桶を作れ」祖父の言葉です。
そして、この志賀の自然環境が私の作品つくりには欠かせないもであり、
京都からこの地に来た成果であります。

・あるアメリカ人の画家
ある日、京都の山里で見かけた茅葺き屋根の民家に一目惚れして、スケッチを
重ねるうち目にしたのは、過疎化した山村で茅葺き民家がトタン張りになり、
現代住宅に建て替わり、また朽ち果てていく光景だった。
「美しい茅葺き屋根の家を改築して住みたい」という思いが芽生えていく。
方々探し歩いた末「棚田の曲線が美しく、琵琶湖の対岸に湖東平野や
鈴鹿山脈まで見渡せる、広がりのある景色がすばらしい」のと、
交通の便の良さが決め手となり、志賀の少し奥の地に住むことにした。
「自分で工夫し設計・施工したので、家が身近に感じられて住む味わいが増した。
作品の中に住んでいるような感じ」と満足のご様子だ。
危機感を覚えるのは、その伊香立を始めとした日本各地の美しい風景が開発などの
ため失われていくことだ。「風景を保全するため働かなければ」という信念のもと
「不要不急な事業を止めるべきだ」と訴えている。

この3人の想いと同じ様な自然に魅了された人々が志賀の北部に居を構え、
地域の中で、自身の作品などを創作し、見せることになどで日々の生活を営んでいる。
例えば、
歴史や文化、伝統をになって代々暮らし続けてきた者、この地に魅せられ移住してきた
者、ギャラリー・工房を構え創作活動する者。さまざまな人々が手をとりあって、元気
な比良を発信することを目的にして、普段は公開していない作家の工房やアトリエを
開放したり、ギャラリーなどでは地域にちなんだ展示をしたり、他にも比良の子供
たちの絵画展や比良にゆかりのある作家たちの作品展、一般参加型のスケッチ大会、
歴史散策、里山コンサートなどを催している。
菓子工房、カフェ、地元食材のお弁当の美味しい店、アウトドアの店、幾つかの
陶芸家の店、庭工房、日用品の工房、アンティークハウス、アトリエ、など
琵琶湖と比良山系にはさまれ、人々の暮らしと自然が融合した地域の作品やもてなし
をしている。びわ湖に比良山脈がせまる細長い土地、それが比良。そこには
雑木林があり、里山の生活もある。
今では珍しくなったしし垣といって獣と人間が住み分けをするために作られた
石垣も残されているような土地なのだ。

先ほどのアメリカ人の画家も言うように、琵琶湖周辺でも、湖西と湖北は、まだ
古きよき日本の原風景を残している。
更には、生活の中に琵琶湖と比良の山並が滑り込んで、その古さと新しさの調和
を活かしている場所でもある。多くの古代文化の遺跡や古墳など形あるものは、
数百年の時により、消え去り埋没したかもしれないが、人をベースとする文化
は継続して残っていくし、その自然も他に比べて生きている。
例えば、湖国に春の訪れを告げる恒例の法要「比良八講(ひらはっこう)」は、
例年3月26日に大津市と周辺の琵琶湖で営まれ、僧侶や修験者らが、比良山系
から取水した「法水」を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する。
この法要は、比叡山僧が比良山中で行っていた修法。法華八講(ほっけはっこう)
という天台宗の試験を兼ねた大切な法要で、戦後に復活された。
この法要のころに寒気がぶり返し、突風が吹いて琵琶湖が大荒れになる。これは
琵琶湖と比良山の温度差で突風が起こるものであるが、これを人々は「比良八荒
(ひらはっこう)」と呼び、この日を「比良の八荒、荒れじまい」の日として、
この法要が終わると湖国にも本格的な春が訪れる、とされる。
こんな逸話も残る。法華八講の修業が厳しいものだったため、ある僧に恋した娘
が僧の言う通り、琵琶湖をたらい舟に乗って99日通いつめ、100日目の夜に
明かりが灯されなかったがために、娘は琵琶湖に没してしまったという。
そのために、毎年この日、琵琶湖が吹き荒れるともいう。
現在の比良八講法要は、3月9日に日吉大社に関係者が集まって安全祈願する
ところから始まり、3月16日には志賀町の比良山系打見山で取水作法がある。
奈良のお水取りを修二会(しゅにえ)というが、比良八講では修三会(しゅさんえ)
である。そして3月26日午前9時ごろ、長等(ながら)3丁目の本福寺
(ほんぷくじ)を出発した僧や修験者ら約80人がホラ貝を響かせながら大津港
までお練りをし、浜大津港から船に乗って湖上修法と浄水祈願を行いながら堅田
へと向かう。堅田に到着後は、護摩供(ごまぐ)法要が営まれ、これで比良八講法
要が終了する。

さらに秋の風情を点描してみる。
10月23日は二十四節気の「霜降(そうこう)」。「寒露」の次にあたり、露の後は
霜ということで気温はさらに低くなっていく。この地は南の大津などよりも寒さが
早めに来る。
七十二候でも「霜始降花(しもはじめてふる)」に入ります。山里では霜によって草木
や作物が枯れてしまわないよう、警戒する時期ともなる。

時の移ろいは早いものだ。
ほんの30年前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、
湖というのは、地元のものにとってはそれこそ家の一部、生きていく上
での仲間だといってもいいほど親しみのある存在だった。
ところが、人は便利と効率を求めて、家と湖とのあいだに幅の広い舗装
道路を作った。遠浅の砂浜はほかからもってきた土砂で埋められ、岸辺は
コンクリートで固められてしまった。そのことによって、湖と人々の間に
深い溝が出来てしまった。別に工事によって岸辺が何キロも、離れて
しまったわけではない。距離で言うと、たった数10メートルほど湖から
離れただけだ。それなのに、湖岸に住んでいた私たちは、湖が全く手の届かない
ところへ行ってしまったような寂しい気持ちになってしまった。
日常的に体を支配してきた波のさざめきを失った私たちは、不安でさえあった。
人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、日常から離れ、人の心根からも
遠くなり、早くも昔の語り草のような存在となった。洗濯や野菜を洗うために
湖に突き出しておかれた「橋板」もほとんど姿を消した。そこで交わされた
会話に代わり今は寄せる波の小さなさざめきのみとなった。

比良の地域でも、この地域の木戸石や守山石の産出とともに山で枯れ木と
なった枝を取り出しそれらを燃料として船で周辺に積みだしていた。
その割り木はお風呂をたくときや生活燃料としてよく使われていた。
何処の家の子たちも、そのころ、釜に割り木を入れる仕事をさせられた。
黄昏のほの暗い庭と、深い紺色をした空、そして、油煙という黒い煤と、
香ばしい割り木の香りをはっきりと覚えているだろう。
このとき、大津の家々は、割り木をまとめて買っていた。毎年秋の終わり
になるころ、何百、いや何千束という割り木を大型トラックに積んで行商
のおやじがもってきたという。
割り木はすべてクヌギやコナラだった。
湖近くの古老は思い出すように眼を閉じ話すのだった。
私もまた、眼を閉じて昔の湊風景を想像してみた。
木の桟橋がいくつも張り出した静かな港に、丸子舟が何艘モ停泊しており、長い
桟橋を人々がせわしなく行き来している。湖岸の際まで続く畑や水田にも人の姿
があり、黄緑色をしたセキショウモがなびく小川が音を立てて湖に流れ込んでいる。
その風景のそこここに、木造りの「にう」が狐色の屋根を光らせている。
採られた割り木は藁で屋根を作ったこの「にう」の中にびっしりと並び、
しばらく乾燥されてから丸子舟であちこちに運ばれた。
湖の周辺の街で子供のころから親しんできた木の木片がこのような形で運ばれていた。
初めて知った心持だった。割り木は、帆を張って揺れる丸子舟に身を任せ、
青く澄んだ湖面を旅していたのだ。だが、そのような雑木林の最盛時代は、
生活の進化で様々な燃料が世に出始めると終わった。しかしながら、その数は
減ったもの、昭和30年代まで割り木の積み出しは行われたという。

浜から30分ほど歩けば、旧家が寄り添うように若い杉木立の中に建っている。
そのなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。白い土壁の蔵や苔むした石積み、
四方にささやかな水音を残して流れる小川が見える。そのどれもに歴史が感じられる。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。黄色い菊の花が緑の中に
2差しほど見える。これらのあつい信仰もまた、長い歴史の中で確実に
生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんが腰をかがめながら、野菊とズイキの太い幹を
だきかかえるようにして歩いてきた。ズイキは干していろいろに使える。
細身にまかれた巻き寿司は秋の匂いがして美味しい。
ちらりと彼を見て、そのしわくちゃな顔を緩めながら小藪の先へと消えた。
その道すがらに大きな柿の木があった。紅く熟れた実が青空にちりばめられたように
黒い枝から四方に広がっている。この実も1つの歴史を見せる。
初夏、白黄色のやや地味な4つの花弁が艶やかな緑の葉の中に彩り、
縁先や庭にこぼれ落ちる。日増しに強くなる陽ざしとともに葉が広がり始め、やがて
実がふくらみはじめると葉が黄色へと色づき、一夜、疾風が過ぎ去ると大半の黄色が散
り、あとには赤だけが蒼空を彩る。
野仏に菊の黄色が映え、さらには赤や緑が加わり甘い香りが満ちると、集落は一段と
秋らしくなっていく。
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。まだ咲いていた、そんな驚きがあった。
薄紫と黄色の可憐な花、細くしなやかな茎とともにたおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めるらしい。
栄養ををたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はこの蝶には、
残された最後の時なのでろう。優雅さの中に必死さが放たれていた。
さらに、あぜ道を上っていくと、秋の匂いが漂ってきた。
見ると、数人の農家の人が薄く映える煙の中に見えた。土手を焼いているのだった。
草が焼ける匂いと刈り上げた稲の藁積みの匂いは、体をリラックスせてくれる。
遠い昔無邪気にその日を過ごした安寧の気持ちが湧いてくるからだろうか、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって田や畑を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働の蓄積がそこにある。草の焼ける匂いは、
自然の力に負けぬように頑張ってきた人の汗の匂いと人としての生業の姿を
思い起こさせるのかもしれない。彼の妻も昔街中で落ち葉を焼いているのを
見ながら、その煙りにしばし立ち止まってその匂いを楽しんだそうだ。
赤い炎が土手の上を走り、枯草を黒い炭に変身させ、その上を白い煙がゆっくりと
たちのぼっていく。少し赤みの増した光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、
大気の中に静かに浸透していく。
紅に燃え始めた空を背に、あぜ道を歩く。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえはじめる。
シリシリシリシリシリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、
今度はジーンジーンという脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。
それと同時に、チンチロチンチロチンチロリンというマツムシ、
ガチャガチャというクツワムシ、ルルルルルルルという連続の
カンタンなど、一斉に翅をふるわせはじめる。
秋は虫たちもうれしそうだ。
ススキの穂がその音に合すかのようにゆらりと揺れている。

歩きながら昔聞いた童謡が心に流れてきた。
「あれ松虫が 鳴いている ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出した  りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ」

いつの間にか口ずさむ彼がいた。
比良の山並みを仰ぐと、赤や黄色に染まりはじめた落葉樹の森と、深い緑が
色褪せない杉の林をぬうようにして、里まで続いている。山頂にある緑はそこはブナ
の林かもしれない。人里より紅葉が進んでいるに違いないが、まだ多くの緑
が支配している。そこは、雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺であり、
尾根道の東側からの紺青の湖面を見渡せる情景と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る西側の景色とでは、全く趣が違う。天から降り落ちてくる水たちが、
山に沁み込んで森を育み、沢が出来るはじまりの場所出もあり、豊かな湧き水の
源でもある。ここは水を生み、育てる場所でもあるのだ。数は減ったものの、
ホンモロコやビワマス、手長エビが捕れ、9月ごろのホンもロコは「秋モロコ」
と言われ、美味しい。手長エビは料亭でも一品料理として出されたり、添え物として
珍重される。四季を通じた湖魚の味は清涼感を含み、舌の上で踊る。
昭和時代になっても砂浜では地引網の漁がおこなわれ、子供たちの声も響いていた
という。

ふと、先日食べた料理グループの作った料理が浮かんできた。
今回は秋の収穫物が満載だった。落花生、カボチャ、ズイキ、アズキ、
ダイズ、シソ、もち米、等々すべて地元産。緑、黄色、褐色様々な彩が
テーブルに並び、野の香りを放っている。目まぐるしく立ち働く料理会の
メンバーの手で、それらが、落花生しょうゆおこわ、カボチャ羊羹、
干しズイキの巻き寿司、鶏つくねバーグ、なかよし豆、シソの実つくだ煮、
ズイキのすみそ和え、カボチャスープ、きゅうりの贅沢煮、に変身する。
さらには前日作ったという自家製パンもあった。特に落花生おこわは
秋の味がじっくりと口の中を支配し、しばしの幸せに包まれた。
その時の櫛を梳いた雲と比良の山並みのまだ深い緑が思い出された。

志賀町史という旧志賀町時代にまとめられた立派な本がある。そこにある
「志賀町の四季」からは、この地の自然の豊かさが感じられる。
「本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人
によって、歌われてきた。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや

楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。」
そして、ここに記述されている自然は今もなお私らの目の前に変わらぬ姿を見せている。

勝原文夫氏は「農の美学」という本の中で、景観を「探勝的景観」と「生活的景観」と
に分けている。その上で、前者は旅行者的審美の態度によって「探勝的風景」となり、
後者は定住者的審美の態度によって「生活的風景」となると考えている。つまり、外か
らやってきた旅行者が風景の美を探ったものが前者であり、農村の中で暮らす生活者が
自分たちのいる風景に美を探り出したのが後者だという。
また、木股知史氏は「<イメージ>の近代日本文学誌」の中でこの勝原氏の図式を「武蔵野」
に援用し、こう述べている。「国木田独歩『武蔵野』に始まる田園風景描写は、旅行者的
審美の態度による生活的景観の発見という性格をもつものであった」。「旅行者的審美
の態度が生活的景観に加わること」は、勝原氏によれば「本来的なもの」ではないが、
しかし木股氏はこれこそ『武蔵野』に見られる現象であると言う。
多分、このことは今の私にも当てはまる。風の人である私にとっては、やはり「外」の視点からこの地を見らざるを得ない。たかだか20年の歳月では、「生活的景観」として
見ることは難しい。

だから、「ただの風景」として見つめたことがより重要なのかもしれない。そこにこの土地の良さを感じる強みがある。だが、大正から近代化に伴う自然破壊を言われ続けてきた人のあくなき破壊はいまなお続いている。
例えば、昭和の初めのこの志賀の地域の生活や人の想い、湖西線開通、小野の大規模な新興住宅地のローズタウンの誕生、幾多の土地開発など変貌していく湖西の姿を描いたクレソン(藤本恵子)
という本にも
以下のような記述が見られる。
「、、、1人の女の子に、いつもきれいな琵琶湖が見られるから幸せやねと言われたのだ。
ここ数年の、琵琶湖の汚れが極まることへの警告と、琵琶湖を守ろういう熱い盛り上がりの圏外にいたのだろうか。冬夫とて何一つ具体的な行動に参加しなかったが、だが心情的には始終、飛沫を浴びてきたし、見つめてきた。2年ほど前から、琵琶湖の病状が出てきた。
黄緑色の水が、春には赤褐色に染まった。プランクトンによる、赤潮の発生だった。
宅地開発と工場建設が進むにしたがって、病状も重くなった。工業化、近代化が湖の浄化機能をこえたのだ。琵琶湖はたしかに喘いでいる。、、、きれいな琵琶湖なもんか、死に体や。
湖は生きたがってるで。冬夫はじりじりしたまま、うなだれた。」
今見える美しい群青色の琵琶湖は、かって赤く沈澱したため池になったのだ。昭和42年
5月初めての赤潮発生であった。そして、それは多くの琵琶湖を愛する人々によって救われ、
「生活的景観」が守られた。

また、全国的に見ても「日本人の心の歴史」にある朝日新聞の記事の事態があちらこちらでその無残な姿をさらし始めていたのであろう。
「昭和45年4月13日の朝日新聞は「春は来た、どこに来た」という題の大きな社説
を載せた。今その要点を拾って写す。
4月、うららかな日差しをうけて日本がこよなく美しく装われるはずの季節である。
然し現実は、陽春という長閑な語感からは遠い。都会の街路樹には、もはや芽を吹く
力もないものも少なくない。春がすみのたなびく山々にも。そのかみの面影は
見られない。無造作に山腹をえぐり取って走る観光道路は、ときにその沿道の
林までも枯らしてしまう。富士山や奈良の大台ケ原の有料道路がなどがそれである。
さまざまな要素が絡み合う中で、自然は急速に破壊されつつある。われわれも、
いつかそれに慣れ、半ば不感症になっている。社会の進歩とか地域開発とかためには、
それも仕方がないのではないか、といった言い方もされる。だが、ほんとうにそうだろうか。
群馬県安中市の亜鉛工場の裏手の丘には、枯れた桑畑、桐の大木、気まぐれに生えた
都しか思えない不揃いの麦、といった風景が広がる。工場で植えた防毒林さえ、
空しく枯れてしまっている。カドミウムの粉塵を含むガスが春の訪れを拒否している
のだ。天日のために暗いのは川崎、四日市だけではない。メガポリスとは青空の
ない街のことかと聞きたくなる。そこでは春風さえもが、鼻を刺す悪臭を運んでくる。
儲かりさえすれば、周りに迷惑をかけても、という企業エゴイズムを指弾する
ことも、もとより必要だ。しかし、公害をもたらす原因となるのはそれだけではない。
最も根本的には、自然に対するものの考え方が間違っているのである。
、、、、
経済成長をたたえ、国民総生産の数字を誇るのもよい。だが、其のGNPから失われた
自然を引き算してみれば、われわれの貸借対照表は、かなり違ったものになるのではないか。
自然の破壊は、そのまま人間の心情の崩壊につながる。「ふるさとのやまはありがたきかな」
とは、人間だれしもの心であろう。その故郷の自然が、はげ山とどぶ川に変わり果てれば、
われわれの心は、その一番深い所で、癒しがたく傷つく。そのような環境で育つ
われわれの子孫の心は貧しく、また、とげとげしいものとなるに違いない。
おそらく日本は、あまりにもゆたかな自然に恵まれすぎたのかもしれない。
われわれはそれに甘えて、自然に暴虐の限りを尽くしてきた。だがそれはもう許されない。
日本の自然は、その人情とともに、まさに荒れ果てようとしているからである。、、、」

ほんの一瞬の出来事のようなスペインやブラジルなどの他国との交わりの中で、自然の様々な変容に対しての日本人の在り方の違いを感じた。そして、それが文化や生活の違いを形作っているということも体感できた。古来よりの日本人の基盤となってきた自然をできる限り後世へつないでいきたい、昨今そんな思いが強い。

2023.01.10

死の思い

白は死に思いが馳せる。
今日もまた比良の白さだけが目立った。白と黒の世界、水墨画がそこにある。
琵琶湖の湖面も重く垂れ下がった雪雲に黒さをぬめりと見せている。
ときに日本海の荒々しさをまといあの原子力発電所の光景を思い起こす。
鋭利な葉先で頬は削られ指先の感覚が凝った。打ち付ける白い牙にも
見えた波頭の圧倒的な強さに身が締まった。そこに死を感じた。
だが死は何だ。そんな疑問も吹きすさぶ風雪に縮こまり消された。

私的死への想い

「死」テレビでよく報道されているテロやウクライナなどとの戦闘シーン、そこでは人は
容赦なく殺され、死に至る。だが、特にわが国では、死が日常から離れ、死の直前
に至るプロセスはあまりお目にかかることはない。更には、自分や愛する人々の死
について考えることを先延ばしにし、「死」そのものさえ忘れ去ろうとしている。
われわれは、死を看取る力を次第に失い、死にゆく患者のそばにいながらもその願い
が聞こえなくなってきているのかもしれない。

実際死に直面した自分はどうなるのだろうか、岸本英夫氏の「死を見つめる心」
の一文がその答えの1つなのだろう。だが、「死後の世界」をどう見るべきかの
答えはまだ見つかっていない。

「癌の宣言は、私にとって、全く思いがけないことであった。寝耳に水であった。その場
では、私は、自分にとって非常に重大なことを知らされていることはわかりながら、そ
の事柄が、あまりに重大なので、そのほんとうの意味が良く理解できないというような
、戸惑った気持ちであった。
病院からの帰りの自転車の中で、ふと気がついて見ると、自分の心はすでに、異様に緊
張しているのを知った。ほんの一時間ほど前、病院に向かう時には、冗談でもいえそう
なゆったりした気持ちであった。同じ自転車に乗っていながら、今は、全く、別人のよ
うな気持ちになっている自分を見出した。
・・・
ソファーに腰を下ろしてみたが、心を、下の方から押し上げてくるものがある。よほど
、気持ちをしっかり押さえつけていないと、ジッとしていられないような緊迫感であっ
た。われしらず、叫び声でもあげてしまいそうな気持ちである。いつもと変わらない窓
の外の暗闇が、今夜は、得体のしれないかたまりになって、私の上に襲いかかって来
そうな気がした。」
さらに彼は書いている。
「私自身は、はっきりいえば、そうしたこと(死後の世界)は信ずることはできない。そ
のような考え方はどうも、私の心の中にある合理性が納得しない。それが、たとい、身
の毛がよだつほど恐ろしいことであるとしても、私の心の中の知性は、そう考える。私
には、死とともに、すなわち、肉体の崩壊とともに、「この自分の意識」も消滅するも
のとしか思われない。
・・・
まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私はたっ
ていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった。私は、もし、自分が死後の
理想世界を信じることができれば、どれほど楽だろうと思った。生命飢餓状態の苦しみ
を救うのに、それほど適切な解決法はない。死後も、生命があるのだということになれ
ば、はげしい生命飢餓の攻撃も、それによってその矛先をやわらげるに相違ない。
しかし、私の中にある知性は、私にするどくよびかけてきた。そんな妥協でおまえは納
得するのか。それは、苦しさに負けた妥協にすぎないではないか。その証拠に、お前の
心自身が、実はそういう考え方に納得してはいないではないか。そのするどい心底の声
をききながら、私は、自分の知性の強靭さに心ひそかな誇りを感じ、そして、さしあた
りの解決法のない生命飢餓状態にさいなまれながら、どこまでも、素手のままで死の前
にたっていたのである。」

「死後の世界」、それは仏教が広く社会に受け入れられた時代と大きく変わって来た
のだろうか。たしかに近代科学が発達したことにより、「死は個体生命の終結」
という考えが強くなった。しかし、memento mori(死を想う)という意識は、
イエは永続するという血食の思想など柳田国男や折口信夫など民俗学者も論を交えている
ように、単なる一個人の肉体の消滅以上の意味を持っているともいう。
更には、長く続く日本の民俗文化、仏教的思想をベースとする死生観は社会的な流れに
あわせ、変化していくのかもしれない。

仏教的思想としては、源信の書いた「往生要集」がある。大文第十までに及び厭離穢土や
欣求浄土に行くための念仏の必要性などを説いている。更には、閻魔王庁図などの六道絵
によって、イメージ化され民衆に受け入れやすくなっている。阿修羅道図、餓鬼道図、
阿鼻地獄図などその犯した罪により様々な地獄が描かれており、如何にも恐ろしい。
更に多くの如来や菩薩が迎えに来る来迎図と合わせ近世の人は、感激しながらそれに
見入たのではあるまいか。彼らには、ある意味、死後の世界が必要でもあったのだ。

また、「日本往生極楽記」は慶慈保胤(慶の保胤 よしのやすたね)によって10世 紀に
できた「往生伝」の日本でのさきがけであるが、42伝をおさめている。
慶慈保胤は、この本の序文につぎのようなことを書いている。

自分は、40歳のころから、阿弥陀の信仰に深く志し、…出家者と被出家 者を問わず、
また男女を問わず、極楽に志しあり、往生を願う者には、かなら ずかかわり合いを持
った。中国の浄土論にも、往生した人二十名の伝記を記載 しているものがある。それ
は非常にすぐれた[往生の]証拠となる。人々の智 恵が浅くて、浄土教の原理の理解が
十分ではない。もしも往生した人のことを ありありと描写しないならば、人々の気持
ちを十分に納得させることはできな いだろうと言われている。、、、、
できれば、私はすべての人々とともに、極楽浄土に往生したい。

彼によれば、幸福とは、「極楽往生」という答えとなる。 死ぬこと自体が歓喜となり、
そして死後に極楽の生が保証されている。そのような死に方=生き方をすることが
最高の幸福だというのである。ここに、現代の死への考え方はない。
それが、中世から近世への人々の基本的な想いなのであろう。彼らにとって、「死後の世界」
は幸福なのだ。そのためには、仏教の教えに頼ったのだ。「往生要集」の
根底は、念仏による極楽への導きなのである。

2023.01.05

北の島の老漁師 浜下福郎という人

今日の比良は一段と白い。
重く垂れ込んだ雪雲が黒墨の帳を落としている。
テレビで礼文島の小さな漁村に1人で住む92歳の老漁師をみた。
寒いとはいえ0度前後の外気温に家にこもるだけしか能のない私には衝撃的だった。
コンブ漁で生計を立ててはいるが話す相手のいない孤独の日々。
人はこうまでしても生きられる。感動した。自分ではできない。
恥ずかしかった。さらに
コンブ漁の手伝いに来る人の全く別な生き方、世の中の広さを知った。
彼女は言った。行くところすべてが私の故郷だ、と。人はどこか根無し草を
嫌う。遠く離れていても心の寄る辺を欲している。しかし彼女は違った。
生きざまの多様を思い知らされた。

 

北の島の老漁師 浜下福廊という人

 

吹きすさぶ烈風
黒く逆立つ白い波の連なり
高鳴る海鳴りが浜を飲み込み迫る
小雪交じりの風に寒さが身を凝らせる
そこにたたずむ老人
この漁村の唯一のすみびと
92歳の老骨を厭わず今日も浜辺に立つ
かれの90数年がそこに凝縮する
彼は漁師でもあり詩人でもある
笑顔と生命
彼が好んで書きつける言葉
彼は日々の暮らし漁の様子を漁師日記に書いてきた
詩もまた同じ
ニシン漁に栄えた日々に思いをはせ
吸う百人のかっての若者との楽しい日々を思い
10年前に他界した妻との生活に懐かしさを追い
妻の元気だった姿に涙し
短い夏に咲き乱れるレイブンアツモリソウの群生に身を沈め
そのすべてが詩に変貌する
コンブ漁に若い人たちがくる
夏のひと時の語らい
語らいは詩に命を注ぎ新たな詩が生まれる
今年の夏もコンブ150箱を送り出して終わった
楽しく語らった人との別れ
そして孤独に生きる詩人となる
孤独を愛するというひとがいる
それは似非者で偽物だ
孤独はしんどい
それを生きるという執念で続けてきた
この極寒の島で90年
本物の孤独の人がいる
人は問うだろう
なぜそうしてまで1人で生きるのですかと

 

 

«参考となる本 その4

最近のトラックバック

2023年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ