2019.05.24

立夏、まさに夏が攻め立ってきた

第7節気  立夏(5月5日から5月20日ごろ)

青く澄み渡った空が何日も続いている。比良も深い緑がこぼれ落ちそうに
山裾まで緑の帯を伸ばしている。裏山の雑木林の中、木々をあおぐ。
ちぎれ雲が思い思いの方向に動き、大地には熊笹の群生が光を浴びている。
少し前までは灰白色の樹皮をさらし、枝も骸骨の腕のような殺風景な姿
であった銀杏の木もいつの間にか柔らかな緑の葉を重ね合わせ緑の装い
を成していた。
イヌシデの大きな葉が、しなやかに波打ち風に揺れ、太陽の光を浴びている。
もう少し経つと木々の葉が一段と育ち、見え隠れする比良の山並みもやがて
緑の壁にさえぎられる。だが、今は緑色の穿った隙間から漏れこむ日が地面に
映え、明るく澄んだ空気を見せている。

雑木林が開くと、雑草が入り乱れた花を咲かす野原に出た。そこに二つの
直立したピンクを帯びた白い清楚な大輪の花が迎えてくれる。
ササユリは、ヤマユリのように多数の花をつけない。また一華だけでもない。
成長すると三つの花をつける。三枝の名はそれに基づく、三は三種の神器
のように意味ある数字である。
太い幹にラッパ状の花をつけ、地面の緑に浮いている。以前、古老に
聞いたことがあった。ユリの球根は、血行を良くし、痰をとり、脚気に
効くなどの薬効がある。又食用としても使われた。昔は神社の庭にも多く
見られたという。ササユリは、巫女がそれを持ち踊ったというから神事
に多く使われたのであろう。近くの神社の裏にひっそりとした趣で
白と紫の花菖蒲が咲いていた。ゆるく開いた花は日本女性の奥ゆかしさ
表しているようにも見えるが単なる老人の片思い、幻想なのだろうか。
この時期、神事に絡む花々があちらこちらで散見できる。
緑一色が支配するような中で、ふと古代の心根が湧いてくる、そんな時期でもある。

5月の連休を過ぎると稲の子供たちが規則正しく並び立っている。今年は10連休、
令和という新時代の始まり、だが里は何も変わらない。日常の自然が
滞りなく進む。「田水張り」、代掻きが終り、苗が並び立つ。
シラサギがその白く凛とした姿を見せている。
数百年変わらず続いている風景、人と里の共生は里の生活も変えない。
風土は人を創り、食べ物を育てる。多くの湖の魚たちも美味しい季節だ。
近くの小川にいくつもの小さな光がその薄い光跡を見せ始める。
立ち上る金粉のような輝きを見せ、彼らはその短い命をこの季節に育む。

我が家の庭、緑がこもり日の照らすにあわせて時に深く、また黄色味を帯びたり、
白く光映えたりしている。その草叢に愛犬が低い唸りを上げながらそこから動かない。
近寄って見るとまだ若いカマキリがその艶のある鎌を逆立てて重なり合う
葉群の中にいた。更にもう2匹、同様に犬に向かって威嚇している。
黒い鼻先からほんのわずかの距離をおいて、彼らは対峙したまま動かない。
見ているこちらが飽きたころ、ようやく犬はこちらに向き直って紅い
大きな舌を出して一声吠えた。
「暑いのに、ご苦労様」
思わず頭をさすった。

4月末から5月と春の祭りが各地域を彩ってきた、昔は菖蒲祭りや御田植え祭り
など豊作を祈願した祭事が少なくなかった。だが、それも姿を消しつつある。
芳賀日出夫氏の「日本の民俗」にこんな文がある。
「祭りを行うときには、聖なる場所を清め、五穀、餅、神酒、塩、野菜、
魚などで、神の降臨を待つ。祭主の祝詞により神は祭りの挨拶を受け、
願いを聞く。そして神は人々に生きるエネルギーを与える。それは神と人の
共食いであり、芸能である。我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、
怠惰になる。非日常のハレの機会の祭日に神と交歓し、活力を得て、
日常生活に戻るのである」。
村が共同体としての機能を大きく持っていたころとは違い、その残滓としての
神社は形は残っているが、少しづつその役目を失いつつある。
北小松、南比良、木戸、それぞれの地域で神輿が練り歩く。田には水が満ち、
稲の子供たちも顔をそろえ始め、希望の歩みを始めるようだ。
氏神の天皇神社の春の祭りもそうである。

雲が一片足りとも見えない蒼く透明な空とともに祭りの日となった。
普段わずかな人影だけが見え隠れする境内には五基ほどの神輿がきらびやかに
鎮座している。その少し先にある鳥居から三,四百メートルの道の両脇には
色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、
たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの
塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると
ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。
周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。
駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に
照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。
神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。
揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、
スマホで写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。

その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。
いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。
神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた
興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。
少し前までは、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、氏子たちが
納行事を始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、その面影は薄い。
やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を抜けてくるようで、
厳粛な雰囲気は消えつつあるが、人が醸し出す明るさは今のこの街には、
ふさわしいのであろう。神輿渡御の時間となった。五つの神輿が中天にかかった
陽を浴びて、ゆらりと動き出す。金色の光りが四方に放たれ、若者の発する熱気
とともに、周囲の空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその若さを
取り戻すかのように、先頭に立ち、歩き始める。入り乱れる足音と道路沿いの店店
と人々が放つ喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。神輿はやがてその熱気を
残し浜へと向かい、金色の光りを和邇川に映しながら、小さくなって行く。
古き良き時代と新しい波の訪れ、その混じり合う香りを残していく。
多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたちの安堵の
溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。
幾重にも重なりあうように稲の子らをその胸に抱え込むように
水田が続く。その横を力強く鯉のぼりが空に浮いている。水色や
赤の鱗を風の中でゆるりと動かし何十もの鯉が五月の空を湖に
向かって泳いでいくように見える。

すでに30度を超す天候である。まさに立夏の名にふさわしい?昨年のような
身動きできないほどの猛暑は勘弁してほしい。老人の切なる願いだ。

2019.05.04

緑滴る、穀雨のころ

第6節気 穀雨(4月20日から5月4日ごろ)

里が緑の中に沈んでいる。穀雨、「雨が降って百穀を潤す」という。
この頃は、暖かな雨が降り田畑を潤す。比良の山、へばりつくような
白きものが消えた。雨の多い日が続いた。

ふと、春に降る雨の呼び名を思い起こした。
降ったり止んだりと定まらない雨、「春時雨(はるしぐれ)」。
しとしと静かに降る雨は「春雨(はるさめ)」、反対に激しく降るにわか雨を
「春驟雨(はるしゅうう)」という。花の開花を促すように降る雨、
「催花雨(さいかう)」、菜の花などの花々が咲く、「菜種梅雨(なたねづゆ)」。
色々とあるものだ、数日前は催花雨か、白、ピンク、黄色、彩は里を潤し
艶やかな緑に映えている。紅色の大輪の牡丹、雪を乗せたような雪柳、
白やピンクの枝花のはなみずき、朱色に燃え立つ垣根の紅花トキワマンサク、
マサキの垣根が黄緑色から黄金色に変わり、小粒の黄色い花のキソケイが
重なり合い家並みを黄色の点描で仕上げている。庭の片隅、紫のとんがり
帽子の形が崩れ大きなピンクの花弁を陽に向けたシャクナゲがいる。
緑にも、薄緑、黄緑、深緑、浅黄、様々な緑が彩なしている。

湖辺の葭(あし)が芽吹き始め褐色と薄い緑を混ぜ合う。
葦牙(あしかび)がその鋭角な若芽を牙のように見せて水面から顔を出す。
タンポポはすでに太い薄緑の茎から黄色の花を落としている。
黄色の花びらは白い骨組みの球体に変身し、茎にその身を預け、
乗って風にその旅立ちが来るのを待っている。細い道がどこまでも続き、
空の青さに混じり込んでいく。白く薄い布端の雲が道と土手と空が
織りなす水平線の上を流れる。比良の山並みは薄緑、黄緑、深緑と
様々な緑が綾を作り、ゴブラン織りの姿を見せている。
秋の紅葉に合わせたゴブラン織りがよく知れているが、春のこの情景
も素晴らしい。山の頂から中腹へさらには里へと緑が様々な色合いを
見せ、すべてに生命の光が見えている。

比良の天満宮のまつり、この季節集落のあちらこちらで春の祭りがある。
木戸や比良、小野、春の心地よさが神輿を担ぐ声とともに、集落を一層
わき立たせていく。社叢の奥に隠れ住んでいたような気分の神輿
がその晴れやかな姿を見せるのもこの時期だ。金箔に映える光が、
ハレの空気をさらに高めるかのように四方へとその金色を差し込んでいる。
法被姿の若者を先導する袴姿の古老たち、日頃の風情とは違い、
少し緊張を高めながらゆっくりと石畳、アスファルトの道を進んでいく。
それを見ようと子供連れの若い夫婦や老人たち、周囲を駆け巡る子供たち、
それぞれの喧騒を立ち込めて神輿の一団を見送る。

家々では、祖母から受け継いだ家の味で鯖寿司が手際よく作られていく。
横では、イタドリ、ユキノシタ、コゴミ、タラの芽、せり、おおば、春菊、
よもぎ、ワラビ、よめな、三つ葉等春の旬菜がいっぱい置かれ、
てんぷらになる準備中だ。さらには、おひたしや、ゴマ和え自然の恵みを
舌と目で味わえる季節なのだ。奥では、朝採ってきたよもぎをつぶし、
混ぜたよもぎの草餅が何10個となく並んでいる。
竹林では筍が収穫の時期を迎える。筍が元気な姿を見せる。筍の魅力は、
春を感じる独特の香りとコリコリとした独特の歯応えであり、それを
楽しむ方法は郷土料理にはたくさんあるが、中でもよく親しまれているのが
佃煮。細かく刻み、木耳(きくらげ)や椎茸などと混ぜ合せることで、
食感が更に引き立つ。その味は、食べたものでしか分からない。

立夏直前には、八十八夜がある。「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の忘れ霜」
と言う言葉もあるが、それは気温が下がって遅霜(晩霜)が降り、
農作物に被害を与えることを警戒した言葉だ。八十八夜が過ぎれば、
遅霜が降りることは少なくなり気候も安定することから八十八夜は
昔から農作業の目安とされ、農家ではこの頃から本格的に農作業に
とりかかる。今は少なくなったが、野村地域ではお茶が育っていた。
やはりこのころの一番茶はその香りとともにゆっくりと味わいたいものだ。
八十八夜のお茶は昔から長寿の薬とも言われた。

2019.04.19

春が飛び跳ねてきた、二十四節気、清明の頃

第5節気 清明(4月4日から19日ごろ)

 

比良の山並み、野の原、街と1ヶ月ほど前と全く趣が違っていた。
モノトーンの世界が、白、黄色、薄紅色、ピンクいろと様々な色が
満ち溢れている。澄んだ青く深い空、湧き水の心地よい冷たき肌触り、
二十四節気「清明」とは上手くいったものだ。

 

日ざしがほのかに降ってくれば
またうらぶれの風も吹く
にはとこやぶうしろから
2人のをんながのぼって来る
けらを着、粗い縄をまとひ
萱草の花のようにわらひながら
ゆっくりふたりがすすんでくる
、、、、、  (宮澤賢治 廣原淑女 より)

 

春の喜びを感じる詩だ。
ユキヤナギの小さな白い花が道の両端にこぼれだし、すぐに目のつく
黄色の花群、やや大ぶりな黄色のスイセンがこちらに微笑んでいる。
地面いっぱいにネモフィラの花が広がって、青いじゅうたん。
青空のような瑠璃色の花はその1つ1つは小さいが一面に広がっている。
それは春そのものだ。青の後景に浮かぶ木蓮の白と濃い桃色の
グラスのような花の揺れ。家の連なりに合し、黄色、ピンク、紫など
その色の多さ、チューリップの鮮やかな色並み。
すべてのものが清らかで生き生きとしている。それはまだ枯葉模様
の残る山端を歩いても同じだ。沢の光を発しながら流れ落ちていく
水は清らかに輝いている。手を差し入れると、その冷たさに思わず
手を引くが、それは温かみのある冷たさだ。
艶のある若葉の緑が色を成すブナの林、以前は10数メートル以上の
大木も見られたというが、今は小ぶりなブナたちが春の陽ざしの中で
風に小さな舞をしている。

 

周辺の寺では、4月はじめになると、花祭の様子が聞こえてくる。
「植物と行事」という本の一節に以下のような記述がある。
「春4月は花見に始まり、花まつり、花折り始め、花の塔(花の頭、花の当)、
花供はなぐ、花会祭、花摘み祭、花供養と続く。花見を除けばそれらは、
寺や神社の関係が多い。
なぜ、寺社と花が結び付いたのであろうか。
仏経の4月の行事は、8日の花祭が著名だが、ほかに花供と花折り
始めがある。花供は仏さまに花を供える儀式で、花折り始めは兵庫県
氷上郡などで行われる新仏のある家で4月8日に花を供え始める行事である。
花祭は花で飾った花御堂と呼ばれる小堂を作り、誕生仏を水盤に安置し、
その頭上から竹のひしゃくで甘茶を注ぐ。甘茶は名前の通り甘いお茶。
その甘さは、祖母につれられて味わった私の遠い記憶では、砂糖と
違って後まで口に残る甘さであった。」
私も含め、今の高齢者の多くは、この文に限らず、それぞれの少年時代
に生きた場所でもらった甘茶の味が微かな記憶をたどるなかに思い
出されるであろう。濃い褐色のほの温かいお茶のこれもほのかな甘さ
が口の中に沁みだすような、そんな気持ちになる。

 

すでに彼方此方から桜の開花や花見の様子が伝えられていたが、このあたりは
少し遅い様で清明の半ばごろに桜も満開となる。公園や坂を少し下った道沿い
桜も薄桃色に包まれ、なぜかこの情景に飽きが来ない。日本人の特性か、
風土に育まれた無意識のなせる業か、まあ、花見人間にとっては理由はいらない。

 

農作業がすでに始まった田んぼもあり、水が張られ、気の早い蛙は日夜その
独唱に励むようになる。水を湛え始めた田圃にも生気が蘇り、畦道にも命
の息吹が見えていた。ハコベの緑に加えタンポポの小さな黄色が幅を利かして
いたし、紫の小さな花々がその横に一団となって咲いている。水の入っていない
休耕田であろうか、透明感のある小さな桃色の花が一面をおおっている。
蓮華草の花畑だ。昔は、肥料として使うため、蓮華草の種を夏の終わりに
播いたという。その葉が放射状に刈田に広がり緑の絨毯となって冬を過ごすのだ。
そして、春を待ちかねたように桃色の世界を田の中に演出していく。そこに、
蜜蜂も訪れ、春の賑わいをさらに高めていく。
気の早い人はすでにトラクターの騒がしい音を畑や田圃一杯に響かせている。
雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。

 

松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。

 

木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。我が家のサクランボもその奥ゆかし気な
白い花を褐色の枝枝の四方につけている。既に老樹の趣で、枯れるのみの
姿であったが、春はまだこの木を生かしていくようだ。
春は、冬の間に湖で静かに時を待っていた魚たちにも、新しい動きを与える。

 

坂の下を流れる川のなかに10数匹ほどの黒い影が動きまわっている。
この川には、毎年春も終わりの頃になると、フナがのぼってきたと近くの
古老が言っていた。
別な老婆も「フナは田んぼにのぼってくる」と皺のある顔を一層しわくちゃ
にして話していた。昨夜の雨はあたりの情景を艶やかな緑の世界にしていた。
木々の緑や畑の土、それから遠くにそびえる比良山の山肌までも、しっとり
とした深みのある色彩に塗り替えていた。
川はあふれんばかりに水嵩をましている。渦を巻く濁流を見つめていると、
普段見ている川とは全く変貌し、怖いくらいだった。時折、川が揺れ、
小さな光が目はじに届く。
フナたちがいた。それは褐色の葦がまだ多い中、緑映えた若い葦をすり抜ける
ように優雅な泳ぎを見せている。

 

そして春は山菜の群れ騒ぎ、タラの芽、セリ、ゼンマイ、ノビル、
フキ、クレソン、コシアブラ、上げればきりがない。タラの芽は
天ぷらも美味しいが、そのままバターやマヨネーズをつけて焼くのも
中々に美味しい。ちなみに桜ご飯も、その香りとともに春の一品、葉桜や
満開の花群を見るのもよいが、こちらは味覚、臭覚、視覚が活きます。

 

2019.04.03

春はまだか、春分に思う?

第4節気 春分(3月20日から4月3日ごろ)

春は、まだあの山の向こうにあるようだ。
寒い日が当たり前の顔を見せている。
足元を、褐色の色模様だけが幅を利かせ、緑の小さき葉が申し訳
なさそうに褐色の後ろに姿を見せる。比良の山並みは薄墨の中に
消えている。ただ、茫洋とした灰色の世界が麓まで落ちてきていた。
数日前に見た、山際に薄緑の野原に円い帽子をかぶったような蕗の
濃緑を思い起こす。その摘み取った蕗を和えた上に手長エビの赤が
微妙な色合いを見せている郷土料理、その味が口にあふれる。
春はやはりほのかな桜の香りを楽しみながら食べる桜餅がよい。
3月半ばから4月初めまで、長く降る雨を春霖(しゅんりん)という。
湖辺には菜の花が群れている。その黄色く揺れる様を想えば、菜種梅雨
(なたねつゆ)もあうかもしれない。春の雨には柔らかさがある。
春に音もなく地上に落ちる天からの雫は、人も動物も、そして草花も
それを望むかのように天に向かい、自身の姿をより高く伸ばしていく。
ここの春は3月26日比良八講から始まるという。
阿闍梨、修験者の唱える読経と薄青く光る空に向かって厚く太くたなびき
上がる白雲は龍が天に昇るがごとき強さがある。
八講の比良山見ゆれ枯木原     青々
八講はすぎたしらせか鶴のこえ   楓下

柳田国男の「雪国の春」にこんな一文がある。
「奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、風はやわらかく
水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日が少し続くと、
ありとあらゆる庭の木が一せいに花を開き、その花盛りが一どきに
押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している
暇もないうちに、艶麗な野山の姿はしだいしだいに成長して、
白くどんよりとした薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、
やがて閑古鳥がしきりに啼いて、水田苗代なわしろの支度を
急がせる。このいきいきとした季節の運び、それと調子を
合わせていく人間の力には、実は中世のなつかしい
移民史が隠れている。」
生き生きとその情景が見えてくる。この周辺では、まだこれに
近い情景が垣間見られる、まだまだ捨てたものではない。
桜はまだ蕾のままだが、コブシの小さな白い花や木蓮の白、紫
が家々の垣根越しに見える。山菜取りも始まった。
次の節気には、様々な色どりに混じり、せり、オランダガラシ、
ノビル、スイバの山菜が取れるかも。てんぷらや和え物も春の香りを
添えてくれる。

2019.03.20

虫たちも喜び騒ぐ、啓蟄の頃

第3節気 啓蟄(3月5日から19日ごろ)

東の方から少しづつ、まるでモノクロ写真のような 暗さが
やがて白い光となってくる。 ピンクの花衣をつけた梅の木、
まだその葉さえつけていない紫陽花、薄黄色の丸い実をつけている
金柑の木、最後には、毎年赤い大きな花を咲かせるデゴニアへと、
黒いポーチの枠を映しながら白い帯が微妙な速さで流れていく。
それは朝の自然の習慣のようでもある。

少し前まで冬と春がせめぎあうような湖、比良の山々、だがそれも春が次第に
にじり寄ってその強さを増している。 少し前まで見せていた中空の月の姿は、
今はなく、ただ青い空が 全天を照らしている。 朝のしじまが少しづつ、
その明るさと喧騒さに紛れ、一枚一枚皮を剥がすかのように朝の顔になって行く。
この時刻、琵琶湖に向けて歩みを進めると、まだ白いものが残る比良の山並が
少しづつ後ろに流れ、目の前に広がる 蒼き湖が少しづつその大きさを見せる。
浜辺に立つ。八幡山が朝の霞に薄いベールでおおわれ、湖辺と対岸の山々を
溶かし込んでいる。春の暖かさを告げていた。
啓蟄、二十四節気のいう生命の息ぶきを感じる春、すべての情景が冬の衣を脱ぎ
捨て始める。褐色の大地に可愛いピンク、黄色、白などの彩が顔を出す。
名もなき雑草と言われる草たちも冬のややくすんだ緑や茶褐色から光る緑へと
その姿を変えつつある。遠く雑木林からウグイスの元気な声が聞こえる。

花さそうひらの山風ふきにけり こぎゆく船の跡見ゆるまで(宮内卿)

春は山菜の季節だ、3月末から5月へと色々な味が楽しめる。 雑草が伸び始めた
野原を歩くと、茶褐色の枯草の斑模様の緑の中に、ノカンゾウ、クサソテツ
(コゴミ)、たらの芽、ぜんまいなどかひっそりと顔を出している。
いつみてもゼンマイのあのくるっとした姿はほほえましい。
昨夜は酢味噌和えとてんぷらにしたノカンゾウやタラの芽が食べられた。
お浸しにして、カツオぶし醤油をかけるとサッパリ味で美味しいものだ。
思わず、口の中でその味がはじけた。2日前には珍しい魚を食した。
知り合いの漁師さんか分けてもらったイワトコナマズだ。
その活きつくり、泥臭さが全くなく上品な味をしていた。イワトコナマズ
は琵琶湖の固有種だそうだ。
一雨ごとに桜の蕾もふくらみ、褐色な地には薄緑色が支配しはじめ、
雨がその艶やかさをにじみ出す。
さらに時を経れば、心地の好い風が吹き、青空の色も次第に濃く群青となる。
羊の群にも見えるさまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の
先駆をするように少し暖かさを含んだ微かすかな風に送られ、比良から
湖へと歩み去っていく。
時に春らしい光を含んだ西南の空に、この雲に視線を流す。急に雲の形
があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて
南へ動きながら徐々に薄く消え去る。するとまた、次の雲の形が同じ
位置にあらわれ、同じように広がる。柔かな乳青色の空にすこし灰色の
影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。この高台から眺められるのも
春だからだ。
「菜虫蝶と化す」、説話に「胡蝶の夢」というのがある。本当の私は蝶で、
人間になって美しい蝶の夢を見ている、そんな話し、また影が本当の私で、
影を生んでいる私は夢の人、そんな話もある。
春の朧に、夢は楽しく見たいもの。

2019.03.04

第2節気雨水(2月19日から3月4日ごろ)そろそろ春?

2節気  雨水(2月19日から3月4日ごろ)

既に3月になる。みぞれや小雪の多かった数週間前に比べると雨の降る日
が多くなってきた。確かに季節は雨水へと移りつつある。
まだ寒い日もあるが、少しづつ暖かさの断片が周りを覆うような日も
増えてきた。湖面の色も暗い群青の色から少しずつ淡い緑のまざった
青へ変化して川面もまた軽やかな幾筋もの線を描きながら流れて行く。
梅の蕾は緩み7分ほどまでに咲いている。だが、暁春の風は冬の冷たさ
を持って庭の木々を縮ませている。
目の先には、灰色の空を後景にしてこれも灰色の比良山が幾筋かの雪影
を乗せて佇んでいる。まだ比良の山並みは冬の衣装をまとっているが、
春の心地よさにその雪影を消しつつある。
ある朝、モノクロ一色の世界に少し赤みが差し始め、天空を覆いつくしている
雲をこじ開けるが如く僅かな朝陽がその峰を照らす。薄灰色の中に春の暖かさが
忍び寄り、冬の重さも軽くなる。
メジロであろうか、その尾を小刻みに震えさせながらピンクに染まり始めた
梅の木を縫うように飛び跳ねる。小鳥の飛ぶ空に薄き羽衣のような雲が
ゆっくりと湖の方へ流れて行った。春を含んだ弱い風が鳥たちを包むように
頬を撫ぜ、左から右へと吹き抜けていく。

季節をよく現しているのに、二十四節気と言うのがある。
雪が雨になり、氷がとけて川へと流れだす頃となり、街ではあちらこちらで
梅の花が咲き、風景を薄紅色に染める。春の香りが漂い始める。
二十四節気は立春から始まるのだが、今は二番目の雨水である。
その最後の候に、草木萌動(そうもくめばえいずる)2月28日頃、
草木が芽吹き始める頃とある。催花雨、草の芽が萌え出すことを
「草萌え」(くさもえ)とも言い、また、木々についても木の芽起こし、
木の芽萌やしとも言う。
春の七草や菜花、多くの山菜がその色どりを増すころでもある。
フキノトウ、ヤブカンゾウ、ギシギシ、ノビルなどの和え物、てんぷらの
顔が眼にちらつく。

二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、
季節を春夏秋冬の四等区分にするために考案された区分手法の一つで、
一年を十二の「中気」と十二の「節気」に分類し、それらに季節を表す
名前がつけられている。
なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、
元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたものであって、
日本の気候とは合わない名称や時期もあるとの事。そのため、それを
補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、半夏生、
二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、
日本の旧暦となっている。
季節区分(各季節の始期)立春・立夏・立秋・立冬で、気温では、
小暑・大暑・処暑・小寒・大寒となる。気象では、雨水・白露・寒露・
霜降・小雪・大雪となり、物候の表現では、啓蟄・清明・小満。
さらに、農事では、穀雨・芒種となる。
特に 雨水、啓蟄、小満、穀雨、芒種には納得感がある。草花の成長、
農作業の動きが何と無く伝わってくるからだ。
冷雨が少しづつ暖かさを増し、虫や人々に次への活動の源となっていくのだ。

東北を旅した柳田國男の文章からは、春の情景がよく伝わってくる。
「ようやくに迎えたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも
超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、
風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日
が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛り
が一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇
もないうちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんより
した薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに
啼いて水田苗代の支度を急がせる」(雪国の春より)
この地は東北ほどの春の喜びは感じえないが、日本の原風景を求める中
では、水に対する関心、水への尊敬の念は、「日本文化の一つの特色」
であることが肌に強く伝わる。
特に、このあたりは比良山系の水が湧き水として流れ出し、それが細い水糸
をなし、小川のせせらぎと形作っていく。その水が幾重にも重なりあい
ながら、あるものは神社の若水となり、また住む人の生活水となりやがて
琵琶湖に注ぎ込む。以前は、かわとと呼ばれる水の引き込みが各家の横に
しつられ、様々に生きる糧に使われた。
石畳の村道を歩いていると、懐かしい音が聞こえてきた。
あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花 五人ばやしの 
笛太鼓 今日はたのしい ひな祭り お内裏様(ダイリサマ)と おひな様
二人ならんで すまし顔 お嫁にいらした ねえさまに よく似た官女(カンジョ)
の白い顔、、、、、。
屋根瓦のある二階建ての古風なたたずまいの家からそれは流れ出ていた。
雨水、それはひな祭りの季節だ。歌の文句はともかくそのノンビリとした
テンポに合わせて少しづつ春が歩み寄ってきている。
「雛人形は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している」そんな言葉
がふと思い出される。その時代から都人に愛された地、琵琶湖と比良山系の
自然が織りなす絶景は今も変わらない。

2019.03.01

西近江路紀行34 郷土料理を味わう

西近江路紀行34 郷土料理を味わう

琵琶湖には、素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材としての
魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない独特の食文化でもある。
全国、画一的な食文化と冷凍品による土地固有の味わい文化の衰退が進んで
いる中、その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえない食べ物など、
稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は、湖の湖と共に
生きる誇りを、外向けには琵琶湖に対するあこがれを醸しだすことになる。
更には、地域の野菜とのコラボレーションも郷土料理として多い。

琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。
よくあるのが、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。
この他に、大豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」等
が広く食されている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く行われていた。
「**豆」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理なのだろう。
この食文化は、琵琶湖の漁師の多くが農業にたずさわり、農民が漁業を行うという
伝統に根ざしている。更には、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される
料理が広く食されている。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。
「牛のジュンジュン」は無論「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、
イサザ、ナマズ、コイ等々、多くの湖魚がジュンジュンとして食され、多量の野菜と
共に煮込まれる。
また他の地域に比して、琵琶湖では、コアユの仔魚である「ヒウオ」、「ビワヨシノボリ」
の仔魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに捕られ消費される。
さらに、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され利用
されている。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴であろうし、
伝統的な調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて乳酸発酵させた
食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。
そしてその代表がフナズシである。 
以上のように、琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、
商品として売られたり、一般家庭の郷土料理として生きている。
琵琶湖八珍は湖魚文化を知ってもらう一つの手段でもある。


琵琶湖八珍
琵琶湖にはこの豊かな湖の魚を扱った特有の食文化がある。
琵琶湖にいる約80種の魚が生息していると言う。その湖魚のブランド
「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴロブナなど8種の魚介類が選ばれた。
ハス、ホンモロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビがある。
選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で料亭から家庭料理まで広く親しまれている。
なお、ウナギ、アユ(大アユ)、シジミなども料理の素材として使われている。
この志賀周辺でも和邇や北小松、さらに堅田の港では、数が少なくなったものの、
これら八珍のいくつかを今でも獲っているので、湖魚の専門店もあり、様々な料理で
それを味わう事が出来る。
また、琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」
「スジエビ」などは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通している。
「鮒鮨」の材料としての「ニゴロブナ」は加工品としても有名でもある。
今では、「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても
滅多に口に入らない高級魚になっている。

少しこれらを紹介すると、
1)「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われるが、近年は産卵場所の減少や
ブラックバスやブルーギルなど外来魚の食害によって稚魚が食べられ漁獲高
は激減している。鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)であり、その匂いで受けつけにくい。
現に滋賀県に来て求めたものを、途中駅で開けて「腐っている」と捨てられたという、
笑えない話がある。食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、
深みのある味をしているが、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどと結構高い。
2)「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になる。成魚になると
70cm以上になり、その刺身はトロのように舌に絡まる味わいがある。今が最盛期であるが、
「ニゴロブナ」と同じく、中々漁で確保するのは、難しく養殖されたものが主流となっている。
今日はあるところで久しぶりにビワマスを食した。刺身は相変わらず美味しかったが、
燻製風にするとまた違う味になると言う。
3)「ホンモロコ」は京料理に用いられる高級魚になっており、琵琶湖の貴婦人
の名に恥じことなく、その白焼きは絶品と評判である。
昔は、バケツにいっぱい釣れていたが、外来魚の食害のため最盛期の1/10以下
になっているとのこと。
4)「イサザ」は、琵琶湖固有のハゼの一種で、昔からなぜか獲れなくなる時期がある
ことから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「いさざ」と読ませている。
佃煮の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら濃い味付け
に負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数いる。
イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われる。これは、長いロープの先端に
取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の一種。
湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で浮き
上がってくるので、それをすばやく網ですくいとる。
一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほどであり、
ここ数年で少し漁獲が盛り返してきた。
イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、すき焼き風に煮た「じゅんじゅん」と
いう料理でよく食べられる。「ネギと油あげ、麩を入れ、醤油と砂糖で甘辛く煮る」のもよい。
「イサザは、白身の淡泊な味でおいしく、特に秋から1月頃のものは、骨も柔らかくておいしい」
と言われている。
5)氷魚(ひうお)
冬だけにとれる特産品であり、氷魚(ひうお)と言われる鮎の稚魚で、大きさは3~6cmくらい。
体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれている。氷魚は、釜揚げにするのが一般的。
「しらす」のように熱を加えると白くなり、身はしっとりしていて、舌触りは滑らか。
そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、琵琶湖の冬の味覚として愛されている。
釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮などでも食されている。
氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、
やがてウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれる
ようになる。以前に近くの和邇漁港に行った時は、料理店などの専門業者に交じり、
近所の主婦数人が氷魚漁から帰る船を待ちわびている。自宅で釜揚げにするのだそうだ。
湖近くに住む人だけの贅沢な楽しみであろう。
漁船が帰港し、甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでいる。
すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取られていく。
30年くらい前とは比べ物にならないそうだ。当時は、船いっぱいにとれた」と言う。

郷土料理の色々
湖魚や山菜が素材として多く使われるが、四季に沿って、少し上げて行こう。

春は、モロコ焼き、セリのごま和え、わらびの酢の物、鮒ずし、手長エビのかき揚げ、
シジミと大豆煮、イタドリの煮つけ など
夏は、はず魚田、小鮎の山椒煮、ゴリ煮、なかよし豆、小鮎のてんぷら、みょうが寿司 など
秋は、エビ豆、あめのうおご飯、むかがご飯、干しズイキとエビ煮、ぜいたく煮 など
冬は、いさざ煮、いさざのなれ寿司、カボチャのゆり根あん、かち豆、氷魚のゆず酢、鴨とクレソン鍋 など
いずれも湖魚や山菜、野菜を上手く組み合わせている。

山菜について
万葉集にはいろいろな山菜・野草が歌われている。昔から食材として身近にあったのであろう。
山上億良の「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ‥」などは有名ですが、
この他にも「醤酢に 蒜搗き合てて鯛願う 吾にな見えそ水葱の羹」
「春日野に 煙立つ見ゆ乙女らし 春野のうはぎつみて煮らしも」などの歌が
ある。蒜はニンニクやノビルなどのことで、うはぎはヨメナ。
さらに百人一首には「かくとだに えはやいぶきのさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを」
(藤原実方朝臣)といった歌もあり、さしも草とはヨモギのこと。
山菜は日本の伝統的な文化であり、その由来として万葉集の中にもうかがい知ること
ができる。そして歳月を経ても、この地域には多くの山菜や野草が里山周辺に多くあり、
食文化の一端を成している。
フキ、ミツバ、セリ、ワラビ、ウド、ヤマノイモ、サンショウ、ジュンサイ、ヨメナ、アザミ、
ギシギシやイタドリ、アザミ、チシャ、ニガナ、カラシナ、ワサビ、ナズナ、ゴギョウ、
ハコベ、ノカンゾウ、コゴミ、ゆきのした、たらの芽、みつば、日本すみれ、ゼンマイ などがある。
単独の調理としても和え物が多くあり、酢味噌和え、マヨネーズ和えなど色々と。
一番はてんぷらであろう。
多くは茹でて下処理後、冷蔵庫で冷やし、お浸しに カツオブシをまぶし醤油をかけると
サッパリ味で美味しい。赤味噌・砂糖・酢を合わせ良くかき混ぜたタレなどもあるようだ。

「西近江路紀行30の郷土を味わう」と合わせて読んでもらうと湖魚のことを含めて
もう少し深く感じられるかもしれない。

2019.02.18

第1節気 立春(2月4日から18日ごろ)

第1節気 立春(2月4日から18日ごろ)

二十四節気は「立春(りっしゅん)」からはじまる。春は「山笑う」季節
というが、まだこの時期、その微笑を見ることは難しい。
しかし、時は人、そして猫や犬たちも待たずしてそろそろ立春と呼ばれる
季節へと 進んでいる。だが、寒い、春寒、余寒のごとくでもある。
我が家の庭の梅の木、その天を突く新しき槍の青き枝には小さな豆の
ようなピンクの蕾がひしめき合あいやがて来る己が出番を待っている。
少し前に手を入れた木々は、夫々の想いと姿で、春の匂いを醸成しつつある。
白い六枚の花びらに黄色の花冠の艶やかな水仙の花が凛とした風情を見せていた。
また梅ノ木に並び立つ金柑の樹は黄色のウズラの卵ほどの実が連なり顔を見せている。

比良の山並は、まだ白さが目立つ。しかし、山の斜面はほぼ東に向いている。
直線的に琵琶湖となだれ込む色模様もすぐに緑が濃くなるのであろう。
山の頂はまだ冬だが春と冬のせめぎあいが始まってもいるような趣が垣間見える。
今日は風が強い。これからは比良おろしという名前があるように、3月まで強烈な
北風が比良の山並みから吹きおろしてくる、東風、春あらしだ。
この高台から湖を見渡せば、薄青く光る湖面に白い波が逆立ち白いまだら
模様を見せている。それは一刻も同じ姿ではなく、時に青く光る平板な面だが、
一瞬のちに白い波片があわ立つように現われる。対岸の島や緑の湖辺は白く
茫洋とした霞がかかり、湖と対岸は切れ目なき一体化を成す。
こんな歌がある。
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
まさに、この情景に感じ入ったことを詠み上げた、そんな感じがする。

久しぶりに湖辺を歩く。
長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。
湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いている。沖にはえり漁の
仕掛け棒が水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでも
しているようだ。砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみ
が寄せている。たゆた寄せるその姿に春が乗っている。
5メートルほど先には、数10羽の鳥たちが薄青く霞んだ空とややくすんだ
色合いの青を持つ湖面に浮き沈んでいる。あるものはえり漁の仕掛け棒
の上で 羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。
2羽のコガモが 連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。やがて彼らも
ここを離れ、次の住まいへと向かうのであろう。
春は人も、鳥も新しい旅立ちの季節だ。
だが、風景は画巻や額のようにいつでも同じ顔はしていない。 まず第一に
時代がこれを変化させる。我々の一生涯でも行き合わせた季節、 雨雪の
彩色は勿論として、空に動く雲の量、風の方向などはことごとくその姿
を左右する。私も20年ほど前に見た時の感触と今この砂浜に立つ心根
は大いに違った。それは時代の空気であり、己が経てきた時の皺、心の襞
の変化でもある。場合によっては、これらに対面した本人のその時の心持、
万物それぞれが個々の瞬間の遭遇であって、だからまた生活 とつながり、
変化することの面白さがそこにある。
徒然草19段、折節のうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ。
「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとにいふめれど、それもさるものにて、
今一きは心もうきたつものは、春の気色にこそあめれ。鳥の声などもことの外
に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌えいづるころより、
やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色だつほどこそあれ、
折しも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。
青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、
なほ梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。
山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたき
こと多し。
庭で「ツツピーン ツツピーン」という少し長閑なさえずり、ヤマガラだ。
梅の木と金柑を縫うように脇腹の褐色と頭と喉の黒い色が見え隠れしている。
やがてここにもウグイス、シジュウカラ、ホオジロなどが飛び移ってくる。
鳥もまた春を心にのせている。
氷魚 小鮎 ウグイ アマゴ ヤマメ ワカサギ、湖魚や清流に群れ騒ぐ川魚
が美味しく食べられる、郷土料理の工夫がさらに活きる。雪解けの春の湧水は
研ぎ澄まされた透明感にあふれている。多くの生き物がこの清き水に命を育む。

2019.02.02

大寒、寒さに身を縮める

24節気  大寒(1月20日から2月3日ごろ)

1月26日吹雪いた。幾つもの雪風が舞っていた。ゆっくりと遮るもののない
世界から白い抜け毛のような姿で落ちてくるもの、横滑りに粉雪となって窓辺
を駆け抜けるもの、小さな白い虫が群れ飛び不可測な動きを見せる雪煙、
庭の裸木を揺すり押し倒そうとする風の強い息ぶき、ゴーと轟き、すっと
後ろに引くように止まる風、すべてが一瞬にその姿を変じ、顕現させる。
人はただその音、雪の舞いに呆然と見つめるのみ、猫たちはここぞとばかり
ストーブにしがみ付き、ただただ寝入るだけのものもいる。
突然雲が押しのけられ青い空が顔を出す。弱い陽が白き世界にすっと流れる。
消える雪たち、真っ白に輝きわたる屋根に日が溶ける。
そして又吹雪きわたる光景に変容する。その気まぐれに人々は戸惑うだけ、
猫は寝入るだけ。

大寒、そろそろ節気という流れも最後となり、春の兆しか?
しかし、昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪の花に
ひっそりと見え隠れする。
南天の赤い実が薄い雪端に見えた。金柑の実も白と緑の葉に散らばり飛んでいる。
春隣と言う言葉があるそうだ、美しい言葉だ。陽に力が湧いてくる、そんな気分
の言葉だが、まだ少し先のようだ。今日は恵方巻を食して寝休日としゃれようか、
もっとも毎日が休日だが。
彼にとって、この季節、二つの情景がいつもその心によみがえってくる。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが墨絵の
趣で眼前にあった。 彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが消えては
またその姿を現していた。 さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の切片が月光に
染められ、金粉をまいている ように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ飛び跳ねる小鮎の銀の鱗となってひろがり、
雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。いつの間にか横に猫のソラがいた。
その眼の中に、今見た彼の情景が映っている。

時折り天から舞い落ちる雪の精、朝のしじまのなかで見た時は、道路を薄布が
覆うような細雪であったが、その白い薄片はやがて大きな粒状を成しボタン雪
となった。
「津軽恋女」という歌に「7つの雪」というのが歌われている。
「津軽の女よ
ねぶた祭の行きずり戯れか
過ぎた夜の匂いを抱いて 
帰れと叫ぶ岩木川 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の海よ 三味がゆさぶるじょんがら聞こえるよ
嘆き唄か 人恋う唄か 胸のすきまに しみてくる 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪」
だが、ここではそれほど多彩な雪は見られないし、思いなせない。
そんな考えが浮かぶほどの今日の雪だ。

ボタン雪、それが風に揺られことはなく、ほぼ垂直に天から地へと落ちてくる。
1時間もすると家の周辺は白く輝く光が満ち、ただ平板な白い地面となった。
すでに、10センチほどの雪の絨毯が庭を被っている。ソラが飛び出したものの、
雪の中にはまり大慌てで出ようとするが、目の前はただただ白い壁が続くのみ、
彼にとっては初めてに近い経験であるが、若さが彼を雪へと誘うのか。
助けての叫びに、わたしもまたかの顔で抱きかかえに行く。
だが、犬のルナは違った。
元来寒さには強い犬種でもあり、自分の顔が沈むほどの深さの中に飛び出し、
白く深く伸びた雪原のごとき広場をはね飛びながら遊んでいる。
梅ノ木もその枝枝を白き雪帽子で着飾り、他の草花はすでに影形なく、映え光る
白の世界に埋没している。
薄いベールの先に見えていた比良の山並みも薄墨の壁紙がはられたように彼の視線
から消し去られた。われわれはただ水滴がこぼれ落ちる窓ガラスの中で、ひっそりと
この情景に見入るのみだ。
だが、この辺りを北国と呼ぶには、雪の中に数か月も閉じ込められる「北国の人」には
大いに失礼だ。その想いを柳田國男は「雪国の春」の中でうまく綴っている。
「故郷の春と題して、しばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分等真っ先に
日の良く当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が子を育てる麦畑の
陽炎、里には石垣のタンポポすみれ、神の森の大掛かりな藤の紫、今日から
明日への題目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、木蔭が多くなって
行く姿であったが、この休息ともまた退屈とも名づくべき春の暮れの心持は、
ただ旅行してみただけでは、おそらく北国の人たちには味わいえなかったであろう。
北国でなくとも、京都などはもう北の限りで、わずか数里離れたいわゆる比叡
の山蔭になると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を超え湖を
少し隔てた土地には、冬ごもりをせねばならぬ村里が多かった。
丹波雪国積もらぬさきに
つれておでやれうす雪に
という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさが考えられる。
日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通が難しくなる。伊予にすみ
慣れた土居得能之一党が越前に落ちていこうとして木の目峠の山路で、悲惨な
最後を遂げたという物語は、「太平記」を読んだ者の永く忘れえない印象である。
総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして、身を
入れるだけの隠れ家を見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。
そうして春の帰ってくるのを待ち焦がれていたのである。
越後当たりの大百姓にはこうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。、、、
汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も珍しいであろう。
それがいたるところ深い谷をさかのぼり、山の屏風を突き抜けているゆえに、かの、
黄昏や又ひとり行く雪の人の句のごとく、おりおり往還に立ってじっと眺めている
ような場合が多かったのである。停車場には時として暖国から来た家族が住んでいる。
雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何という目的もなしに、鍬をふるって
庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたという話もある。鳥などは食に飢えている
ために、こと簡単な方法で捕らえられた。二、三日も降り続いた後の朝に、一尺
か二尺四方の黒い土の肌を出しておくと、何のえさも囮もなくてそれだけで
ヒヨドリやツグミが下りてくる」
彼はこの一節を読みながら、ストーブの前を占拠している猫たちの顔を一睨み
した。ソラなぞは堂々と腹と隠すべきものまでさらして寝ていた。

大寒は、一月二十日ごろ、寒さが最も厳しくなるころである。「暦便覧」では
「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
そして、初めの五日ほどを「款冬華」(ふきのはなさく)、「水沢腹堅」
(さわみずこおりつめる)、最後に「鶏始乳」(にわとりはじめてとやにつく)
と昔の人はこの季節を細かく言い表している。
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。前夜の雪がまだその残滓を残し、街は白く
輝いていた。朝の寒さの中、街の一番奥にある丘の上に彼はいた。
まるで雪に埋もれる木々のごとく立ち尽くしていた。
彼はまたこの季節を迎え春を感じ始めることに安堵した。
だが、彼の頭は茫洋とした果てしない過去のつなぎの中にいた。広々と視界
の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所と次の場所との
中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来していく。
この数十年のあいだ考えまいとして抑えつけて来た過去のもろもろが解き放たれ
彼の中を駆け巡っている。おかげで、いま彼の頭の中では様々な情景がけたたましく
さえずりながら、独特の騒々しいエネルギーを発していた。
夜来よりの雪の残り香であろう小さな宝石の雫を光り輝かせる丘の上の桜の木。
この自然が描く一幅の浮世絵の中をあこがれの目で眺め、自分の素足が柔らかな
草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水が鞭となって空気を打ち破りながら
ときおり陽の光を捉えてきらめき流れて行く。
黒くむき出した野原の中に、赤く燃え映えた花が一群を成していた。
ハート形をした柄の長い葉には白斑があり、伸びた花茎に篝火をたいているように
白い雪原にその赤さを誇っているようだ。シクラメンだった。
まだ若かった頃聞いたあの歌が思い出される。
「、、、うす紅色(べにいろ)の シクラメンほどまぶしいものはない
恋する時の 君のようです 木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして 愛がいつのまにか 歩き始めました、、、、」
ある人に言わせると、「シクラメンのようなかほり」で、奥さんを
思っての歌だともいう。寒いなかに一刻の温かさが心を過ぎる。
若きときの一瞬の時間が切り取られ、この琵琶湖と比良の山並みとの対比
に過去の自分の過ごした日々を思った。

西近江路紀行33 古墳探訪

西近江路紀行33 古墳探訪

琵琶湖の周辺は古代人の活動が盛んであったのだろう。
湖東、湖南、そしてこの湖西、古墳が多く散在している。
古代、この地域は敦賀と京都、奈良への陸路、水路の重要地域
でもあり、和邇部氏、小野氏などの有力豪族が支配していた地域でもある。
このため、琵琶湖を望む比良のすそ野には、多くの古墳がある。

白洲正子「近江山河抄」に以下の記述がある。
「国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐
の丘の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる
唐臼山古墳は、この丘の尾根つづきにあり、老松の根元に
石室が露出し、大きな石がるいるいと重なっているのは、
みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには
三上山から湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に
比叡山がそびえる景色は、思わず嘆息を発していしまう。
その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、いずれなにがしの命の
奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように迫り、
無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。」
しかし、多くの古墳は山の中腹などにあり、ちょっと足を伸ばして、
と言う風情ではない。また、何基かの石の室が笹や野草の中に口を開けている、
そのような光景に佇むといつも虚しさが湧いてくる。
「なぜ、俺は此処にいる?」、と。
1枚岩で作られた石室に足を踏み入れる。かって皆から敬われた
人々の最後の場所、黄泉へ通じると信じられていた入り口、死後の世界
を信じていた証の場所、1000数百年を経た過去の場所、時の移ろい
を形に見せる。心の空洞に何かが忍び込む。体感の鋭い人は何かを
感じられるかもしれない。
少しながら気楽に探訪できるのは、石神古墳群、ゼニワラ古墳、
唐臼山古墳であろうか。他のは、形が残っていないものも多い。

ちなみに、旧志賀町史が参考になる。
①北小松古墳群
遺跡の立地は比良山系の尾根筋を山系の北から数えて2つ目となる尾根筋
最先端から一段と下がった低位に位置する山塊の先端近くに主に分布する。
AからCと北の支群の4つのグループが見られる。計12基の古墳がある。
概ね、主体部は横穴式石室からなり、長さは4メートルほど高さは2メートル弱
と想定さる。出土品には須恵器と鉄釘があった。
石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
南船路の集落から天川を隔てた西南西の丘陵裾野にある。総計7基の古墳
がある。多くは径7,8メートルの円墳で、主体部は横穴式石室からなり、
高さは2メートル弱と想定される。
③天皇神社古墳群
天皇神社の境内にある。3基ほどの古墳があるが、高さ1メートル強の円墳。
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間にあり、眺望のよい場所である。4基の古墳
からなる。主体部は横穴式石室からなり、一番大きな4号墳は直径15
メートルほどの墳丘である。天井石は1石で高さは3メートルほどあり、
比較的高い。家形石棺が出土しているが、須恵器と土師器に刀の小片があった。
鉄滓も採取された。大きさなどからも有力豪族(小野氏?)の墓と思われる。

なお、志賀町史第1巻には、以下の記述もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな
特徴の一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。
木瓜原遺跡では一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や
小鍛冶場を備え、製錬から精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、
いわば鉄鉱石から鉄器が作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。
しかし、この一遺跡単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠な
たたら精錬のための送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。
本町域でもその採集はない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である
鉄の塊は手軽に運び出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、
脱炭、鉄器生産の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓も
そのような工程で出来たものである。
しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や大和に運ばれ、
そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる場合も
多くあった。、、、、」
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近にあり、琵琶湖をまじかに見れる場所ではない。
南北2つの支群からなり、総計で7基の古墳がある。直径5メートルから
19メートルほどのものもある円墳である。
⑥から⑩まではいずれも曼荼羅山を囲むようにして、築造されている。
⑥ヨウ古墳群
曼荼羅山の北にあり、ゴルフ場と和邇川の中間に位置する。3基の古墳
からなる。直径22メートルほどの円墳の1号機をはじめ結構大きい。
⑦前間田古墳群
曼荼羅山の北裾とヨウ古墳群との中間にある後期古墳群である。3基の
古墳からなる。直径が10メートル前後のものであり、規模的には大きくない。
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日と緑町の中間、曼荼羅山の尾根に築造されている。眼下に和邇川
河口や琵琶湖、対岸の湖東も見える場所である。5つの古墳からなる。
直径は10から20メートルほどの円墳であり、主体部は横穴式石室に
なっている。
⑨大塚山北古墳群
曼荼羅山の尾根筋上のなだらかな頂部に築造された3基からなる古墳群である。
いずれも直径10数メートルの円墳である。
⑩ゼニワラ古墳
曼荼羅山北寄りの東に位置し、丘陵の尾根筋に占める単独の古墳である。
直径は20メートル、横穴式の石室で何枚かの岩で積み重ねられている。
出土には須恵器があった。
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中にあり、前方後円墳の崩れたものではないかとの推測もある。
墳丘は南北18メートル、東西20メートルほどあり、大きめの古墳と
みられる。
⑫小野不二ケ谷古墳群
滋賀丘陵の尾根筋上部で傾斜変換点を創り下降する交点に位置する。
2つの古墳からなり、集落の間に築造されているため、その集落で祭祀
されてきた集落間の一体化が考えられる。3点の土器を含め、幾つかの
遺物がでている。
⑭和邇大塚山古墳
ゼニワラ古墳の近くにあり、前方後円墳を成している。琵琶湖が広く望め、
その規模は全長72メートルほどある。盗掘があり、その原型を推し量る
のは厳しい。副葬品としては、鏡一面、刀剣三点、甲冑一点、鉄斧二点などがある。
⑮小野神社古墳群
小野神社本殿の北脇にある。2基の古墳からなるが、小野神社の敷地整備
に伴い、その規模は不明。主体部は箱式石棺と思われる。
以前には、石棺が他に5基あったといわれるが、確認できない。
⑯道風神社古墳群
道風神社本殿のすぐ西側に古墳がある。2基の円墳があり、直径は20
メートルほど、であるが具体的な形は不明。
さらに、小野駅の近くに真野古墳も確認された。

2019.01.26

冬の琵琶湖に立つ

冬の琵琶湖に立つ

足元に揺らぐ橋板の乾いた響き
頬を刺す風の飛翔身体を射し抜き水面へと流れる
天と地を緩やかに動く我が身、眼の届くものもまた上下の仕草
砂に舞う犬たちの点描の黒影、跳ねて飛ぶ灰色の砂粒
寄せて凍える裸木の小枝、骸骨の如き腕に絡まり踊る葦わらたち
微かな朝の陽に水跡の囁かな輪の連なり
漏れる息の薄く小さな水煙のその短命な存在
漂い群れる水鳥、白、茶褐色の木の葉舟の趣
エリの仕掛け棒の凛然たる強さ、その先の朧な薄雲の塊
生の静寂と死の喧騒

鋼鉄の輝きの満月に黒白の世界
銀砂の小雪が舞い薄絹の白さに小鮎の銀鱗揺れる様の水面
八幡山、三上山、黒き連なりが冴えた空気に浮かぶ
何百の亡霊の如き松並木と湧き上がる波たちの囁き
何千年と変わらぬ姿の光景は黙したまま語らず
生き人、死者、亡者の嘆きに冬が透徹した眼を向ける
行き交う人影が月影の彷徨いその身を嘆く
闇は人の本性を隠し剥きださせる
溶けこむ身体に己の心までも存在を失う罪びと
何百々の神の標にその身を厭う
何百々の小賢しく寄せる波にその身を沈ませ祈る
ここは彼岸の里
湖は癒しの場所、生霊の地
月下の明るさに身を清め己が信じる道をただ進む
生き方は何億あれど己は1つ、湖はそれを教授する


2019.01.20

小寒を思う

小寒(1月5日から1月19日ころ)

小正月、地域の神社、今年の豊作祈願や悪魔祓い、吉凶占いなどが行われる。
どんど焼き、巫女による奉納の舞い、小さいながら100年以上も続く神事もある。
そんな祭事にたまたま出くわすと何か得をした気持ちになる。
人間はやはり感情の動物だ。
比良の山並みは白いカーテンにおおわれ、その姿を隠したままだ。白い絹帯
のつらなりは湖辺までつづきそのまま重く沈みこんだ湖面へと消え去っていく。
ヤナ漁の仕掛け棒が薄墨の平板な面から細く黒い影を無数に突き出している。
カモメが数羽、その針先のような上で首をすくめじっとこの寒さに耐えているようだ。
普段は死地のごとき褐色の雑木の群れ、ポツリポツリと点在する農具小屋や
家並みもまた、延々と続く白き世界の中でひっそりとたたずんでいるだけだ。
平板につづく白帯の連なり、その下に眠っている大地がたんぼなのか畑なのか
区別がつかない。小さな池と雑木林も雪に閉ざされ、晩秋に落ち葉を踏みしめ
猫たちと歩き回ったことがうそのようだ。雪を踏みしめて一歩一歩慎重に
進んでも足を取られてしまうほど、雪は深く、己の歩みを笑っているようでもある。
コナラの林、太い幹から伸びた枝枝は、雪の重さに耐えかねて苦しそうにうなだれている。
枯草に覆われていた数日前とは一変していた。
ここにも、雪が枯草や小さな雑草たちを隠し、消し去っていた。狐の足跡が一筋、
木々の間を縫うようにくっきりとその黒点を林の奥へと続かせている。
空も大地もすべてが白い。その静寂に一人立つ。生あるものがわれ一人の世界だ。
真っ白になった頭の中では、次第に時間がゆっくりと昔へと戻り始める。
春のその冷えた空気が残る中で、小さな花たちが芽吹き、白や黄色、赤などの
色の点描を見せはじめる頃、林のなかに小さな生命が湧きだす。夏の強い日差しに
ほっと息をつく
休息のひと時、秋の終わりころの陽だまりの暖かさを感じた。落ち葉の上を
かさかさと音を立ててかけ走るオオオサムシ。彼はいま朽木の中で、どのように
して眠っているのだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、
あごを乗せて物思いにふけっていたアマガエルは、土くれの中に無事隠れる
ことができただろうか。小さな動物や虫たち、植物たちのことが、頭の中
を駆け巡る。雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。
脚で枝をしっかりつかんで体を固定し、体をピンと張って小枝に見せていた。
その力強さに思わず見とれた。
「冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり」
道元の詩とされる。冬の枯草も見えないほどに降り積もった白一色の雪野原にいる
白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだ、というほどの
意味というが、この歌の題が「礼拝」とされている。
よくわからない。そんなことが浮かぶ世界でもある。
庭の白一色のなかに、白い六枚の花びらに黄色の花冠の艶やかな水仙の花が
凛とした風情で顔を出している。この水仙の黄色一点が白さのすべての存在を
示している。近くの生け垣は濃いピンクの花びらが周囲を押しのけるように
咲き誇っている。山茶花だ。椿と見分けるのは難しいが、落下した花びらを
見るとよく分かる。ぽとりとその音を見せるように花びらが塊となって、
首が落ちるがごとく、落ちているのは椿だ。山茶花は赤い絨毯を敷き詰めたように
地面を赤く覆っている。だから椿の花を見るのは好まない。
自分の首がすっと落ちていく、そんな様だから。
どんど焼き 橙色の火が滑らかに小竹や笹を伝い白い煙を巻き上げて行く。
松飾や門松も焼く。その火に顔を火照らして新しい年をあらためて感じる。
田の神、山の神、新年を祝いおりてきた神々もそろそろ守るべき自然に帰っていく、
白く龍を思わせるたなびきに今年の安寧を願う。
正月の慌ただしさも薄れ、5日から節分(立春の前日)までを
「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。
更には、「芹乃栄」(せりすなわちさかう)「水泉動」(しみずあたたかをふくむ)
「雉始」(きじはじめてなく)とその風情も少しづつ変化していく。
例えば、芹乃栄(せりすなわちさかう)
一月の初め、セリが盛んに生育する頃であり、冷たい沢の水辺で育つセリは
春の七草のひとつとしても知られているし、一月七日に無病息災を願って
食べる「七草粥」にも入れられる。

我が家でも七草粥を食べる。今年は風邪でかなり調子を落としてる主人に
とって、絶好の御膳となった。そんなこともあり、少し七草粥の由来を
述べてみる。
春の七草といって、七草粥を食べる一月七日は「人日(じんじつ)の節句」
という五節句のひとつだそうだ。
五節句とは?
 1年に5回ある季節の節目の日(節日)のことで
 1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)
 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指している。
古来日本には、雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」という風習があり、
唐の時代には、人日の日に七種類の野菜を入れた汁物、「七種菜羹
(ななしゅさいのかん)」を食べて、無病息災を祈った。さらに、平安時代
になると中国の風習や行事が、多く日本に伝わり、「若菜摘み」と「七種菜羹」
の風習が交わって「七草粥」が食べられるようになったという。
そして、江戸時代になると、幕府が「人日の日」を「人日の節句」として
五節句の1つと定め、これによって「一月七日に七草粥を食べる」という風習が、
民衆に広がり定着した、と言われてる。
七草粥の具材になる「春の七草」は春の七草とは、
芹(せり)=「競り勝つ」
 解熱効果や胃を丈夫にする効果、整腸作用、利尿作用、
 食欲増進、血圧降下作用など、様々な効果がある。
薺(なずな)=「撫でて汚れを除く」
 別名をぺんぺん草という。
 利尿作用や解毒作用、止血作用を持ち、
 胃腸障害やむくみにも効果があるとされている。
御形(ごぎょう)=「仏体」
母子草(ハハコグサ)のこと。痰や咳に効果があり、のどの痛みもやわらげてくれる。
繁縷(はこべら)=「反映がはびこる」
 はこべとも呼ばれ、昔から腹痛薬として用いられており、胃炎に効果がある。
 歯槽膿漏にも効果があるそうだ。
仏の座(ほとけのざ)=「仏の安座」
 一般的に、子鬼田平子(こおにたびらこ)を指し、胃を健康にし、食欲増進、歯痛にも効果がある。
菘(すずな)=「神を呼ぶ鈴」
 蕪(かぶ)のこと。 胃腸を整え、消化を促進し、しもやけやそばかすにも効果がある。
蘿蔔(すずしろ)=「汚れのない清白」
 大根のこと。風邪予防や美肌効果に優れている。

冬でも主人の眼を愛でてくれるこの二つの花があるというのも、さらに彼をして
堕落的な姿にさせているのだろう。
透き通ったガラス戸が庭のさむさを遮り切りのどかな部屋のぬくもりにうつつを
ぬかし、過ごす冬の日々である。
また、裸をさらしたような枯枝の木々が多い中、金柑の樹は冬になるとその存在感が
増して見える。
梅の木ほど目立たないが、我が家がここに移ってすぐに梅と金柑の機を植えた。
梅のピンクと金柑の黄色がなんとなく気に入ったからだ。
さして大きな理由はなかった。
まだ20年ほどであるから、いずれも老樹とは言えないが、梅の木はその姿形、
幹の斑の模様や木肌の濃い褐色は老樹の趣となっている。だが、金柑はその幹の
濃い緑、花の艶やかな映え具合から壮年の力強さを感じる。
金柑の木は、白く小さな花をつける。それらが、緑濃い葉群の中に白点となり、
その小さく可憐な姿を見せると、庭に落ち着きがただよう。
多くは、2回ほど実をつけるというが、我が家では、12月ぐらいから1月まで
につける実が多い。ピンポン玉を2回りほど小さくした黄色の映える実だ。
冬の彩の失せた中に黄色い玉がたわわに実る様は中々に見ごたえがある。
固く少し棘のある葉は、小さな白い花とその熟れた実をを守るかのような硬さと
頑固さがある。主人も実をとるとなるとちょっとした覚悟が必要であった。
ママがジャムや甘露煮をよく作っていた。風邪やのどにいいという。
甘露煮を美味しく作るコツはゆでこぼしての渋み抜きと種抜きだが、
ちと面倒でだんだん作る回数も減ってきた。

神棚の飾りも神社へ返し、何とはなく寂しい。鏡餅を切って、おしるこで
舌鼓、美味しかった。さらなる寒さに耐える日々を迎える。

2019.01.18

西近江路紀行32冬を行くその3

23節気 小寒
正月の慌ただしさも薄れ、いわゆる小寒の季節、一月五日ごろ
からとなる。暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半であり、
「暦便覧」では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、
益々冷える也」と説明している。
この日から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」
と言い、この日を「寒の入り」とも言う。更には、「芹乃栄」
(せりすなわちさかう)「水泉動」(しみずあたたかをふくむ)
「雉始」(きじはじめてなく)とその風情も少しづつ変化していく。
例えば、芹乃栄(せりすなわちさかう)一月の初め、セリが
盛んに生育する頃であり、冷たい沢の水辺で育つセリは
春の七草のひとつとしても知られているし、一月七日に無病息災
を願って食べる「七草粥」にも入れられる。

我が家でも七草粥を食べる。今年は風邪でかなり調子を落としてる
主人にとって、絶好の御膳となった。そんなこともあり、少し七草粥
の由来を述べてみる。
春の七草といって、七草粥を食べる一月七日は「人日(じんじつ)
の節句」という五節句のひとつだそうだ。
五節句とは?
 1年に5回ある季節の節目の日(節日)のことで
 1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)
 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指している。
古来日本には、雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」
という風習があり、唐の時代には、人日の日に七種類の野菜を
入れた汁物、「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」を食べて、
無病息災を祈った。さらに、平安時代になると中国の風習や行事が、
多く日本に伝わり、「若菜摘み」と「七種菜羹」の風習が交わって
「七草粥」が食べられるようになったという。
そして、江戸時代になると、幕府が「人日の日」を「人日の節句」
として五節句の1つと定め、これによって「一月七日に七草粥を
食べる」という風習が、民衆に広がり定着した、と言われてる。

七草粥の具材になる「春の七草」は春の七草とは、
芹(せり)=「競り勝つ」
 解熱効果や胃を丈夫にする効果、整腸作用、利尿作用、
 食欲増進、血圧降下作用など、様々な効果がある。
薺(なずな)=「撫でて汚れを除く」
 別名をぺんぺん草という。
 利尿作用や解毒作用、止血作用を持ち、
 胃腸障害やむくみにも効果があるとされている。
御形(ごぎょう)=「仏体」
 母子草(ハハコグサ)のこと。痰や咳に効果があり、のどの痛み
もやわらげてくれる。
繁縷(はこべら)=「反映がはびこる」
 はこべとも呼ばれ、昔から腹痛薬として用いられており、胃炎に効果がある。
 歯槽膿漏にも効果があるそうだ。
仏の座(ほとけのざ)=「仏の安座」
 一般的に、子鬼田平子(こおにたびらこ)を指し、胃を健康にし、
食欲増進、歯痛にも効果がある。
菘(すずな)=「神を呼ぶ鈴」
 蕪(かぶ)のこと。 胃腸を整え、消化を促進し、しもやけや
そばかすにも効果がある。
蘿蔔(すずしろ)=「汚れのない清白」
 大根のこと。風邪予防や美肌効果に優れている。

お陰で、主人の風邪もだいぶ良くなった。
この地域でも場所によっては、七草全部を入れずに粥にするところも
あるそうだ。
雪が深くなるところは食材を得るのが難しいからだろう。
我が家も家人も猫たちも皆、大きなガラス戸をから外を見ること
が多くなる。冬は春ほどの華やかさがなくなるが、それでも、
クロッカスと水仙はお気に入りである。特に、今、庭先に見える
クロッカスには、少女のあどけなさと雪の中でも凛然と咲く強さを感じ、
彼が好きな花である。紫の手毬のような中に白い線が数本見える。
五、六ほどの花が雪の白さの中から抜け出したようにこちらに顔を
向けている。更に、眼を少し先に転じれば、道路向こうの庭には、
白と黄色の配色のある水仙が可憐に咲いている。毎年他の草花が枯れる
頃になると、芽を出してこの時期に花が咲き始める。細身の身体がなよと緩やかな
婉曲を見せ、白や黄色の花弁をみるに、北斎の描く美人画にも思えてくる。
冬でも主人の眼を愛でてくれるこの二つの花があるというのも、さらに彼
をして堕落的な姿にさせているのだろう。
透き通ったガラス戸が庭のさむさを遮り切りのどかな部屋のぬくもりに
うつつをぬかし、過ごす冬の日々である。
また、裸をさらしたような枯枝の木々が多い中、金柑の樹は冬になると
その存在感が増して見える。

梅の木ほど目立たないが、我が家がここに移ってすぐに梅と金柑の機を植えた。
梅のピンクと金柑の黄色がなんとなく気に入ったからだ。
さして大きな理由はなかった。
まだ17年ほどであるから、いずれも老樹とは言えないが、梅の木はその姿形、
幹の斑の模様や木肌の濃い褐色は老樹の趣となっている。だが、金柑はその
幹の濃い緑、花の艶やかな映え具合から壮年の力強さを感じる。
金柑の木は、白く小さな花をつける。それらが、緑濃い葉群の中に白点となり、
その小さく可憐な姿を見せると、庭に落ち着きがただよう。
多くは、2回ほど実をつけるというが、我が家では、12月ぐらいから
1月までにつける実が多い。ピンポン玉を2回りほど小さくした黄色
の映える実だ。冬の彩の失せた中に黄色い玉がたわわに実る様は
中々に見ごたえがある。
固く少し棘のある葉は、小さな白い花とその熟れた実をを守るか
のような硬さと頑固さがある。主人も実をとるとなるとちょっとした
覚悟が必要であった。
ママがジャムや甘露煮をよく作っていた。風邪やのどにいいという。
甘露煮を美味しく作るコツはゆでこぼしての渋み抜きと種抜きだが、
ちと面倒でだんだん作る回数も減ってきた。
以前、ママの友達が湖東の老舗和菓子のきんかん大福をもらった。
甘さ控えめの白あんと甘露煮した金柑の程よい苦味・酸味がマッチした
不思議なおいしさであった。もち米は地元でとれた最高級の羽二重糯
(はぶたえ)で、柔らかくなりすぎないように工夫しているのが美味しさ
の秘訣と聞いた。梅は実が意外とつかないので、春の心の癒しだが、
金柑は冬の身体の癒しだ。今日もまた痛めた喉に金柑のジャムがゆっくり
と流れ落ちていく。

久しぶりの白い季節だ。
比良の山並みは白いカーテンにおおわれ、その姿を隠したままだ。
庭の白一色のなかに、白い六枚の花びらに黄色の花冠の艶やかな水仙の花
が凛とした風情で顔を出している。
この水仙の黄色一点が白さのすべての存在を示している。
白帯のつらなりは湖辺までつづきそのまま重く沈みこんだ湖面へと
消え去っていく。
ヤナ漁の仕掛け棒が薄墨の平板な面から細く黒い影を無数に突き出している。
カモメが数羽、その針先のような上で首をすくめじっとこの寒さに耐えているようだ。
普段は死地のごとき褐色の雑木の群れ、ポツリポツリと点在する農具小屋
や家並みもまた、延々と続く白き世界の中でひっそりとたたずんでいるだけだ。
平板につづく白帯のるらなり、その下の大地がたんぼなのか畑なのか区別
がつかない。
ため池あとの雑木林も雪に閉ざされ、晩秋に落ち葉を踏みしめ猫たちと
歩き回ったことがうそのようだ。

雪を踏みしめて一歩一歩慎重に進んでも足を取られてしまうほど、雪は深く、
己の歩みを笑っているようでもある。クスノキの林、太い幹から伸びた枝枝は、
雪の重さに耐えかねて苦しそうにうなだれている。枯草に覆われていた
数日前とは一変していた。ここにも、雪が枯草や小さな雑草たちを隠し、
消し去っていた。狐の足跡が一筋、木々の間を縫うようにくっきりとその
黒点を林の奥へと続かせている。
空も大地もすべてが白い。その静寂に一人立つ。生あるものがわれ一人の
世界だ。真っ白になった頭の中では、次第に時間がゆっくりと昔へと
戻り始める。
春のその冷えた空気が残る中で、小さな花たちが芽吹き、白や黄色、
赤などの色の点描を見せはじめる頃、林のなかに小さな生命が湧きだす。
夏の強い日差しにほっと息をつく休息のひと時、秋の終わりころの
陽だまりの暖かさを感じた。落ち葉の上をかさかさと音を立ててかけ
走るオオオサムシ。彼はいま朽木の中で、どのようにして眠っている
のだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、
あごを乗せて物思いにふけっていたアマガエルは、土くれの中に
無事隠れることができただろうか。小さな動物や虫たち、植物たちの
ことが、頭の中を駆け巡る。
雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。脚で枝
をしっかりつかんで体を固定し、体をピンと張って小枝に見せていた。
その力強さに思わず見とれた。
「冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり」
道元の和歌とされる。冬の枯草も見えないほどに降り積もった白一色
の雪野原にいる白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだ、
というほどの意味というが、この歌の題が「礼拝」とされている。
よくわからない。そんなことが浮かぶ世界でもある。

24節気  大寒
大寒、そろそろ節気という流れも最後となり、春の兆し。
しかし、昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪の
花にひっそりと見え隠れする。
彼にとって、この季節、二つの情景がいつもその心によみがえってくる。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが
墨絵の 趣で眼前にあった。 彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、
闇に身を置いていた。 湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤い
いくつもの筋のみが消えては またその姿を現していた。
さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の切片が月光に染められ、金粉を
まいている ように湖水の面に踊っていた。湖面も月光に染められ金波
がひろがる上に 雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。いつの間にか横に猫のチャトがいた。
その眼の中に、今見た彼の情景が映っている。

今年は雪が多い。朝のしじまのなかで見た時は、道路を薄布が覆う
ような細雪であったが、その白い薄片はやがて大きな粒状を成し
ボタン雪となった。
「津軽恋女」という歌に「7つの雪」というのが歌われている。
「津軽の女よ
ねぶた祭の行きずり戯れか
過ぎた夜の匂いを抱いて 
帰れと叫ぶ岩木川 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の海よ 三味がゆさぶるじょんがら聞こえるよ
嘆き唄か 人恋う唄か 胸のすきまに しみてくる 降り積もる雪雪雪
また雪よ 津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪」
だが、ここではそれほど多彩な雪は見られないし、思いなせない。
そんな考えが浮かぶほどの今日の雪だ。

ボタン雪、それが風に揺られことはなく、ほぼ垂直に天から地へと
落ちてくる。1時間もすると家の周辺は白く輝く光が満ち、ただ平板な
白い地面となった。すでに、40センチほどの雪の絨毯が庭を被っている。
猫のライが飛び出したものの、雪の中にはまり大慌てで出ようとするが、
目の前はただただ白い壁が続くのみ、彼にとっては何回も経験している
はずであるが、相変わらず懲りない男である。
助けての叫びに、わたしもまたかの顔で抱きかかえに行く。だが、
犬のルナは違った。
元来寒さには強い犬種でもあり、自分の顔が沈むほどの深さの中に飛び出し、
白く深く伸びた雪原のごとき広場をはね飛びながら遊んでいる。
梅ノ木もその枝枝を白き雪帽子で着飾り、他の草花はすでに影形なく、
映え光る白の世界に埋没している。
薄いベールの先に見えていた比良の山並みも薄墨の壁紙がはられたように
彼の視線から消し去られた。われわれはただ水滴がこぼれ落ちる窓ガラスの
中で、ひっそりとこの情景に見入るのみだ。
だが、この辺りを北国と呼ぶには、雪の中に数か月も閉じ込められる
「北国の人」には大いに失礼だ。その想いを柳田國男は「雪国の春」の
中でうまく綴っている。
「故郷の春と題して、しばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分等
真っ先に日の良く当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が
子を育てる麦畑の陽炎、里には石垣のタンポポすみれ、神の森の大掛かりな
藤の紫、今日から明日への題目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、
木蔭が多くなって行く姿であったが、この休息ともまた退屈とも
名づくべき春の暮れの心持は、ただ旅行してみただけでは、おそらく
北国の人たちには味わいえなかったであろう。北国でなくとも、
京都などはもう北の限りで、わずか数里離れたいわゆる比叡の山蔭に
なると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を超え湖を少し
隔てた土地には、冬ごもりをせねばならぬ村里が多かった。
丹波雪国積もらぬさきにつれておでやれうす雪に
という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさ
が考えられる。日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通
が難しくなる。伊予にすみ慣れた土居得能之一党が越前に落ちていこう
として木の目峠の山路で、悲惨な最後を遂げたという物語は、
「太平記」を読んだ者の永く忘れえない印象である。
総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして、
身を入れるだけの隠れ家を見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。
そうして春の帰ってくるのを待ち焦がれていたのである。越後当たり
の大百姓にはこうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。、、、
汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も
珍しいであろう。それがいたるところ深い谷をさかのぼり、山の屏風
を突き抜けているゆえに、かの、黄昏や又ひとり行く雪の人の句のごとく、
おりおり往還に立ってじっと眺めているような場合が多かったのである。
停車場には時として暖国から来た家族が住んでいる。
雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何という目的もなしに、鍬を
ふるって庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたという話もある。
鳥などは食に飢えているために、こと簡単な方法で捕らえられた。
二、三日も降り続いた後の朝に、一尺か二尺四方の黒い土の肌を出しておくと、
何のえさも囮もなくてそれだけでヒヨドリやツグミが下りてくる」
彼はこの一節を読みながら、ストーブの前を占拠している五人の猫たちの
顔を一睨みした。チャトなぞは堂々と腹と隠すべきものまでさらして寝ていた。

大寒は、一月二十日ごろ、寒さが最も厳しくなるころである。
「暦便覧」では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
そして、初めの五日ほどを「款冬華」(ふきのはなさく)、「水沢腹堅」
(さわみずこおりつめる)、最後に「鶏始乳」(にわとりはじめてとやにつく)
と昔の人はこの季節を細かく言い表している。
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。前夜の雪がまだその残滓を残し、街は白く
輝いていた。朝の寒さの中、街の一番奥にある丘の上に彼はいた。
まるで雪に埋もれる木々のごとく立ち尽くしていた。
主人はまたこの季節を迎え春を感じ始めることに安堵した。
だが、彼の頭は茫洋とした果てしない過去のつなぎの中にいた。広々と
視界の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所と次の場所
との中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来していく。
この数十年のあいだ考えまいとして抑えつけて来た過去のもろもろが
解き放たれ彼の中を駆け巡っている。おかげで、いま彼の頭の中では
様々な情景がけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギー
を発していた。
夜来よりの雪の残り香であろう小さな宝石の雫を光り輝かせる丘の上
の桜の木。この自然が描く一幅の浮世絵の中をあこがれの目で眺め、
自分の素足が柔らかな草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水
が鞭となって空気を打ち破りながらときおり陽の光を捉えてきらめき
流れて行く。
黒くむき出した野原の中に、赤く燃え映えた花が一群を成していた。
ハート形をした柄の長い葉には白斑があり、伸びた花茎に篝火を
たいているように白い雪原にその赤さを誇っているようだ。
シクラメンだった。まだ若かった頃聞いたあの歌が思い出される。
「、、、うす紅色(べにいろ)の シクラメンほどまぶしいものはない
恋する時の 君のようです 木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして 愛がいつのまにか 歩き始めました
、、、、」
ある人に言わせると、「シクラメンのようなかほり」で、奥さんを
思っての歌だともいう。
寒いなかに一刻の温かさが心を過ぎる。

眼の前に広がる白く平坦な世界は、昔、関東を訪れた時の情景を
思い起こさせた。遠くに霞むように筑波の山が見え隠れするが、
それが時間を経ようとそのままの大きさで眼前に見えている。
冬のこの関東の平野は寂しい。
稲はぎの残る刈田にも、桑畑の枯れた桑の枝にも、またその間の目
に滲む緑を敷いた冬菜畑にも、沼の赤みを帯びた刈れ葦や蒲の穂にも、
粉雪は音もなく降っていたが、積もるほどではなかった。
関西の人間にとって、一時間乗っても、山並みがまったく現れない
この茫漠とした平板な景色は想像できない。電柱が一本二本とわずか
の雪をその肌につけ、後ろへ後ろへと流れていくが、過ぎゆく白く
光る真綿の地と遠くかすむような筑波の山影は変わらずそのままである。
その単調が彼らを苛立たせる。車窓にかかる雪は、目に見えるほどの
水滴にも及ばないで消えた。空が水のように白んでくると思うと、
そこから希薄な日がさしてきた。
雪はその日ざしの中で、ますます軽く、灰のように漂った。いたる
ところに、枯れた芒が微風にそよいでいた。弱日を受けてそのしなだれた
穂の和毛が弱く光った。
野の果ての防風林は霞んでいたが、空の遠くに一箇所澄んだ青があって、
そこに空の池が出来ていた。それは実にしんとした情景だった。
電車の動揺と重い瞼とが、その景色を歪ませ、攪拌しているかもしれない
けれど、彼は、こんな鋭利な光景は久しぶりのような気がした。
しかもそこには人の影は一つもなかった。また少し空がひらけて、
薄日の中に雪が舞っていたが、田んぼのあぜ道の傍らの藪の中から
数羽の雀が飛び立った。古びた駅舎の横にある松並木に混じる桜の
冬木には青苔が生え、藪に混じる白梅の一本がその紅色の花を昼下がり
の弱い日差しの中で、鮮明に見せていた。
若きときの一瞬の時間が切り取られ、この琵琶湖と比良の山並みとの
対比に過去の自分の過ごした日々を思った。

泉鏡花の瓔珞品(ようらくぽん)がある。
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
冬の透徹した寒さと空気感がこの記述には一番ふさわしいと思っている。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、
南無竹生島は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、
羽衣のひだをみるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、
これなん日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の調べは、
湖の琵琶を奏づるのである。」

この世界は、秋でも春でもない。冬の琵琶湖に佇むとそれがよく分かる。

2019.01.12

西近江路紀行32 冬を行くその2

西近江路紀行32 冬を行くその2

22節気 冬至
冬至にもなると本格的な冬の装いとなる。比良の山並みの顔も絶えず変える。
大雪の末候となるころ、頂の白さが映え、ピンク色が雲を染め、薄雲と
太針の常緑樹の影が白地の山麓に浮かび上がってくる。数週間前の中腹の
緑と落葉樹の橙がまだ厚く色なし数色の緞通の趣はすでにない。数時間も
すると、頂の後ろから湧き上がってくる黒雲は急激に山肌を隠し単調な
薄黒い壁になる。
そしてこの街も初雪が山から下りてくる。3日ほどわた雪、粉雪、ぼたん雪、
が舞い散ってくる。東北では7色の雪があるというがここでは3色ほどか。
そしてわずか数センチの雪にも根をあげる。大晦日の朝から神社の多くは
注連縄や輪飾り、場所では門松などを飾り、祭神への感謝を、各家の年神
とともに、伝える。やはり氏神への感謝が大事と思うが、有名神社へ行く
ものが多いのは残念だ。
小野、和邇、栗原、木戸、守山、比良、小松等この地域は多くの神社があり、
その社叢の影を感じ、雪に足を踏みしめて参るのも、せめての地域への感謝
かもしれない。

今でも神社ごとに注連縄を編んで飾る処もあるが、世話人の高齢化などで
中々に難しくなっている。その形状も大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなど
があるが、御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに
宿る印である。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、
俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つ
の世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。
だが、そうもいかないのが現実だ。

「暦便覧」では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明
している。日照時間が減り、夏至と反対に夜が最も長く昼が短い日。
冬至にかぼちゃを食べるのは 風邪を引かない、金運を祈願するという
ような意味があるそうだ。
・乃東生(なつかれくさしょうず)12月22日頃夏枯草が芽をだす頃。
夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表しているという。
・麋角解(さわしかのつのおつる)12月27日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わる。
・雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)1月1日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特
の風習だ。
むかしは、元旦の日を浴びながら、黒く浮きだった土をしっかりと
踏み込んでいた年寄の姿が見えたものだ。
初茜(初日直前の茜空。夜の暗がりから白み、明るみ、茜に染まる
東雲しののめの空。
近くの農家の年寄がよく言っていた。
冬至によく食べたのが、冬至がゆとかぼちゃだった。冬至がゆは小豆を
入れたおかゆのことで、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、
冬至に食べて厄祓いをするそうだ。
かぼちゃは栄養豊富で長期保存がきくことから、冬の栄養補給になり、
冬至に食べたのだ。
また、冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめると
いわれているともいう。にんじん、だいこん、れんこん、うどん、
ぎんなん、きんかん......など、「ん」のつくものを運盛り といって
縁起をかついでいたこともあるようだ。最近はこのような話をあまり聞かない。
豊富な野菜や健康志向のレシピ、栄養剤、味覚ある冬料理、などこの
素朴な料理に注意を向けることは失われつつある。
だが、人がその風土に合わせ生きる力として数100年も培ってきた
知恵を忘れるべきではない、と彼は思いつつカボチャ料理を妻に頼んだ。

薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。
その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を
見せている。
既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく張り付き広がっている。
こちらも薄墨の背景に浮かぶ山水画の風情を見せている。
彼は坂をゆっくりと、その歩みを確認する仕草で下りて行く。肩に白い粉
がかかるがすぐに消えた。雪か、と思った。昨日よりもその寒さは一段
と厳しくなり、全ての動作がを油の切れた機械の様を見せている。
夏、秋と華麗な姿を見せていた家々の草花もすでに消え去ったり、
残り香を見せるものは、茶褐色と灰色の世界をなし、彼の気持を一段
と落ち込ませる。目はじに黒く深い緑に黄色の点描が見えた。
小さな赤子のこぶしほどの黄色い実が小ぶりの葉を押しのけるように
実っていた。柚子の木が一つ、彼の背丈を超す大きさにその直立した姿
を見せている。
数日前に柚子の風呂をした記憶がよみがえる。知り合いが大きな段ボール箱
に入れて持ってきたのだ。

むかしは、冬至の翌日から日が延びるため、この日は陰の極みとし、
翌日から再び陽にかえると考えられてきた。それを「一陽来復」といい、
この日を境に運が向くとされていた。厄払いするための禊(みそぎ)
として身を清めるということから柚子風呂は冬の代名詞のようなものだ。
冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないと
いう考えもあったのであろう。
身体の芯に迫り溶け込むような感触を今日も味わいたい、思わず体が
ほてるのを感じた。
茶色に広く広がる枯野のそば、ただぼーとして、動きのない雑木を
見つめる。こんなとき、真っ白になった頭の中では、次第に時間が
遡りはじめる。霧が少しづつ晴れてくるように雑木林のなかは、
小さな生命にあふれていたころの様子が蘇ってくる。
秋の終わりころの陽だまりがススキの柔らかい穂先の下で波打っていた。
まだわずかの緑を残した落ち葉の上をかさかさと音を立ててかけ走る
オオオサムシ。彼はいま黒ずんだ朽木の中で、どのようにして眠って
いるのだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、
あごを乗せて物思いにふけっていたアマガエルは、土くれの中で春の
暖かさをまっているのだろう。
雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。脚で
枝をしっかりつかんで体を固定し、体をピンと張って小枝に見せていた。
その力強さに思わず見とれた。
実に他愛のないことが、頭の中を駆け巡る。生き物たちのことが無性
に恋しくなるのは、すべてが無に見える果てしない枯草の世界から少し
でも逃げ出そうとする意識がそうさせている。時間は逆に廻り、晩春
から初秋へ、そして夏の終わりから真夏へと記憶が引き戻されていく。

冬至は、1月4日ごろまでだから、正月も入る。
この時期、里も忙しい。この地域は、神社や寺が多い。地域の人々は、
それぞれの氏神に参り、掃き清めや注連縄の張り直しに勤しむ。注連縄
には地域独特の張り方もあるようで、中々に味わいもある。例えば、
栗原集落の最奥近くにこの水分神社は鎮座しているが、広く長い参道
の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が掛けられている。
湖東で見慣れている縄とは少し造形が変わっていて、何本有るのかも
わからない程多くの子縄が垂れ下がりそれぞれに御幣とシキミの小枝がつけられている。
神社に多くあるのは、ごぼう締めと言われるごぼうのような
形をした注連縄だ。正月の注連縄は左へねじる「左綯い(ひだりない)」
で特別なものになっており、飾るときは太い方を向かって右にするという。
これは、神様から見たときに(人と逆)元の太い部分が神聖とされる左側
になるようにするためだ。
太い注連縄を輪にした玉飾りもある。前垂れ、ウラジロ(清廉潔白・長寿)、
紙垂(しで:神様の降臨を表す)、ユズリハ(子孫繁栄)、ダイダイ(家運隆盛)、
海老(長寿)、扇(末広がり)など、様々な縁起物をつけた注連飾りだ。

また、それほど大きくはなくとも鐘楼のあるお寺が地域には少なくない。
響き渡る鐘の音にあわせ、こんな思いも持った日々もあった。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲1つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが
墨絵の趣で眼前にあった。

彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが
消えてはまたその姿を現していた。さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の
切片が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。だが、そんな思いもはるか昔の感傷となった。

「雑煮」は、年神様の魂が宿った餅を食べるための料理で、食べることで
年神様からその年の生命力が与えられるとされていたと聞くが、それも
今は単なる元旦恒例の食事と化している。我が家の雑煮はすまし汁のもの
と白みそ仕立ての2つが食膳にならぶ。私が関東であり、妻が京都である
からだ。主人の権威の衰え(もっともはじめからそういうものはなかった
かもしれないが)を感じる1つの行事でもある。
妻は絶対に白みその雑煮と主張し、それに息子たちが合している。
すまし汁の雑煮は、私1人が寂しく食べるのみだ。
雑煮は地方色豊かなものだが、我が家の味は全国版だ。
大きく分けて関西風と関東風があり、関西風は白味噌仕立てで丸餅を
焼かないで煮るスタイル、丸餅なのは鏡餅を模しているからだといわれている。
関東風は醤油仕立てのすまし汁に角餅を焼いて入れるスタイル、武家社会では
「味噌をつける」はしくじるという意味なので、味噌は使わなかったそうだ。
丸める手間がない角餅で、焼いて膨らみ丸くなると解釈するという。
全国的にはすまし汁のお雑煮が多いというが、参勤交代で全国に江戸文化
が伝わったからだそうだ。
私向けの雑煮はいわゆる関東風で、醤油仕立てのすまし汁に、小松菜、
大根、人参、ねぎ、椎茸、鶏肉を入れるが、白みその雑煮にはあまり
具材は入れない。もっとも、少し前からは具材は私の雑煮と同じように
なってきたが。
この地域でも多いのは、白みそに丸餅の雑煮のようだ。
丸餅に親がしら(赤ズイキの親芋)を丸のまんま1つ入れるという。
親がしらには、「親が頭(かしら)になる」といういわれがあるからだそうだ。
むかしは、雑煮の餅を元旦は1個、2日目は2個、3日目は3個と、
日を追って増やして食べたという。
増やすことによって家の繁栄を願ったからだ。
また、お節料理は琵琶湖に近い地域と山側にある地域では、その具材
がだいぶ違っていたという。湖にちかいところでは、湖魚の料理が多く、
山側では、野菜料理が主であった。
ごまめ、黒豆煮、柿なます、椎茸煮、里芋煮、飾りニンジン、栗きんとん
などが陶器のお重箱に綺麗に咲き乱れている。

つづく

2019.01.05

西近江路紀行32 冬を行くその1

西近江路紀行32 冬を行くその1

大雪、冬至にもなると本格的な冬の装いとなる。比良の山並み
の顔も絶えず変える。大雪の末候となるころ、頂の白さが映え、
ピンク色が雲を染め、薄雲と太針の常緑樹の影が白地の山麓に
浮かび上がってくる。数週間前の中腹の緑と落葉樹の橙がまだ
厚く色なし数色の緞通の趣はすでにない。数時間もすると、
頂の後ろから湧き上がってくる黒雲は急激に山肌を隠し単調な
薄黒い壁になる。時には、薄い雲の群れを背景に虹が山麓から
放たれて湖へとその7色を見せて懸け橋を作ることもある。
また、比良の山並みにかかる小雨が里を覆うが、湖の南は光に
充ち、中天の陽はその半分を照らす。雲と雨と太陽、見る限り
の世界にそれらが共存する。時に風が主役ともなる。比良の山並み
の頭を隠すような黒雲が瞬く間に現れ、雲が足早に里に駆け下りる。
強い風がわずかに木々と共にしていた黄色に錆色の葉たちを
打ち払い、里の木々の多くは南へとそのこうべを傾げる。琵琶湖
と比良の山並みのモノトーンの世界は、静かに時を過ごすには
格好の場所でもある。白く輝く山々がその白きすそ野を湖まで
指し伸ばし、満ちた月に黒く輝き拡がる湖面に溶け込んでいく。
対岸の沖島や長命寺山の起伏もまた同様に白く映える雪の平板な面
を月明かりに冴えわたる金色のさざ波に呑み込まれる。
冬の満月は、穿ち煌めく星たちとともに透き通る暗闇に瓔珞品の
世界を見せる。闇の絶景、数百本の松の並木からのぞくのもよし、
薄白く伸びわたる砂浜に影を作りつつ見るのも、この時期の楽しみだ。

北風
比良の山の冬の息ぶき、北風だ
頂きに膨らみ冬の力を漲らせている
その吹きは常緑や数えるほどの錆色の葉を抱き込み駆け下りていく
コナラ、クヌギ、ナラガシワ、一斉にこうべを垂れてやり過ごす
秋の雲が冬の雲になる。重く沈んだ黒雲が湖を睨む
里の子の頬は赤く燃え、なぜわたる風に身を震わす
湖は舟に牙をむき、漁師たちを岸に留まさせる
舞い散る雪がすべての光景を包み込み、やがて白銀の里となる
白砂の輝きは湖をモノトーンの景色に変え、死をも暗示する

歌川広重の傑作とされる保永堂版比良暮雪は、この比良の荒々しさ
がよく表現されており、他のとは一味違い、冬景色と比良の力強さ
を上手く調和させている。雪に埋もれた小さな村を呑み込むほど
の猛々しさで迫る比良の山並み、都では北の鬼門として恐れられた
霊山でもある。右下の青く描かれた琵琶湖畔と対比され一層の
激しさが感じられる。
紀行文の作者たちの多くは、不思議とこの地の冬の情景を愛するようだ。
司馬遼太郎の「街道をゆく」でも堅田からの志賀を抜けて行く時
の冬の情景を北小松の描写とともにある種の感慨を含めて記述
している。又、井上靖の「比良のしゃくなげ」や瀬戸内晴美の
{比叡}も冬景色の描写が素晴らしい。琵琶湖と比良の山並みの
モノトーンが彼らの心根のどこかを触発するのかもしれない。
小雪から大寒までの情景を見て欲しい。

小雪(しょうせつ)は、二十四節気の第20の季節。11月22日
ごろとなり、この地域では寒さを感じるこのごろである。
木々を彩っていた葉が雨に濡れて落ちる頃となり、山間部では
その雨が雪に変わり始める秋から冬への移り目の時期でもある。
この日から、次の節気の大雪前日までであり、わずかながら雪が
降り始めるころともなり、比良の山並にも白いものが見え始める。
「暦便覧」では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」
と説明している。この頃から初春までに育った椎茸は冬茹(どんこ)と
呼ばれる。寒い空気にさらされて育つため、肉厚で身が締まり、
味が濃厚となる。我が家の下の街では、そろそろ郷の料理としても、
冬の味わいに入る。
ビワマスのご飯、いさざのじゅんじゅん鍋、氷魚のおすましや釜揚げなど
白菜や大根も加え、冬の味覚が本格的になる。
七十二候にもあるが、
・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味がある。
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさす。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされている。
コナラ、クヌギなどの落葉樹も橙や黄色の色づきを比良の中腹を賑わせる。
このころ、比良の中腹には虹が多くかかる。薄雲を後景にして
直線的に天へと七つの色を伸ばし、時には比良の山と琵琶湖をつなぐ
七色の架け橋ともなる。地上のいろどりが消えかかるものの、
天上には新たな色が登場する。

11月初めには「山茶始開」とあるが、山茶花はこの頃から家々に
垣根や通り道に咲く。幾株かの山茶花だが、冬だというのに揃って
花ざかり、小さい庭を明るくしている。椿も好きで、白玉椿、
光悦椿、からはじめて黒椿まで持っているが、椿の花は霜に弱く、
純白のものなど一夜で、なさけない姿になる。
一々霜よけしてやるわけにもいかない。山茶花はそれに比べると強く、
散りつくしてもう終わったと思っていると、また、小さい蕾を
持って沢山に咲く。その可憐な姿がなんともいえない。白い花に
紅を少し差したようなのは、昭和はじめの日本娘のようにつつましく
感じられて私は好きである。現代の若い女性を感じさせる山茶花はない。
人間のほうが花よりあくどく装飾過剰である。
家から通りにである露地の一軒に、このはなが咲くのを美しいと
年々に思って眺めている。白一色の八重のものも、冬の厳しさに
つりあって見事である。近くの大きな家の庭にこの木の花の咲いた
ときに見に行くと、白川砂を敷いた地面にこの花びらが一面に
散っている。黙って静かに白い花びらが宙を軽くこぼれてくる様は、
この季節でも温かくほっこりする。

21節気 大雪
大雪(たいせつ)は、二十四節気で12月7日ごろ。期間としての
意味もあり、この日から、次の節気の冬至前日までである。雪が
激しく降り始めるころであり、「暦便覧」では「雪いよいよ降り
重ねる折からなれば也」と説明している。
山だけでなく平野にも降雪のある季節。寒さが日増しに厳しくなってゆく。
・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)12月7日頃
空が閉ざされ真冬となる。空をふさぐかのように重苦しい空が
真冬の空。琵琶湖の水もその重苦しさを増す。
・熊蟄穴(くまあなにこもる)12月12日頃
熊が穴に入って冬ごもりする頃。何も食べずに過ごすため、秋に
食いだめをする。
・さけ魚群(さけのうおむらがる)12月17日頃
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の
川へ帰り来る。鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、
我が家の南天の実が赤く色付きはじめる。

比良山も頂の白き斑が大きな白布となり、その稜線をくっきりと見せる。
右には、遠く微かに鈴鹿の山並がどこか頼りなげに薄く延びている。
眼を左へと緩やかに転じていく。三上山の形のよい山姿が静かな
湖面の先に浮かび上がる。その横には八幡山と沖島が深い緑の衣に
包まれるように横たわっている。更にその横奥には、御嶽山を
初めとする木曾の山並が薄く横長に伏せており、その前にはその
削られた山肌が痛々しい伊吹の山が悄然と立っている。全てが
琵琶湖の蒼さを照らし出すように薄明るさの中にあった。
だが、一転空に眼を向ければ、冬にしか見られない素晴らしい
舞台があった。遥か上には、櫛を梳いたような雲が幾筋もその
軽やかな形を見せている。その下には、繭がその固い形をほぐす
ような雲がふわりと浮き伊吹の上からゆっくりと比良の山に
向って流れ来る。
さらに、しっかりとした二本の飛行機雲を切り取る様に、その下
をやや黒味のある雲がこれも比良に向かい素早い流れで和邇に
向うように流れ来るのであった。ここから見える空は平板として
その奥深さを知る事は出来ない。しかし、いくつもの雲の流れ
がその空の深さを示すようにお互いを遮ることなく流れすぎていく。
久しぶりに見る、感じる空の景観であった。

この季節、よく虹が出る。比良山の端から一直線に天に昇るが如く
7つの色がくっきりとした輪郭を保ちながら、やがて大きな弧を描き
琵琶湖の水に消えていく。ときには、半円の虹が和邇の港あたりから
和邇川の流れに合わすかのように冬枯れした田畑の上を7つの彩色を
施した薄い絹布となり、黒く立ちすくむ松林の中に消えて行く。
しかし、その落ちる先に行っても、虹は姿を隠すか如くそこにはいない。
川端康成の小説に「虹いくたび」と言うのがあるが、主人公の3人姉妹
の生への美しさとはかなさを虹に重ねて書いたものであり、
「生まれて、生きて死ぬ
 生まれて、生きて死ぬ
 いくたびの繰り返し
 人も虫も花も 虹も
 この世に生まれ出るものはすべて
 生きねばならぬ 死なねばならぬ
 理屈ではなく
 そう決まっているのだから
 いくたびのつまづきは
 いくたびの希望だから
 やがてくる死のために
 生きねばならぬ 輝いて
 生きねばならぬ」
琵琶湖で「彦根をすぎて米原のあいだ」見た琵琶湖の虹が良く出てくる。
更には、八日市から愛知川に向う近江鉄道に乗ると川端が感じていた
であろう故郷の気配があったのではないだろうか。一瞬の優美さと
儚さを感じるのが虹なのかもしれない。

さらにこのころになると、風向きが北西となり、比良の山並みに
対して垂直にぶつかるような季節風になってしまう。そのため、強力な
寒気団が居座ると、大量の雪を吐き続ける怪物と化す。
だが、山ろくで猛威をふるった風は琵琶湖に行きつくまでには、
湿気をだしきり、軽く透明な空気となって、何もなかったような
穏やかさを取り戻す。
もっとも、比良おろしと言って、冬から春先までは猛烈な風が麓を
駆け抜ける。
また、司馬遼太郎がその第1巻でも感じ入っているようだが、湖西
を車で行くと、志賀にさしかかったあたりから景色が雪国の様相に
急変することに驚かされるだろう。
天候は時間を追って変わり、大津市内では何事もないような天候
がこのあたりでは、雪や氷雨と太陽が絶え間なく入れ替わりつづける。

最近、我が家の周りでもストーブで冬を過ごす家が多くなった。
街を歩けば、点々と少し灰色がかった煙が直立した煙突から吐き
出されている。まだ残る「煤の文化」への回帰なのだろうか、
もっとも最近は昔を懐かしむというより、環境保全という名目も
多く聞かれる。しかし、人々は炎に魅了され続けてきたという
原初的な想いも強いようだ。常に、不思議な色合いを発し、姿を
変え、時に激しくめらめらと、時にゆらゆらたおやかに燃えるさまに、
人々は安らぎを覚えてきた。炎の揺らめきは五感に訴えかける何か、
それは遠い昔に人々が持っていた本能に引き込まれているのかもしれない。
この地域は昭和30年代まで割り木を木材燃料として湖辺周辺
に供給していた。割り木には、クヌギ、コナラ(ホソ)、ナラガシワ
(ギンボソ)、が良いとされ、火付きが良く長く燃えるからだそうだ。
これらを上木じょうぎと言い、桜、ハンノキ、栗などの軽い木
は雑木というそうだ。
燃料としての木々にも歴史はあった。

火を使い始めた、その時から日本人は煤とともに暮らしてきた。
この煤の国では毎年暮れ、降り積もった家中の煤を払い清めた。
これが煤払いである。一家総出の行事のはずだが、主だけはお役を
免れることがあったという。これを「煤逃げ」。「逃げ」であるから、
どこかへ姿をくらますのである。
戦後、電化が進むにつれて煤は人の前から姿を消し始めた。そして、
「煤逃げ」の季節でもあるこの時期も寒さだけが心に染み込むだけ
のことになった。
こんな和歌がよくあう季節でもある。 
・吹き迷う雲をさまりし夕なぎに 比良の高ねの雪を見るかな   為美
・夕づく日比良の高ねを眺むれば くるるともなき雪の白妙    元恒

2019.01.04

冬至 雪と新年

冬至(12月21日から1月4日ごろ)

冬至にもなると本格的な冬の装いとなる。比良の山並みの顔も絶えず変える。
大雪の末候となるころ、頂の白さが映え、ピンク色が雲を染め、薄雲と
太針の常緑樹の影が白地の山麓に浮かび上がってくる。数週間前の中腹の
緑と落葉樹の橙がまだ厚く色なし数色の緞通の趣はすでにない。数時間も
すると、頂の後ろから湧き上がってくる黒雲は急激に山肌を隠し単調な
薄黒い壁になる。
そしてこの街も初雪が山から下りてくる。3日ほどわた雪、粉雪、ぼたん雪、
が舞い散ってくる。東北では7色の雪があるというがここでは3色ほどか。
そしてわずか数センチの雪にも根をあげる。大晦日の朝から神社の多くは
注連縄や輪飾り、場所では門松などを飾り、祭神への感謝を、各家の年神
とともに、伝える。やはり氏神への感謝が大事と思うが、有名神社へ行く
ものが多いのは残念だ。
小野、和邇、栗原、木戸、守山、比良、小松等この地域は多くの神社があり、
その社叢の影を感じ、雪に足を踏みしめて参るのも、せめての地域への感謝
かもしれない。

今でも神社ごとに注連縄を編んで飾る処もあるが、世話人の高齢化などで
中々に難しくなっている。その形状も大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなど
があるが、御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに
宿る印である。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、
俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つ
の世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。
だが、そうもいかないのが現実だ。
注連縄には地域独特の張り方もあるようで、中々に味わいもある。
例えば、栗原集落の最奥近くにこの水分神社は鎮座しているが、広く
長い参道の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が掛けられている。
湖東で見慣れている縄とは少し造形が変わっていて、何本有るのかも
分からない程多くの子縄が垂れ下がりそれぞれに御幣とシキミの小枝
がつけられている。
神社に多くあるのは、ごぼう締めと言われるごぼうのような形をした
注連縄だ。正月の注連縄は左へねじる「左綯い(ひだりない)」で特別な
ものになっており、飾るときは太い方を向かって右にするという。
これは、神様から見たときに(人と逆)元の太い部分が神聖とされる
左側になるようにするためだ。
太い注連縄を輪にした玉飾りもある。前垂れ、ウラジロ(清廉潔白・長寿)、
紙垂(しで:神様の降臨を表す)、ユズリハ(子孫繁栄)、ダイダイ(家運隆盛)、
海老(長寿)、扇(末広がり)など、様々な縁起物をつけた注連飾りだ。
また、それほど大きくはなくとも鐘楼のあるお寺が地域には少なくない。
大晦日の夜、微妙にズレた108回の鐘の音が湖にも低く漂う。

冬至によく食べたのが、冬至がゆとかぼちゃだった。冬至がゆは小豆を入れた
おかゆのことで、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、冬至に食べて
厄祓いをするそうだ。かぼちゃは栄養豊富で長期保存がきくことから、
冬の栄養補給になり、冬至に食べたのだ。
また、冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめるといわれている
ともいう。にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかん......など、
「ん」のつくものを運盛り といって縁起をかついでいたこともあるようだ。

白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲1つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが墨絵の
趣で眼前にあった。
彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが消えては
またその姿を現していた。さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の切片が月光に
染められ、金粉をまいているように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。だが、そんな思いもはるか昔の感傷となった。

「雑煮」は、年神様の魂が宿った餅を食べるための料理で、食べることで
年神様からその年の生命力が与えられるとされていたと聞くが、それも
今は単なる元旦恒例の食事と化している。我が家の雑煮はすまし汁のもの
と白みそ仕立ての2つが食膳にならぶ。私が関東であり、妻が京都で
あるからだ。主人の権威の衰え(もっともはじめからそういうものは
なかったかもしれないが)を感じる1つの行事でもある。
妻は絶対に白みその雑煮と主張し、それに息子たちが合している。
すまし汁の雑煮は、私1人が寂しく食べるのみだ。
雑煮は地方色豊かなものだが、我が家の味は全国版だ。
大きく分けて関西風と関東風があり、関西風は白味噌仕立てで丸餅を
焼かないで煮るスタイル、丸餅なのは鏡餅を模しているからだといわれている。
関東風は醤油仕立てのすまし汁に角餅を焼いて入れるスタイル、武家社会では
「味噌をつける」はしくじるという意味なので、味噌は使わなかったそうだ。
丸める手間がない角餅で、焼いて膨らみ丸くなると解釈するという。
全国的にはすまし汁のお雑煮が多いというが、参勤交代で全国に江戸文化が
伝わったからだそうだ。
私向けの雑煮はいわゆる関東風で、醤油仕立てのすまし汁に、小松菜、大根、
人参、ねぎ、椎茸、鶏肉を入れるが、白みその雑煮にはあまり具材は入れない。
もっとも、少し前からは具材は私の雑煮と同じようになってきたが。
この地域でも多いのは、白みそに丸餅の雑煮のようだ。
丸餅に親がしら(赤ズイキの親芋)を丸のまんま1つ入れるという。
親がしらには、「親が頭(かしら)になる」といういわれがあるからだそうだ。
むかしは、雑煮の餅を元旦は1個、2日目は2個、3日目は3個と、
日を追って増やして食べたという。
増やすことによって家の繁栄を願ったからだ。
また、お節料理は琵琶湖に近い地域と山側にある地域では、その具材が
だいぶ違っていたという。湖にちかいところでは、湖魚の料理が多く、
山側では、野菜料理が主であった。ごまめ、黒豆煮、柿なます、椎茸煮、
里芋煮、飾りニンジン、栗きんとんなどが陶器のお重箱に綺麗に咲き乱れている。
冬至は雪と正月、それだけかもしれない。

2018.12.21

大雪(12月7日から20日ごろ)、いよいよ冬

大雪(12月7日から20日ごろ)

比良の山並みはたえずその顔を変える。少し前赤橙の薄雲に薄青白い
稜線を見せていたが、一瞬眼を外し、見直すと薄墨にやや太い灰色の
稜線に変わっていた。
あの日はひどく寒い朝であった。黒雲が山並みを隠していたが、
細く切れた雲の間に頂から幾筋もの白い線が中腹まで這っていた。
初冠雪であった。
白くまぶされた木々が麓の橙色に消えて行く。麓に広く拡がるそれは
コナラの最後の葉群れなのだろう。
黑と灰色、白、更に黄橙の世界がこの里が冬に入ったことを告げていた。
50,60年前には割り木を木材燃料として湖辺周辺に供給していた。
割り木には、クヌギ、コナラ(ホソ)、ナラガシワ(ギンボソ)、が良い。
火付きが良く長く燃えるからだそうだ。燃料として麓には多く植えられていた。
コナラ、クヌギは今でも眼を楽しませてくれる。燃料としての木々にも
歴史と役割があった。
さらにこのころになると、風向きが北西となり、比良の山並みに対して
垂直にぶつかるような季節風になってしまう。そのため、強力な寒気団が
居座ると、大量の雪を吐き続ける怪物と化す。
だが、山ろくで猛威をふるった風は琵琶湖に行きつくまでには、
湿気をだしきり、軽く透明な空気となって、何もなかったような穏やかさ
を取り戻す。
もっとも、比良おろしと言って、冬から春先までは猛烈な風が
麓を駆け抜ける。
また、司馬遼太郎がその第1巻でも感じ入っているようだが、
湖西を車で行くと、志賀にさしかかったあたりから景色が雪国の
様相に急変することに驚かされるだろう。
天候は時間を追って変わり、大津市内では何事もないような天候
がこのあたりでは、雪や氷雨と太陽が絶え間なく入れ替わりつづける。
さらに、この季節、よく虹が出る。比良山の端から一直線に天に
昇るが如く7つの色がくっきりとした輪郭を保ちながら、やがて
大きな弧を描き琵琶湖の水に消えていく。
ときには、半円の虹が和邇の港あたりから和邇川の流れに合わすかの
ように冬枯れした田畑の上を7つの彩色を施した薄い絹布となり、
黒く立ちすくむ松林の中に消えて行く。雲と太陽の織りなす自然の
キャンバスが此方に出現する。だが、それも一刻の事。
この里の冬は、時が早くなる。
冬の堅田漁港、その広さのせいか、多くの漁船が停泊しているものの、
うら寂しい。何箱かの魚が見えた。もろこ、シジミ、ハス、氷魚、
ニゴロブナ(フナ寿司向け)スジエビがいた。冬の漁は厳しいと聞くが、
それ以上に魚が獲れないことが反って寂しさを募らせる。
大根はやはり栗原地区のものだった言われた。先日その大根を炊いた。
美味しかった。アツアツに茹でた大根にねり味噌をつけて食べる
ふろふき大根、冬には欠かせない。
冬枯れと言うが、この時期目立つのが、山茶花の小ぶりな赤やピンク
の花の群れだ。赤やピンクの花びらがまかれたように散っている。
椿は花首がぼとりと外れたように落ちるから山茶花より哀れさが漂う。
山茶花の生け垣があった。赤と深緑の織りなす光景は見るものにも
暖かさを感じさせてくれる。
昔はこの頃から正月のこと始め、煤払いから1年の穢れを清める
大掃除まで、家族全員の仕事であった。それも過去の話か?大晦日
直前に簡単な掃除で終わるところが多い様だ。「煤の文化」が懐かしい。

2018.12.06

秋と冬のせめぎ合い小雪の頃

小雪(11月22日から12月6日ごろ)

近くの小さな山は錦繍を迎えている。クヌギ、コナラの薄褐色
と混じり合いながら赤、黄色、薄紅、幾つもの秋の色が乱れ散り
京小紋の色使い、金糸黄糸土糸緑糸に紡がれた錦の織りにも
似た派手さを見せて、ついこの間まで我が物顔に占められていた
緑のこれも黄緑や、深緑、浅い緑の森に代わって、黄昏の中に
浮かんでいる。私は、この景観を薄雲の夕刻に見るのが好きだ。
晴れた日の光の強さはこの色合いを黒くはっきりとした縁に見せるため、
何か不細工な感じがした。そこへ行くと、薄雲から射しこむ光が
黄昏模様の淡い情景を後景に見せるのは、女性の美しさと細やかな
心根が包み込むようでいて、何とも風情がある。
さらに、秋の深まりはこんもりした小さな丘の上に1つだけ立っている
公孫樹に見る。数週間前に黄色い葉群れに被われていたその小さな
公孫樹はすでに葉を落とし、灰色の白い幹の枝たちが四方へと
伸びていた。それは、すべての衣服を剥ぎ取られ、恥ずかしさに
打ちひしがれている少女の様を黄色に敷き詰められた落ち葉の上に
見せていた。
秋はこうして終わっていくのか、そんな想いが心をかすめた。

久しぶりに刈田を歩いた。遠くに薄紫の煙がゆっくりとたなびき湖へと
流れていく。煙は休耕田の雑草を焼いているのか、細く長く立ち上り
薄紫から鼠色に薄まりながらやがて薄い霞となって湖に消えた。
この香ばしい香りを嗅ぐと秋の終わりを鼻、眼、耳、さらに枯れた
稲穂の穂先を触ることで感じられた。
幼いころは、この刈田を走り回り友達と遊んだものだった。最近は、
この野焼きを禁止しろと言う連中がいるという。洗濯物に煤がつくとか
環境に良くないなどと言うようだが、日本の香りはますます
消えて行くのだろうか。
田圃の中を直線的な黒い筋が先まで伸びていた。まだ残り火があるの
だろう。わずかに赤い舌のような焔が時折、黒く焦げた線列にチロリと
現れる。そのずっと先に紅葉の衣をまとった比良の山並みが青磁の
ような滑らかな空の下に立っていた。

我が家の金柑も黄色味を増している。今年は氷砂糖を交互に詰めた金柑
シロップを味わった。早めに枝を落としたこともあって、数はそれほど
多くない。昨年はジャムだった。毎年1月にかけて黄色い点描が深緑
に浮かぶ。少し前に役割を終えた紫式部の細い枝が余計に目立った。
久しぶりの比良おろしと時雨が里を秋から冬へと導いている。琵琶湖も
灰色が多く水墨画の趣の日々が続いた。晴れた日の情景もよいが、
この淡い薄墨の世界もまた老いたものの心根を現しているようで、
何故か楽しみな想いが強い。これも年のせいか。
山茶花と椿、区別して見た事もないため、そのピンクや赤を愛でるだけで
どちらでもよい。でも、花が首を斬られたようにボロリと落ちている姿は
好きではない。でも、いずれも周辺を歩くと目立つ季節になってきた。
また、これらの中には寒椿もあるのだろう。あまり深く考えずに
その色と姿形を味わう。
何かの本に(多分、吾輩は猫の一文かも?)、人間の悪い癖に何でもすぐに
分類し、分けたがると、吾輩が言う文があったような気がする。たしかに、
分類しようが花の本質は変わることはない、私もそうしたい。

2018.12.01

西近江路紀行31 生活と文化

西近江路紀行31 生活と文化

西近江路紀行も今回でとりあえず終りとなるが、最後に少し
宗教と生活、文化について志賀町史を中心に概説しよう。
見る、感じるを深めるためにも、この地域の生活、風土を少し
ながらでも理解しておくことが肝要である。

日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。
白山信仰、富士信仰などは、その代表的なものであろうか。
水や稲作を支配する霊は山に籠り、生を受けるのも、死んでいく
のも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山と認識された
「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。
北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時
遺跡、栗原の大教寺野遺跡などがある。
しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、真言系
の当山系などのように、宗教集団を形成していった。
朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時の建立を認め、官寺とした。
最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、
天台宗の勢力拡大にともない比良山地はその修行地となり、
多くの寺院が建てられた。
その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に歓喜寺、法喜寺、
長法寺などが描かれている。
比良八講についても、「北比良村天神縁起絵巻」に、そのときの様子が
書かれている。また、「日次紀事」にも以下の様な記述がある。
「比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、
法華八講を修むこの日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時
非ずんば即ち出ず」
比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。
北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神
としている。しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗
が近江では、急激な広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏
を唱えれば、誰でも極楽浄土にいけると説いた。蓮如は、その
布教に対して、木像よりも絵像、絵像よりも、十字名号(紺地の
絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いたもの)を重視した。
この地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。
浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と
寛正の大飢饉である。12世紀以降には、鉄製農具が普及して
いたが、天候不順に対しては無力であった。
また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した
村落共同体の「惣村」が結成されるようになった。
慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、
一日三食の習慣が定着し,衣服も木綿が主となった。

志賀の文化、芸術
比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反
(かえ)る見ゆ
また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、
大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを
とある。
この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、
有名である。また、春の季節には、
ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし
花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を
民衆に受ける。しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道
を説く教義では、仏像、仏画も盛んに作られている。この地域では、
西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中)
上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野)
いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。
安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。
大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。
徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松)
などがある。

さらに古代に思いを馳せれば、
万葉集に、
「山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)
なす 海も広し」

これを「海」から「湖(うみ)」とすれば、ここ、さざなみの里
志賀でもある。文明のあり難さを十分に、感じた昨今としては、
伊勢神宮など、自然の豊かな場所での自然循環の中で、自給自足
という伝統を守っている人々の智慧を活用したいもの。

志賀町史第1巻では、
かって滋賀県は、近江国と呼ばれた。「近つ淡海の国」である。
静岡県の西部を浜名湖にちなんで「遠つ淡海の国」と呼ぶが、
それに対して近江国は、琵琶湖によってその名がついた。
古代の湖西地方には2つの特徴がある。交通の要所である
ことと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト王権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことと関係する。

近江は、日本列島における水上及び陸上の交通路の要であったと
言える。まず陸路から述べよう。旧いヤマト国家の時代には、
近江は「北」の国、海路で「越」(北陸地方)につうじる国と
見られていた。ならの平城京の時代には、東山道・北陸道の2つの
幹線道路(官道)が近江をとおっていた。実際には、伊勢湾がいまより
もはるかに深く湾入し、三重県桑名郡多度町と愛知県津島市との間の
渡しが難所であったため、東海道の諸国を往還する人も、しばしば
近江をとおって不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)を越えた。
官道には国家が管理する交通の拠点「駅(うまや)」が置かれ、
常時、緊急事態の通信連絡に備えていた。

志賀町域の古代の特徴は、なんと言っても、ヤマト政権・ヤマト王権
の中心地と北陸地方とを結ぶ大動脈が通っていたことである。
奈良盆地から後のなら街道を北上し、逢坂山をこえて湖西に入り、
小野、和邇などを経て音羽(高島郡高島町)あたりにでる。そのあと
上古賀(高島郡安曇川町)・追分などをとおって水坂峠(高島郡今津町)
を越え、若狭を回って鶴賀に至った。この道をとおる人は極めて多く
当時最大の豪族和邇部氏が運営する休息や宿泊の施設もたくさん
おかれていたはずである。
ヤマトの文化に触れることもあったので、早くから開けていたが、
それよりも北陸地方、特に、若狭・越前とのつながりが強かった
こと、それが当地の一番大きな特徴である。

次に水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代
以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半
越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。
琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」
で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、
塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに
なっていた。
その後は、瀬田川、宇治川、また木津川、淀川を使う水上交通路である。
この交通路は、5世紀後半には、開かれていた。6世紀後半からは国家
管理となった。その頃湖南の要港は、唐崎の南の方の「志賀津」(現在
の唐崎、西大津)であった。そこから京都府設楽郡の木津や大阪の難波津
に下っていった。船は再び琵琶湖に戻すのだが、「狭狭波山に控き引した」
とある(日本書紀)。宇治川、瀬田川の急流は、崖っぷちで足場が悪く、
とても船を引いてさかのぼることなど出来ない。そのため、巨椋池の
6地蔵あたりから山科川に入って船を引き、四ノ宮付近で陸揚げし、
逢坂山をこえて琵琶湖に戻していたのである。

この水上交通路の運営には、船大工や船頭などのほか、多くの人々の
労働が必要である。本町域の古代の人々も多数駆り出されたことであろう。
この様な労働は、無償ではなかったので、6世紀前半以前は、湖西北部
の「製鉄王」がその費用を支出していたと思われる。6世紀後半に国営
となってからは、「ミヤケ制支配」によってまかなわれた。「ミヤケ制
支配」とは、国家の企画で開拓した水田の経営と結びついた、労働力
と必要現物との国家的調達システムである。近江のミヤケの水田は
ほとんどが湖東に開拓されたが、その小作料としての収入は湖西の
交通労働者にも使われた。

以上のように、古代の近江は、日本海と瀬戸内海とを連絡する、本州横断の
「道の国」であった。その道が旧志賀町とその沖合いを通っていたのである。
この楽浪(さざなみ)の里は、当時としては、経済的にも、政治的にも、
非常に重要な地域であったのだ。

「木戸の歴史めぐり」というかっての木戸村の村史の序文からは、
短いながらこの地に住む人々の自然との関わり、その思いが
伝わってくる。
自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、神々しく輝く
偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。

時は移ろい、柳田や白洲の著作の中でも、ただ静かな湖岸の
地域の認識が強い。残念ではあるが、時は、全てを変えていく。

ほんの40年ほど前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、
湖は、地元のものにとってはそれこそ家の一部、生きていく上での
家族といってもいいほど親しみのある存在だった。
だが、人間の求める便利さや効率性のため、広い道路や遠浅の
砂浜は埋められ、湖辺はコンクリートと言う無粋なもので
固められ、湖と人々の関係は薄くなってしまった。朝や黄昏に
一歩踏み出せば逢えたさざ波や浜辺の鳥たちがひどく遠い存在となった。
日常的に体を支配してきた波のさざめきを失った人々は、不安でもあった。
長く人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、日常から離れ、
人の心根からも遠くなり、昔の語り草のような存在となった。
洗濯や野菜を洗うために湖に突き出しておかれた「橋板」も
ほとんど姿を消した。そこで交わされた日常も消えた。

この西近江路を歩きながらも、今の景観とかってあったであろう情景
を思い起こしつつ味わってもらいたい。

2018.11.22

西近江路紀行30 郷土の味

西近江路紀行30 郷土の味

この里の郷土料理は、琵琶湖と比良の山の恵み、そしてこの情景を
眼で味わえるのも1つの料理かもしれない。

山菜も湖魚も、季節によってその姿を変える。味も変える。
そこに人々の自然を愛し、人を愛する心が育まれる。多くの都人が
鬼門として感じながらも、ここを訪れ、歌に詠みこんでいったのは、
偶然ではなかった。春はやはり、春の七草と呼ばれる若芽の美味しさ
が料理に多くの彩りを添える。

七草粥の七草は「春の七草」をさし、今でも食べられている。
「せり・なずな / ごぎょう・はこべら / ほとけのざ / すずな・すずしろ /
これぞ 春の七草」。それらを簡単に、
(1) 芹(せり)水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
(2) 薺(なずな)別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材。
(3) 御形(ごぎょう)別称は母子草で、草餅の元祖。風邪予防や解熱に
効果あり。
(4) 繫縷(はこべら)目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にも。
(5) 仏の座(ほとけのざ)別称はタビラコ。タンポポに似ていて、
食物繊維が豊富。
(6) 菘(すずな)蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。
(7) 蘿蔔(すずしろ)大根(だいこん)のこと。消化を助け、風邪の
予防にもなる。
もっとも、最近は少し里の奥に行かないと取れないこともあるそうだ。
七草はどれもてんぷら、和え物、煮付けどのような調理をしても、
美味しい。セリのごま和え、イタドリの煮つけ、筍とふきの煮つけ、
さらに筍ご飯、春の香りが口いっぱいに拡がっていく。
最近は中々手に入れにくくなったもろこ焼きは素焼き、酢漬け、田楽、
でもやはり素焼きかな。
わけぎはネギより細く3月ごろが美味しい。いかや油揚げなどを入れて、
ぬた料理にすると美味しい。「こしあぶら」は、「たらの芽」と並んで
好まれている山菜。独特の香りが季節を感じさせてくれる。
水田の苗は稲となり、麦が黄色く色づくころ。安曇川のやな漁が始まる
季節となる。捕れるのは「あゆ」、「ウグイ」いずれも川を上ろうと
する成長したもので大きめのもの。水を張ったトラックに「あゆ」が
ひっきりなしに運ばれて行く。「ウグイ」は「ハス」と同様骨が多い魚
で市場では人気がいまいちだが、塩焼きが抜群においしい。

夏は魚料理も多くなる。ハス魚田、小鮎の山椒煮、ごり煮、はすは
少し小骨が多いが骨切りをしてみそ炊き、煮付けにすると美味しく
食べられる。夏には欠かせない魚だ。小鮎は北小松などでは地引網
で捕っていたそうだ。山椒の辛味と香ばしさが何といえない。
てんぷらにするのもよし、ちょうど口に合う大きさが好ましい。
ごり煮はつくだ煮として売られている。夏場には欠かせない味だ。
なかよし豆という料理がある。小豆と大豆を別々に炊いて丁寧に
混ぜ合わせる。田植えの時期に皆で食べたことからこの名前がある
と聞いた。
初夏のビワマスは脂が乗っていて刺身すると一番おいしく食べられる。
ゴリは、かま揚げし、ポン酢で食す、琵琶湖の夏の風物詩。
7月から9月、7月頃の体長1㎝位の子どものゴリ、早く炊かないと
溶けてなくなるそうだ?薄い褐色を帯びた透き通るような体、
釜揚げ。琵琶湖名産の「ゴリの佃煮」、少し前までは一般お惣菜
だったけど、今は中々口に入らない。

秋は、ズイキ、ナス、大根や豆類、要するに何でも美味しいということだ。
山菜おこわは、こごめ、ゼンマイ、ユキノシタなどの山菜をニンジン、
ゴボウ、椎茸を混ぜてもち米で合わせたもの、秋の味覚がふんだんにある。
さらに、ヤマノイモはムカゴをムカゴご飯に、根を下ろしてイモ汁
にするとその粘り気の強さに驚くほど、飯にかけたりすると美味しく
滋養のある味を味わえる。食用菊はてんぷらや和え物としても美味しく
食べられる。ズイキはしのだ巻きにすると一段と美味しさを活かせる。
この時期のビワマスはあめのうおご飯として炊き込んだ身をほぐし、
ご飯と混ぜて美味しく食べられる。
みょうがもこの時期、熱湯をかけると淡いピンク色に変身する。
みょうが寿司として美味しい。

冬もまた別の味がある。鮎の幼魚の氷魚(ひうお)の細く白くその
淡白な味、ゆず酢やじゅんじゅん鍋で味わうのもよい。
又、いさざも冬の小魚としててんぷら、豆との炊き込み、煮付け、
水炊きに登場する。冬瓜もあっさり味でスープにしたり、油揚げ
との煮込みなどでカボチャと同じように食べることが多い。
この地で作られた味噌もその独特の味で比良味噌として今も
作られている。

料理はその土地で代々受け継がれてきた文化だ。その風土を
背負ってもいる。おばあちゃん、母親、そこに土地の思い出が
詰め込まれている。平均化され、平板化する食では人の心も育たない。
比良山麓の幸、琵琶湖の幸、共にうまく組み合わせ様々な料理
が里人に培われてきた。このような郷土の料理を受け継ごうと
頑張っているグループもある。

先日食べた料理グループの作った料理が浮かんできた。
今回は秋の収穫物が満載だった。落花生、カボチャ、ズイキ、アズキ、
ダイズ、シソ、もち米、等々すべて地元産。緑、黄色、褐色様々な
彩がテーブルに並び、野の香りを放っている。目まぐるしく立ち働く
料理会のメンバーの手で、それらが、落花生しょうゆおこわ、
カボチャ羊羹、干しズイキの巻き寿司、鶏つくねバーグ、なかよし豆、
シソの実つくだ煮、ズイキのすみそ和え、カボチャスープ、きゅうりの
贅沢煮、に変身する。
さらには前日作ったという自家製パンもあった。特に落花生おこわは
秋の味がじっくりと口の中を支配し、しばしの幸せに包まれた。
その時の櫛を梳いた雲と比良の山並みのまだ深い緑が思い出された。
またある時は、「わらびご飯、ビワマスコンフレーク揚げ、かぼちゃ
スィーツ、きんぴらごぼう、冬瓜スープ、紫蘇の実つくだ煮、ズイキ
のしのだ巻き、カボチャのてんぷら、食用菊おひたし」、琵琶湖の
青より青い空に包まれ育った里の実りが立ち並び、その香りと彩に、
思わず感謝!!それぞれに工夫も。例えばわらびご飯は少し味を
薄目の女性向き、きんぴらごぼうは一番人気の方のやり方を見習って
作りましたよ。味は秋の空に漂い浮かぶ気分で、満足満足の出来。

メンバーも様々な思いがある。共通した思いは、自然豊かな志賀
の味を家族に食べて欲しいと言う。
「姑として、嫁にこの地域の味を伝えたかった」、
「母親として子供たちに地域で取れる食材で手造りの料理を
食べさせたい」、
「琵琶湖の魚介類を食材にした料理をもっと知りたい」、
「地元のお年寄りからこの地域の食材を使った料理を教えて
もらうのが楽しい」、
「季節に応じた食材を使って四季を感じるのが楽しみ」、
「外から来た人間にとって豊富な湖魚の料理は参考になる」、
「冷凍食品や食材になれた若い人に季節ごとの生の食材の良さ
を知って欲しい」、
「メニューを決める時、レシピもないのに幼い頃食べた記憶だけ
から料理を再現できた時、”化石を掘り起こした気分”になる」、
「昔、おばあさんが食べさせてくれた懐かしい味が今の若い世代に
食べつながれることを信じて活動をしている」
など等。
そして、「野菜類は自分で作ったものをその日に持ち寄り、魚介類は
その日に捕れたものを使う事が大事であり、これは会の発足当時
から守るべきこととして大切にしている」との言葉であった。
まさに、郷土の味だ。

«寒さはやはり冬、立冬の季節

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