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2014.09.25

和辻哲郎の古寺巡礼から思う事

和辻哲郎の風土からも思うが、ヨーロッパの風土、インドの風土、中国の
文化に対する造詣の深さには、感服する。
この古寺巡礼にも、仏教文化を中心とした造詣をベースとした様々な示唆が
見られる。私自身、全くの実力不足ではあるが、古寺巡礼を通したその想い、
感想から、日本人としての原点?について、少し、記述する。
全然、ずれている事も含め、勝手な個人的想いとしてではあるが。

和辻哲郎の基本的日本文化への想いは、最後に良く書かれている。

これらの
文化現象を生み出すに至った母胎は、我国の優しい自然であろう。
愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせこの自然とも同じく
底知れぬ神秘を持った我国の自然は、
人体の姿に表せばあの観音(ここでは中宮寺観音)となるほかにない。
自然に酔う甘美な心持ちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、
その根は、あの観音と共通に、この国土の自然から出ているのである。
葉木の露の美しさも鋭く感受する繊細な自然の愛や一笠一杖に身を託して
自然に溶け合って行くしめやかな自然との抱擁やその分化した官能の
陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見、この観音と甚だしく異なるように
思える。しかし、その異なるのは、ただ、注意の向かう方向の相違である。
捕らえられる対象こそ差別があれ、捕らえにかかる心情には、極めて近く
相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た
同じ子孫に賦与した。我国の文化の考察は、結局我国の自然の考察に歸て
行かなくてはならぬ。

・その基本意識
人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とか言う風に泰然と区別してしまう
ことは、正しくない。それは、具体的な1つの生活をバラバラにし、生きた全体
として掴むことを不可能にする。しかし、1つの側面をその美しい特徴によって、
他と区別して観察すると言うことは、それが、全体の一側面であることを
忘れられない限り、依然としてひつようなことである。

芸術は衆生にそのより高き自己を指示する力の故に、衆生救済の方便として
用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性
を実現したのである。しかし、芸術は、たとえ方便として利用されたとしても、
それ自身で、歩む力を持っている。だから、芸術が僧院内でそれ自身の活動
を始めると言うことは、何も不思議なことではない。
芸術に恍惚とするものの心には、その神秘な美の力が、いかにも、浄福のように
感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方が如何に
容易であるかを思えば、かかる事態は、容易に起こり得たのである。

仏教の経典が佛菩薩の形像を丹念に描写している事は、人の知る通りである。
何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これは、まず、
第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また、人びとも法華寺経
を指してそれが幻像のでないといいえまい。それは、
まず、第一に佛を主人公とする大きな戯曲的な詩である。観無量寿経の如きは、
特に詳細にこれらの幻像を描いている。佛徒は、それの基づいてみづからの
眼を持ってそれらの幻像を見るべく努力した。観佛は、彼らの内生の
重大な要素であった。仏像がいかに刺激の多い、生きた役目を務めたかは、
そこから容易に理解される。

観世音菩薩は、衆生をその困難から救う絶大な力と慈悲とを持っている。
彼に救われるには、ただ、彼を念ずればよい。彼は境に応じて、時には、仏身
を現じ、時には、梵天の身を現ずる。また、時には、人身も現じ、時には、
獣身をさえも現在ずる。そうして、衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。
かくのごとき菩薩は、如何なる形貌を備えていなくてはならないか。
まず、第一にそれは、人間離れした超人的な威厳を持っていなければならない。
と同時に、もっとも人間らしい優しさや美しさを持っていなく絵ならぬ。
それは、根本においては、人ではない。しかし、人体を借りて現れることで、
人体を神的な清浄と美とに高めるのである。

・聖林寺11面観音より
切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、
全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、
また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と
人間のものならぬ美しさが現されている。
薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人のこころと運命を見通す観自在のまなこである

、、、、、、この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。
、、、四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていなが
ら、
しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。殊に、この重々しかるべき五体
は、
重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。
これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。

・百済観音について
漢の様式の特有を中から動かして仏教美術の創作物に趣かせたものは、漢人固有の情熱
でも思想でもなかった。、、、、、、
抽象的な天が具体的な仏に変化する。その驚異を我々は、百済観音から感受するのであ
る。
人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、それを嬰児の如く新鮮な感動によって迎えた過渡期の
人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。
神秘的なものをかくおのれに近いものとして感じることは、彼らにとって、世界の光景

一変するほどの出来毎であった。

・薬師寺聖観音について
美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。、、、、、、
つややか肌がふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。
衣文につつまれた清らか下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を
表現したものである。しかも、それは、人体の写実的な確かさに感服したが、
、、、、、、、、
もとよりこの写実は、近代的な個性を重んじる写生とはおなじではない。
一個人を写さずして人間そのものを写すのである。

なお、和辻哲郎がその美しさを認めている像には、
薬師寺の薬師如来と夢観音あるが、ここでは、省く。
中宮寺観音は、すでに、和辻哲郎の全体の意識の大きな要因として、
記述した。

・阿弥浄土図について
まことにこの書こそ、真実の浄土図である。そこには、宝池もなく宝楼もなく
宝樹もない。また、軽やかに空を飛翔する天人もいない。ただ大きい弥陀の
三尊と上下の端に装飾的に並べられた小さい人物とがあるのみである。
しかも、そこに、美しい人間の姿をかりて現されたものは、弥陀の浄土と
呼ばれるにふさわしいものである。

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