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2014.10.31

旅への誘い

「旅」、日常から非日常への転換、内面の顕現化、日頃の自分では、
無意識に過ごす瞬間を意識化し、あらためて自分を見直す。
これを体系的、定量化した手法がポジティブ心理学の1つでもある。
政治、経済、社会、技術の圧倒的な進化、深化が各人を包み込み、
不安と恐怖の昨今である。そして、それを誰も制御できない。
このような時代に、「旅」は、個人、団体、社会にも大きな影響を
与え、各人の行動の再考、更に各地での観光ビジネスの活性化など、
社会へ好循環のエネルギーを与える。
まずは、行動やその想いの強さから、松尾芭蕉、柳田國男を少し
深堀し、自分の想いへの参考としたい。

1)松尾芭蕉の場合、
松尾芭蕉は、旅の人である。
一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの如くであったとのこと。
松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?
彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?
これを理解し、自分の血と肉とすべきは、己の使命でもあり、避けて
通れない課題でもある。

「おくのほそ道」に、
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる
者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」。
この旅に出る根本動機について書き出している。
松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。

旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、
最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち
は、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、
のれがたい宿命でもあった。
「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を極めて、「旅」こそ詩人の
在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、尊敬する西行の
庵生活すら一所定住ではないかと思いつめのも彼である。
よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ哀れに
覚えける」と言っている。
松尾芭蕉としての気概がここにある。

2)柳田國男の場合、
柳田國男は、東北を中心に、その地域の生活風情を描いている。
柳田にとって旅とは、一体何であったのだろう。
柳田は「旅は本を読むのと同じである」(以下は、「青年と学問」
からの引用がベース)といっている。

さらに、「雪国の春」の序文は、十分に理解しておくべきことである。
「初めて文字と言うものの存在を知った人々が、新たなる符号を
通して、異国の民の心の隅々まで覗うは容易な技ではない。ことに
島に住む者の想像には限りがあった。本来の生活ぶりにも少なからぬ
差別があった。それにも関わらずわずかなる往来の末に、たちまちにして
彼らが美しいといい、あわれと思うすべてを会得したのみか、
さらに、同じ技巧を借りて自身のうちにあるものを、いろどり形づくり
説き現すことを得たのは、当代においても、なお異教と称すべき慧眼
である。かねて風土の住民の上に働いていた作用のたまたま双方に
共通なるものが多かった結果、いわば、未見の友の如くにやすやす
と来たり近づくことが出来たと見るほか、通例の文化模倣の法則
ばかりでは、実はその理由を説明することが難しいのである。」

旅はその土地のことばや考え、心持ちなどを知ることであり、文字
以外の記録から過去を知ることであるともいっている。
「青年と学問」におさめられた講演のなかで柳田は、人の文章(文字)
や語り(無文字)から真に必要なものを読み取る能力を鍛えろと、
青年たちに訴えている。人の一生はしれている。
その限りある時間を有益に使えといっている。
柳田は見ること、聞くこと、読むことを同一線上でとらえている。
作家にとっては、その五感を鋭敏にすることは、大事であるが、
柳田の場合は、それらを媒介しているのはことばであり、ことば
を媒介としてあらゆる事象を読み取ろうとする。
それは、本を読むように風景を見、人と語る。

「タビ」という日本語はあるいはタマワルと語源が一つで、人の給与
をあてにしてある点が、物貰いなどと一つであったのではないかと思われる。
漂白と定住、逃散と定着、村を追い出される者、出ていく者、あるいは
諸国を歩く遊行僧、旅芸人、木地師など、移動を余儀なくされる者の
心持が、すなわち「タビ」であったと思われる。
多くの人にとって、「タビ」は、すなわち生きることと直結していたの
である。見ず知らずの者に屋根を与え、火を囲み、事情や他国
の話を聞くなかで、「タビ」が新たな関係を生んでいく。
特に、東北の生活の厳しさは、これらを熟成していく土壌がある。

人生は旅だといい、死に装束も旅姿である。「タビ」は、わたしたち
のこころのなかを貫いているのである。
柳田は「日本人の結合力というものは、孤立の淋しさからきている」
として、この人の情(友だち)や、結びつき(群れ)の研究の必要性
を説いていた(「柳田國男対談集」より)。
「北国紀行」に集録されている「旅行の話」のなかでも、柳田は旅の心構え
や聞き取りの仕方について細かく触れている。

松尾芭蕉は、「旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方」と喝破している。その意味では、松尾も柳田も、
基本は同じである。

3)私にとっての「旅」とは、
まずは、ほぼ同じ歳の退職老人が、1000kmを歩き通す、
ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅、と言う小説がある。

昔お世話になった女性が、ガンになった、と言う手紙が届いたところから
それは、始まる。登場人物は、ハロルドとその妻、そして自殺した息子の
影、ガンの女性、隣人の老人であるが、イギリスの初夏の風景と途中で
行合う人々の交流が、きめ細やかに書かれている。歩くと言う行為の中に、
自身と人間の真の姿を見出し、息子への負い目、ガンになった女性への
償い、妻との心の大きな溝を自然が癒して行く。子供時代のその不遇な
環境と生い立ちから、目立たない人生を生きてきた人間が、ガンで生死
の境にある女性に、昔の償いを果たさねばならない、と言う強い気持ち
が、途中の挫折したいと言う気持ちをも乗り越えさせ、肉体的にも、
絶体絶命の状況を乗り越えさせた、それは、なんなのだろうか。
心情的には、凄く納得観のある作品である。
自分にも、「旅」に、求めるべき、そして、残った人生への回答が
あるのでは、ないかという大いなる期待が出てきた。
その一文より、
「人生という名のジグソーパズルのピースは最終的に全て捨て去られる
運命にあるのか?そんなものは結局無に帰してしまったというのか?
ハロルドは今わが身の無力さを思い知らされ、その重さに耐えかねて
気持ちが沈むのを感じていた。手紙を出すだけでは、足りない。
今の状態を変える方法がきっとあるはずだ。
そして、徐々に高まる心の変化、その昂揚感。
小さな雲の塊があたりにいくつもの影を落としながら走りすぎて行く。
彼方の丘陵地にさす光はすすけている。夕闇のせいではなく、前方に
横たわる広い空間のせいだ。ハロルドは頭の中で、イングランドの
最北端でまどろむクィーニーと南端の電話ボックスにいる自分、
そして、その中間にあるはずの、彼の知らない、だから想像する
しかないたくさんのものを思い描いた。道路、畑、川、荒野、そして、
大勢の人間。そのすべてに出会い、通り過ぎるだろう。ジックリと考えている
必要など毛頭ない。理屈をつける必要もない。その決断は、思いつく
と同時にやって来た。その明快さにハロルドは、声をあげて笑った。」

ここ1年ほど、心にわだかまっていた影が、明確な形で姿を現した。
今までの60年以上の生きて来た中での、自身の想いと行動を
赤裸々に、自身に映し出すことにより、虚像と実像は、明確に
分離され、新たなる実像への、何もない自分を知った。
多くの人がそうである様に、過去に自身を埋め、僅か数年先
にも、何も期待しない自分がある。縮退する心は止めどなく、
縮退するのだ。
そして、気が付いた、俺はこのまま老醜となり、朽ちたくない。
残された時間は、大分少なくなったが、現在までの自分から
決別し、新しい自分探し、残された時間と新しい心で、最後の
ステージに乗るべきではないのか。

松尾芭蕉、柳田國男、を見習うことは出来ない。
しかし、「旅」が単なる物見遊山の行動ではなく、自身の
強い想いの結果であることでは、松尾、柳田に引けはとらない。

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