« ただひたすら座禅せよ。道元を知る。 | トップページ | 自身の集中力を高めるには! »

2014.11.18

和辻哲郎の日本精神史から、思う

和辻さんの風土、古寺巡礼、日本古代文化を横断的に貫いている
のは、まだまだ、仏教思想に対する日本人の理解は、甚だ希薄であった、
と言う認識であるが、「志賀の漢人」と呼ばれる人々が多く、シナ文化
の経由の地であった志賀では、その生活文化は、少なからず、以下の様な
仏教や美術と同様に、影響を受けていたはずである。
このため、和辻哲郎の「日本精神史研究」を概観したい。

1)上代における仏教の受け入れ
当時の日本人は、ただ単純に、神秘なる力の根源としての仏像を礼拝し、
現世の幸福を満たすものとしての意識程度であるが、現世を否定せず
して、しかもより高き完全な世界を憧れる事が、彼らの理想であった。
現世は、不完全との認識を持っているが、憧憬するのは、常世の世界
であり、死なき世界である。
この時代において、仏教が伝わり、今までの「木や石の代わりに今や
人の姿をした、美しい、神々しい、意味深い「仏」が持たされる。
魔力的な儀礼に代わりに今やこの「仏」に対する帰依が求められる。
一切の美的魅力がここでは、宗教的な力に形を変えるのである。
さらに、最初に来た仏教が修行や哲理を説くようなものではなく、
むしろ、釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝の如く、現世の利益のための
願いを主としたことが幸いであった。
また、このような意識は、単に、芸術に関してのみではなく、
日本人の内的生活、思想の進展、政治の発達にも、大きな要素
となって行く。生活文化にも、同様のことが言える。

2)仏像の姿
仏像においては、「仏」という理念の人体化を意味している。
その大きなポイントは、嬰児と物菩薩像との眼の作りである。
それは恐らく、嬰児の持つ眼の清浄さ、初々しい端正さが多くの
人々を魅了しているからであろう。
ただ、時代により、その特徴は少しづつ変化する。推古の頬は、
明らかに意味ある表情を含んだ、肉のしまった成長した大人の
顔である。しかし、白鳳時代では、このような表情は全然現れて
おらず、成長した人の頬としては空虚であり、嬰児としての
柔らかい頬の円さをもっている。
しかし、我々は、仏像や菩薩像において、嬰児の再現をみるのではない。
作家が捉えたのは、嬰児そのものの美しさではなくして、
嬰児に現れた人体の美しさである。宇宙の根本原理、その神聖さ、
清浄さ、など総じて、嬰児の持たざる内容をここに現そうとしている
のである。作家が表現しようとする仏菩薩像は、経典の説くところ
のその理念である。
その円光の中に5百の化仏あり、一々の化仏に5百の化菩薩あり、
無量の諸天を従者とす、、、、ほとんど視覚の能力を超えたものである。

3)推古、天平美術
日本文化は、シナ文化と言う大きな文化潮流の中での1つである。
そして、日本の特殊性は、同じ文化潮流の中での地域的、民族的な
特殊性であることを理解しておく必要がある。
推古から天平への様式展開には、本質的な違いがある。
例えば、天平美術では、推古の持つ「抽象的な肉付け」や「抽象だが
鋼鉄の如く鋭い線」の表現から離れ、直感的な喜びの表現がある。

推古の彫刻は、人体を形作る線や面が、人体の形を作る唯一の目標とせず、
それ自身に、独立の生命を持たせている。しかし、天平彫刻では、人体を
形作る線や面は、人体の輪郭、ふくらみ、筋肉や皮膚の性質、更には、
衣の材料的性質やそれに基づく皺の寄り方、衣と身体のとの関係などを
忠実に再現することを目指している。
即ち、天平様式の根底には、仏の理念が支配しており、美術の様式と
思想的、宗教的理解には、相関の関係がある。
これは、絵画においても、同様なことが言える。

推古時代より天平時代に至る仏教美術の様式変化は、日本人の心的
生活の変遷と並行している。仏像の多くは、国民の信仰や
趣味の表現である。
型は、外から持ってこられたが、それに盛られたのは、国民の願望
であり、心情であった。それは、シナ芸術の標本ではなく、
我々祖先の芸術である。

彫刻にしろ他の歌や絵画にしろ、一般民衆もまた、これに関係していた
はずであり、特に、薬師崇拝、観音崇拝のような単純な帰依は、特殊の
教養なき民衆の心にも、極めて入りやすいものである。
造形美術の美が、その美的な法悦により、帰依の心を刺激したことは
間違いのないことと思われる。

4)歌や物語について
ここでは、仏教美術と万葉の歌が同一の精神生活の表現としているが、
個人的には、歌などについては、分からないので、万葉集、古今和歌集など
についての、言説は省いていく。
ただ、
春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも

というような感情を直接表現する歌は,分かりやすいが、

春やとき花やおそきと聞きわかむ鶯だにも鳴かずもあるかな

と言うような鶯で春を考えるというようなやや屈折した心情のは
中々に、難しい。

竹取物語などのお伽への傾向は、古事記などにもあるが、多くあった。
いなばのウサギの話、鯛の喉から釣り糸を取る海神の宮の話、
玉が女に化する天の日矛の話など。

枕草子についても、同様に省くが、
「春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、ほそくたなびきたる」
「春はあけぼの、そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆく
山ぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲の、ほそく
たな引たるなどいとおかし」

等の改作があるというが、個人的には、あまり上手くないとは、思えない。
枕草子においては、清少納言の静かで細微な観察がある情景、ある人物
の描写において、力強い特性描写を可能としている。

5)「もののあはれ」
本居宣長がこの「もののあはれ」を文芸の根本と主張した。
何事にまれ、感ずべき事にりて、心の動きて、感ずる。
「あはれ」とは、「みるもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて
出る、嘆息のこえ。
また、「もの」とは、「物いふ、物語、物まうまで、物見、物いみ
などいふたぐいの物にてひろくいふ時に添ふる語」と言っている。
即ち、「もののあはれ」をいかなる感情も直ちにそのままにみるべきでは
ないと言っている。それは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようと
する傾向を持った無限的な感情でもある。

「ものあはれ」を含め、我々が体感し、共有化できることが、数百年経った
現在でも、通じ合えることは、生活文化、芸術感覚が変わっていないと
いうことでもある。楽浪(さざなみ)の志賀とも呼ばれるこの地域でも、
同じであろう。

« ただひたすら座禅せよ。道元を知る。 | トップページ | 自身の集中力を高めるには! »

人生」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/79186/60674170

この記事へのトラックバック一覧です: 和辻哲郎の日本精神史から、思う:

« ただひたすら座禅せよ。道元を知る。 | トップページ | 自身の集中力を高めるには! »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ