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2015年1月2日

2015.01.02

歌に観る時代変化。

「企み」の仕事術という本を読んだ。阿久悠が書いている。
カラオケが好きでもないので、歌謡曲はあまり歌わないが、まだ、サラリーマンの
頃は、付き合いもあり、歌ったものである。
しかし、それほど上手くもなく、好きでもないので、ある基準が個人的にはあった。
「歌詞」が自分の人生観、思いにあっているものに限った。例えば、テレサテンの
「香港」であり、小椋圭の「山河」、谷村新司の「昴」であった。
このヒットメーカーの本を読んでいると、日頃感じている歌の考え方に賛同する点が
かなりあることが分かる。

「僕が作詞家として仕事をしていた60年代の後半から80年代の中盤くらいまでは
歌謡曲の中に時代の空気がしっかりと組み込まれていた。どの歌もその背景には
時代の気配を強烈に発散していた。その時々の社会の出来事や個人の思い出が
連動していて、曲を聴いたとき、この歌が出たときに自分はどこで何をしていたか
瞬時に蘇らせる力があった。
それが今の曲はどうだろう。
流行っている歌の歌詞をじっくり聴いてみる。ところが、歌詞の中に時代が見えてくる
ことはほとんどない。歌を作る作家たちが部屋の中に閉じこもっていて、窓から
外を見ていないのだと僕は思う。外の空気や温度を感じていないのではないかとも
思う」。
全く同感である。しかも、10数年ぶりかで日本レコード大賞を見たが、まさに
そのような歌が堂々の賞をもらっている。時代は変わったのか。
しかも、音楽を聴くにしても、ヘッドフォンで一人称の世界に埋もれ、情報を
見るにしても、スマホ、タブレットともに、これも個人の世界である。
時代は変わるもの。インターネットの拡大によるディジタル世界の深化は、
この行動を更に増長させるであろう。よく言われるが、既にインターネット
による生活が当たり前になっているディジタルネイティブな若い世代では、人間的
要素の強いアナログ的な行動や感情は削げ落とされている。言葉は人を動かしうる
ものであるとの意識は薄い。

更に阿久は言う「曲作りがサウンド優先になって、伝わるための言葉を大切に
しないことから、字数が合わないまま、言葉がこぼれてしまったり、フレージング
が違ってきたりすることがしばしば起きる。そうして、言葉一つ一つからメッセージ
の内容が確実に伝わってこない歌が量産されているのが最近の音楽事情ではないか。」
昨日のNHK紅白歌合戦でも、この指摘に納得できる歌のオンパレード。
ただのお祭り騒ぎとしては、歌を聞いた後の余韻はいらないのかもしれない。
しかし、特に若い人の歌は、心に残る歌詞がないのも確かである。
私が単に老いて、五感が鈍くなったからなのか、時代が変えさせているのか。

ここに、小椋圭の「山河」を思い出す。
この歌詞の如く、まだ志賀に残る風情、想いをそのままにしたい、と思うし、
自分の人生を振り返ることにもなる。歌とはそう言うものではないのだろうか。
ーーーーーー
人は皆 山河に生まれ、抱かれ、挑み、
人は皆 山河を信じ、和み、愛す、

そこに生命をつなぎ、生命を刻む
そして終わりには 山河に還る。

顧みて、恥じることない足跡を山に残しただろうか
永遠の水面の光増す夢を河に浮かべただろうか
愛する人の瞳に愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。美しいかと。

歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と、流れる時と、
人は誰もが 山河を宿す。

ふと想う、悔いひとつなく悦びの山を 築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きするかげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。

顧みて、恥じることない 足跡を山に残しただろうか
永遠の 水面の光 増す夢を河に浮かべただろうか
愛する人の瞳に愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。美しいかと。
---------
また、沢田研二が歌った「時の過ぎ行くままに」では、チョット耳の痛い話もある。
「ベビーブームで生まれた団塊の世代の人口が一番多い。学生時代に「世界
同時革命」などのスローガンを掲げて社会の矛盾を突いていた人が、社会に出た
とたん、直行でマイホーム型人間になってしまったように見える。結局、
「革命だ、革命だ」と大騒ぎした人たちが、会社のため、家族のためにと
人一倍身を削って働くことになった。
世界革命と叫んで闘争したあの騒ぎは何処へ行ってしまったのか。あの男たちの
気概は何処へ行ってしまったのか。あの静まり方は大騒ぎした後にむなしさが
残るような感じに似ている。
----
あなたはすっかり 疲れてしまい
生きていることさえ いやだと泣いた
壊れたピアノで 思い出の歌
片手で弾いては ためいきついた

時の過ぎ行くままに この身をまかせ
男と女が ただよいながら
、、、、、
----------」。

このような想いがあることは知らなかった。
しかし、あらためてこの歌詞を見ると納得感がある。

ふと、浮かぶ谷村新司の「昴」も自分にとっては、時代変化への想いが
見える歌でもある。
------- 
  目を閉じて何も見えず
   哀しくて目を開ければ
   荒野に向かう道より
   他に見えるものはなし

目を開けて見れば、やはり目の前に見えるものは、茫洋たる荒野の風景のみ…。

   ああ 砕け散る 宿命の星たちよ
   せめて密やかに この身を照らせよ
   我は行く 蒼白き頬のままで
   我は行く さらば昴よ

人はいかなる星のもとに生まれ育ち、どのような定めのもとで生きていき、
そしていかなる星のもとへと帰っていくのでしょうか。
   呼吸をすれば胸の中
   凩は吠き続ける
   されど我が胸は熱く
   夢を追い続けるなり
-------
我々の時代は、日本は豊かになれたという実感と現実味があった。
そのような熱きエネルギーを浴びながら、日々の行動が生活をより豊かにし、楽しみ
が周辺から湧き上がる空気があった。成熟化した現在にはない日々の手ごたえ感
が満ちていた。
阿久悠は、その情景を歌と言う手法で体言化しているのかもしれない。

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