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2015年1月23日

2015.01.23

宇沢弘文「社会的共通資本」から思う

宇沢弘文は、その著である「社会的共通資本」で、社会的共通資本
を以下のように考えている。また、彼は、格差社会について、いち早く
警鐘し、現在の日本のあるべき姿について、憂いて来た。

宇沢氏が、社会的共通資本の「具体的な構成は先験的あるいは論理的
基準にしたがって決められるものではなく、あくまでも、それぞれの国
ないし地域の自然的、歴史的、文化的、社会的、経済的、技術的諸要因
に依存して、政治的なプロセスを経て決められるものである」としている
のは重要なポイントである。ただ、農業や都市のほかにも、教育や医療
など社会的共通資本として論じている多くの提起が今の日本では、全く
逆の方向で進んできたことも事実である。多分、このような役割を果たす
べき存在の1つとしてのNPOなどの団体が有効であるのだろうが、
いまだ貧弱な組織力、実行力しか持ち得ない。また、多くの市民、住民には、
行政任せとしての意識が強く、社会基盤そのものに遅れが見られる。
社会の様々な分野についてどれが社会的な管理を必要とするかを、市民
あるいは国民の社会意識の醸成により決めていく必要があるが、徐々に
ながらその意識は強くなっている、と思う。時間はまだ掛かると思うが、
この流れは、私自身の地域活動や行政の委員会などでも、その流れはまだ
充分とはいえないものの、確実に進んで来ている。期待を持ちたいものである。
なお、此処では、ほとんど語られていないインターネット拡大、深化
に伴う変化も社会的共通資本の点から検討すべきと思う。社会意識の変化が
これにより、変化の促進が強められている状況では、今後の検討課題
としても重要である。

1.社会的共通資本について
社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、
ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある
社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を
意味する。社会的共通資本は、一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立
を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割
を果たすものである。
しかも、社会的共通資本は、たとえ私有ないしは私的管理が認められて
いるような希少資源から構成されていたとしても、社会全体にとって
共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営される。
(政府が一元的に管理的を行うものではないと言っている。)
社会的共通資本はこのように、純粋な意味における私的な資本ない
しは希少資源と対置されるが、その具体的な構成は先験的あるいは
論理的基準にしたがって決められるものではなく、あくまでも、そ
れぞれの国ないし地域の自然的、歴史的、文化的、社会的、経済的
、技術的諸要因に依存して、政治的なプロセスを経て決められるも
のである。
(このため、彼の考えは農業、都市のあり方、教育、医療分野、
金融分野まで幅広いテーマを含んでいる)
社会的共通資本はいいかえれば、分権的市場経済制度が円滑に機
能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件であると
いってもよい。それは、ソースティン・ヴェブレソが唱えた制度主義
の考え方を具体的な形に表現したものである。
したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として
官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件に
よって左右されてはならない。
社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見に
もとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。

社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制
度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。自然環境
は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などで
ある。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水
道、電力・ガスなど、ふつう社会資本と呼ばれているものである。
なお、社会資本というとき、その土木工学的側面が強調されすぎる
ので、ここではあえて、社会的インフラストラクチャーということ
にしたい。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度
をひろい意味での資本と考えようとするものである。
(60年代の高度成長期から特に始まったハコモノ行政と呼ばれる
道路建設や公共建物の増加は、一見、我々の生活を便利にしたが、
公害と言う悪影響を更に加速させている)
 自然環境を経済学的に考察しようとするときに、まず留意しなけ
ればならないのは、自然環境に対して、人間が歴史的にどのような
かたちで関わりをもってきたかについてである。この問題は、広く
、文化をどのようにとらえるかに関わるものであって、狭義の意味
における経済学の枠組みのなかに埋没されてしまってはならない。
「文化」というとき、伝統的社会における文化の意味と、近代的
社会において用いられる意味との問に本質的な差違が存在すること
をまず明確にしておきたい。
(日本文化の固有性とは何か、の問いが最近言われることが多く
なったが、金銭主義と功利主義の中で、それを見出すのは、中々に
難しい)

2.農業と農村について
農業は国の根幹として扱われてきたが、実際の現場では、生産人口も、
その生産量も激減しており、アメリカで主流である、相対的経済的に
高い貢献度のある生産手段を多く使用する、工業生産がある、財の生産
に特化して、その逆の生産手段を多く使用する、農業がそれであろう、
財は輸入によって対応したほうが国全体にとって望ましいという考え
があるようだ。
これまでの我が国の農業政策が,農業を一つの資本主義的産業と捉え,
工業と同様の市場経済的な効率性基準を適用してきたためであるとし,
この点で,旧農業基本法は「破壊的役割」を果たしてきたと言っている。
農業の生産過程は工業部門とは対照的で自然と共存しながら、人間の生存
に欠くことができない食料を生産し,自然環境を保全するという基本的
特徴を有していることから、これを「ビジネス」よりも「農の営み」
として捉えるべきと考え、農業の問題を考察するときは、
・農業の営みが行われる場,そこに働き生きる人々を総体として捉えること
・一つの国が安定的な発展を遂げるためには,農村の規模がある程度安定的
な水準に維持されることが不可欠。
と考える必要があるといっている。しかし、現在の農業は工業部門の考え
を踏襲し、効率性、営利性を重視している。民営化、大規模化が言われている
現在、6次ビジネスなどと言っているだけではない根本的な対応が必要な
時期なのかもしれない。

3.都市政策について
都市が個人や企業による私的土地所有・利用が市場競争のルールにしたがって
活動する結果、その合成物である都市空間は一面で市民生活や企業活動に
便益をもたらすが、他方ではかえってそれらを阻害するものとなり、最近は特に、
無差別な新規建物の建設や車優先の施策など、人の生活、行動を無視した計画
が少なくない。特に、車社会の良い面を強調した一面特化の施策を進めたこと
により、車の持つ悪影響が大きく出てきている。
宇沢氏は『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)を含め、都市空間が抱える
こうした歪みを、モータリゼーションの問題に則して明らかにしてきた。
モータリゼーションがもたらす弊害は、市場という枠組みのなかの「補償」の
ルールでは絶対に解決できない。都市は市場競争というルールに替わる社会的
管理のもとに置かれなければ持続不可能である、と。
しかし、東京都排ガス規制などの一部では見られるものの多くは無統制の状態
である。
また、都市における土地利用や開発は、これまでも完全に野放図に行われてきた
わけではないが、日本の都市政策や都市計画はむしろ居住環境の悪化や住宅難
を深刻化させてきた。東京や大阪のような大都市では、その実現は難しいとは
思うが、ジョイコブスの考えは、中々に面白い。
①街路の幅は出来るだけ狭く、曲がっていて、1ブロックの永さは短いほうが良い。
②古い建物が出来るだけ多く残るような再開発を進める。
③都市の各地区は必ず2つ以上の機能をもち、多様性を高める。
④都市の各地区は充分高い人口密度を持つ。
以上から人間的な魅力を持つ都市は、何よりも歩く事を前提とすること。
車社会の実現を優先とした公共財への投資と便利さのみを優先させた行政手法だが
一見、便利で住みやすい都市を作り上げてきたように思えるが、最近の人と
車の関係や交通量も極めて少ないところへの立派な道路造りのやり方など
誰が主役か分からない行政施策が問われ始めている。

4.経済学者宇沢弘文氏の言葉
・「経済学の原点は人間、人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね。
その心を大事にする。一人一人の人間の生きざまを全うするのが、実は経済学
の原点でもあるわけね。」
・「社会のすべてを極力、市場に委ね、競争させたほうが経済は効率的に成長する
と主張する考えに対して、効率を優先し、過ぎた市場競争は格差を拡大、
社会を不安定にすると反論した。
(正に、今もこれからもそうなるのでは?)
・「市場で取り引きされるものは、人間の営みのほんの一部でしかない。
医療制度とか、学校制度とか、そういうのがあることによって社会が円滑に機能して、
そして一人一人の人々の生活が豊かになる。人間らしく生きていくということが
可能になる制度を考えていくのが、我々経済学者の役割。」
・社会的共通資本という考え
「これはね、単なる公共財を意味してるんじゃないと思うんですね、経済学という。
そうではなくて、利益追求の対象にしてはならない、誰のものでもない、みんな
のものだというね、こういうひと言で言えば、これはとても概念は難しいと
思いますけれども、そうした新しい経済の在り方、つまり社会をね、こういう
ひと言で言えば、これはとても概念は難しいと思いますけれども、そうした
新しい経済の在り方、つまり社会を転換しなければとても実現はできない。
そういう経済、あるいはその制度、これをどうあるべきかを、本当に具体的に、しかも
理論的に追究なさった、珍しいけうの先生だったと思いますね。」

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