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2015.01.16

自身は?十牛図を考える

禅宗への関わりは、3回ほど座禅を組んだ程度で、修養と言う点では、
何もしていない。しかし、その心で、人生の1つの生き方を感じるのは、
出来るはずである。十牛図は、その指針ともなると思うが。
十牛図」とは、逃げ出した牛を探し求める牧人を喩えとして、牛、
すなわち真実の自己を究明する禅の修行によって高まりゆく心境を十段階
で示したもの。
もとより漢文の素養もないため、その解釈文に頼るのであるが、わずかながら、
その意味が身にしみてくる。悟りを得ようなどと言う大袈裟なことではなく、
自身の行き方の指針として、読み解けば少しは人生変化に役立つとは思う。

十牛図は、中国・宋時代の廓庵禅師の創案と言われ、日本においては、
古くから現代に至るまで、禅を学ぶ絶好の入門図として重要視されてきた。
しかしこの図は禅宗だけが専有すべきものではない。
人生のさまざまな重要な問題を提起し、それに答えてくれる人生の指南図
でもあるからである。尋牛から入廛垂手までの十の図を前にして、
「いったいなにか」「いかに生きるか」という二大問題の解決を目指して
静かに観想して行くことが大切となる。
中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。

■各図の説明

1)第一図 尋牛(じんぎゅう)
ある日、牧人の飼っている一頭の牛が牛小屋から逃げ出たことに気づいた
牧人は、野を歩き川を渡り山を越えてその牛を探し求めている。
ただ一人で・・・。
彼は「自己究明」の牛探しの旅に出かけたのだ。

従来不失(従来失せず)
何用追尋(何ぞ追尋を用いん
(始めから失ってもいないのに、どうして探す必要があろう)
在向塵而遂失(向塵に在って遂に
(目を覆った塵を払おうという在り方が牛を見失うことになる)

2)第二図 見跡(けんせき)
「もう牛は見つからない」とあきらめていた牧人が、ふと前方に目を
落とすと、そこに牛の足跡らしきものを発見する。
「ああ、牛は向こうにいるぞ」と牧人は喜んでその足跡をたどって駆け
寄っていく。
足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。

「経典をたよりに道理を解し、祖師方の教えを読んで足跡を知る。
色々な器も皆金である事を見て通り、万物が自分と実感する。
正か邪かを判断できないのに、何で本物と偽者との区別が出来よう。
まだそうした教えの門には、入らないけど、仮に足跡を見つけたとしておこう」

禅では、三毒五欲として、怒りや欲望、怠惰を戒めている。

3)第三図 見牛(けんぎゅう)
牧人はとうとう探し求めている牛を発見する。牛は前方の岩の向こうに
尻尾を出して隠れている。牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足を
忍ばせて牛に近づいていく。
優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。

貶上眉毛(眉毛を貶上すれば)
但非他物(但し他物に非ず)

声をたよりに入り口を見つけ、眼をやればその場が根源と知る。
六根の動き一つ1つが、たがうことなく、日常の一つ1つが見事にそれを現す。
あたかも水に含まれる塩分や絵の具の膠のように。眼を見開けば、これこそ
まさにそのものだ。

4)第四図 得牛(とくぎゅう)
牛に近づいた牧人は持ってきた綱でついに牛を捕らえる。牧人は、再び
逃げ出そうとする牛と渾身の力をふり絞って格闘を始める。
何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。

欲得純和(純和を欲得ほっせば)
必加鞭楚(必ず鞭楚を加えよ)

久しく野外に隠れていたその牛に、きょうやっとめぐり会う。あたりの景色
に見とれ、肝心の牛を追うのをためらう。牛も美しい草原に未練あり。
頑な心が依然として強く、まだまだ野生が抜けきらぬ。柔順さを得たいなら、
どこまでも鞭打つことだ。

5)第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
牧人は暴れる牛を綱と鞭とで徐々に手なづけていく。牛はとうとう牧人
の根気に負けておとなしくなり、牛はもう二度と暴れることも逃げ出す
こともない。
悟りを自分のものにするための修行を表す。

在迷故而為妄(迷いに在るが故に妄となる)

忘念がすこしでも起これば、また次の妄想が付いてくる。
本心本性に目覚めることによって真実を完成するのであって、
それを見失っているから心が迷うのだ。他のせいでそうなるのではなく、
自分自身がそうしているにすぎない。だから、手綱を強くしっかりと
引け、もたついてはならぬ。

6)第六図 騎牛帰家(きぎゅうきけ)
牧人はおとなしくなった牛に乗って家路につく。牛の堂々とした暖かい
背中を感じつつ、楽しげに横笛を吹きながら・・・。
悟りがようやく得られて世間に戻る姿。

身横牛上(身を牛上に横たえ)
目視雲宵(目にうんしょうを視る)

人と牛の争いはすでに止み、捕らえることも逃がすこともさらさら
なくなった。樵夫(きこり)は村の歌をうたい、牧童は笛を吹。
牛の背に身を横たえ、眼は大空の彼方を見る。その人を呼べども
返らず、引きとめようとしても無駄なこと。

通常はこの6図までが一般民衆が事項すべき基本との事。
7から10図は、禅宗の人間が更に己を高めるための教えとなる。
なお、ここに出てくる「雲宵(うんしょう)」は朝空けとなる直前の
情景を示している。

7)第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
とうとう牧人は自分の庵に帰り着き、牛を牛小屋に入れてほっとした
牧人は、庵の前でのんびりとうたた寝をしている。静寂の中、安堵の
気持ちで・・・。彼は「生死解決」をほとんど成し遂げたのです。
悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。

法無二法(法に二法なし)
牛且為宗(牛をしばらく宗と為す)
、、
一道寒光(一道の寒光)
威音劫外(この世のはじめ以前から変わらない)

8)第八図 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)
うたたねをしていた牧人が突然にいなくなる。あるのはただ空白だけ。
牧人になにが起こったのだろうか。
すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な
存在ではなく本来の自然な姿に気づく。

凡情脱落
聖意皆空
迷いも抜け落ち、悟りも全てなくなる。

9)第九図 返本還源(へんぽんげんげん)
空の世界からふたたび自然が戻る。牧人の中に根本的な変革が起こった。
牧人は自然のようにすべてを平等視して生きることができるようになった。
原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中に
あることを表す。

水緑山青(水緑に山青くして)
坐観成敗(坐ながらにして成敗を観る)
居ながらにして世の移り変わりを観ているのだ。
このような境地に成れるのだろうか。まあ、無理な気がするが、人は無限の
素地を持っているとも言う。なりたいものである。

10)第十図 入廛垂手(にってんすいしゅ)
牧人は再び人間の世界に立ち帰り、人びとが行き交う町の中に入った彼は
一人の迷える童に手を差し伸べている。牧人はとうとう「他者救済」という
彼が目指す最高の境地に至った。

この「十牛図」というのは、自分のあるべき姿ないし悟りを開いた自分を
未だに見いだせず、したがって悩みをかかえている人が悩みから脱し、
心神合一の境地を求めて自分探しをするプロセスを描いているが、ここでの
牛が理想であり、牧童が現実と読み取ることができる。
現実と理想の姿をキチンと理解、把握することが自身の生き方を見直す
こととして、必要である。
しかし、言うは易し、である。その実践と想いの具体化は中々に難しい。

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