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2015年10月16日

2015.10.16

「塩の道」、日本人の暮らしの変化は?

ここ暫らく少し先の話をしてきました。未来の社会を技術的な視点から眺めた
場合や3Dプリンタの持つ社会変革への力がどこまで及ぶかの視点などでした。
また、これらを少し深く見るにしろ、少し昔のことも多いに気になる点です。
和辻哲郎、白洲正子、司馬遼太郎、柳田國男、そして宮本常一、芳賀日出男から
受ける様々な指摘は中々に面白い。ここでは、宮本常一氏の「塩の道」より、我々の
生活視点からのアプローチについて概観したい。宮本氏が日本各地を歩き、地域の
暮らしやその生業をまとめたものが「塩の道」であるが、ここからは日本人の
生活文化を垣間見ることが出来る。日本人としての息づかいが、時の流れに沿って、
聞こえてくるようだ。

塩、そこから辿る暮らしの変化
「塩の道」の中で、大抵の食べ物は霊があり、神として祀られることがあるが、
塩には霊がない。エネルギーを宿す食べ物にはその中に霊が宿ると考えられる一方、
塩そのものはエネルギーを産まないという特質がある、と言う。しかし塩がなければ
すべての動物はその活動を止めてしまう、という作用を持っている。このことが
塩の研究があまりなされて来なかった原因だと言うのである。
日本では岩塩はほとんど取れないため、多くは海岸で生産され、平安時代までは、
朝顔形にひらいた素朴な土器を地面に立てて周囲を火で焚いて海水から塩を抽出
していた。この作業工程で、土器のひびに海水が浸透しすぐに壊れていまい土器
の存在がなかなか確認できなかった。

塩作りが、揚浜、入浜塩田、塩浜へと発展し、大量に生産できるようになると
ともに、使われる器は、土器から、石混じりの粘土へ、そして鉄、石へと変化
していく。これが鉄器に代わるまで人は相当苦労して塩を作っただろうと推測できる。
この近江も、名古屋の知多半島やその周辺で取れた塩が運ばれてきたという話を
別な先生からも聞いたことがある。

更には、山中に住む人達がどのようにして塩を手に入れていたかというと、まず
木を切り、その木にその家固有の印をつけて川に流す。川の流れにそって海岸
まで行き、その木から塩を焼き出していた。その内に、海岸に住むひととの
分業を進め、山から多めの木を流し、海岸の住民がそれで塩を焼き、一部を山の
住民に送り返すようになった。その後、薪を売って塩を買う、というサイクルが
出来上がったという。

近江で生産された優れた鉄が優れた石ノミを生み出し、優れた石工と共に
日本各地に鉄の文化を伝播させていく。その鉄で花崗岩を刻むという石工が生まれ、
鎌倉時代の石工は近江地方に分布するのはこうした経緯があったからである。
なお、湖西は近世から石や石造りで有名であったという。
例えば、木地屋というのはロクロを回してお椀などをつくるが、この木地屋の歴史を
たどると必ず滋賀県の永源寺町の筒井と君ケ畑というところに結びつく。
この地方で算出される鉄でないと木地屋のお椀が作れなかった、というほど
良い鉄を産出したからである。

そして、近江北部などで産出された鉄釜は塩の生産を飛躍的に増加させる。
これにより、若狭湾沿岸には、鉄を使った古い揚浜が分布している。
しかし、鉄鍋では鉄の成分が流れ出るため、白い塩は出来なかった。そのため、
石鍋の製造も盛んになる。
塩の生産は、鉄と言う力を得て、大きな流通の流れを作り出す。
塩を売る人たちの登場であり、更には、瀬戸内海の人たちは、石釜で塩を作る
ようになり、ここで生産される塩は、鉄釜からつくられる錆色のついたもの
より有利であった。

これにより、鉄の釜で作られたいた塩は、瀬戸内の塩に圧倒され、塩を売って
歩いていた人たちは違う商売を探すことになる。山の人は灰を担いで下りて、
塩と交換することに商売を変えていく。
塩の生産の拡大により、流通範囲は次第に広がり、規模も大きくなり、その運ぶ
手段として、牛が利用されるようになる。
なぜ馬ではなく、牛が適切な運搬手段かというと、牛は馬と違って長距離の
運搬作業に適していて、野宿ができ、細い道が歩け、道草を食べてくれるので
飼葉代がいらない。何と言っても長距離が歩け、1人で7~8頭をひくことが
出来る、などの様々な利点がある。

信濃の塩の道の地図を見ると、鉄道や舗装された道路の無いこの時代でも、
多くの人がこのようにして、生活のため、自分の商売のため、これらの道を
通っていた。多分、このような道が日本各地の様々な物流の元として開拓されていた。
北上山中でとれる鉄を南部牛につけて関東平野にもって行き、東北の人たちは、
鉄と一緒に牛も売り、身軽になって戻っていった、道もそうであったのだろう。
愛知のほうまで分布していた南部牛は、東北の文化含め、基本的生産力の及ぼす
範囲が、実は中部地方西部にまでわたっていたことを示している。

塩の道のなかには、人の背で運ぶ以外に方法がない道が少なからずあり、その
場合は塩だけを運んだのでは儲けがすくないので、塩魚を運んだ。
山中の人たちは、塩イワシを買ったら、1匹を4日ぐらいに分けて食べたそうで、
また、ニガリのある悪い塩を買って、いろいろな方法でニガリを抽出して、豆腐
をつくったという。そこには合理的で決めの細かい生活があった。

「塩の道」は、宮本氏が日本各地で聞き知った一般の人々の伝承や生活習慣などから
解きほぐしたものであり、われわれの目に見えないところで大きな生産と文化の波が、
様々な形で揺れ動き、その表層に、記録に残っている今日の歴史がある事を
伝えている。
さらに、この本を読みつつ、芳賀日出男氏の「日本の民俗」を読むと、そこにある
多くの写真が、「塩の道」の言葉とあわせ、強く私に迫ってくる。例えば、この中の
「暮らしと生業」の運ぶと言う一章のモノクロ写真はまさに、「運ぶ生活」を
活写している。あらためて我々日本人の生活の深さに感じいる。

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