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2015年10月23日

2015.10.23

「塩の道」、日本人と食べ物の変化は?

塩の道「日本人と食べもの」より

今日われわれは、塩に関して無関心になっている。
長い歴史のなかで人がどのようにして道を開き、そしてそれが、すべてにわたって
実は海につながる道であったということをこの本から強く感じた。
更にそれは、縄文時代にまで遡る歴史であり、現在に生活でもなお、その延長線上
にあるのだといって過言でない。この幾層にも積み上げられた日本人の生活文化の
姿が垣間見られる。

日本列島では、過去二千年の間に人口が漸増している、という。
大きな変動もなく、徐々に増えているのは世界でも類をみない地域なのだそうだ。
宮本氏はその理由をいくつか挙げている。
異民族が大挙して侵攻してくることがなく、武力による侵略をほとんど受けなかった。

内乱では、戦争をするものと耕作するものが分かれていた。ゲリラ戦がなかった
からとも言う。
農村社会と武家社会とは別々の世界であり、鎌倉時代からの武家の存在がなかった
更には、享保の飢饉以来、東日本では産児制限により人口は減少ぎみであったの
に対し、西日本でサツマイモを作ったところでは、2倍、3倍と増えている。
農耕の進化とともに、木の実の採取も管理されていた。
岐阜県と福井県の境にある穴馬という村の例がある。
嫁に行くときトチの木をもってくのだそうで、トチの木をもつことによって飢饉
から逃れられることができた。このように実にきめこまかに、食用に供しうる
ものすべてを抱え込んで生活を立てている。
こまかな食糧確保の知恵であり、同じようなことは海でもあった。
漁師ではタコの取れる穴の権利をもたせたりという、娘を経由した世襲制度
を紹介、母系的な名残であると指摘している。
人口の安定化のための智恵が様々な形で存在した。

食物については、古事記、日本書紀、風土記などに記載されている食用作物は
かなり豊富であり、またそれらの外来の物を上手く広めている。
イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、
ダイコン、などの名前が出ている。
更に、時代が進むとサツマイモ、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモなど
今の我々が食用しているものがスペインやポルトガルの宣教師たちを経て、
国中に広まっている。九州から四国、中国へと民衆が中心となり、広めている。
特に、トウモロコシなどは宮本氏が歩いた全国各地の山間の村々で作られていた
と言う。サツマイモが飢饉を救ったと言う話は多いが、トウモロコシも
人口安定には大きな力となった、と言う。

また、稲はどこから来たか、という問に、米の豊作を祈ったのが始まりである神社
の建物は高床式であり、それは南方から朝鮮半島を伝って日本にやってきたと
主張している。竪穴式住居に暮らしていた縄文人は土蜘蛛と呼ばれ、弥生人が
稲作をもたらしたともいう。神殿に土間は一つもないのは米作りと神社が一体
となって南方から伝わった証であるともいう。

さらに、ソバについての記述では、いまから4000年くらい前に、北海道では
ソバをつくっていた。それは、シベリアから海を越えて樺太、北海道へと渡ってきた
と言う。アワも同様にイネよりも大分昔から北で栽培されていた。それはイネの新嘗
よりもアワの祭があったという。これのことから、農耕は北で早く発達したの
ではないだろうか、また、「続日本記」の元正天皇の霊亀2年(716)の冬に
蝦夷が馬千頭を献上したという記述があり、北では農耕や畜産が畿内など
よりも早く始まったと言う。
北海道にはわれわれが考えているよりはるかに充実した生活があった。

魚肉の食べ方で、山の中で魚を食べるために塩魚にする方法と、酢で保存する
という方法があった。そこで米を炊いて米に塩を混ぜ、米の間に魚を挟んで
桶などに入れて米と魚を重ねていく。そうすると、魚肉と米が発行して鮨になる。
これが鮨の原型であり鯖や鯵が多く使われ、その後鱒やあゆなども利用された。
現代の握り寿司は江戸で発達したもので、今でも関西では押しずしである。
これは熟れ鮨の名残である。熟れ鮨の入れ物は当初壺であったかもしれないが、
600年ほど前にタガの技術が中国から日本に入り、杉と竹を産出する関西地方
で樽を作る技術が定着した。大阪を中心に酒を樽に入れて作る、それを江戸に送る、
という生産と流通のしくみが展開された。江戸では送られてきた樽で漬物を
作るということが行われた。野田の醤油はその一つであった。

江戸時代を初め、各地は他の国とは関係ない形で領民の生活を成り立たせていた
のであろうから、当然藩同士の助け合いはなかった。このため、各々の藩は常に
飢饉に備え、節約に努めた、自給のための工夫をしていた。
獣肉をほとんど食べなかったので、魚が中心であり、この魚を山の中でも食べれる
様な工夫があり、先ほどのような発酵技術やお鮨などが生れた。
それには、味噌汁などもあった。
野菜は普段、ごっちゃ煮、雑炊、煮込みなどで食べたが、ハレの日と日常では
差があった。 このように、如何にすれば手元にある素材を栄養にし、また美味しい
ものにしていくという、民衆の智慧があった。

これらの仮説が正しいかどうかは分らないが、数千年に渡って暮らしてきた
私たちの祖先が間違いなくいること、そしてわたしたちの文化の底に流れて
いるものは、間違いなく祖先によって養われてきたものである。
この本からは、遠い祖先の生活の延長の先に現在の我々がいる。それを
強く感じぜずにいられない。

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