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2016年3月10日

2016.03.10

猫への想い、その3

もう少し猫の話を続けたい。
小説としては、「猫の客」が好きだ。猫と人との静かな交流が描かれている。

4.西加奈子の「きりこ」より
人間と話せる猫ときりこという少女の交流を描いているが、その独特の筆致が面白い。

「男の子の、「自分より能力のある女性を避けたがる」傾向は、多分にある。
大人になっても、それは変わらない。自分より給料の多い女、自分より頭の
いい女、自分より人望のある女、を、男は避けたがる。自分が惨めになる
からか、女には尊敬される自分でいたいからか、とにかく人間の男のそんな
こだわりは、猫にとっては、干からびたミミズの死骸を弄ぶことより、
つまらない。

雄猫が雌猫を選ぶ基準は、尻の匂いがいい具合か、それだけだ。
どんなに嫌われ者の雄猫であろうと、自分より体躯の大きい雌猫であろうと、
ふと嗅いだ尻の匂い、それが自分の棟を打ったら、そこから恋が始まる。
残念ながら、その恋は性交した段階で、あっさり終わってしまうが、元田さん
のように「ほら、そういうところが鬼畜なのだ」などと言ってはいけない。
私に言わせれば、人間の男も、そうだ。男が恋に落ちているのは、性交
するまでだ。一度でも二度でも、性交した後は、恋を続けることに力を注ぐ。
そうしないと女に鬼畜と言われるからだ。本当は、避妊具のない、たった
一度の性交で、十分だ。その後は、また違う女とそれを励み、一人でも多く、
自分の遺伝子を残したい。のだが、現実が、社会が、そうさせてくれない。
干からびたミミズの死骸よりも、つまらない倫理を持っている人間の男だが
本能を隠し続けなければいけないという、その一点においては、同情に値する」。

「猫が雌猫を選ぶ基準は、尻の匂いがいい具合か、それだけだ」という一節がある。
我が家の猫の行動を見ていると、なるへそ、と思う。

更には、
「猫にとって、眠り続ける事は、睡眠障害などではない。それどころか、猫に
とって、眠る事は、とても、とても高尚なことなのである。
眠る事は、ある種の訓練である。では、なにを訓練しているのか。
猫は、夢を見る訓練をしている。
ともすれば、夢と現実の世界を、寝ながらにして行き来する訓練を、して
いるのである。それは非常に困難で、尊いものであった。なぜ尊いものである
かを、誰も知らなかったが。

とにかく猫たちは皆、眠ること、それも夢を見る眠りにつくことを、強烈に
望んだ。秋刀魚の夢、雌猫の夢、サンフランシスコの夢、下駄の裏側の夢、
夢となのつくものなら何でも良かったが、最も尊ばれ、困難とされるのが、
今より後に起きることの夢、つまり予知夢であった。
四丁目の生意気なブルドッグがいつ死ぬのか、2丁目のおかしな宗教家が
我々を攻撃するのをいつやめられるのか、そしていつ、世界中の人間が
我々の前にひれ伏すのか、などの、未来の夢を見るため、猫たちは日夜
眠ることに、励んでいるのだ。

大作家が書く不朽の名作を書く前から知っている猫たち、宇宙の秘密を
天才と呼ばれる誰かが解く前に知っている猫たち、であったが、
それはただ分かっている、というだけだった。ざらざらした鼻の辺りで
薄くて丈夫な耳の辺りで、滑らかに動く首の尾後ろの辺りで、彼らは
いつでも分かっていたが、分かっていたことは、いつだって後で、
または知る瞬間に、分かった。、、、
出来事が起こった後で、分かっていたというのはずるい、後出しだ、
などと言うのは人間の愚かな論理である。とにかく、知った後で、猫は
分かっていたと思うのだ。それだけだ。そこに偽りはない。猫は絶対に
嘘をつかない。分かっていたのだが、分かっていたことを、事前に
知る、と言うことに意義があった。それも、夢で現実を知る、ということに、
彼らは特別な意味を与えていた。
今のところ、この近隣の猫が見られる予知夢は、自分が死ぬ夢だけである
という」。

確かに猫はよく眠る。今も私の横では、ナナとハナコが、朝から寝たまま
動かない。片や、犬のルナは、今も忙しく庭を駆けまわっている。彼女は
いつ寝るのだろうか、そんな疑問がよく起きる。

5.猫の客(平出隆)
この本は、隣の猫との交流を描いたものであるが、その詩的な文章が好きだ。
まず、以下のような文章から始まる。

「はじめは、ちぎれ雲が浮かんでいるように見えた。浮かんで、それから風
に少しばかり、右左と吹かれているようでもあった。
台所の隅の小窓は、丈の高い溝板塀に、人の通れぬほどの近さで接していた。
その曇りガラスを中から見れば、映写室ほの暗いスクリーンのようだった。
板塀に小さな節穴があいているらしい。粗末なスクリーンには、幅3メートル
ほどの小路をおいて北向こうにある生垣の緑が、いつもぼんやりと映っていた。
狭い小路を人が通ると、窓一杯にその姿が像を結ぶ。暗箱と同じ原理だろう。
暗い室内から見ていると、晴れた日はことに鮮やかに、通り過ぎる人が倒立して
見えた。そればかりか、過ぎていく像は、実際に歩いていく向きとは逆の方へ
過ぎていった。通過者が穴にもっとも近づいたとき、逆立ちしたその姿は窓を
あふれるほどにも大きくふくれあがり、過ぎると、特別な光学的現象のように、
あっという間にはかなく消えた」。

そして、以下のようにチビとの交流が始まる。
「その子猫チビがあらわれ、借りている離れの家へはじめて入って来たときの光景は、
くりかえし思い出される。
広やかな庭から形ばかり仕切られえた小庭に面して、洗濯機を置く狭い土間があった。
ある明るい午後、その開き戸のわずかな隙間をいつかしら抜けてきて、白く輝く
四つの跡に半ば日曝しのすのこをことと踏んで、行儀のよい好奇心を全身に
みせながら、貧しい部屋のうちを静かに見渡していた。
黒二毛というのか、焦げ茶というより墨の混じった泥のような色の、年寄った野良猫も
敷地内に出没していた。
家の中をそろそろと歩く。物と物のあいだへ、真白い毛並みに灰墨の玉模様の浮く
柔らかい身を、しばしが潜らせた」。

さすがに、チビの以下のような行動をとれる猫は我が家にはいない。それは、高齢化が
なせることか、元々我が家の猫たちが鈍いのか、そんな場面を我々が知らないのか。
しかし、時折、バッタやスズメ、トカゲ、大きいものではネズミが、我が家に
捨て置かれていることもある。戦利品として我々に見せているのだ、妻の弁だが。

「防犯のために点している玄関の常夜燈と離れの住居からくる明るみとのほかは、
月の光がようやく、物の文目あやめをつけさせていた。仄暗い屋敷の中で、
小さな白い玉が跳ねて、硬い音を立てた。それを追う小さな生き物も、月光を
まとって、白い珠のようになった。
昼は昼で、チビは梅の花びらを背につけたりしながら、ハナアブを叩き、トカゲを
嗅ぎ、精気と混沌の兆しをはじめた庭で遊び続けた。突然の木登りは、稲妻に
化けた様であった。稲妻はたいがい上から下へ走るものだが、この稲妻は
下から上へも走ったわけである。チビが電撃的な動きで柿の木に登るのを、
件のノートの中で、稲妻の切尖のようにと妻は描き止め、また、雷鳴を
起こす手伝いをするように、とも言い換えたりした。、、、、
登りきった柿の木の梢で、風はあらゆる変化を鋭く窺がいながら次の瞬間に
対して身構えている姿は、天からも地からも離れて、あらぬ隙間へ突き出よう
とする姿である。

猫は飼い主にだけ心を許す、だから一番可憐な姿は、飼い主の前にだけ曝す
ものだ、と聞いた。猫を所有する事をことを知らないまま、飼っている状態だけ
を擬似的に味わっている夫婦は、チビの一番甘えきった姿というものを、
見せてもらっていないはずだった。
ところが、そのためにかえって、チビは飼い主さえ知らない、媚びることの
ない無垢と言う、野生の姿を示してくれている。チビから受ける神秘的な
感じの由来は、簡単に暴いてしまえばそんなことではないか、と思ったものだ。
すなわちその最たる姿が、稲妻捕りと呼ばれるものだった」。

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