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2016年4月22日

2016.04.22

外国人の見た日本人と日本文化

桂離宮の紹介で有名なブルーノ・タウト、多くの小説を書いた小泉八雲、
さらには滋賀に関係の深いフェノロサら、彼らの見た日本人と日本文化への
傾聴、傾倒から日本のそれを違った視点で見ることが出来るのでは、と思う。

1.タウトの場合、
タウトによれば、日本文化の本質は、
「簡潔、明確、清純」にあるという。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けているといっている。
ブルーノ・タウトは「画帖 桂離宮」のなかで「部屋そのもの調和的な落ち着きは、
言葉ではとうてい言い表すことができない。わずかに用材、塗装、極めて
控えめな襖絵、また襖絵のないところでは襖紙、これらの見事な調和を語る
のがせいぜいである。

外国人の目にいかにも珍しく思われるのは、障子を閉めきった部屋には深い
静けさを湛えているのに、障子をあけると絵のような庭があたかも家屋の
一部ででもあるかのように突然、私たちの眼の前に 圧倒的な力をもって現れ
出ることである。一般に部屋の壁面は庭の反射を映じるようにあらかじめ
考慮せられている。そしてこのことは部屋全体にとって支配的な意味を持ち、
庭の光はくすんだ金銀の色の襖紙に強く反射するからである、と書いている。
さらには、都市の街並みに関しても、その醜悪さ、絶望的な全体感、など多く
の日本を理解する外国人たちが酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、
日本の伝統が生きているがゆえに高い評価となっている。

これはタウトの時代でなくとも、蜘蛛の巣の如くはりめぐらされた電線と複雑
怪奇な原色の看板が立ち並ぶ街中では今でも変わりなくその絶望的な景観
をさらしている。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と共に入ってきた
中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的でない」と見做す。

しかし、日本の民芸の良さを積極的に推し進めた柳宗悦とは多少の食い違いを
見せていた。その場の記録は残っていないのだが、のちにタウトが「柳の民芸」に
文句をつけたことは「げてものかハイカラか」というエッセイに残っている。
タウトは柳にもリーチにも敬意を払っていたし、とりわけ浜田庄司、富本憲吉、河井
寛次郎らの陶芸を褒めていた。なかでも富本の陶芸趣向を絶賛していた。しかし
「柳の民芸」には、使いっぱなしの「使い勝手の味」ばかり求めている傾向が強すぎて
「それらが持つ質感」が追求されていない物だとみなしたのだ。一方、柳のほうも
タウトのデザインは「頭から生まれている」という不満をもっていた。
このタウトと柳の食い違いには、なかなか興味深いものがある。
しかし、タウトの場合は、やはり他国人の視点、文化視点の違い、が
強いのでは、と感じる。

これは、柳宗悦の「手仕事の日本」の一文からも垣間見られる。
「、、、、さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、
2つの大きな基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは
歴史であります。自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と
言うのは人間が開発した努力の跡であります。どんなものも自然と人間との
交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。自然を仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、

前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種
多様な資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい
桐や杉を始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、
節のある楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を
待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。
柾目だとか木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を
寄せる国民は他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる
恩恵なのです。私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事を
見ました。何者もこの自然を離れて存在することが出来ません」。

更には、和辻哲郎の指摘にも相通じる。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。

2.小泉八雲のばあい
彼の「日本の面影」からいくつかの面白い一文が見られる。これらから
今の我々を見るとどうなのであろうか。
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、
どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、
しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、
神道という存在に舌を巻くしかないのだ」。
特にキリスト文化の中で育まれた彼らにとって、万物がすべて、神という考え、
そのものがまず理解できないのではないだろうか。

更には、
「この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、
日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。
花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、
一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、
青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の
頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれる
のである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品
など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、
まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない」。

旅する中で、特に近世などから栄えた街の中で見る家並み、ふと出された茶器の彩と
形に懐かしい心を感じるときがある。八雲は、それを自身の生活と地元の人々との
肌触りから感じたのではないだろうか。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の
文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうである
からこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人
ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」。
この心のDNAは確かに受け継がれている。しかし、少しづつそれも消し去られよう
ともしている。

3.日本人の心を守ったフェノロサ
明治という変革と混乱の中で、廃仏毀釈という愚行を止めさせ、仏像や日本画を中心
とする日本文化の素晴らしさを日本人にあらためて認識させたのが、彼である。
特に、廃仏毀釈の大波にもまれていた日本、仏教文化は壊滅的な状態であった。
岡倉天心の言葉でいえば、「遺跡は血に染まり、緑の苔まで生臭い、鬼や霊が
古庭で吠えている」。明治という今までの社会の慣習、体制、文化が消えて行き、
仏像や仏教も消えてもよいのでは、という考えがあった情勢の中で、
実体としての仏像が壊されていくという現実があった。
明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は
海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、
土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。
世相としても、例えば、当時の日本人について、ベルツの日記では、
「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には、我々日本人に歴史
はありません。今から始まるのです、と言う人さえいる」と書かれている。
フェノロサ、岡倉天心は、日本人の精神がよりどころをなくし、その精神が浮遊する
ということを嘆き、フェノロサは「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」と説いた。
これらにより、「日本独自の文化と精神にしっかりとした誇りを持つことが西洋と
対等に付き合うこととなる」とあらためて明治政府や関係者の意識の見直しを迫った。
彼の業績の1つに、法隆寺・夢殿の開扉がある。
内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)がある
ものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開
扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を
掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、
僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。
フェノロサは記す。
「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも
忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯
のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。
布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある
最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を
経て我々の眼前に姿を現したのである。
救世観音は穏やかに微笑んでいた。立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。
世界は滅ばなかった」。
また、私の好きな聖林寺の十一面観音もまたフェノロサによって1887年に秘仏
の封印が解かれた。
三井寺法明院の緩やかな小路を杉の木立ちの木漏れ日の中を進むとそれほど大きいとは
言えない彼の墓所をみる。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂の
なかにフェノロサの墓石がひっそりとたたずむ。滋賀の人間として琵琶湖を愛し、
仏に帰依した彼に感動を禁じ得ない。

4.そのほか
イザベラ・バードは明治の初めに日本に来た。その「日本紀行」には、当時の日本人の
生活と我々の心根が描かれている。
「上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通り
で見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸の
へこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事という
ものがあったことです」。
さらに、
「日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべり
が特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なこと
において、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいて
は格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって
暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けて
きた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるよう
になります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつも
こちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです」。
当時の日本人の心根、立ち振る舞いがそこはかとなく伝わってくる。

ファン・オーフルメール・フィッセルの「日本風俗備考・1」には考えさせられる。
「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も
享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、
まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。、、、、
自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度
という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには
行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。
、、、日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者
との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたってい
ることを知ることができよう」。
これは江戸時代訪れた彼の言葉である。今に照らしてみていかがであろうか。
イザべラの言葉と合わせ感じるのは、素朴さと勤勉さであろう。今日、われわれが
失いかけているものでもある。

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