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2016年4月29日

2016.04.29

志賀、鉄への想い一

宮本常一の「塩の道」は生活の必需品であった塩がどのように広まったか、
それに対して人々はどのように対応してきたか、を考えさせられるきっかけ
であった。さらに、塩以上に社会の拡大に大きな役割を果たしていった鉄についても
同様の疑問が出てきた。「鉄」は、どのように広がっていったのであろうか。
さらに、この湖西、志賀、地域は古代鉄生産ではかなりの有力な地域であったと、
志賀町史などに書かれている。まだまだ浅学非才のレベルであるが、少しでも
その認識を深めていきたい。

1.志賀での鉄生産とは、
志賀町史では、以下の記述をベースに、その場所の探査なども含め、
鉄への想いを深める。
「比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が500メートルから750メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在12か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる」。

更には、
「また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
6世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平14年743年12月17日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。

本町域にはすくなくとも20基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が7,8世紀には
操業していたようである」ともある。
記述のある念仏山の弁天神社周辺は、小さな水の流れがあり、その水音だけでも
落ち着くところであるが、鉄滓らしきものもその小川の中に見られる場合もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、」。

また、平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
志賀町史の内容と少し違う点があるが、これらを読み比べてみるのも面白い。

北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。

2.日本の鉄文化の始まり
「弥生の鉄文化とその世界」の記述では、
「発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見て
まず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。
例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。
また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断
されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了する
ことになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
は確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
卸)は後世になると思われます」。
と書かれてもいます。ただ、製鉄が行われたのが、弥生時代なのか、さらに後なのか
色々と説はあるようですが、弥生時代にはまず武具として、その後、農具として
使われていったようである。これは福岡や佐賀県で出土したものからも言えるらしい。

また、鉄の生産開始を推測される以下のような記述もある。
欽明天皇記に「鉄屋(くろがねのいえ)を得て還来り」とあるのは、朝鮮半島の戦いで
製鉄の工人を連れ帰ったことという考えもあるようだ。
農耕経済を中心とした弥生文化が急速な発展をし、全国的に鉄器が広がるにつれて、
農産物の生産量が増え、さらに経済力は強まった。これにより集落が小国家の
ような組織体となり、原始的な国家形成へと進んだ。
このため、鉄は、武具、農具としても重要な役割を果たしていく。

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