« 2016年5月6日 | トップページ | 2016年5月20日 »

2016年5月13日

2016.05.13

マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」より想う

マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」は、今の日本に
当てはめても、面白い記述が少なくない。
知識と知恵のない国会議員という政治的サラリーマンが横行している。
もっとも、それを許している責任の一端は我々国民にあるのでもあろうが。
もの化し、数としてとらえられないような議員、そこには、議員の個性や
主張が見えてこない。見えてくるのは、彼らが不倫したり、知識不足を
そのまま見せるとき、税金を私的に使った時、いずれも国を動かすという
行為とはかけ離れた世界での話のときだ。
これは、個を埋没化させ、ともかくその総和が大きいもの、数が多いもの
が正義という功利主義の好例かもしれない。もっとも、ベンサムに言わせれば、
全く彼の本意がわかっていないというかもしれないが、浅学非才の人間の
言うこととして勘弁願おう。

1.サンデルの基本的視点
彼は言っている。
ある社会が公正かどうかを問うということは、我々が大切にするもの、
収入、財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉、がどう分配されるを
問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。
つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。
難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを
問うときである。
そして、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。
つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について
異なる考え方を示している。
我々の議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが
何を意味するかについて見解の相違が表れている。

彼の言っている事例は確かにどこに軸を置くかによって、大きく変わるものであろう。
しかし、彼がまず挙げているベンサム功利主義は今の日本のそれにそのまま当てはまる
場合が多いような気がする。

2.ベンサムの功利主義について
ベンサムがこの原理に到達したのは次のような一連の論法によってだ。
我々は快や苦の感覚によって支配されている。この2つの感覚は我々の
君主なのだ。それは我々のあらゆる行為を支配し、さらに我々が行うべき
ことを決定する。善悪の規準は「この君主の王座に結び付けられている」
のである。
誰もが快楽をこの身、苦痛を嫌う。功利主義哲学はこの事実を認め、
それを道徳生活と政治生活の基本に据える。効用の最大化は、個人だけでなく
立法者の原理でもあるのだ。どんな法律や政策を制定するかを決めるにあたり、
政府は共同体全体の幸福を最大にするため、あらゆる手段をとるべきである。
コミュニティとは結局のところなんだろうか。ベンサムによれば、それらを
構成する個人の総和からなる「架空の集団」だという。市民や立法者は
したがって、みずからにこう問うべきだ。この政策の利益のすべてを足し合わせ
すべてのコストを差し引いたときに、この政策はほかの政策より多くの
幸福を生むだろうか、と。

功利主義のもっとも目につく弱みは個人の権利を尊重しないことだ。
満足の総和だけを気にするため、個人を踏みつけにしてしまう場合がある。
功利主義にとっても個人は重要である。だが、その意味は個人の選好も
他のすべての人々の選好とともに考慮されるべきだということにすぎない。
したがって、功利主義の原理を徹底すると、品位や敬意といった我々が
基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱い方を認める
ことになりかねない。
例えば、拷問の是非について、功利主義の点からは、「一人の人間に
烈しい苦痛を与えても、それによって大勢の人々の死や苦しみが防げる
のであれば、道徳的に正当化される」が導かれる。しかし、人間の権利
や尊厳は効用を超えた道徳的基盤を持っていると主張する人もいる。
数は重要で、多くの人が危機にさらされるならば、我々は尊厳や権利についての
心の痛みに目をつぶることもいとうべきではないというならば、道徳は
結局コストと利益の計算の問題だということになる。
それに近い事例は最近特に、目につくようになった気はするが。

功利主義は、道徳の科学を提供すると主張する。その土台となるのは、
幸福を計測し、合計し、計算することだという。この科学が人の好みを測る際、
それを評価することはない。すべての人の好みを平等に計算するのだ。
道徳の科学の魅力の大半はこの評価しないという精神に由来している。
道徳的選択を一つの科学するというこの展望は、現代の多くの経済的議論に
共通している。しかし、好みを合計するためには、それを単一の尺度で測る
必要がある。ベンサムの効用という概念はこうした一つの共通通貨を提供するものだ。
だが、道徳にまつわるあらゆる事物を計算の過程で何も失わずに、単一の価値の
通貨に換算することは可能だろうか。
ベンサムは人命の価値を含め、我々が大切にしている多種多様な物事を単一の
尺度で厳密にとらえるために、効用と概念を考え出したのだ。

3.関連事例
例えば、三つの兵士の集め方、徴兵制、身代わりを雇っていいという条件付き徴兵制、
志願兵制(市場による)をここでは検証している。
リバタリアンでは、徴兵制は不公平で、強制であり、志願兵制が望ましいと考える。
功利主義では、三つの選択肢の中では、これも志願兵制が最も優れているとしている。
人々は提示された報酬に基づいて兵役につくかどうか自由に決められるから、自分の
利益が最大化される場合のみ兵役に就くことが出来る。
しかし、いくつかの反論があることも重要だ。1つ目は、階級差別による不公平と
経済的に恵まれないために若者が大学教育やその他の利益と引き換えに自分の命
を危険にさらす時に生じる強制である。
更には、市民道徳と公益という点での反論である。
兵役はただの仕事ではなく、市民の義務である。それにより、国民は自国に奉仕
する義務があるという。これを明確に言っているのが、ルソーの「社会契約論」
であり、市民の義務を市場に任せるような商品的な考え方は、自由を広げる
どころか逆に損なうことになるという。

「公共への奉仕が市民の主な仕事でなくなり、彼らが自分の身体ではなく、金銭で
奉仕するようになると、国家の滅亡は近い」。
また、同様の議論を「金をもらっての妊娠」でもしている。代理出産についても、
それを正当化する以下のような判決がある。
「両者とも取引において一方的に優位な立場にいるわけではない。どちらも
それぞれ相手が欲しいものを持っていた。お互いに履行するとしたサービス
の価格は合意のもとに決定され、取引は成立した。一方がもう一方を強制
したわけではない。どちらも、相手に不利益を及ぼす力があったわけではない。
また、どちらかの交渉力が相手を上回っていたわけでもない」。
功利主義、リバタリアンによる論拠は、「契約は全体の幸福を促進している」、
「選択の自由を反映している」からだ。
もっとも、これには「不合理な同意」「赤ん坊や女性の生殖能力を商品として
扱うことへの誹謗」という反論もある。

なお、リバタリアン(自由至上主義者)は、経済効率の名においてではなく人間の
自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアン
の中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利、他人が同じことをする権利
を尊重する限り、みずからが所有するものを使って、自らが望むいかなることも
行うことが許される権利、を有するという。

4.これからの社会へ
我々の多くの判断がベンサムの言う最大幸福化の論理に従って動いている。
それが、国全体の方向にも関与してくるとなると、中々に難しい。

正義にはどうしても判断が関わってくる。議論の対象が金融救済策や代理妻、
兵役であれ、正義の問題は名誉や美徳、誇りや承認について対立する様々な
概念と密接に関係している。
正義は、物事を分配する正しい方法にかかわるだけでない。
ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ。

現代の最も驚くべき傾向に数えられるのが、市場拡大と以前は市場以外の基準に
従ってきた生活領域での市場志向の論法の拡大だ。これまでの議論では、
国家が兵役や捕虜の尋問を傭兵や民間業者へ委託する場合であり、公開市場で
腎臓を売買する、移民政策の簡素化など様々だ。そうした問題で問われるのは、
効用や合意だけではない。重要な社会的慣行、兵役、出産、犯罪者への懲罰、移民
等の正しい評価方法も問われる。社会的慣行を市場に持ち込むと、その慣行を
定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。そのため、市場以外の基準のうち、
どれを市場の侵入から守るべきかを問わねばならない。それには、善の価値
を判断する正しい方法について、対立する様々な考えを公に論じることが必要だ。
市場は生産活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が
市場によって変えられるのを望まないのであれば、我々は、市場の道徳的限界を
公に論じる必要がある。

だが、インターネットの発達は別な課題も提示してくる。サンデルの言う哲学的な
課題収束に加えて、社会的なツールを組み合わせることは有効なのかもしれない。
インターネットの拡大に伴い、多くの人たちが、自分の感じ方や考え方を
公開している。それら無数の声を自動的に集めてきて、人々の集合的な意見
を吸い上げ、政策に生かしたり、ビジネスに役立てたりできるという話
が多くある。当然、インターネット上の「集合知」がすばらしい働きをする
ことはある。でも、うまくいくのは、条件が整備された課題に限られる。
たとえば、これからの政治をどのように運営していけばいいかをネット上
の集合知にまかせたとしても、混乱をまねくだけであろう。
意外とみんなの意見を集約すると正しい場合も多い。しかし、その場合は、
すべて「基本的に正しい答えが存在」「回答者が充分に傾向が分散している」
「それを推定することができる」といった場合である。
たとえば「日本の少子化を止めるには?」といった絶対的な答えがでない問い
を、集合知で解決することは出来ない。
「みんなの意見は案外正しい」という本の中で、以下の記述が気に入っている。
「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、
決して合意や妥協から生まれるのではない」。
時代変遷は、社会基準も変えていく。

« 2016年5月6日 | トップページ | 2016年5月20日 »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ