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2016.05.06

志賀、鉄への想い二

3.志賀の鉄生産の状況
全国的な国家形成、強化の中で、志賀も鉄生産の拠点として重要な位置を占めていた。
日本の鉄歴史の中に志賀での記述はほとんど見られない。しかし、古代、
この地域が国の発展に欠かすことが出来ない場所であったということは、町史の記述が
やや我田引水的要素があったとしても、素晴らしいことである。
志賀町史はさらに言う。
「近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった

鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。

このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
採掘していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
これを燃料として操業を続けたのであろう」。

4.なぜ、湖西なのか、継体天皇の誕生、和邇氏とのつながり
志賀町史での指摘は中々に、面白い。
5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
近江と播磨がある。

日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
秘められていたと思われる。

「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも
優良かつ大規模なものであったと推測される。

本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
ようである。
高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王
となった継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への
供給であったと考えざるを得ない。
彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模
生産が行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったことを示唆
している。

武器や農具など鉄需要の高まりとヤマト政権とのつながりの深さ、比良山系の豊富な
木材などが大きな要素となって湖西でも本格的な製鉄が進められたのかもしれない。
先ほどの調査でも、言っているが、近世、独占的になされた中国地方の砂鉄に
よる製鉄のイメージが強すぎるためか、例えば、司馬遼太郎の鉄についての記述でも
中国地方がほとんど、近江での製鉄については、脚光を浴びることがなかったものの、
この地域での製鉄の歴史への関与がそれなりにあったという歴史的な事実は
再認識すべきかもしれない。
しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠であった。
このため、森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では
百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと
言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。

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