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2016年7月1日

2016.07.01

2010年前後

2010年前後、個人的には中小企業のビジネスコンサルとして頑張った時期でも
あり、地域への思いもその活動と合わせ過ごしてきた時代だ。社会は80年、
90年代とは全くその様相を変えつつあり、過去にあった共通的な意識、社会常識
にも変化が起きていることを感じつつ、老齢期に入った。
表面的な安定と物質の豊富さが熟成した社会を見せているようではあるが、不安な
心持ちが少なくない日々、そんな思いを受けるのは私1人だけであるのか、
そしてそれを増長させているのが、インターネットであろうし、30年も前から
指摘されてきた格差の拡大でもある。

1.インターネットの拡大に思う
2000年直前までは、「空っぽの洞窟」などと揶揄されたインターネットであるが、
2005年ごろを境に社会における影響力が爆発的に大きくなってきた。
その影響は数字的にもはっきりとしている。
例えば、少し古い統計だが、総務省が行った「情報流通インデックスの計量」調査
2011年(H23年8月)の発表資料では、過去30年に渡って日本国内の情報流通量
を計測してきた情報通信政策研究所が、「流通情報量」と「消費情報量」の変化を
まとめている。
データでは、平成13年(2001年)から平成16年(2004年)くらいまでは世の中に流通
している情報の量と消費されている量がほぼほぼ同じ量だったのに対し、平成17年
(2005)年を境に流通情報量が急激に増加しはじめ、平成21年(2009年)には
突き抜けていく。その量の伸び率は、平成13年(2001年)を100とした場合の198.8%。
一方、情報消費量はというと、多少の伸びはあるものの、ほぼ横ばい。つまり、
「人が処理できる情報の量はあまり変わっていないのに、世の中に出回る情報ばかり
が増えている」ということだ。
この流通情報量の増加は「インターネット」によるもの。わずか10年ほど前には、
特定の人しかアクセスし、発言できなかった社会が、いつでも誰でも参加でき、だが、
やや無責任な発言される社会、これはあるメディアでは不寛容の社会とも言っている
が、が現出したのだ。
確かにインターネットを使わない人もいるが、これが普通の生活まで及ぶとなれば、
間接的にでもかかわらずにはいられない。また、インターネットを使いこなしている
人々は、さらにその集合知的な空気や発言に関与させられる。
生活者のライフスタイルは複雑怪奇なものになりつつある。
圧倒的な情報の多さとその情報を受け取ることによる次の情報発信という
スパイラル拡大、自分の立ち位置が一番求めらる時代なのかもしれないが、
多くの人の認識はそこまであるとは思えない。

2.格差の拡大に思う
「国民総中流時代」というのが、昔あったような気がするが、既に死語になった。
厚生労働省の賃金統計のデータでも、明確に出ている。
格差拡大は、80年代からも指摘されているが、さらに最近の譲許を見ると、

1)進む格差
最近の年収300万円以下サラリーマンの割合の推移では、年度を経るごとに
その割合はどんどん増加している。2002年には年収300万円以下の割合は
34%ほどだったが、2012年では40%を超えるところまで増加している。
多分に、多くの人が感じていることであろう。
約4割弱近くの人口が年収300万円以下となっている。

また、厚生労働省の平成19年度の 「賃金構造基本統計調査」 による
年収200万未満の労働者を年代別データでは、日本では年収200万未満の
労働者をワーキングプアとみなしているので、ワーキングプアは全ての
年代で30%以上を超えており、年収200万未満の労働者が1,000万人以上
いることが分かる。そして特にワーキングプアが多い年代が、20~24歳
の若年層と50歳以上の中高年である。
特に40代からはどんどんワーキングプアが増加していき、60歳以上
では、グンと増えている。高齢になればなるほど所得格差が拡大
していることからも、高齢になるほど低所得である高齢ワーキングプア
が増えている。

2)山崎正和の「平成を読む」から
この本にある2005年之記述を読むと面白い。

経済構造の大きな変貌を受けて、ようやく日本でも平等社会の神話が崩れ、
貧富の差の拡大を問題する意識が芽生えてきたようである。2000年5月号の
ちゅうおうこうろんが「中流階級崩壊」という特集を行い、符節を合したように、
同じ月の文芸春秋が「新階級社会ニッポン」と題するレポートを載せている。
文芸春秋の記事は、近年のベンチャービジネスの隆盛に乗って、新しく生まれた
成功者の姿を紹介している。業種は投資情報や企業コンサルなど、従来の大企業
勤務の枠外にあるものが多い。年収も資産も破格に豊かで、暮らしぶりも
絵にかいたようなアメリカ風である。対照的にかっての中流俸給者の没落が目立ち、
失業、減給に襲われないまでも、能力給の競争に脅かされている。一般に、
所得の不平等度を示すジニ係数は明白に高まり、生活保護世帯も90年代後半に
2倍近くまで増えたという。
中央公論の特集も多くの統計を含んだ論文を集め、昨今の日本では、「結果の平等」
だけでなく、「機会の平等」さえ危うくなったと警鐘を鳴らす。企業では上級管理職
の子が上級職に就く率が高まり、子が親の社会的地位を超える可能性が減っている。
巷では若者が努力の報われなさをかこち、所詮は資産家の子には勝てないと自棄
になっている。教育に金がかかるだけでなく、親の教育への熱意も社会的地位に
比例するから、次世代の富の格差はますます再生産されるはずだというのである。
これが行きつく先には米国社会があるわけだが、ここでは73年から経済が2倍に
拡大し、1人当たりの生産性も7割上がったのに、中位の所得の世帯数は増えず、
賃金は逆に1割近くも低下した。上位5パーセント層と下位20パーセント層の
所得の格差は、68年の6倍弱から98年の8倍強に拡大した。金融資産に
いたっては、最上位1パーセントの富裕層が全国民の富の半分を保有しており、
その格差は増すばかりだという。問題なのは、ここでも、有能な若年層の所得が
伸びず、努力が成功をよぶという、「アメリカの夢」陰り始めたことである。
特に注目されるのは、話題のIT革命が不平等の解消には役立たず、むしろ
悪化させる重大な要因と考えられていることである。

情報技術は人間の知的労働を代替して、低賃金の未熟労働者をう買う道を開き、
中途半端な専門家を無用のものとする。情報技術そのものの専門家も国際競争
にさらされて、中程度の技術者は途上国の労働力に置き換えられる。一方、独自
のアイデアを開発した少数の成功者は、これまで以上に膨大な報酬を約束される。
技術習得の難しさが、ディジタルデバイド(情報格差)を招く不安とあいまって、
IT社会にはより深刻な階層化が予想されるという。

だが、このような問題に触れると、我々がまだ不平等とはなにか、どんな意味で
それが問題なのか、確かな哲学を持ち合わせていないことに気付くのである。
議論があいまいになるのは、第1に不平等が純粋に客観的な事実ではなく、
たぶんに感覚的な社会通念の問題だからである。現に富の格差は日本より大きい
のに、アメリカで不公平を嘆く声が特に高いとは聞かない。

しかも一論者によると、過去の日本が平等だったという常識も不正確で、統計上の
錯覚が加わっていたという。さらに現代の日本が過渡期であり、性質の相反する
事態が重なって進行していることが、認識を混乱させる。
、、、、、
本来、人間は単に所得によってではなく、他人の認知によって生きがいを覚える
動物である。嫉妬や自己蔑視の原因は、しばしば富の格差よりも何者かとして
他人に認められないことに根差していた。これに対して、20世紀の大衆社会は
万人を見知らぬ存在に変え、具体的な相互認知を感じにくい社会を生んだ。
隣人の見えにくい社会では遠い派手な存在が目立つことになり、これが人の目
を富裕層や特権階級に引き付ける結果を招いた。

こう考えれば、今、急がれるのは社会の「視線の転換」であり、他人の注目を
受ける人間の分散であることが分かる。普通の人間が求める認知は名声ではなく、
無限大の世界での認知ではない。むしろ人は自らが価値を認め、敬愛する少数の
相手に認められてこそ幸福を覚える。必要なのはそれを可能にする場を確保
することである。

この指摘はすでに世界各国の状況となり、2016年のアメリカ大統領選挙、
イギリスのEU脱退など大きな変化を見せているが、2000年にこの指摘
があったということをわれわれも再度考えるべきなのかもしれない。

3)「機会との競争」から思う
エリック・ブリニョルフソン氏共著の「機械との競争」からは、米国のデータと
そこからの視点ではあるが、感覚の不安をデータとして見せてもらえたのは、有難い。
この本は、
「なぜ米国ではそんなにたくさんの人が職を失っているのか。そしてなぜ所得
の中間値が1997年よりも低くなったのか」という問いから始まった。
イノベーションが進み生産性が向上したのに、なぜ賃金は低く、雇用は
少なくなったのか?
「デジタル技術の加速」のためである。それは生産性の向上をもたらしたが、
ついていけない人々を振り落としてしまった。ある人たちは多くのものを得て、
別の人たちは少ないものしか得られずに終わる。それが過去15年に起きたこと。
国全体の富は増えたが、多くの人にとって分け前は減った。残りは上位1%が
取っていったから。
考えなくてはならないのは、技術は常に雇用を破壊するということ。
そして常に雇用を創出する。問題はそのバランスであるが、その後、技術
による雇用破壊は雇用創出より速く進んだ。それがこの10年の現象という。
かつては生産性の伸びと同じように雇用も伸びてきたが、97年頃から
雇用が置いていかれるようになった。

その主因は、「デジタル技術の加速」にある。
デジタル技術には3つの側面がある。
1)指数関数的に発展するということ。人類の歴史に登場したどんな技術よりも
速く進化します。蒸気機関よりも電気よりも速い。ご存じの「ムーアの法則」
では、コンピューターの性能は18カ月で2倍になります。それは指数関数的な
スピード。人々はそれに追いついていけなくなっている。
2)デジタル技術は以前の技術よりも、より多くの人に影響を与えるということ。
今日、コンピューターの発展は、ほとんどの働き手に影響を与える。米国では
全労働者の業務のうち約65%が(コンピューターを使った)情報処理に関わるもの。
事務職、マネジャー、あるいは学校の先生、ジャーナリストやライターなど、
幅広い仕事がそれに含まれる。過去よりも多くの人が影響を受ける。
3)ひとたび何かが発明されると、ほとんどコストなしでコピーができる。
そしてそのコピーを即座に世界のどこへでも送り、何百万人という人が同じもの
を手にすることができる。高いお金をかけて工場を建設しなければならない製造業
などとは全然違う。過去200年とは全く異なる影響を雇用にもたらす。

雇用は中国に移ったのではない。ロボットに移った
製造業は米国では縮小してきました。それはまた別の重要な論点を生む。製造業
における米国の雇用縮小の背景として、生産拠点の海外移転や中国の台頭が
挙げられてきた。
しかし、調査の結果、分かったのは、中国では製造業で働く人が97年に比べ
2000万人以上少なくなっているということ。雇用が米国から中国に移った
のではない。米国と中国からロボットに雇用が移ったというのが正しい。
「デジタル革命」や「機械との競争」は、生産の海外移転よりももっと重要
な論点のはず。
テクノロジーと経済は非常に速く変化している。もし我々が何もしなければ、
危機に陥り、多くの人が仕事を失うことになる。しかし、うまく対応できたら、
つまり技術の利点を取り入れることができたら、すべての人にとってチャンス
を生み出せる。

いずれにしろ、この数10年で、伝える事の変化、知る事の変化が顕著となった。
間接ながら、それは格差の拡大にも大きな影を落とす。
個人的には、昭和と呼ばれたあの緩やかながら熱した動きのあった時代が懐かしい。
単に老人の懐古趣味とも言えないと思うが。

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