« 2016年9月9日 | トップページ | 2016年9月23日 »

2016年9月16日

2016.09.16

この国のかたち、第2巻より

この国のかたち第2巻での話、「職人、神道}他の人の指摘も含めて
考えさせられること、気づくことが多い。

1.30章職人 より
この本での指摘については他の識者の指摘も考え合わせると色々と気づかされる。

「職人。じつにひびがいい。そういう語感は、じつは日本文化そのものに
根ざしているように思われるのである。、、、、
室町末期から桃山期にかけて、茶道が隆盛を極めた。とくに利休が出るに
およんで、茶の美学だけでなく、茶道具についての好みが頂点に達した。
彼らは絵画など純粋美術を好むだけでなく、無名の職人が作った道具という
工芸に、目の覚めるような美を見出したのである。
、、、、、
多くの職人たちは、そういう無償の名誉を生活の目標としてきた。
「職人を尊ぶ国」
と、日本痛のフランク・ギブニー氏がいったが、日本社会の原型的
な特徴といっていい」。

柳宗悦の言葉もそのようだ。
「寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました」。

江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、
日本各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化がある
ことを知る。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について語らううち、
「名も無き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という
民藝の考え方が定まったという。
民藝の特性を柳は「実用性、無銘性、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、
他力性」の言葉で説明している。

さらに、「日本人とはなにか 司馬遼太郎対話集」に以下のような話がある。
「徒然草から見る芸への見方の変遷。平安朝から室町時代にかけて、
個人の技芸が尊重された時代と芸に秀でた人が軽く見られた時代がある。
さらに、鎌倉時代には、「数奇」という一人1人がが趣向を発揮すること
への観念が強まる。
例えば、一般庶民を大規模にただで使った権力者は日本にはいなかった。
秀吉の大阪城築城でも、賃金としてお米を渡したように、個人性を意識した
観念はかなり古くから日本にあったのでは、という。
さらに、芸の延長にある近代化、工業化が日本では上手くなしえたのは、
この芸を重んじる風土があったと言う。
しかし、社会体制が安定してくると、芸のあるものは、組織から疎んじられる
様になる。多くの会社では本当に能力のある人は排除され、中途半端な能力の
人間しか残らない。同様に社会全体が守勢の時代は、リーダーシップを落とし、
先ずは上からぼんくらになっていく。ぼんくらでないと上にいけないという
制度を作ってしまう。その下の人間もぼんくらの競争となる。
日本では、中間管理職が一番よく分かっているが、欧米では、トップの能力が
凄く高い。あらゆる情報とそれを活かす能力をもっている」。
個が主点の職人と組織人、ずれる点もあるが、考えるべき話でもある。
このような記述が第3巻にもでてくる。

2.神道について
31章のポンぺの神社でも書いているが、ほかの賞でも神道について言及している。
すでに消え去ってしまったように思える思想であるが、我々の心の奥底に消し炭の
様にまだ残っているし、基本的な思想というものが曖昧な現代ではこれも考える
ことが必要なのでは、ふと思う。
「神道は発生形態も多様で、また思想的な発達史もあり、とても10枚の枚数で
書けるものではなく、また書いたところで、煩瑣を避けて説明できる自信はない。
神道の本質というのは、精霊崇拝アユミズムだろうか、それとも憑霊呪術
シャーマニズムなのか、あるいは後世になって加わる現生利益的な受福除災の
儀式なのかなどと考えると、どうもまとまらない。

神道という言葉は仏教が入ってきてから、この固有の精神習俗に対して名付けられた
ものだが、奈良朝のころは、隋、唐ふうの国家仏経に圧倒されてややさびれた。
そういう時期、神々を救うために考えられたのが、奈良朝末の本地垂迹説だった。
まことに絶妙というべき論理で、本地は、普遍的存在のこと。つまり、仏、
菩薩のことである。そういう普遍的な存在が、衆生を済度するために日本の
固有の神々に姿を変えている、という説である。そういう論理によって仏教化
した神々が、権現とか明神とかと呼ばれるようになった。例えば、伊勢神宮の
神は大日如来が本地であり、熊野権現は阿弥陀如来が本地とされた。

江戸末期にでた平田篤胤の神道体系は、際立って思想的威容がある」。

3.文章の歴史
35章の13世紀の文章語、現代文を何も考えずに使う我々にとって、
この賞は参考となる。少し前から「正法眼蔵」の現代訳を読んでいるが、
原文の違いを意識せず、道元の真意は図れるのか、思うことがある。
だが、その実現は難しい。
「道元の「正法眼蔵」も、あざやかなこの時代の文章語と言える。
それまでの仏教は、いわば型に過ぎなかったのだが、道元は、禅を通じて
はじめて仏教の本質にせまった。型についてのべつつも、深く本質に
入っているのである。
本質を説くなど、当時の文章日本語でにわかに可能なはずがなかった。
このため、道元は日本文を無から創り上げたといっていい。南宋末期の
現代中国語を援用したり、古漢文の読み下しで文脈を作ったり、また既存の
表現がないあまり、自己流の言い回しを塗りつけたりした。まことに悪戦苦闘
というべく、自然、意味の分からない箇所もあるが、そういう傷の多さ
こそ創始者の名誉といっていい。
、、、、
13世紀にようやく展開した日本語は、叙事文や感想文においてもめざましい
発達を見せた。平家物語の成立が、圧倒的なものであった。
その見事な叙事日本語の先蹤のおかげで、ひきつづいて僧慈円によって書かれた
7巻の「愚管抄」の文章がなりたちえたといってもいい」。

4.その他
他にもあるが、個人的に気になった章が2つほど。
42章の風景
「幕藩体制での名主(庄屋)は、不思議な存在だった。
士農工商で言えば農なのだが、晴れの日には、大小を帯び、武士の姿をする。
むろん、多くは姓も公称した。しかもその屋敷たるや、小藩の家老屋敷の
様に大きく、土塀をめぐらし、長屋門などを構えていた。門を入ると、
玄関があり、式台があり、また、座敷は書院造りだった。それらが付随して
いるということが、苗字帯刀のしるしだったのである。
服装も絹服がゆるされ、またはきものも雪駄(竹皮草履に牛皮を張り付けたもの)
がゆるされた。雪駄などと、なんのこともないことだが、これさえ格式の1つの
道具だった。、、、、
そのような容儀からみれば、庄屋どのはりっぱな上級武士である。しかし身分は
藩の徒士かちよりも下なのである。ただ富力は、藩士階級一般より上だったこと
は言うまでもない。、、、、
もう1ついえることは、名主層は、中世以来の由緒という無形の栄誉でいえば、
豊臣、徳川期に成立した出来星大名などよりはるかにつややかで、古くを訪ねると、
大抵中世の地侍から発している。ときに源平時代にまでさかのぼることが出来る」。

48章のスギ・ヒノキ
もっと日本の杉を使ってもらいたい、そんな思いがわいてくる。
「日本の建築史は、杉とヒノキ(檜)の壮麗な歴史でもある。スギ・ヒノキは、
共通して柾目(木目)がとおって美しい。
また白木の肌があかばんで心をなごませ、ともに芳香を放つということでも、
用材としての個性は他の木と比べ物にならない。
、、、、、、
便所の戸は、貴賤にかかわらず薄いスギ板であった場合が多く、また地面すれすれに
埋め込まれた溜桶も、それを汲みだして畑に施すための桶も、すべてスギで作られた。
おかげで、室町期の農業生産はあがった」。

« 2016年9月9日 | トップページ | 2016年9月23日 »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ