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2016.10.14

モモ、反省と悔悟の物語だ

ある人の書評から、ミヒャエル・エンデの「モモ」という童話を読んだ。
だが、これは童話ではない、人生への道標のようなものと思った。
もっとも、現役引退の身にとっては、悔悟の方が似合うようだが。

1.モモについて
この本は、時間貯蓄銀行という時間泥棒とモモの戦いの話だった。
ある日、平和な街に灰色の男たちがやってきて、「みなさん、時間は
どこから手に入れますか」と聞き、「それは倹約するしかないでしょう」と
説得しまわっていく。計算と数字も見せる。すべてを損得勘定で説明で
きる連中である。時間銀行の銀行員は「時間をあずけてくれたら五年で同額を
利子として払う」と言い、時間の節約の仕方を説明する。
やがて人々は、仕事はさっさとすます。老いた母親は養老院に入れて、自分の時間
を大事にする。役立たずのセキセイインコの世話の時間ももったいないから、
捨てる。とくに歌を唄ったり、友達と遊ぶのを避ける。
このようにして時間を節約したぶん、幸福が確実にたまっていく。そう、思っていく。
住人たちは次々に時間が倍になって戻ってくることに狂喜する。新しいが画一的な
街がどんどん建っていく。きれいな服装をし、美味しいものを食べらられる日々、
それを人々は幸福と思う。だが、やがてそれは不幸であることを知るようになる。
エンデは、「時は金なり」の裏側にある意図、それは「時間の意識化」、を
ファンタジックにしてみせた。
いずれにしろ、一度は読んでみてもらいたい。何か生き方のヒントが湧いてくる、
そんな本だ。

2.自分への反省
まさに30代から50代初めの自分がそうだった。時間を節約することで、幸せを
掴めると思っていた。だが、その後60代はこの物語に似た思いが続いている。
余裕のない生活と無意味な人生だったのか、へと変わっていた、そんな思いは強い。

時間の国に住むマイスター・ホラがモモに語った言葉は中々に考えさせられる。

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全
ながらもまねてかたどったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くため
には耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないも
おなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の
聞こえない人にはないも同じようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて
鼓動しているのに、なにも感じ取れない心を持った人がいるのだ」

これを読んだとき、心に大きな重しが出来た。悔悟というそれだった。
私も、滋賀に来た当初は、家からこの道路を一時間ほどかけてかけて
道の駅から近くの温泉へと、直行便の如く走り抜けていた。狭い道路沿いの川の
流れに、比良山系ってその深さは凄いね、と感じ、迫り来る杉の黒さとその圧倒的な
緑の群れの中の自身の小ささを感じさせた情景を思い出す。
だが、足で歩いていたら全く違う情景もあったはずだ。
昔、鯖街道と呼ばれて敦賀から京都へと鯖を運んだというこの山並みに沿った道は通る
人々に同じ情景を与えたのかもしれない。しばし、きれいに整備された道路の横に車を
止める。杉木立の下まで上ると杉と杉のあいだには、端正な黒い沈黙がきっちりとはま
っていた。生き物の気配はどこにもない。斜面を歩いて、そこからわずかに明るくなる
雑木の疎林に入った。すると突然、足元から数羽の鳥が飛び立った。そしてまた静寂が
あたりをおおう。さらに先には暗く重い影と軽やかな明るさを持つ影が四方を照らして
いた。樫の木や柊の木などの広葉樹の明るい林と常緑樹からなる厚い葉におおわれた森
が併存している世界だった。歩くことで見えた情景であった。

何処へ、誰とでも行っても、点と点の行動の中で、ただひたすら走るのみの時代、
社会の大きな流れの中で我を知らず、富と生活の豊かさを享受することが唯一の目標
であった時代。誰もが、それを人生と思っていた時代、懐かしさと儚さが、頭の中で、
去来する。しかし、その歩みを停める訳には、行かなかった。それは、己が人生を逝く
ときでもあるのだから。右の足を前に出し、左の足を前に出す。その単調さが、
全てであった。

3.さらに、深く考えると、
ミヒャエル・エンデがすごいのはもう一段上のレベルの概念、「時間とは意識
である」ということを子供に語りかけるような言葉で説明していることだろう。
例えば、食事時間を節約するためにファーストフードで10分で食事を終える
ことは、一見すると時間を節約しているように思えるが、
その10分が心や意識に残らない10分ならば存在しないのと同じ。
そういう時間のすごし方で30年を重ねたとしたら、物理時間は節約できた
かもしれないが、意識のレベルでは何も残っていない。
しかし、食事に30分かけたとしても、記憶に残る食事を経験できたのであれば、
それは意識を大事にできたということであり、つまりは時間を大事にしたという
ことだ。

ついでに言えば、道元の教えに以下のようなものがある。
「時は即ち存在であり、存在はみな時である。
今という時の一日について考えよ。阿修羅像はそのまま現在の時である。
阿修羅の姿はそのまま時であるから今という眼前の一日と全く同じである。
一日24時間が長いか短いか広いか狭いか、きっぱり量りもせずに、人は
これを一日と言っている。日常の一日が朝に来て、夜になれば去るはっきりした
ものであるから人はこれに疑いを持たず、しかし疑いを持たないからと言って
知っているわけではない。
このように、人は見当がつかない諸所の物事にいちいち疑いを持つとは限らない
から、また疑いというものは対象を定まった像に結ぶことがないことによって
「疑い」であるから、本来はっきりとわからない状態の「疑う前」と疑いを
持った今の「疑い」とは必ずしも一致することがない。知っているようで
実は知らないということも、定まらないままの形相としてやはり時である
ほかはない」と。
たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、
「寝たときの今」と「起きたときの今」を「配列」してできた認識である。
換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした
「物語」を産むことで時間を認識し、また自己存在を認識することになる。
エンデの示したおとぎ話の時間見える世界、難しい言葉を並べて同じ時間と
存在の意識化を進めた道元、どちらも悔悟の想いと残る人生への新しい見方
への期待がある。

しかし時代は容赦なく進んでいるようだ。
工業化の時代に企業は、効率と生産性を上げることで自分たちの時間を最大限活用
していた。それは「モモ」の時代に近い。だが、今日ではそれでは不十分に
なりつつある。
今や組織や体制が顧客や市民の時間を節約しないといけない。
つまりリアルタイムでやり取りできるように最大限努力しなくてはならない時代
に踏み込んでいる。
スマホで物を購入でき、個人の行動や嗜好をその人がプロセスした行動から判断し、
個人が意識する以前に提供しうる環境となっている。
「モモ」の中では、人の意識変化が社会を変えていったが、リアルタイムという
人間の時間のもつ資源を社会が主導し、人を変え始めている。
「モモ」の時代よりより一層の変化が始まっている。
しかもそれは、良い方向とは思えない。時間貯蓄銀行に無意識にため込まれていく
時間を多くの人がその使い方がわからず、目標さえ存在しない。
そんな社会になっていく、この危惧が当たらなければ、幸いだ。

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