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2016年11月25日

2016.11.25

仏像と人の関係その二

しかし、日本では、大乗仏教の発展、空海の密教の拡大により、「釈迦如来」
よりも、「大日如来」を中心とする仏教思想が本流のようになる。
あらゆる宗教は、現世利益を追求したものであるが、地獄、極楽図が
衆生の中で、その存在を高めているのは、彼岸救済、すなわち、死んだ後の
自身の安寧が強いからでもある。
このため、法然や源信により、「阿弥陀如来」が仏教の原点と説かれるが、
最近は、日蓮が説いた現世利益追求の「薬師如来」が仏教の原点としてみなされてもいる。
個人的には、仏像を仏教の教えの具現化されたものと考えれば、大差はないように思うが。

例えば、日本人の神の在り方を説明するのによく引用されて有名なものに
西行法師が伊勢神宮(天皇家の祖先神が祭られている日本の代表的神社)に
行った時の歌があるのですが、その内容は
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
つまり「誰がいらっしゃるのか知らないけれど、なんとなく神々しくて涙がでるなあ」
などというものであった。西行法師ほどの知識人(鎌倉時代を代表する歌人の一人。
もともとは武士であり鳥羽上皇に仕えていたが、後に出家し諸国を遍歴した)
がこの伊勢神宮の神様(内宮が天照大神、外宮は豊受大神)を知らない
とは絶対にあり得ないといえるし、ようするに西行法師がいいたかったことは、
日本人にとって「神」ということで大事なのは「名前」ではなく「神々しさ」なのではないか。
天照大神といえば天皇家の祖先神なのですから誰でも知っていて不思議はないのに、
こう言われてしまうほどだ。ですから一般庶民がここに祭られている神を知らなくても
あまりとがめられないし、仏についても同じ意識があるのでは、と思われる。
これは「更級日記」の記述にもある。そこでは、
「常に天照御神を念じ申せ、という人あり、いずこにおわします、神・仏にかはなど……」
(いつも天照大神を拝みなさいという人がいるけれど、だけど、どこにいるんだろう……
「神」なんだか「仏」なんだか?………)などと言われている。

このように、仏像を少し深く考えるとしたなら、1つの寺が醸し出す詩的なムードや一時代
を支配する時代精神ではなく、むしろ日本で作られた仏像の背後にある精神への理解なのかもしれない。
その仏像の背後にいかなる思想があり、いかに日本人に崇拝され、いかなる意味を、
いまのわれわれに暗示するのか、それは場所でもあり、時代もあり、種類もある。
阿弥陀仏は、奈良時代では、主として説法している姿で表わされ、平安時代では座って沈思黙考
をしている姿で表わされ、そしてさらに鎌倉時代以後は、立って念仏者を迎えている姿で表わされる。
このことはたしかに形の変化であるが、しかしそれは形の変化ばかりではなく、仏教思想
浄土思想の変化であるばかりか、そのように阿弥陀仏を変化させなければならなかった、
人間の心そのものの変化なのである。

われわれは、結局仏像に対して自己の心でふれるよりほかないのであろう。
我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏像に対する
われわれの感動も、日にあらたなはずである。
だが、とかく主観的な感動は客観的な仏像の持つ意味と食い違いことがある。
特に古都の仏像に伴う深遠で神秘的なムードは、仏像とその仏像の持つ教えの差異に
対してほとんど注意を促すことなく、一様に、ただ甘美な陶酔に人を誘い込みがちである。
さらには、あるべき場所から展示と言う目的で、どこかの美術館などに移され、
仏像をみては、多くの人は満足するが、美術品と観賞する場合と心のよりどころを求めるのは、
大いに違いがあるはずであり、それを混同してはならない。

以前に湖北の十一面観音を拝しに行った折、井上靖が書いたと同じ言葉を聞いたことがある。

大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。
観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たるものがあって、
凛としてあたり払っている感じである。金箔はすっかり剥げ落ちて、ところどころ
その名残を見せているだけで、ほとんど地の漆が黒色を呈している。
「お丈のほどは六尺五寸」
「一本彫りの観音様でございます。火をくぐったり、土の中に埋められたりして
容易ならぬ過去をお持ちでございますが、到底そのようにはお見受けできません。
ただお美しく、立派で、おごそかでございます」

この地域は長年十一面観音などを自分たちで守ってきた。これが仏像を拝す時の
心根だと思う。
仏像はあるべき場所、それを守る衆生の中で見るべき、と個人として思う。

われわれが人生の途上でふと出会った人が、われわれの一生を支配し、決定すること
がある。一生に何回かわれわれは、自己の運命を支配する人に出会う場合があるが、
時とするとわれわれは仏とも運命的な出会いをすることがある。
和辻哲郎氏の奈良の古寺の仏像がそうであろうし、亀井勝一郎氏の中宮寺の弥勒菩薩
との出会いもある。その心の変化は井上靖の「星と祭り」にも描かれている。

われわれは、結局仏に対して自己の心でふれるよりほかないのであろう。
我々の個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏に対する
われわれの感動も、日にあらたなのである。

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