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2016年12月9日

2016.12.09

神道、この国のかたちとあわせ

神道、この言葉を聞くと多くの人が眉をひそめるであろう。
このわたしもそうだ。
だが、神社にお参りすれば、これも神道に触れることになる。年忘れの参拝
や地域の祭事は神道とは思わなくとも、いわゆる自然崇拝の形式として日常
習慣として触れている。これが一般的な神道だ。さらに、仏教と神道は
不可分の関係では、と最近思う。識者は当然というかもしれないが。

司馬良太郎の「この国のかたち」第5巻には、神道について7つに分かれて
書かれている。これから入ると概観はわかるのでは、と思うが、あまり深く考えず
一度仏教と神道について眼を通すのもおもしろい。
ちなみに、この巻には鉄についても5つほど書かれており、鉄と神についての
関心はここからも始まったものだ。

そろそろ正月も近くなり、少し考えてもらいたいものだ。

1.この国のかたちより
神道1の講に以下のようなことが書かれている。

神道に、教祖も教義もない。
たとえば、この島々に古代人たちは、地面に顔を出した岩の露顕ひとつにも
底つ磐音の大きさを想い、奇異を感じた。
怖れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬ
ようにした。それが、神道だった。
むろん社殿は必要としない。社殿ははるかな後世、仏教が伝わってくると、
それを見習ってできた風である。
三輪の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐形の丘陵そのものが、古代
以来、神であり続けた。
ここに、唐破風造りの壮麗な拝殿ができたのは、ごく近世(江戸中期)
のことにすぎない。

このように、自然をもって神々としてきた日本人が、仏教が渡来したとき、
従来の神々が淡白すぎ、迫力に欠けるとことを思わざるを得なかった。
仏教渡来のことは、「日本書紀」第19の欽明記13年(552)にある。
百済から金銅の釈迦像一体と経論、仏具などがもたされた。贈った側の使者が
「この法は、周公、孔子も知り給わなかった」と重々しく言上した。
「福徳果報ををなす」とも言った。
本来空であるべき仏教について、いきなり現世利益を説くのは笑止かと思えるが、
今更6世紀の外国人に文句を言ってもはじまらない。

それ以上に当時の日本人をおどろかせたのは、彫刻だった。
6世紀と言えば、古墳に納めるための埴輪がしきりに生産されている時代である。
その程度の古拙な塑像しか持たなかったこの時代に、生けるがごとき人体彫刻
が、釈迦像のかたちをとってもたらされたのである。しかも、鋳銅に金メッキが
ほどこされていた。金メッキをみたのも、この時がはじめてであった。
「西蕃のたてまつれる仏の相貌かお、端厳きらきらし」
と、欽明天皇の驚きの表現が記されている。
ついでながら、釈迦のころの仏教には仏像がなかった。

仏は上、神は下であった。そういうたかだかとした態度であちこちの有力な神社に
(気比神社など)祭神を済度するための神宮寺がつくられた。そのことで、
神は没落を免れた。
ここに、八幡神と言う異様な神が現れる。、、、、、

聖武天皇は仏教を持って立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きをよろこび、
天平10年に宇佐境内に勅願によって弥勒寺を建立させた。
これが神宮寺の始まりになる。さらに聖武天皇が大仏を鋳造し、東大寺を建立した時、
八幡神はしばしばこの大事業のために託宣した。聖武天皇は大いによろこび、大仏殿の
東南の鏡池のほとりに東大寺の鎮守の神として手向け山八幡宮を造営した。
神社が寺院を守護したのである。謂わば、同格にちかくなった。これが平安朝に入って、
展開される神仏習合という、全き同格化の始まりになったといえる。

神と仏、それがわれわれの心根に等しくあるのは、この遠い流れが左右している
のかもしれない。

2.神仏の習合
もう少し他の資料などで神と仏の交わりを見ると

「宮寺の出現を経て、神仏の習合化はさらに進み、10世紀ごろには、本血垂迹説
の成立を見る。本地垂迹とは、本体たる仏菩薩が衆生済度のために、仮に神の
姿となって現れたものだとする説で、垂迹とは「迹を垂れる」という意味である。
その典拠は法華経である。その如来寿量品には、
如来の秘密神通の力により、一切世間の天人および阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏
は釈氏宮を出で、伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿のく多羅さんみゃく
3菩提を得たりとおもえり。然るに善男子よ。我実に成仏己来無量無辺百千万億
那由多劫なり。
との一説がある。ここが根拠となって、天台宗では、釈迦を久遠の本仏と、伽耶城
で成仏した応迹とに分けた。この本迹二門の区分を神仏関係に応用し、本地を仏、
垂迹を神として神仏関係を説明したのが本地垂迹である。
それは仏教一般にみられる化身思想の一種として起こったとみるべきである」とある。

さらには、
「神が木に宿る霊木への信仰が、仏教の影響を受けて。神像という新しい表象形式
を生み出したのである。このような仏教と霊木崇拝とのかかわりは、仏像自体にも
大きな影響を与えた。そもそも仏像を金銅で作ったり、金箔を施すのは、
生身の仏菩薩により近づけようとするためである。なぜなら、仏菩薩のような高次の
存在者は胎内から光を放つと考えられるからだ。仏像の背後にある光背は
胎内から発するアウラあるいは光線を形象化したものである。だから金銅仏とは、
必ずしも施入者の財力の誇示ではなく、仏の実像をリアルに模倣しようとする
追及の現れに他ならない」。

3.様々な神道
この道の専門家によれば、神道にもいろいろな考え方があるというが、我々にとって
意識すべきは以下の2つではないだろうか。
1)古神道。
 「古い」というよりむしろ「根源」といったような意味であり、これは一般民衆の
レベルにあって「理論」などは存在せず、ようするに「自然崇拝」「家・集団組織」
の観念のもとに「祭儀」をおこなう場面のもので、これは宗教という意識をもたせず、
むしろ人々の「生活習慣」となって現れてくるもの。
2) 国家神道。
 この名前でまず理解されるのが、明治以来戦前までの「日本の政治イデオロギー」
で、日本は「神の国」として世界の中心にあり、諸国はすべて日本の支配下に
あるべき、とした「日本国家主義・軍国主義」の思想的基盤である。
この思想に基づいてアジアを一つにまとめようとしたのが「大東亜共栄圏」の思想で、
こうして日本は太平洋戦争へと入って行ったとされている。
そのため大戦後この思想は廃棄され、天皇の「人間宣言」などが行われたのだが、
現在でも「神道」というとこれが意味されることが多く、そのため「神道全体」が
偏った見方をされているという。

この関係の資料などからは、ほかには、大和朝廷の神道、学派神道、教派神道など
様々な分類があるようだがその辺は興味ない。

だが、神道の変化について少し記述しておくと、
「中世に書かれた神道論のなかで、代表的なものが吉田兼倶の著作である。
兼倶は古神道の一派をうけもった卜部氏の出で、吉田神社の神官だった。
吉田兼倶には、「真意大意」「神道私顕抄」などがあるが、こんにちには
虚喝の匂いが濃く、やはり神道には沈黙がふさわしい。
神道と言う無言のものに思想的な体系を与え合た最大の功労者は江戸後期の
国学者平田篤胤だった。かれは古事記を分解して組み見直した。
海のような古事記の記述の中から最高神をとりだし、そのもとでの創造神も見つけた。
創造の機能には「産霊むすび」という用語をつかい、天地創造の世界を展開した。
また、神はあるか、という課題について、かれはのちの民俗学のような方法を用いた。
、、、、
やがて神社が国家神道にてんかんしたとき、平田国学は捨てられた。
国家神道の教義にするにはあまりにも宗教色が強かったのである」とこの国の形でも
述べている。

古神道は、今日まで私たちの生活習慣に深く根を下ろしているものであり、
「生活習慣」であるからなかなか「宗教」とは意識されないのだろう。
私が興味があるのは、宗教的な古神道よりも「生活するものと神とのつながり」だ。
これは日本と言う自然の中ではぐくまれてきたわれわれの心根だと思うからだ。

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