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2016.12.30

私的なグローバリゼーションへの想い

グローバリゼーションという言葉が聞かれ始めたのは、40年以上前であろうか。
当時は、シンガポール向けやオーストラリア向けのシステム開発をしていたから
多少なりとも外とのつながりは多かった。だが、それは会社がグローバリゼーションを
進めていたからというほどのものではない、単に製品、モノを輸出していたにすぎない。
多少の進化はあったものの、多くの企業も含めローカルの意識が高いのでは、
そんな気がする。そのような対応に30年ほど前には、ビジネスでも手痛い目に
あった。

多くの本には、
グローバリゼーションは、国境を越える資本の動きを中心に、政治・経済のレベル活動
で言われているが、同時に、映画、音楽、ファッション、
食文化、などグローバル文化と呼べるような世界共通の消費文化の浸透や、
伝統的な共同体の崩壊、家族制度の変化や共通意識などの文化、
社会の大きな変化でもある
と言っている。

例えば、「グローバリゼーション」という概括的な説明のある本では、

「私は、グローバリティという言葉を用いることを提案する。これは、既存の多くの
国境や境界線の意義を失わせるほど緊密かつグローバルな相互連関とフローが、
経済、政治、文化、環境の面で存在することを特徴とするような社会状態を意味する。
しかし、グローバリティがすでに到来しているとも、あるいは、発展の行くつく最終地点
を表すものとも想定すべきではない。むしろこの概念はすべての社会状態と同じく
新しい社会編成型にとってかわられる定めにある将来の社会状態の1つであることを
意味している。、、、、、
グローバリゼーションという言葉は、ナショナリティが弱まりつつある現在の社会的
状態をグローバリティ状態へと変容させると思われる様な、一連の社会的過程に適用する。
したがって、グローバリゼーションとは、その核心に目を向けるなら、人間同士の
接触の形態が変化していくことに関係している。グローバリゼーションについての確信は、
いずれも、実は、3つの主張を含んでいる。
つまり、第一に私たちは18世紀以降徐々に進展してきた近代のナショナリティの状態から
ゆっくり離れつつあること。第二に、私たちはグローバリティの新たなポスト近代的な
状態に向けて、移行しつつあること、そして第三に、私たちはそこまで到達していない
ということである」と言っている。

さらには、
「グローバリゼーションは不均等な過程である。つまり、社会構造と文化領域のこの
巨大な変容は、世界の多様な場所に暮らす人々にきわめて多様な影響を及ぼしている。
様々な分野の識者が違う視点でその実態を盲人の象を表現するがごとき視点で、
あらわしてるが、その真の姿を誰もまだとらえていない。
さらに3つの特徴がある。
第一に、グローバリゼーションは、伝統的な政治的、経済的、文化的、地理的な
境界を横断する新たな社会的ネットワークや社会的活動の創出と、既存のそれらの
増殖とをともなっている。
その第二の特徴は、社会的な関係、行動、相互依存の拡大と伸長に反映されている。
第三に、グローバリゼーションは社会的な交流と活動の強化と加速を伴う。
様々な技術革新は異常なペースで進行しており、人間生活の社会的地勢を造り変えつつある。
第四に、グローバリゼーションの諸過程は、単に客観的物質的なレベルで生起
しているのではなく、人間の意識という主観的な局面を伴っている。
世界が次第に単一の場に圧縮されるほどことで、人間の思考と行動にとっての参照枠組
はグローバルなものとなる。それゆえ、グローバリゼーションは、共同体という
マクロ的諸構造と人間の個性というミクロ的諸構造の両方に影響を及ぼす」。

特にアメリカの大統領選挙をはじめとして今年の想定外と思われる事態の発生は
その証左の1つなのであろう。

先ほどの本に指摘があるが、グローバリゼーションは重層で輻輳化した動きであり、
まさに「群盲象を評す」の状態なのであろう。
色々な言説が軒を並べているようでもある。これも百家争鳴の感もある。
・経済学者のタイラー・コーエンは著書『創造的破壊』で「グローバル化によって文化の
多様性が失われる」という通説について、社会間の多様性は減少する可能性もあるが、
個々の社会の中ではむしろ多様性は促進されるとしている。
・経営学者・経済学者の高巖は「グローバリゼーションに関して、
グローバリゼーションそのものが貧困問題を解決する
グローバリゼーションによって貧困問題はより深刻化する
という2つの見解がある」と指摘している。
・経済学者のジェフリー・サックスは「グローバリゼーションは、貧困問題の解決に役立
ってきた」と指摘している。サックスは、富はゼロサムゲームのように誰かが大き
な富を得たからといって貧しい者がより貧しくなるわけではなく、むしろグローバリゼ
ーションが貧困解消の一助となっているとしている。
例えば、サックスは著書「貧困の終焉」で「グローバリゼーションが、インドの極貧人口
を2億人、中国では3億人減らした。多国籍企業に搾取されるどころか、急速な経済成長
を遂げた」と指摘している。
・ジャーナリストのトーマス・フリードマンは著書「フラット化する世界」で、地球上に
分散した人々が共同作業を始めインド・中国へ業務が委託され、個人・各地域が地球相
手の競争力を得ている、あるいは貢献しているとしており、紛争回避にもつながってい
るとしている。

日本社会もグローバリゼーションと聞いてから、40年以上の時間経過を伴っているが、
経済的にはともかくも本質的な日本社会、文化の変化は起こっているのだろうか、
そのままなのであろうか、個人的には倫理面、文化面は過去のよき時代を受け継いでいって
もらいたいものだ。
そんな時に思い出されるのが、以前読んだ「銃、病原菌、鉄」の一文だ。

「文化の特異性についていえば、世界には様々な文化がある。
そして本書で事例を含めてのべたように環境の違いによって起こった文化的なちがいもある。
しかし、大切なことは環境とはまったくかかわりのない文化的な要因がどれほど
重要な役割を果たしたかについて考えてみることである。取るに足りない特異な理由で
一時的に誕生した特徴がその地域に恒久的に定着してしまい、その結果、その地域の
人々がもっとも大きな文化的特徴を持つようになってしまうことも起こる。
タイプライターやカースト制などの事例からも、環境とは無関係な文化的な特異性が
当初持っていなかった影響力を徐々に獲得し、長期間持続するものに発展しうることを
示している」。
また、
ジョン・グレイの「グローバリズムという妄想」に面白い一文がある。
グレイは日本が幕末維新で開国したことを残念に思っているようで、江戸社会こそは
「ゼロ成長経済が繁栄と文化生活を完全に両立させた希有な例」だとみなしていた。
たしかにゼロ成長モデルであり、庶民文化などの隆盛もあった。
さらには、日本には輸出不可能なものがあり、そこにこそ日本の文化的持続性がある
と言っている。やたらに文化の海外進出など考えないほうがいいというのだが、これも
1つの考え方なのであろう。

「グローバリゼーション」の一文は私的にも望む姿である。
世界に強力な画一化傾向が存在すると認めることと、世界に現存する文化的多様性が
失われる運命にあると主張することとは、まったく別のことがらである。実のところ、
幾人かの有力な批評家の中には、グローバリゼーションを新たな文化的表現のかたちと
結びつけ、違う動きを示唆するものもいる。たとえば、社会学者のローランド・ロバートソン
は、文化のグローバルなフローがしばしばローカルなニッチ文化を再活性化させるという。
したがって、ローカルな相違や独自性は画一化をもたらす西洋的な消費主義勢力の
ために完全に失われるわけではなく、独自文化の配置状況を創造するなかで、むしろ依然として
重要な役割を担っている。ロバートソンは、文化のグローバリゼーションは常にローカルな
脈絡において生起すると論じて、文化的画一化の仮説を否定し、その代わりに、
グローカル化、グローバルとローカルとの間の文化的な借用を特徴とする、複合的な
相互作用、について語る。その結果として現れる文化の「ハイブリッド性」を画一性ないし
差異性の明確な顕在化とみることはできないのである。、、、
文化的境界を越えて生活が営まれ行為がされるという現代の経験は、伝統的な意味の
喪失と新たな象徴的表現の創造をともにもたらす。帰属の感情が再構築され、それは
特定の場所に限定されない感覚と、不安定な緊張状態のなかで共存する。
国民共同体という古い概念はグローバルな想像力の高まりによって補完されつつある
ように思われる。

あえて言えば、仏教も数1000年のグローバリゼーションの1つであろう。だが、
それを日本という風土、土着の文化とうまく組み合わせ日本仏教として、今私たちの
生活の1つとなっている。
40年前に唐木順三が書いた一文が思い出される。
「和辻哲郎は日本文化の特性を「重層性」という言葉で説明している。
「超克せられたものを超克せられたものとして生かしていくのが日本文化
の1つの顕著な特性である。日本人ほど敏感に新しいものを取り入れる民族は
他にはいないとともに、日本人ほど忠実に古いものを保存する民族もほかに
ないであろう」(続日本精神史研究の日本精神の章)
この重層性も一を選んで他を捨てるという「あれかこれか」ではなく、やはり
「あれもこれも」である。事実、日本文化は今日においても重層性の様相を
呈している。然し重層性を重層性として認めるということは文化鑑賞者の立場
であって、創造者の立場ではない。文化の享受者、愛好者の立場といってよい」。
(日本人の心の歴史)

「フラット化する世界」は経済面から政治、社会面へとその広がりはさらに広範囲に
なっていくであろう。それゆえ、個人の意識化とその文化的基盤がますます必要とされる。
まだその知識や意識の点では、わずかなものであるが、少しづつ身に入りつつある
日本文化、日本人としての倫理観は私の立ち位置をさらに深めているように思う。
「他を知りて己を知る」、グローバリゼーションをそのように感じて行きたい。

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