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2016.12.23

心の整え方ーマインドフルネス、坐禅

今は心にそれほどの切迫感がないので、やめているが、10数年前ポジティブ心理学の
実践的やり方に触れてから、自分なりのやり方で、ある程度の心のバランスと意欲が
高められたと思っている。坐禅は、最近の肉体的な衰えから中々に難しく、その昔頑張った
頃の力はないし、「只管打坐」の実践は多くの人にとっても中々対応できないのでは、
と思う。
トランスパーソナルという心理学がある。
トランスパーソナルは、西洋科学(心理学)と東洋宗教(特に禅)の統合という面をもっている。
最終的に目指す心理状態は、悟りなのだ。マインドフルネスもポジティブ心理の一つの手法
である以上同根のレベルであろう。
例えば、マインドフルネスの実践手法と道元が記す坐禅儀のやり方はかなり似通っている。
だが、大きく違うのは、坐禅は己自身が最大の力と言っているが、ポジティブ他西洋心理学は
他者からの支援を大きな力としてとらえている。そのため、多くのセラピー的な項目を
明確にして、意識行動の細目化と定量的な把握の手法が多く用いられている。
禅では不立文字といい、その実践を大切にしているが、詳細な行動規範もある。
日常のすべてが修行という根底的な規範があり、食事の仕方から寝ることまでも統制iしている
ようで、今の自分には少し難しい。
だが、浅学非才の私にとっても日常的行動の中で、心の平静は保ちたいものだ。

まずは、自然とのつながりを持つ
  外に出かける。散歩やジョギング、スポーツや遊び
  ガーデニングに取組んだり、動物を育てる
  アウトドアスポーツをする
自然は我々をそのまま受け入れ癒してくれる。
これは、道元の山水経をはじめとして、ポジティブ心理学やいくつかの実践的心理学、の中でも
必須な行動として推奨されている。

1.マインドフルネス瞑想
マインドフルネスとは
インドフルネスという言葉は、行為を指して使われることもあれば、精神状態を指す場合も
ある。ここでは、集中力を研ぎすます脳のトレーニングとして、マインドフルネス瞑想という
「行為」として考える。
これには大抵の場合、いつもより呼吸を意識するという方法をとり、こうして鍛えた脳は、
瞑想後も長い間、マインドフルな「状態」でいられるようになる。
マインドフルネスの状態にある時は、自分のまわりで起こっていることに、意識を完全に
集中できている。
なお、後述するように、マインドフルネスの実践には、瞑想のほかにもいくつか別の方法
がありし、瞑想にもたくさんの種類がある。ポジティブ心理の瞑想でも、具体的なやり方が
いくつも記されている。要は、自分に合うものを自分で探し出すということなのだろうか。

1)マインドフルネスの基本
マインドフルネスとは、単純に言えば、その一瞬に全力を傾けること。
一般に言われる、マインドフルネスについては、
「今という瞬間に、余計な判断を加えず、自分の人生がかかっている
かのように真剣に、意識して注意を向けること」
と定義している。
シンプルな定義だと思うが、現代の混沌とした世界では、何かに100%没頭すること
など容易ではない。それは、同僚から同じ話を聞かされて、もう3度目になるという
時でも、ほんのわずかでさえ気をそらさずに聞き入ることや、皿洗いや「バス停までの道」
のような身近な状況でも五感をフル稼働させることを意味する。

マインドフルネスの考え方を食事に当てはめれば、五感をフルに使いながら、
一噛み一噛みを意識してゆっくり食べることになり、この食べ方を実施した
被験者たちのカロリー摂取量は、空腹時でさえ、対象グループに比べて低く
抑えられた、との研究成果もある。
残念ながらマインドフルネスは、直ぐにその成果が出るものではない。
けれども、徐々に高めていくことはできる。
マインドフルネスを実践するには、どんなに忙しくても、どんなにストレスの
たまる状況でも、いつも意識を研ぎ澄ましていなくてはいけない。
例えば食事中であれば、フォークを置くたびに、「一噛み一噛み味わって食べる」
という目標を思い出すようにするとか、職場でなら、「1時間ごとの時報」など
のリマインダーを設定して、ちょっと休憩をはさむと良い。
ほかの実践方法を見ても、感謝の心を持つ、物事をコントロールしようとしない、
など、意外に簡単なものがあり、ポジティブ心理では、他にも様々な手法を
考えている。

2)マインドフルネスの実践に向けて
具体的には、以下の6つのステップがある。
①背筋を伸ばして座り、足を組んで、視線を下に向ける。
②自然に浮かんでくる思いと、人為的な考えとを区別する。
③繰り返し過去を思い出したり、未来への不安で気が散るようなら、
それそれを最小限に抑えるために、こう考え直してみる。
「過去も未来も、現在の私の心の中の想像にすぎない」。
④瞑想中は、ちょうど船の「錨」のように、呼吸が集中をつなぎ止めてくれる。
⑤息を吐くたびにひとつ数を数え、21まで数えたらまた1に戻ります。
⑥思いが浮かんでくるのを無理に抑えようとせず、心を自然に任せる。
この一連の手順は、マインドフルネス瞑想として知られており、
マインドフルネスを育む最高の方法のひとつ。
これは一種の脳のエクササイズで、普段の生活を送りながらでも実践できる
(続けやすくするひとつの戦略は、シャワーや犬の散歩など、毎日の日課の
最中にこの訓練を行うこと)。

2.道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に四大軽安、
精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」
と言っている。
いずれもが、どこまで理解をできるかは別にして、心の安寧を得る一つには違いない。

「正法眼蔵随聞記」には、
「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。
学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人
よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき
ではない。」と言っている。
坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの世界をありのままに
見ることが成就するであろう」というのだ。
覚りを得るなどと言う大袈裟なことを考えずに、日頃の自分を見直し、次への
活力とするだけでも良いのではないだろうか。

道元の坐禅のやり方と昨今企業などでも使われているマインドフルネスのやり方を
見ることで、少しでも落ち着いた日々を送りたいものだ。
ちなみに禅を体験的方法論にみたてたり、論理学の1つとしてとらえようとすること
があるようだが、そのようなアプローチをする知識も力量も私にはない。
あくまでも自身を見直す手法の1つとしてみていたい。

1)坐禅儀より
坐禅の悪い所は、一般の人に何か大変なもの、苦痛が伴うものという怖れを引き起こす
ような導きかたをしているからではないだろうか。
正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、雨露を
もらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下にあてなさい。
風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。
また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的な
ことから日常茶飯事のことまで追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で
壁に向かい坐禅することで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。

正法眼蔵 第11、坐禅儀 (ざぜんぎ)より
参禅は坐禅なり。
坐禅は静処よろし。坐蓐あつく敷くべし。風烟をいらしむることなかれ、雨露をもらし
むることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛の上に坐し、盤石の上に坐する蹤
跡あり、かれらみな草をあつく敷きて坐せしなり。坐処あたたかなるべし、昼夜暗から
ざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
所縁を放捨し、万事を休息すべし。
善也不思量なり、悪也不思量なり。
心意識にあらず、念想観に非ず。
作仏を図することなかれ、坐臥を脱落すべし。

飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふが如く坐禅を好むべし。黄梅山の
五祖、異なる営みなし、唯務坐禅のみなり。坐禅のとき、袈裟をかくべし、蒲団を敷く
べし。蒲団は全跏に敷くには非ず、跏趺の半ばよりは後ろに敷くなり。然れば、累足
の下は坐蓐にあたれり、脊骨の下は蒲団にてあるなり。これ仏々祖々の坐禅のとき坐す
る法なり。
あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す。
結跏趺坐は、右の脚をひだりの股の上に置く。左の足を右の股の上に置く。左の足を右
の股の上に置く。脚の先、各々股と等しくすべし。参差なることえざれ。
半跏趺坐は、ただ左の足を右の股のうへに置くのみなり。

衣衫を寛繋して斉整ならしむべし。右手を左足の上に置く。左手を右手の上に置く。
二つのおほ指、先あひささふ。両手斯くの如くして身に近づけ置くなり。二つのおほ指
のさし合わせたる先を、ほぞに対して置くべし。正身端坐すべし。左へそばだち、右へ
傾き、前にくぐまり、後ろへあふのくことなかれ。必ず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべ
し。舌は、かみのあぎにかくべし。息は鼻より通ずべし。唇・歯あひつくべし。目は開
すべし、不張不微なるべし。
斯くの如く身心を調へて、欠気一息あるべし。
兀々「ごつごつ」と坐定して思量箇不思量底なり。
不思量底如何思量。
これ非思量なり。
これすなはち坐禅の法術なり。
坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり。

形式的には、先ほどのマインドフルネスのやり方と大きな違いがあるようには思えない。
道元は、生活の1つ1つが修行であり、覚りへの道と考えたので、食事の細かい作法まで
決めている。だが、心根に安寧を求めるだけであれば、坐禅のやり方を含め、すべてを
「坐禅儀」にある事細かな作法をすることが重要とは思えない(浅学非才だろうが)。

もっとも、以下のような道元の教えもある。
「すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。常に初心の覚りがあって上での
修行である、初心の坐禅修行はそのまま本証の全体なのだ」。
さらに、
「一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような知覚分別
も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、坐禅の修行
の妨げにはならないのである。ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を
包括せしめ、あらゆる繋縛を抜け出て生仏一如と修行するものである。
この生仏一如という重大な関門を超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、
諸境界の節目にも関わりはなくなるのである」。

こんな言葉を聞くと、難しさの思いが先に立ち、中々に前に進めない。
我が凡庸を嘆くのみか。だが、覚りまで行かなくとも、「心の整え」が出来れば、個人的には
満足だ。

3.ポジティブ心理より
様々な自己確認評価手法と同様のものがある。例えば、具体的な項目をタル・ベン・シャハー
が学生向けに、多くのワークの実践方法を述べている。
本来の自分を知るとは、本来の自分に戻る時間を持つこと。信頼する友人に気持ちを
語ったり、心に浮かぶあらゆることを日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。
以下の文章を思いつくままに書く。
例えば、
・自分の気持ちにあと少し正直になるためには、
・自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、
・あと少し本来の自分に戻るためには、
・文章をジックリ見直し、実行すること。
・行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。
・知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。

「ただ歩くこと」を習慣とするのも重要といわれている。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の息遣い、静けさ、森の生命力など、
五感を最大限に使い感じる。

これは、山水経に通じている。
古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質が現れる。
山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、祖師の聖を現している。
山水はそのまま仏経である。

ポジティブの中でも「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。
以下の手順の実践で、今、自分が感じていることを感じるままに受け入れること。
①楽な姿勢で座る。②深く域を吸い、ゆっくりと吐く。③自らの感情、感覚に集中する。
④自分を許し、あるがままに自身を解放する。⑤想像の中で、様々な感情を味わう。

正法眼蔵から見る坐禅の世界とポジティブ心理にて実践される手法は異なる文化の中で
育った人間修養であり、自己発見である。
坐禅、マインドフルネスいずれもが数えるほどの体験でしかなく、その浅はかなる所為である
事は認識してはいるものの、その根底は一つの流れの中にあるように思える。

トランスパーソナル心理の主張にもそれらが主張されている。
それは、次の3つのポイントになるそうだ。
①人間の成長は、自我の確立、実存の自覚、自己実現などの言葉で示される
  <人格=個人性=パーソナリティ>の段階で終わるのではなく、他者・共同
  体・人類・生態系・地球・宇宙との一体感・同一性(アイデンティティ)の
  確立、すなわち<自己超越>の段階に到達することができる。
②人間の心は生まれつき、構造的にそうした成長の可能性をもっている。
③その成長は適切な方法の実践によって促進できる。
 周囲に流されることなく、自ら判断し、自分の命の、かけがえのないすばらしさ、愛
しさを知っているからこそ、他者の命をも尊重することのできる、理性、批判力、独立
性、自律性といった、個人的なもっとも正当で生産的な面を充分に包み込みながら、そ
れを越えていくこと、”自己放棄”ではなく”自己確立”を経たうえでの”自己超越”
(トランスパーソナル)である。

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