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2017.03.31

時間感覚その2

「時間」は本来人間生活の便宜のためのものが、いつしか万能の基準とみなし、
動物や植物の一生が短いとか長いとかいうようになった。だが、そこには大きな
間違いがある。それは、彼らの持つ生きてい行く中での濃密さを理解しいないからだ。
万物の生きることの長短を人間側の物差しで決めることはできない。さらに、それは、
人にも同じことが言える。人それぞれの人生の長短も時計の針ような時間で決まるもの
ではないのだろう。多くの大事を成した人の遺文や言葉にはそれが多くみられる。
今回の大病は貴重な体験でもあった。できれば、自身の時間の使い方、人生への新しい
向き合い方へのキッカケとしたいものだ。

そんな朧とした考えの中、徒然草の一文が心に浮かぶ。もっとも、現代訳でないと
中々兼好の心持はわからないので、悪しからず、その文と合わせ思う。

「7段:あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙(けぶり)立ち去らでのみ住み果つる習
ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を
知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮すほどだにも、こよなうのどけ
しや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過す(すぐす)とも、一夜の夢の心地
こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を持ち得て、何かはせん。命長ければ辱(はじ)
多し。長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽
(ひ)に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心の
み深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
[現代語訳]

あだし野の墓地の露が消えないように人間が生き続け、鳥部屋の煙が消えないように人
間の生命が終わらないのであれば、この世の面白み・興趣もきっと無くなってしまうだ
ろう。人生(生命)は定まっていないから良いのである。

命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。蜻蛉(かげろう)のように一日で死
ぬものもあれば、夏の蝉のように春も秋も知らずにその生命を終えてしまうものもある。
その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように
思う。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きて
も、一夜の夢のように短いと思うだろう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老人
になるまで長く生きて、一体何をしようというのか。漢籍の『荘子』では『命長ければ
辱多し』とも言っている。長くても、せいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくて良いの
である。

四十以上まで生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちも無くなり、人前に
哀れな姿を出して世に交わろうとするだろう。死期が近づくと、子孫のことを気に掛け
ることが多くなり、子孫の栄える将来まで長生きしたくなってくる。この世の安逸を貪
る気持ちばかりが強くなり、風流さ・趣深さも分からなくなってしまう。情けないこと
だ。」

40歳からはすでに遠く20年以上を生きながらえてはいるが、「老醜」にならないように
心がけている昨今だ。その1つは以前にも言った「正法眼蔵の仏経の巻」にある。
「、、、朝に成道し夕べに死を迎えた諸覚者にあっても、彼に仏教の本質が欠けている
ことはない。、、、、」。80年生きても、1日の成道がなければ、無意味な時間となる。

だが、この取り返しのつかない直線的な時間感覚とはまた違うもう一つの考えも重要なのだ。
もう1つ、「円環的時間」といって、もどってくる時間がある。わたしたちは、
「覆水盆に返らず」的な、いわゆる直線的な時間を生きているけれども、他方では、
同じところに舞い戻ってくる円環的時間も生きている。つまり、世界には2つの時間が
あって、両者はお互いに補い合っていると考える。
この時間に対する意識は、特に日本人強いといえるのでは。それは、春夏秋冬と言う四季
のめぐりが非常に濃厚に生活を彩っていて、戻ってくる時間があるということを
受け入れやすい思考や感性が培われているからだ。さらに、仏教に代表されるわれわれの宗教観
もそうで、8月になれば必ずお盆が巡ってくるように、同じことが春から始まって順に
めぐってきて、それを繰り返すという、いわば取り返しがつく時間をもう1つもっている。
私たちは、例えば、おじいちゃんは子に、子は孫にと世代を引き継ぐなかで、生きて死ぬ
という人生の繰り返しを託す形で、子の中に孫の中に自分も生きてい行く。わたしたちは
この巡りくる時間、繰り返し反復し、したがって取り返しのつく時間、あえていえば無始無終
な時間の連環の感覚を持っている。さらにそれを突き詰めたのが、輪廻転生でもある。

山折哲雄氏の本の中に、輪廻転生の一例を書いた文がある。
「中絶した子供の「生まれ変わり」と考えている水子供養者がいたことである。
「生まれ変わり」という輪廻転生イメージに結びついた罪障感が、合法的な中絶行為
と表裏一体をなすような形で浮上している。、、、、
考えてみれば、このような輪廻転生の考えは我が国においても長い歴史があった。
大別してそこには、2つの大きな流れがあったのではないだろうか。
1つは死んだのちに人間の魂が山や海に行くという信仰である。
その後、祖霊や神になってこの世を訪れるという観念が加わった。もう1つが
仏経の来世観によってもたされたもので、死後おもむくべきところとしての
地獄や浄土の信仰が広まった。以上の2つの流れが重なり合い、死者の成仏を
願って行う先祖供養が形成されていった。霊魂の行方が「六道」といった形で
細かく分類されたり、多彩にイメージされるようになった。
そうした霊魂観が比較的濃厚だった近代以前の社会では、中絶がそれほど大きな
精神負担にはならなかったようである。
たとえ水子として流されても、ふたたび生まれ変わる可能性が共同体の中で
しんじられ承認されていたからである。」
共同体の中での円環的時間発想が継続性を保っていたのであろう。これは組織を
長らえていく上での必要な智慧であり、単に直線的な時間発想では、難しい。

このように直線的な時間と円環的時間を「緊張と安寧」と言う心根でとらえると
個人、集団としての行動の幅が広がるのではないだろうか。
すなわち、直線的な時間の中では、如何にその流れに濃密な自身を置き置くかが重要である。
時間への対処には、「緊張」が求められる。それは多分に個人的なレベルでの感覚が
主となろう。だが、円環的時間の中では、四季を迎えるや輪廻転生へ身を置くにしても、
個人レベルではあまりできない、受け身的な対応が主体となる。個人としては、心根を
緩やかにしてその変化をただ受け入れることが肝要となる。円環的時間感覚は、個人レベルでも
必要であるが、先ほどの水子の例にもあるように、共同体を円滑に結びつけるにかなり有効な
時間感覚となる。それは共同体と個人に「安寧」をもたらす。
いずれにしろ、自身が或る程度制御し、意識化できる時間と群れとして生きる人間には
己の意志とは別な流れがありそれに身をゆだねることが必要な時間感覚、この2つの
時間の調和を保ち、自身の在り方を考える。それが「時間」への対処なのであろう。

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