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2017.04.14

和辻哲郎「古寺巡礼」との付き合い その2


まさに彼も己の心の移ろいを感じていたのである。
しかし、初版を出すまでにも、大分に手直しがあったという。己の素直な感動が多分、
客観的な表現になったのでは、と勝手に思うが、それでもなお、彼のこの古寺巡礼の
日々に接した熱い思いは文面ににじみ出ている。それが多くの人に読まれ、
これ等の古寺を訪ねさせ、各人の生き方にまで影響を与えた源ではないのだろうか。

さらに50代半ば以降、西国33か所巡りなどで、仏像を拝観する中で、「なぜ、人は
仏像に魅かれるのであろうか?」それが今日まで、度あるごとに心の隙間から
漏れ出てくる疑問であった。聖林寺の十一面観音の記述にもある「神々しい威厳と
人間のものならぬ美しさが現されている」からであろうか。畏怖と崇敬の念が
私やほかの人々にそれを強いるからなのだろうか。
それを感じるのが、薬師寺金堂本尊の薬師如来の記述であろう。

「まずあの脇立ちのつやつやとして美しい半裸の体がわれわれの目に飛び入ってくる。
そうしてその巨大なからだを、上から下へとながめおろしている瞬間に、柔らかくまげた
右手と豊かな大腿との間から、向こうにすわっている本尊薬師如来の、「とろけるよう
な美しさ」を持った横顔が、また電光の素早さでわれわれの目を奪ってしまう。われわ
れは急いで本尊の前へ回る。そうしてしばらくはそこに釘づけになっている。ちょうど
そこに床几しょうぎがある。われわれは腰をおろして、またぼんやりと見とれる。今日
は夕方の光線の工合が実によかった。あの滑らかな肌は光線に対して実に鋭敏で、ちょ
うどよい明るさがなかなかむずかしいのである。
 この本尊の雄大で豊麗な、柔らかさと強さとの抱擁し合った、円満そのもののような
美しい姿は、自分の目で見て感ずるほかに、何とも言いあらわしようのないものである。
胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光だけでも、われわれの心を動か
すに十分であるが、あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩
から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和の
うちに安置する大らかな結跏けっかの形といい、すべての面と線とから滾々こんこんと
してつきない美の泉を湧き出させているように思われる。、、、、、、、
その心持ちはさらに頭部の美において著しい。その顔は瞼の重い、鼻のひろい、輪郭の
比較的に不鮮明な、蒙古種独特の骨相を持ってはいるが、しかしその気品と威厳とにお
いてはどんな人種の顔にも劣らない。ギリシア人が東方のある民族の顔を評して肉団の
ごとしと言ったのは、ある点では確かに当たっているかも知れぬが、その肉団からこの
ような美しさを輝き出させることが可能であるとは彼らも知らなかったであろう。あの
頬の奇妙な円さ、豊満な肉の言い難いしまり方、――肉団であるべきはずの顔には、無
限の慈悲と聡明と威厳とが浮かび出ているのである。あのわずかに見開いたきれの長い
眼には、大悲の涙がたたえられているように感じられる。あの頬と唇と顎とに光るとろ
りとした光のうちにも、無量の慧智えいちと意力とが感じられる。確かにこれは人間の
顔でない。その美しさも人間以上の美しさである。
 しかしこの美を生み出したものは、依然として、写実を乗り越すほどに写実に秀でた
芸術家の精神であった。」

和辻氏は今回の旅を以下のように語っている。
「われわれが巡礼しようとするのは、「美術」に対してであって、衆生救済の御仏
に対してではないのである。たとえわれわれが或る仏像の前で、心底から
頭を下げたい気持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりした
としても、それは恐らく仏像の精神を生かした美術の力に参ったのであって、宗教的に
仏に帰依したというものではない。宗教的になりきれるほどわれわれは感覚
を乗り越えてはいない。」

しかし、単に「美術の力に参った」だけなのであろうか、彼のこの本に書かれている
ことは、われわれが仏像と言うものに額づくときの一般的な心根を表しているのではないのか。
そこには、美術的に感動したとか、宗教的に感じ入ったからというようなものではなく、
無意識にある生きていることへの証があるだけなのだ。
仏像はそれを具現化しているだけだ。そしてその根底の意識を若い和辻氏が熱い思いで
書き綴ったから、それに我々は(私だけかも?)共感を得たのではないだろうか。
それは、また「なぜ、人は仏像に魅かれるのであろうか?」の答えの1つなのかもしれない。

そして、彼の最後の想いが書かれている以下の文をもう一度振り返り、その心根に沿う
ことが必要な時代でもある。昨今、時にそれを思う。

「、、、がこれらの最初の文化現象を生み出すに至った母胎は、我が国のやさしい自然で
あろう。愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせいずこの自然とも同じく底知れぬ
神秘を持ったわが島国の自然は、人体の姿に現わせばあの観音となるほかはない。自然
に酔う甘美なこころもちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、その根はあ
の観音と共通に、この国土の自然自身から出ているのである。葉末の露の美しさをも鋭
く感受する繊細な自然の愛や、一笠一杖に身を託して自然に融け入って行くしめやかな
自然との抱擁や、その分化した官能の陶酔、飄逸ひょういつなこころの法悦は、一見こ
の観音とはなはだしく異なるように思える。しかしその異なるのはただ注意の向かう方
向の相違である。捕えられる対象こそ差別があれ、捕えにかかる心情にはきわめて近く
相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た子孫に同じき
美しさを賦与した。わが国の文化の考察は結局わが国の自然の考察に帰って行かなくて
はならぬ。」

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