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2017年5月19日

2017.05.19

自然と人とのかかわりとその想いその5

志賀町史という旧志賀町時代にまとめられた立派な本がある。そこにある
「志賀町の四季」からは、この地の自然の豊かさが感じられる。
「本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人
によって、歌われてきた。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや

楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。」
そして、ここに記述されている自然は今もなお私らの目の前に変わらぬ姿を見せている。

勝原文夫氏は「農の美学」という本の中で、景観を「探勝的景観」と「生活的景観」と
に分けている。その上で、前者は旅行者的審美の態度によって「探勝的風景」となり、
後者は定住者的審美の態度によって「生活的風景」となると考えている。つまり、外か
らやってきた旅行者が風景の美を探ったものが前者であり、農村の中で暮らす生活者が
自分たちのいる風景に美を探り出したのが後者だという。
また、木股知史氏は「<イメージ>の近代日本文学誌」の中でこの勝原氏の図式を「武蔵野」
に援用し、こう述べている。「国木田独歩『武蔵野』に始まる田園風景描写は、旅行者的
審美の態度による生活的景観の発見という性格をもつものであった」。「旅行者的審美
の態度が生活的景観に加わること」は、勝原氏によれば「本来的なもの」ではないが、
しかし木股氏はこれこそ『武蔵野』に見られる現象であると言う。
多分、このことは今の私にも当てはまる。風の人である私にとっては、やはり「外」の視点
からこの地を見らざるを得ない。たかだか20年の歳月では、「生活的景観」として
見ることは難しい。

だから、「ただの風景」として見つめたことがより重要なのかもしれない。そこにこの土地の
良さを感じる強みがある。だが、大正から近代化に伴う自然破壊を言われ続けてきた人の
あくなき破壊は今もなお続いている。
例えば、昭和の初めのこの志賀の地域の生活や人の想い、湖西線開通、小野の大規模な新興住宅地
のローズタウンの誕生、幾多の土地開発など変貌していく湖西の姿を描いたクレソン(藤本恵子)
という本にも
以下のような記述が見られる。
「、、、1人の女の子に、いつもきれいな琵琶湖が見られるから幸せやねと言われたのだ。
ここ数年の、琵琶湖の汚れが極まることへの警告と、琵琶湖を守ろういう熱い盛り上がりの
圏外にいたのだろうか。冬夫とて何一つ具体的な行動に参加しなかったが、だが心情的には
始終、飛沫を浴びてきたし、見つめてきた。2年ほど前から、琵琶湖の病状が出てきた。
黄緑色の水が、春には赤褐色に染まった。プランクトンによる、赤潮の発生だった。
宅地開発と工場建設が進むにしたがって、病状も重くなった。工業化、近代化が湖の浄化機能を
こえたのだ。琵琶湖はたしかに喘いでいる。、、、きれいな琵琶湖なもんか、死に体や。
湖は生きたがってるで。冬夫はじりじりしたまま、うなだれた。」
今見える美しい群青色の琵琶湖は、かって赤く沈澱したため池になったのだ。昭和42年
5月初めての赤潮発生であった。そして、それは多くの琵琶湖を愛する人々によって救われ、
「生活的景観」が守られた。

また、全国的に見ても「日本人の心の歴史」にある朝日新聞の記事の事態があちらこちらで
その無残な姿をさらし始めていたのであろう。
「昭和45年4月13日の朝日新聞は「春は来た、どこに来た」という題の大きな社説
を載せた。今その要点を拾って写す。
4月、うららかな日差しをうけて日本がこよなく美しく装われるはずの季節である。
然し現実は、陽春という長閑な語感からは遠い。都会の街路樹には、もはや芽を吹く
力もないものも少なくない。春がすみのたなびく山々にも。そのかみの面影は
見られない。無造作に山腹をえぐり取って走る観光道路は、ときにその沿道の
林までも枯らしてしまう。富士山や奈良の大台ケ原の有料道路がなどがそれである。
さまざまな要素が絡み合う中で、自然は急速に破壊されつつある。われわれも、
いつかそれに慣れ、半ば不感症になっている。社会の進歩とか地域開発とかためには、
それも仕方がないのではないか、といった言い方もされる。だが、ほんとうにそうだろうか。
群馬県安中市の亜鉛工場の裏手の丘には、枯れた桑畑、桐の大木、気まぐれに生えた
都しか思えない不揃いの麦、といった風景が広がる。工場で植えた防毒林さえ、
空しく枯れてしまっている。カドミウムの粉塵を含むガスが春の訪れを拒否している
のだ。天日のために暗いのは川崎、四日市だけではない。メガポリスとは青空の
ない街のことかと聞きたくなる。そこでは春風さえもが、鼻を刺す悪臭を運んでくる。
儲かりさえすれば、周りに迷惑をかけても、という企業エゴイズムを指弾する
ことも、もとより必要だ。しかし、公害をもたらす原因となるのはそれだけではない。
最も根本的には、自然に対するものの考え方が間違っているのである。
、、、、
経済成長をたたえ、国民総生産の数字を誇るのもよい。だが、其のGNPから失われた
自然を引き算してみれば、われわれの貸借対照表は、かなり違ったものになるのではないか。
自然の破壊は、そのまま人間の心情の崩壊につながる。「ふるさとのやまはありがたきかな」
とは、人間だれしもの心であろう。その故郷の自然が、はげ山とどぶ川に変わり果てれば、
われわれの心は、その一番深い所で、癒しがたく傷つく。そのような環境で育つ
われわれの子孫の心は貧しく、また、とげとげしいものとなるに違いない。
おそらく日本は、あまりにもゆたかな自然に恵まれすぎたのかもしれない。
われわれはそれに甘えて、自然に暴虐の限りを尽くしてきた。だがそれはもう許されない。
日本の自然は、その人情とともに、まさに荒れ果てようとしているからである。、、、」

ほんの一瞬の出来事のようなスペインやブラジルなどの他国との交わりの中で、自然の様々な
変容に対しての日本人の在り方の違いを感じた。そして、それが文化や生活の違いを形作っている
ということも体感できた。古来よりの日本人の基盤となってきた自然をできる限り後世へ
つないでいきたい、昨今そんな思いが強い。

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