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2017.05.26

集合的無意識、その不可思議とわたし

集合的無意識という人間の奥底にある共通意識の存在を明確にしたのは、ユングである。
彼の「人間と象徴」「個性化とマンダラ」などを読むと浅学非才ながらその存在に
わずかながらではあるが、納得感が生ずる。身近な例で言えば、絵画や造形作品の
美しさにふれた時の人々の反応ではないのだろうか。10数か国それも一刻の訪問では
あったが、各地の風景、情景に接した時の言い知れないつながりや違和感を感じない
その場の雰囲気なのではないだろうか。ゴッシク建築の中で感じる荘厳さへの想いや
仏像に対峙した時のうける印象や感じの差異なき感覚がその1つかもしれない。

ユングはさらに深く人の心の成り立ちまで追求しているが、才なき私はそこまでは無理だ。
だが、集合的無意識を一番近くでそれを感じるのは、やはり仏像を拝する時の心根である。
そしてそれがわたし的には、仏像に皆が魅かれる根本的な要因ではないか、と勝手に
思ってもいる。火影のなかにわずかに忍び込む光を映し出している仏像を拝している
人々の心根には、その一瞬に古代から流れ来たるイメージが見えない糸を手繰りだし
つなぎとめている。そのそこはかとない温かさと絹衣に包まれる様な思いがまたこの場所に
人々をいざない来たる。白洲正子の「十一面観音巡礼」「かくれ里」などに時代を超えた
人気があるのは、その表れの一つでもある。また、神話がその成否はともかくとしてわたしたち
の心根に強く響き染み込むのもそれなのであろう。更には、芳賀日出夫の「日本の民俗」
等にのっている人々の写真が私の気持ちを揺り動かすのも奥底に眠る何十代もの記憶との共鳴
から生まれるのではないだろうか。

ユングの「個性化とマンダラ」に以下の一文がある。
「元型的人格とその行動を患者の夢、空想、妄想を手掛かりにして注意深く研究してみれば、
それが神話的イメージと広い直接的な関係を持っていることを強く感じさせる。
、、、、、
それらの内容を、すなわちそれらの具体的な現れである空想の素材を調べてみると、そこには
多くの太古的「歴史的」な関連が、すなわち元型的な性質を持ったイメージが見いだされる。
この特有の事実から、心の構造の中でアニマとアニムスが位置している「部位」を推論する
ことが出来る。それらは明らかに無意識の中のかなり深い層、すなわち私が集合的無意識と
名付けた、系統的発生的に言って深い層の中に、生きており機能している。この位置づけに
よってそれらの奇妙な性質の多くが説明される。すなわちそれらは遠い過去に属する
未知の心の生を、かりそめの意識のなかへもたらすのである。それは我々が知らない
祖先の精神であり、祖先の考え方や感じ方、彼らが生や世界や神々や人間を経験した仕方である。
この太古的な層があるあるという事実はおそらく、「前世」からの生まれ変わりや記憶が
信じられていることの基礎である。身体は系統的発生の歴史の一種の博物館であるが、
心も同じである。」
ここで言っている「太古的層」がそうなのでろうが、多分それは時の経過の中で、堆積される
層に違いがあるように集合的無意識の少しづつ変容が加えられるのではないだろうか。
私たちは個人と言う特性を持ちつつも、生きている時代の時代精神、所属している集団の
意識も備えているものであり、そういった普遍的意識が想定できる。時代精神という
普遍的意識は、その時代の前の時代を土台にして成り立っているものであるから、歴史の
すべてが普遍的無意識となり、今の問題だけではなく、過去、しかも私たちが生きていない
過去までも、見ていくことが肝要なのであろう。生きていない過去までもわたしたちの
心の底の底に積み重ねられている。そしてそれは今ある自分をさえ支配している。

ユングがこの集合的無意識の存在に気が付いた1つには、曼荼羅があったという。
曼荼羅は仏教の世界観であり、長く続く人の心に安寧を与えてきたことからも、
その存在は納得される。

同じく、「個性化とマンダラ」には以下のような記述もある。
「祭式用のマンダラが常に特別な様式と、内容に関しては限られた数の典型的なモチーフ
しか示していないのに対して、個人のマンダラはいわば無限といえるほどたくさんの
モチーフやシンボル的表現を利用している。それらを見れば容易に分かるように
それは個人の内的外的世界体験の総体を表現しようとしているか、それとも個人の
根本的な内的中心点を表現しようとしている。その対象は自我ではなく、自己である。
自我は意識の中心にすぎないのに対して、自己は心の全体そのものであり、
意識と無意識の両方を含んでいる。個人のマンダラがきまって明るい半分と暗い半分
とに分割され、それぞれの典型的なシンボルをともなっていることが稀でないのは
まさにそのためである。この種の歴史的な例はヤコブ・ベーメの論文「こころに
ついての40の問い」のなかにあるマンダラである。それは同時にそういう形に
描かれた神の像である。」

この本に載っている様々なマンダラの図は、視点を変えるとこのようにも考えられる、
と言う点で中々に面白い。もっとも、マンダラ図に対するユングの解説をそのまま
受けいるには、抵抗のあるものもあるが。

更には、ユングが集合的無意識を提唱するはるか以前から仏教の考えの中に、
唯識思想という考えがあった。それは、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)
に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。仏経書によれば、
八識説の概念は、まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識であると考える。
感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識
(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。
これは総称して「前五識」と呼ぶ。その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので
「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて六識
または現行(げんぎょう)という。その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が
想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は
意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。さらに
その下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識
を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると
思っているものも生み出していると考えられている。
この阿頼耶識(あらやしき)が集合的無意識に当たるのであろう。そして、仏教では
阿頼耶識(あらやしき)を如何に自身の行為、行動に活かしていくのかが、課題として
捉えていることが面白い。例えば、「人生で何が一番大切か」と言うことを絶えず
意識している人は少ないが、一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちにそのような価値観
によって支えられ人生を作って行く。しかもそれは、単なる個人レベルではなく、もっと
広い共通意識をベースとしている。
とはいうものの、個人的には、以下のような意識行動が必要なのであろう。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る


更には、ビルやアスファルトなど人工物に覆われ自然と言われるものが覆いかぶされ、
情報のみが効率よく伝わることを使命とした世界が急激に広がる現実では、この共通的
意識、無意識にも厚い蓋がかぶされ、社会は表面的に蓄積された情報で動かされる
人工的世界のみとなっていく。それが真に望ましい社会なのであろうか。

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