« 2017年6月9日 | トップページ | 2017年6月23日 »

2017年6月16日

2017.06.16

多数決の面白さ、神の啓示か

多数決でよく言われてきたこと。
多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑
圧への道ではない。ひとりよがりで作った集団が他を抑圧する権利がないのと同様に、
民主主義国においてさえも、多数派が、少数派や個人の基本的な権利と自由を取り上げ
ることがあってはならない。
しかし、現実の多くは大分様相を異にしている。最近の日本の政治の決まり方、
EU離脱でのイギリスのこと、アメリカ大統領の選出の出来事、すべてが「数さえ多ければ
真である」と言った具合のようだ。
それは、多数決による決め方には、根本的に問題があるという指摘や多数決の取り方に
問題がるというように基本的課題やその手法課題など様々に入り乱れている。
もっとも、それでは独裁的に1人ですべてを決めていくのが良いかと言えば、そうとも言えない。
だが、ここでそれの是非や課題解決の提示をする気はさらさらないし、できる能力もない。.
「多数決に変わる新しい手法」などについて関係の研究者が色々と提起しているようだが、
それの是非については個人で考えてもらいたいものだ。

ベンサムの功利主義では、個を埋没化させ、ともかくその総和が大きいもの、数が多いもの
が正義と言っているが、この定量的な1か0かの時代には即した考え方ような気がする。
ベンサムがこの原理に到達したのは「我々が快や苦の感覚によって支配されている」と
考えたからである。この2つの感覚は我々の君主なのだ。それは我々のあらゆる行為を
支配し、さらに我々が行うべきことを決定するという。この論理が受け入れられるのは、
我々の意識をそのまま捉えているからであろう。功利主義はこの事実を認め、それを
道徳生活と政治生活の基本に据えている。効用の最大化は、個人だけでなく立法者、支配階層
の原理でもあるのだ。どんな法律や政策を制定するかを決めるにあたり、為政者は共同体
全体の幸福を最大にするため、あらゆる手段をとるべきなのである。
もっとも、今の日本では、独善的な想いに立った手段が取られ、「数が多い」という点のみが
幅を利かしている。

そんな折、山本七平氏の「日本人とは何か。」に面白い一文があった。
ちょっと長いが読んでもらいたい。
「この多数決原理を採用した多くの民族において、それは「神慮」や「神意」を問う方式だった。
面白いことにこの点では日本もヨーロッパも変わらない。古代の人びとは、将来に
対してどういう決定を行ってよいかわからぬj重大な時には、その集団の全員が
神に祈って神意を問うた。そして評決をする。すると多数決に神意が現れると信じた
のである。これは宗教的信仰だから合理的説明はできないが、「神意」が現れたら、
それが全員を拘束するのは当然である。これがルール化され、多数決以外で神意を
問うてはならない、となる。
そしてこれはあくまでも神意を問うのだから、「親の意向、、、親類の意向、、、、
師匠の意向、、、、」といったようなこの世の常に動かされてはならない。
そうすれば、「親の意向、、、親類の意向、、、、師匠の意向、、、、」
を問うことになってしまうから、神意は現れてくれない。もちろん賄賂などで動かされれば、
これは赦すべかざる神聖冒涜になる。これ等は日本でも厳しく禁じられている。
そして、延暦寺の異形・異声とか、高野山の「合点」とかは、こういう考え方の現れである。
おそらく、異形・異声になったとき、別人格となったのであろう。このような信仰に
基づけば、多数決に現れたのは「神慮」「神意」だから当然に全員を拘束し、
これに違反することは許されない。
多くの国での多数決原理の発生は、以上のような宗教性に基づくものであって、
「多くの人が賛成したから正しい」という「数の論理」ではない。、、、、、
これを今日的にいえば「私は神のお告げを受けた、故に私の提案は正しい」といった
神がかり的主張は一切認められず、方法は多数決のみということである。
以上に共通考え方は、多数決は神意の現れだから絶対だという考え方で、「多数
が賛成したから正しい」と考えているわけではない。ただ神意・神慮を問うのだから
自己の良心にのみ従って投票しなければならないという考え方と、そのための
さまざまなルールは、何物にも拘束されない議決を生み出したことは事実であろう。
、、、、、、
日本にはどこにでも神社があり、普通の農民でもその氏子である。氏子と言っても
それは血縁集団ではないが、彼らが一村一味同心して多数決で、年貢を一切
納めませんと言い出したらどうなるか。それは神社の神の「神慮」だから、超法規的に
正しいといえることになる」

神の存在さえ否定しかねない現代では、「多数決が神の啓示」というのが、どれほど
人々に受け入れられるかはわからない。だが、まるで意志のない機械的な「数の
多さ」だけの結果とは違うのではと思いたい。
有り得ないとは思うが、純粋に心を開き個人の心根を素直に見せるーそれは神の
意志の現われーことが可能であるのなら確かに最大の幸福が人々にその恩寵として
与えられるのだろう。これはインターネットが深化していく中、社会学者のトマス・C・
シェリングが発見したという「シェリングポイント(暗黙の調整)」が神の啓示
となるのかもしれない。

« 2017年6月9日 | トップページ | 2017年6月23日 »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ