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2017年6月30日

2017.06.30

わたし的輪廻転生その1

別に個人的に人の生まれ変わりに大いなる興味を持っているわけではないし、
見えるモノ、科学的に論証できるものがすべてという近代科学の悪弊意見に
賛同を唱えるわけではない。さらに、今の自分が犯した罪を来世の中で
チャラにできるからというご都合主義的な考えもない。
しかし、仏教が広く広めたのであろう。輪廻と転生の考えは日本人の中に
長く棲みついてきた。それは私の中でも育まれてきたように思う。
ここで輪廻転生の高尚な理論や仏教での位置づけなどにあまり興味はない。
しかし、自分の意識の中にも根付いている「生まれ変わり」「死後の世界への
想い」に個人的な納得感を持ちたい、との想いはある。

まずは、山折哲雄氏の「近代日本人の宗教意識」という本では、
「私が面白いと思ったのは、わずか2例であるけれども中絶した子供の「生まれ変わり」
と考えている水子供養者がいたことである。
「生まれ変わり」という輪廻転生イメージに結びついた罪障感が、合法的な中絶行為
と表裏一体をなすような形で浮上している。、、、、
考えてみれば、このような輪廻転生の考えは我が国においても長い歴史があった。
大別してそこには、2つの大きな流れがあったのではないだろうか。
1つは死んだのちに人間の魂が山や海に行くという信仰である。
その後、祖霊や神になってこの世を訪れるという観念が加わった。もう1つが
仏教の来世観によってもたされたもので、死後おもむくべきところとしての
地獄や浄土の信仰が広まった。以上の2つの流れが重なり合い、死者の成仏を
願って行う先祖供養が形成されていった。霊魂の行方が「六道」といった形で
細かく分類されたり、多彩にイメージされるようになった。
そうした霊魂観が比較的濃厚だった近代以前の社会では、中絶がそれほど大きな
精神負担にはならなかったようである。
たとえ水子として流されても、ふたたび生まれ変わる可能性が共同体の中で
信じられ承認されていたからである」
とある。

死後の世界を肯定する場合には、この考えが必然的に出てくるのであろう。
だが、それには六道輪廻と呼ぶような霊魂の循環というよりも、前世と来世の自分は、
という直線的短絡的な考えが多いのではないだろうか。水子供養も生を生み出せなかった
ものの心の癒し的な意味合いが強い。個人的には、「1つの生と智慧の流れ」と呼ぶべき
モノの存在を明確にしたのでは、と思う。

そもそも輪廻転生について、少しながら引っ掛かりを得たのは、三島由紀夫の
「春の雪」の一文からであった。
少し長いが再読するのは中々に面白い。

「もし生まれ変わりということがあるとして」と本多はいくらか性急に話を進めた。
「それよりもさっきの白鳥の話のように、前生を知る智慧がある場合はいいが、
そうでなかったら、一度断たれた精神、無関係な思想が、次の人生に何の痕跡も
とどめていず、そこでまた、別個の新しい精神、無関係な思想が始まることになり、、、、
そうすれば、時間の上に一列に並べられた転生の各個体も、同じ時代の空間に
ちらばる各人の個体と同じで意味しかもたなくなり、、、、、そもそも転生という
ことの意味がなくなるんじゃありませんか。もし生まれ変わりということを
1つの思想と考えれば、そんなに何の関係もないいくつかの思想を一括する思想なんて
あるんでしょうか。現に僕たちは何1つ前世の記憶を持っていないのだから、
それからしても、生まれ変わりとは、決して確証のありえないものを証明しようとする
無駄な努力みたいですね。それを証明するには、過去世と現在世を等分に眺め、
比較対照する思想的な見地なければならないが、人間の思想は、必ず過現末の
どれかに偏して、歴史のただなかにいる「自分の思想」の家から、逃れようもないから
です。仏教では、中道というのがそれらしいけど、一体、中道とは、人間の持つ
ことのできる有機的な思想かどうか怪しいものですね。

一歩退いて、人間の抱くあらゆる思想をそれぞれの迷妄と考えれば、過去世か現在世
へと転生する1つの生命の、過去世の迷妄と現在世の迷妄を、それぞれ識別する
第3の見地がなければならないが、その第3の見地だけが、生まれ変わりを証明することが
できて、生まれ変わる当人には永遠の謎にすぎない。そして第3の見地とは、おそらく
悟りの見地なのだろうから、生まれ変わりという考えは、生まれ変わりを超越した
人間にしかつかめないものであって、そこで生まれ変わりの考えがつかまるとしても、
すでにそのとき、生まれ変わりというものは存在しなくなっているんじゃないか。
僕らは生きていて、死を豊富に所有している。弔いに、墓地に、そこのすがれた花束に、
死者の記憶に、目の当たりにする近親者の死に、それから自分の死の予測に。
それならば死者たちも、生を豊富に多様に所有しているのかもしれない。

死者の国から眺めた僕らの街に、学校に、工場の煙突に、次々と死に次々と生まれる
人間に。生まれ変わりとは、ただ、僕らが生の側から死を見るのと反対に、死の側から
生を眺めた表現にすぎないのではないだろうか。それはただ、眺め変えてみた
だけのことではないだろうか。
、、、、、、、、
「同じ個体が、別々の思想の中へ時を隔てて受け継がれていくとして、不思議ではないでしょう」
「猫と人間が同じ個体ですか?」
「生まれ変わりの考えは、それを同じ個体と呼ぶんです。肉体が連続しなくても、
忘念が連続するなら、同じ個体と考えて差し支えがありません。個体と言わず、
「1つの生の流れ」と呼んだらいいのかもしれない」。、、、、、、、、
たしかに人間を個体と考えず、1つの生の流れと捉えれる考え方はありうる。
静的な存在として考えず、流動する存在としてつかまえる考え方はありうる。1つの存在が
別々の「生の流れ」の中に受け継がれるのと、1つの「生の流れ」が別々の思想の中に
受け継がれるのとは、同じことになってしまう。生と思想とは同一化されてしまうからだ。
そしてそのような、生と思想が同一のものであるような哲学を推し広げれば、無数の
生の流れを統括する生の大きな潮の連環、人が「輪廻」と呼ぶものも、1つの思想で
ありうるかもしれない。

三島由紀夫の「豊穣の海」の基本テーマが輪廻転生であり、独特の豊潤な文体と
文の流れは読みにくい所もあるが、大いに参考にはなる。

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