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2017.06.23

宮部みゆきと自分

テレビを何げなく見ていた時、突然、昔よく読んだ宮部みゆきの小説に
似た情景があったな、と思った。
彼女の小説は社会性と人間の内面性をよく描いているので好きな作品が多かった。
一歩間違えれば、私も彼女の小説の一片をなしていたかもしれない、哀れな
生い立ちを持つ不幸な殺人者として。そんなどこにでもある、しかし有り得ない
情景がかえって怖い。
宮部みゆきの本は、何冊読んでも、面白かった。
「火車、理由、名もなき毒、模倣犯、楽園、ソロモンの偽証」などなど、
社会問題を上手く扱い、その人物描写の上手さ、展開の面白さ、は
なんとも言えない。人物描写の上手さでは桐野夏生、乃南アサなど私の好きな
女性作家もいるが、チョット違う。また、そのボリュームの大きさでも、
圧倒的な迫力がある。

それらの中では「火車」が一番と思っている。
遠縁の男性に頼まれて彼の婚約者の行方を捜すことになった刑事が、
自らの意思で失踪、しかも徹底的に足取りを消していることを知る。
なぜ彼女はそこまでして自分の存在を消さねばならなかったのか、
いったい彼女は何者なのか、謎を解く鍵は、カード社会の犠牲とも
いうべき自己破産者の凄惨な人生に隠されていた。「お金」によって
もたらされる「絶望感」がそこにある。その「絶望」の中転がり落ちていく人を、
作中で「蛇の脱皮」に例えている一文がある。
「皮を脱いでいくでしょ?あれ、命懸けなんですってね。すごい
エネルギーが要るんでしょう。それでも、そんなことやってる。
どうしてだかわかります?」
「一生懸命、何度も何度も脱皮していくうちに、いつか足が生えてくるって
信じてるからなんですってさ。今度こそ、今度こそ、ってね」
「べつにいいじゃないのね、足なんか生えてこなくても、蛇なんだからさ。
立派に蛇なんだから」
「だけど、蛇は思ってるの。足があるほうがいい。足がある方が幸せだって」

さらに思うのは、この小説では「犯人たる彼女を客観視点のみ」で描いている。
過去の回想シーンであっても、必ず「犯人」を知っている誰かの視点
から描いていて、「犯人」を直接的に描写しているシーンというのが
一切無い。その結果、「誰かの客観的な観測」を何層も重ね合わせて
いくことで、おぼろげな「犯人像」が徐々に形を成していく。
小説に描かれている断片から読者が頭の中で犯人を形成していく。
これは今のような情報があふれ、それぞれがそれぞれの思いで勝手に
人物像を作り上げ、そこには責任が存在しない社会の一端に触れている
ようでもある。それは私も同じだ。自己完結していると思っている
自分も考えれば、自分に滞留している記憶のシーンを自分に都合のよい形
に当てはめているパズルゲームなのかもしれない。

そんな思いさえ浮かぶ。彼女の作品に共感するのは、単なるエンターテインメント
の域を超えているからであろう。いまここにいることがパズルゲームの
一つなのかもしれない。
しかし、この「火車」を数回読むうちに、ふと湧いた疑問があった。
「自分」というものはふしぎなものだ。だれもがまるで自明なこととして
「自分」という言葉を用いているが、われわればどれほど「自分」を
知っているだろうか。
たとえば、輪廻転生というが、「私は何だ。転生したら体は変わるし、
その前の自分はどうなるのだろう」。
インドの説話に次のような話がある。
ある旅人が空き家で一夜を明かしていると、一匹の鬼が死骸を担いで
そこへやってくる。そこへもう一匹の鬼が来て死骸の取り合いになるが、
いったいどちらのものなのかを聞いてみようと、旅人に尋ねかける。
旅人は恐ろしかったが仕方なく、前の鬼が担いできたというと、
あとの鬼が怒って旅人の手を引き抜いて床に投げつけた。前の鬼は
同情して死骸の手を持ってきて代わりにつけてくれた。あとの鬼は怒って、
足を抜くと、また前の鬼が死骸の足をくっつける。このようにして
旅人と死骸の体がすっかり入れ替わってしまった。二匹の鬼は
そこで争いをやめて、死骸を半分づつ喰って出て行ってしまった。
驚いたのは旅人である。今ここに生きている自分は、いったい
ほんとうの自分であろうかと考えだすとわけがわからなくなってしまうのである。
この話は「自分」ということの不可解さをうまく言い表している。
このように考えだすと全く分からなくなる。ここでは体のことになっているが、
たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。
住居を代えても、私には変わりはない。しかし、そのようにして自分に
そなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに「自分」
というものが残るのだろうか。それは、ラッキョウのように皮をはいでゆくと、
ついに実が残らないモノではなかろうか。

解けないパズルを無理にでも解こうとする、そんな想いが私の心にふつふつと
わいた。それは自身の何回かの転換と呼んでいる自分への想いでもある。
そして、この疑問は何かの拍子にふと私の心の扉から出てくる。
「理由」も好きだ。マンションに住んでいた家族と思われる人たちが
何の関係のない人の同居であることが徐々に明らかになる「理由」は
人間関係の薄いマンションという隔絶した世界と人の心理を描き出している。
ミステリーは殺人のような非日常性が基本であり、そこに読者は安寧と
一瞬の心の高まりを感じる無責任なものである。宮部みゆきの作品に
興味を魅かれるのは、そこに人間性と社会性が強く醸し出されているからだ。
だが、「もし火車のような人生が自分に降りかかってきたら」、
「理由に出てくる老人に自分がなっていたら」背筋をゆっくりと冷たい汗が
流れ落ちていく。
だが、人の人生は紙一重、何とか60年以上を過ごしてきたという、
安堵の気持ちが体をジワリと温めた。
2年ほど前の大病を契機に今までのコンサル等の仕事凡てを辞めた。
自分の見直しを1から始めようと、1500冊ほどあったマーケティングや
ITの専門書やミステリーの本をすべて捨てたが、宮部さんの本だけは
書棚にポツンと残っている。
次の自分が見つかったら、手に取って読みたいものだ。

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