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2017年7月7日

2017.07.07

わたし的輪廻転生その2

さらには、道元も輪廻転生について、その著作中には多くの輪廻に関わる多くの
表現が見出される。だが、これには是を云う背景がなんとなく垣間見える。

「三時業」、「四禅比丘」、「発菩提心」、「仏道」他から引用するなどして、
道元は輪廻の立場に立ちながら、その中において仏道を行じ、そして、生死輪廻の
中において仏道を行ずるということそのままが生死輪廻からの解脱であると
する。
さらに、「道心」では、より詳しく述べている。
「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人
まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。
よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、
人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、
おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、
仏のとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、
よるひるつねにこころにかけて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、
ねがひいのるべし。
世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常
にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のは
かなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我
がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。

つぎには、ふかく仏法三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝
を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三宝の功をおもひ
たてまつるべし、ねてもさめても三宝をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて、
いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる、
そのあひだも、つねにこゑもやまず三宝をとなへたてまつらんとおもふべし。七日を
へぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども
、七七日をばすぎず。このとき、なにごとを見きくもさはりなきこと、天眼のごとし。
かからんとき、心をはげまして三宝をとなへたてまつり、南無帰依仏、南無帰依法、南
無帰依僧ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。

すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて、
正知ありて託胎せん処胎藏にありても、三宝をとなへたてまつるべし。むまれおちん
ときも、となへたてまつらんこと、おこたらざらん。六根にへて、三宝をくやうじたて
まつり、となへたてまつり、帰依したてまつらんと、ふかくねがふべし。
またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すで
に生のをはりとしりて、はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし。このとき、十方
の仏、あはれみをたれさせたまふ。ありて悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にむ
まれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり。
眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三帰依となへたてまつること、
中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生々世々をつくして
となへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ仏菩薩の
おこなはせたまふみちなり。これを深く法をさとるとも云ふ、仏道の身にそなはるとも
云ふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし」。

だが、これも仏道を会得するためには、輪廻転生という生の循環の中で、たえず三宝を
唱えねばならないとする方便のような気もしないではない。
だが、少し視点を変えて考えると「罪を犯すことの多い衆生、一般の人間に対する行動
信条」とも思われる。「心の救済」と「自身の変容」を言っている。
また、意識の連続を認識させるという点で、ユングの言う集団的無意識の存在に通ずるものが
あるのかもしれない。

一般的に人間の輪廻転生というと、今生きている「自分」という存在が死に、
霊界(あの世)に行く。そして、一定の時間を経て、地上(この世)に再生する
と考えられている。その時、再生するのは「前世」の私と「現世」の私は、
「自分」という全く同じ自意識をもっていると一般には考えられている。
再生する過程について、仏説では、詳細にその過程を述べているようだ。

さらには、特に日本では、輪廻も転生も、言葉としては、は同じであるともいう。
輪廻とは衆生(一般の人間)が、冥界即ち六道、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、
天上、を終わりも知れず、めぐってゆくことである。転生はいわゆる「生まれ変わり」
だが、仏説に描かれているような詳細なプロセスが何故必要だったのか。
疑問は残ったままだ。
私の家の庭にはこの季節になると糸トンボとカラスアゲハがその優美な姿を見せる。
彼らの行動を細かく見ていると、それは毎年同じように繰り返される。
もし私が彼らが卵を産みそこから新たに生まれるということを知らず、ある冬の日、
その遺骸を見たとする。私はどう思うだろう。彼らは生まれ変わってきた、転生
したと思うだろうか。輪廻転生もそのように日常のしごく当たり前の出来事の1つ
と思えばよいのであろう。もっとも、六道の輪廻はなぜ、そこまで厳密な定義
をしなくてはならないのか、依然不明だが。

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