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2017年8月11日

2017.08.11

わたし的死への想い2

河合隼雄の「影の現象学」に最近の死生観の変化と死による自己変容の可能性が
書かれている。これ等からは、「死」を肉体的な面から見ることのほかにも、精神的
心的面でも考えていくことの必要性をが問うている。

「われわれは生きていることが「死につつある」ことをよく忘れてしまっている。
彼は、古代人や中世人が死を自然の一部とみて、死の固有の意義をその世界観
の中にうまく取り入れていることを指摘し、それに反して現代人は「死」の
取扱い方があまりにも偏っているために、死に対する過度の恐怖感などを起こし、
人間を極度に不幸な状態に陥れていると述べている。
たしかに、古代人や中世人は彼らの世界観の中に、象徴的で可視的な「死の位置」
を定めているのである。これについて、樋口は「このような現代人の死に対する
考え方は、更に現代人の誤っている素朴な肉体感とも関連を持っている。現代人の
多くは自分の肉体は無限に直線的に発展しづつけると素朴に考えている。
したがって、死は現代人にとって、いつも「経験しないなにか」であり、生の延長
上にしかなく、結局、死は経験せずにすむものという直線的な死生観を信じていると
指摘する。
、、、、、、、、、、、
わたしは海から釣り上げられた魚である。
それをつり上げた海岸にいる男、それは私だった。
エサで私を誘い、そして釣り糸を引いたのは私だった。
私は下へ、深く、戻りたいと願う。
しかし、陸にいる男は容赦しない。
私の少年時代は砂の上で死んだ。
それは大きな手の中で横たわっている。
その手が糸を引き、針を外す。
そしてわたしを料理するように妻に渡す。

この詩では、とらわれ、死に導かれるのは魚であるわたしであり、それをつり上げ
料理するのも私である、として表現されている。「少年時代は砂の上に死んだ」という
言葉が示されているように、少年から成人へと変化するとき、その人はひとつの
死の体験をしなければならない。通過儀礼の基本的な構造を支える死と再生の
パトスがここに詩として詠われている。影は自我の死を要請する。それがうまく
死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。
しかしながら、自我の死はそのまま、その人の肉体の死につながるときさえある。
このような危険性を含んでいるだけに、自我はときに影の方を死に追いやるときがある。
われわれは夢の中でときに殺人を犯したり、他人の死を体験するが、その相手が
われわれの影の像であることが多い。そのときは、影は殺され、一度無意識に沈み新たな
形態をとって自我に受け入れやすいものとなって再登場してくるであろう。」

自身の人生に「死」の位置づけが明確ではない現代では、道元の正法眼蔵生死の巻にある言葉は
考えるに値するのかもしれない。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。

そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」

生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。

死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。

元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。

だが、わたしには、まだまだ不明だ。これは、頭で多分理解することに問題が
あるのかもしれない。体感することだ、しかし体感するには己の力不足あり。
このジレンマにどうしようもない自分を知ることになる。

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