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2017年8月25日

2017.08.25

わたし的死への想い3

谷川俊太郎「灰色の表現」の一部、生と死についての語り掛けを詠んでみたい。
これもまた「死生観」の1つとしても読める。
「どんなに豊穣な生も、本当の生であったためしはない。
一点の翳もない生の中に、目に見えぬ微少な死が隠れていて、それは
常に生の構造そのものである。
生は死を敵視せぬどころか、むしろ生は生ゆえに死を生み、死をはぐくむ
と理解される。
存在のその瞬間から生はすでに、死へと生き始めているのだ。
だが死への長い過程に、どれだけの老いの諧調を経過するとしても、
生は全い死に化するその瞬間まで、生であることをやめはしない。
たとえ生の属性とは考えられていないもの、
たとえば腐敗、たとえば病等によって冒されているとしても、
生は老いの仮面のかげで輝いている。
生が物にかえる時は一瞬だ。
その一瞬に生は跡形もなく霧消し、全い(またい)死が立ち現れる。
だが――
どんなに不毛な死も、本当の死であったためしはない。
一点の輝きもない死の中に、目に見えぬ微少な生は、自己複製子の
ように隠れていて、それは常に死の構造そのものである。
存在のその瞬間から死はすでに、生へと生き始めている……」

納棺師青木新門さんという方の言葉も考えさせられる言葉だ。
「長い間、私たちは死を忌むべきものとして、日常生活から切り離して隠し、
見えないところに遠ざけてきました。だから本当の意味で、死の実感に乏しい。
頭の中で想像しているだけなので、極端に美化したり、おそれたりするのでしょう。
わたしは、その傾向に疑問を感じています。
30代半ばで納棺師になり、3000体近い遺体と接してきました。
死体に白衣を着せ、髪や顔を整えて納棺する仕事でした。
、、、、、、
出会う遺体はみなそれぞれに美しかった。正確に言えば、死を通して、生きていること
の素晴らしさを教えてくれました。寿命が延びても、いつか必ず死ぬ。死から目を
そらしては生きてられない。
ありのままの死に姿を見てきたことで、それに気づくことが出来ました。
、、、、、、、、
いつの頃から、ぶよぶよとした遺体が増えてきました。延命治療を受けてきた方が
多いようです。わたしには、死を受け入れず、自然に逆らった結果のようにも感じられます。
死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな
笑顔をしています。亡くなる直前まで自宅などそれぞれの居場所で、それまでと変わらぬ
日々を過ごしてきた人の多くがそうだった気がします。体や心が死ぬ時を知り、
食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な姿なのではないか。
今、そういう死に姿は少ない。医師は1分1秒でも長く生かすことを使命だと思っているし、
家族は少しでも長く生きることが重要だとばかりに「頑張って」と繰り返す。
本人が死について思うことや、気持ちは聞かない。生命維持に必要な機械のモニター
ばかり見つめ、死にゆく本人を見ていない。大切なことを見逃してきたのです。」

考えてみるべき言葉だ。既にわたしも前期高齢者だ。「死」が以前よりも迫っているはずだが、
わたしも家族もその意識は少ない。3年前の大病の時、心を一瞬通り過ぎたが、それも
3か月後退院すると遠い過去の想いとなった。死が目前にしっかりと見えた時にしか
考えられないのであろうか。だが、その時は手遅れだ。

わたしの家には、猫が概ね5人、この20年ほどいたが、今は2人となり、そのうちの1人は、
20歳となり、他の2人との喧嘩で急激に老化した。そして8月7日午前2時に他界した。
この家に連れてきたときはまだ本当に小さくて、排便から食事の世話まで見たものだが、
そのやんちゃぶりは、悪戯好きの小学生の女の子と言う感じだった。そして彼女は
身軽で、食事の時に食物をつまんで高くかざすと跳び上がって家族を喜ばしたものだった。
数ヶ月も経つと非常に表情が鮮やかとなり、口元や、小鼻の運動や、息遣いなどで
心持の変化を表す事は、人間と少しも変わらなかった。なかんずくそのぱっちりと
した大きな眼は、いつも生き生きとよくよく動いて甘える時、いたずらをするとき、
物に狙いをつける時、どんな時でも愛くるしさを失わなかったが、一番可笑しかった
のは怒るときで、先輩の三毛猫の4分の1もない小さな身体をしているくせに
やはり猫並みに背を丸くして毛を逆立て、尻尾をピンと跳ね上げながら、足を
踏ん張ってぐっと睨む恰好といったら子供が大人の真似をしているようで、皆が
その姿に喝さいを送ったものだ。
また外猫も含めれば、20人以上が我が家に接してきたと思うが、死に直面できたのは、
2人だけであった。その2人は今、我が家の庭の猫の置物の下で眠っている。それは、
わたしが薄情だったのか、猫たちがそれを望まなかったのか、いずれにしろ後悔の残る
20年ではあった。
そんなとき、「100万回生きた猫」という本を見た。犬についての話や本も色々と
あるのだろうが、最近色々な本や記事を読んでいると、猫に関する本が特に多いのでは、
と思っている。この本は絵本であり、小説や随筆の類とだいぶ違うが、内容はそれらに
優るとも劣らないものだ。人生をよく語っている。難しい書物から何かを得ようというのは、
素晴らしいことだが、この絵本でもその深さは変わらない。ある意味、以前紹介した
時間の考えを分かりやすく描いた「モモ」と相通じるものがある。
100万回も生き、王様や船乗り、お婆さんなどに仕えたと言い、生きることに傲慢に
なったとらねこがいた。
だが、彼も人の子?猫の子であった。ある日白い猫に恋してから変わった。

短い文章とその絵が素晴らしい。猫は死に飼い主は大いに悲しむ。100万人を悲しませた。
しかし、「猫は死ぬのなんか平気だったのです。」とある。
猫は白い猫と、たくさんの子ネコを、自分よりも、好きなくらいだった。
絵を見ると野原の中央にとらねこと白猫が寄り添っており、その周囲で
子ネコたちが楽しそうに遊んでいる。彼の眼はもう昔の様な鋭くはない。
子ネコたちは大きくなり、それぞれどこかに行ってしまった。仔猫の成長に
満足し、夫婦の猫は大分年老いたにしろ、ゆったりとして生きていた。
「猫は、白い猫と一緒に、いつまでも、生きていたいと思いました」
しかし、白い猫はとらねこの隣で静かに動かなくなり、死んでしまった。
「猫ははじめてなきました。夜になって、朝になって、また夜になって、
朝になって、猫は100万回もなきました。」そのうち、彼は泣き止み、
白猫の隣で、静かに動かなくなった。
最後のシーンは野原で遠くに家が見える。ここには猫の姿はない。
「猫はもう、けっして生き返りませんでした。」

輪廻転生という難しい言葉はともかく、死への畏怖や恐怖はここにはない。
愛する妻のそばでは、生も死も関係ないのだろう。生きていても添い遂げ、
死んでも添い遂げる。
今、わたしの横で本を読んでいる妻の横顔をそっとみる。白い猫ととらねこのように
なれるのか、わたしには自信がない。

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