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2017.08.04

わたし的死への想い1

「死」テレビでよく報道されているテロやISなどとの戦闘シーン、そこでは人は
容赦なく殺され、死に至る。だが、特にわが国では、死が日常から離れ、死の直前
に至るプロセスはあまりお目にかかることはない。更には、自分や愛する人々の死
について考えることを先延ばしにし、「死」そのものさえ忘れ去ろうとしている。
われわれは、死を看取る力を次第に失い、死にゆく患者のそばにいながらもその願い
が聞こえなくなってきているのかもしれない。

実際死に直面した自分はどうなるのだろうか、岸本英夫氏の「死を見つめる心」
の一文がその答えの1つなのだろう。だが、「死後の世界」をどう見るべきかの
答えはまだ見つかっていない。

「癌の宣言は、私にとって、全く思いがけないことであった。寝耳に水であった。その場
では、私は、自分にとって非常に重大なことを知らされていることはわかりながら、そ
の事柄が、あまりに重大なので、そのほんとうの意味が良く理解できないというような
、戸惑った気持ちであった。
病院からの帰りの自転車の中で、ふと気がついて見ると、自分の心はすでに、異様に緊
張しているのを知った。ほんの一時間ほど前、病院に向かう時には、冗談でもいえそう
なゆったりした気持ちであった。同じ自転車に乗っていながら、今は、全く、別人のよ
うな気持ちになっている自分を見出した。
・・・
ソファーに腰を下ろしてみたが、心を、下の方から押し上げてくるものがある。よほど
、気持ちをしっかり押さえつけていないと、ジッとしていられないような緊迫感であっ
た。われしらず、叫び声でもあげてしまいそうな気持ちである。いつもと変わらない窓
の外の暗闇が、今夜は、得体のしれないかたまりになって、私の上に襲いかかって来
そうな気がした。」
さらに彼は書いている。
「私自身は、はっきりいえば、そうしたこと(死後の世界)は信ずることはできない。そ
のような考え方はどうも、私の心の中にある合理性が納得しない。それが、たとい、身
の毛がよだつほど恐ろしいことであるとしても、私の心の中の知性は、そう考える。私
には、死とともに、すなわち、肉体の崩壊とともに、「この自分の意識」も消滅するも
のとしか思われない。
・・・

まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私はたっ
ていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった。私は、もし、自分が死後の
理想世界を信じることができれば、どれほど楽だろうと思った。生命飢餓状態の苦しみ
を救うのに、それほど適切な解決法はない。死後も、生命があるのだということになれ
ば、はげしい生命飢餓の攻撃も、それによってその矛先をやわらげるに相違ない。
しかし、私の中にある知性は、私にするどくよびかけてきた。そんな妥協でおまえは納
得するのか。それは、苦しさに負けた妥協にすぎないではないか。その証拠に、お前の
心自身が、実はそういう考え方に納得してはいないではないか。そのするどい心底の声
をききながら、私は、自分の知性の強靭さに心ひそかな誇りを感じ、そして、さしあた
りの解決法のない生命飢餓状態にさいなまれながら、どこまでも、素手のままで死の前
にたっていたのである。」

「死後の世界」、それは仏教が広く社会に受け入れられた時代と大きく変わって来た
のだろうか。たしかに近代科学が発達したことにより、「死は個体生命の終結」
という考えが強くなった。しかし、memento mori(死を想う)という意識は、
イエは永続するという血食の思想など柳田国男や折口信夫など民俗学者も論を交えている
ように、単なる一個人の肉体の消滅以上の意味を持っているともいう。
更には、長く続く日本の民俗文化、仏教的思想をベースとする死生観は社会的な流れに
あわせ、変化していくのかもしれない。

仏教的思想としては、源信の書いた「往生要集」がある。大文第十までに及び厭離穢土や
欣求浄土に行くための念仏の必要性などを説いている。更には、閻魔王庁図などの六道絵
によって、イメージ化され民衆に受け入れやすくなっている。阿修羅道図、餓鬼道図、
阿鼻地獄図などその犯した罪により様々な地獄が描かれており、如何にも恐ろしい。
更に多くの如来や菩薩が迎えに来る来迎図と合わせ近世の人は、感激しながらそれに
見入たのではあるまいか。彼らには、ある意味、死後の世界が必要でもあったのだ。

また、「日本往生極楽記」は慶慈保胤(慶の保胤 よしのやすたね)によって10世 紀に
できた「往生伝」の日本でのさきがけであるが、42伝をおさめている。
慶慈保胤は、この本の序文につぎのようなことを書いている。

自分は、40歳のころから、阿弥陀の信仰に深く志し、…出家者と被出家 者を問わず、
また男女を問わず、極楽に志しあり、往生を願う者には、かなら ずかかわり合いを持
った。中国の浄土論にも、往生した人二十名の伝記を記載 しているものがある。それ
は非常にすぐれた[往生の]証拠となる。人々の智 恵が浅くて、浄土教の原理の理解が
十分ではない。もしも往生した人のことを ありありと描写しないならば、人々の気持
ちを十分に納得させることはできな いだろうと言われている。、、、、
できれば、私はすべての人々とともに、極楽浄土に往生したい。

彼によれば、幸福とは、「極楽往生」という答えとなる。 死ぬこと自体が歓喜となり、
そして死後に極楽の生が保証されている。そのような死に方=生き方をすることが
最高の幸福だというのである。ここに、現代の死への考え方はない。
それが、中世から近世への人々の基本的な想いなのであろう。彼らにとって、「死後の世界」
は幸福な世界なのだ。そのためには、仏教の教えに頼ったのだ。「往生要集」の
根底は、念仏による極楽への導きなのである。

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