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2017年9月1日

2017.09.01

わたし的自己

最近、自分とは、自己とはなんだろう、と思うことが多い。
絶対的な自己なぞ存在しない。でも、多くの人はそう思っていない。
わたしもその1人でもあるのだが。
すでに棺桶に片足を踏み入れたような人間が思うべきことではないようにも
思うが、そのような状況となりつつある人間だからこそ考えるべきこと
かもしれないと1人納得することもある。

たとえば、ユングなどが提唱する心理学の中に集団的無意識というのがある。
古代から受け継がれてきた自分が意識していない、もしくは意識することが難しい、
だが、己を統制しようとする意識だ。日頃感じたり、思ったりしている自分とは
違う自分、自己がいる。その感覚が強まるほど自己の存在さえ怪しくなる。

自己を知るという点では、まずは、ユング以降の心理学であり、もう1つが
宗教的な立場での自己の存在認識なのかもしれない。
社会の中での自己、個人と個として人としての自己は別な領域で併存してきた。
だが、インターネットという社会を変容させつつある時代では、その共存が
求められる。個の、自己の埋没を許している限りは新しいこの社会の中では、
集団的無意識的な世界に生きる自己になってしまう。

道元は、「自己の捉え方を自己が事物を対象として認識する認識主体としてではなく、
存在者それ自身の「自己」として捉えること良しとしている。単純にそこにある
自体では、自己ではないと言っている。「自己」とは行為的、能動的に存在する
個々の存在者の自己なのである。
そういう風に考えると、この60数年自分に自己があったのか、そう思う昨今だ。
ただただ自身の種を次へつなぐための中継的役割の日々だったのか。

そんな中、気になるのが、輪廻転生であり、いわゆる生まれ変わりだ。
肉体としての個の継続はなくなるが、心の継続は何代となく永久不滅に進んでいく
という考え方だ。
求められる「自己の確立」ということもあるが、「死」に伴い自己がどうなるのか、
という点も気になる。

江戸時代の国学者・平田篤胤が、ある奇妙な男の話を残している。
小谷田勝五郎という、この男、科学では解明できないある記憶を持っていた。
江戸時代、中野村にいる源蔵の息子として勝五郎は生まれた。
そしてそれが起こったのは、勝五郎が八つになったある夜のことだった。一緒に眠っ
ている祖母に、このような話をし始めた。
「おれの本当の名前は藤蔵なんだよ」
 そして更に、このように述べたという。
「昔は程久保村に住んでいた」
「父親の名前は久兵で母親の名前はおしずという」
「でも父親はおれが生まれてすぐ死んだ」
「おれもすぐ死んだ」
「だからこの家の母親のお腹に入って、また生まれてきたんだ」

まさに輪廻転生。この奇妙な話だけでなく、勝五郎は死後の世界のことまで語った。
最初は半信半疑だった祖母もその話があまりにも具体的であったことから、村
の集まりの際に村人たちに語ることにした。
その結果、十五年前の程久保村の状況と酷似することが分かった。程久保村の人間が
噂を聞きつけて勝五郎の元へやってきたのだが、話は更に信憑性を帯びていった。

行ったことのない、そもそも名前さえ何故知っているかも分からない程久保村のこと
を、勝五郎は詳しく答えた。そればかりか、昔の自分だと豪語した藤蔵は本当に存在し
た。そして藤蔵の家の様子までさらりと答えた。
驚いた村人たちは勝五郎を程久保村へつれていった。すると勝五郎は、藤蔵が死んで
から変化した町並みについては「こうではなかった、こういうものだった」と、ずばり
言い当てたという。
藤蔵は文化四年二月四日に、勝五郎は明治二年十二月四日になくなった。この二人の
墓は、今でも残っている。

小谷田勝五郎。彼は本当に、輪廻転生をしたのだろうか?
この場合、当人にとって、どちらが「真の自己」となるのであろうか。
われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない。
しかし、そのようにして自分にそなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに
「自分」というものが残るのだろうか。自己というものはあるのだろうか。
さらに、自己の認識が己の記憶の連続の結果だとすれば、認知症の様なもしくは記憶欠落の
人の場合のような不連続の認識しかできない場合は、自己は存在するのであろうか。

中々に考えさせられる話だ。ユングの集めた心理学的症例の中にも、似たような
事例が書かれている。

更に、自己を深く求める道元の様な場合でも、その教えの中には、
道元禅師の言葉の中で最もよく知られているものの一つで、この言葉に続くのは、
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

「仏道をならう」ことは、「自己を究明する」ことであり、ここでいう「自己」は
本来の自分自身という。そのためには、「自己を忘れれ」ばいい。
ここの「自己」は、自意識的自我。
「自己を忘れる」ためには、「万法に証せられれ」ばいい。
「万法に証せられる」ためには、「自己の身心及び他己の身心を脱落させれれ」ばいい、
といっている。つまり、自分と自分以外のすべて、つまり宇宙全体は一体であると
いう意識に目覚めること。大分理解を越え始めるが、なんとなくわかる。
だが、ここでは自己の認識を確立した人が対象なのであろう。
「仏道をならう」ということは言い換えれば「さとりの境地に至る」ということなのだが、
そのためには、自己をならいなさい。「ならいなさい」ということは、究明しなさいと
いうこと。禅の目的は「己事究明」にあるとされている。自分の内的世界を掘り
下げなさいということです。自分の内的世界を掘り下げるためには、「自己を忘れなさ
い」といっている。ここがちょっと難しい。

「自己」というものはふしぎなものである。だれもがまるで自明なこととして「自己」
という言葉を用いているが、われわればどれほど「自己」を知っているだろうか。
インドの説話に次のような話がある。
ある旅人が空き家で一夜を明かしていると、一匹の鬼が死骸を担いでそこへやってくる。
そこへもう一匹の鬼が来て死骸の取り合いになるが、いったいどちらのものなのかを
聞いてみようと、旅人に尋ねかける。旅人は恐ろしかったが仕方なく、前の鬼が
担いできたというと、あとの鬼が怒って旅人の手を引き抜いて床に投げつけた。
前の鬼は同情して死骸の手を持ってきて代わりにつけてくれた。あとの鬼は怒って、
足を抜くと、また前の鬼が死骸の足をくっつける。このようにして旅人と死骸の
体がすっかり入れ替わってしまった。二匹の鬼はそこで争いをやめて、死骸を
半分づつ喰って出て行ってしまった。驚いたのは旅人である。今ここに生きている
自分は、いったいほんとうの自分であろうかと考えだすとわけがわからなくなって
しまうのである。

この話は「自己」ということの不可解さをうまく言い表している。このように考えだすと
全く分からなくなる。ここでは体のことになっているが、輪廻転生では心の継続を言っている。
身体が社会との境界であるならば、転生した体と転生前から存在する心との差異は
どう埋められるのだろうか。
生きているときの自己、さらには死後の自己、考えれば考えるほど、闇が深まる。

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