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2017年10月1日

2017.10.01

止まる一刻の歩みの優雅さと果てしない苦悶


すでにこのガラス窓から眺める景色も1ヶ月を過ぎた。なだらかな丘陵如き比叡の山、
遠く薄いピンクに染まった比良の山並み、右手には薄青く朝日になめらかな湖面を見せる
琵琶湖、時が流れていないのでは、そんな風情だ。だが、眼を凝らしてみると卵型の
雲、櫛を梳いた細くたなびく雲、橙色にその下腹を染めている雲しょうの群れ、日々に
その違いのわずかの変容が見て取れる。時はこの鈍感、無為な人間にも流れている。

しかし、時の止まりはない。その流れの速さが以上に遅いだけだ。そして、その止まっている
如き速さに与えられた恩寵を感じるのは、それを受け取った人間のみに許される
行為だ。
私も60数年、ただ時間を泳いできたという行為に対して、2度もの恩寵を与えられた
気分でこの数10メートル高い天上界にいる。
そうは言うものの、この場には時という存在が無いようにも思える。
それは「善たる幸い」というべきか、迫りくる悪たる行為の1つであるのか、単なる
衆生の我が身ではわからない。

「止まる」という行為を多くの人には苦痛だという話もある。それは、人間本来の行動
にとっては、悪なのかもしれない。「時間は人の心にあるもの」といった童話作家がいたが、
この「止まる一刻の歩み」の中に置かれるとその納得感がジワリと上がってくる。
過去の高度成長時代には、「止まる」ことさえ悪と思われた。
「止まる」勇気さえもが持ち得なかった。

3年前の同じ病気の時、病気前と同じように歩いたり、動いたりしていた時のこと。
その見る景色がひどく違って見えたことに気づいた。どこか不明瞭な情景が鋭角な姿を
見せ小さな道のわずかな亀裂や小刻みなノコギリ葉の1つ1つがわたしに迫ってきた。
日頃茫洋と見える琵琶湖の白い波立ちさえもが、幾多の泡立ちを巻き込んだ大波にも
見えた。「時の流れに合わせ、受け取る感覚」も変化していた。それは、一幅の水墨画の
安らぎに匹敵する感情だった。「生きている」という感覚が体を支配した。

タル・ベン・シャハーがポジティブ心理をベースに自身の実践行動についていくつかの
面白い指摘をしている。26項目にもわたるが、その中でも「止まる一刻の歩みの優雅さ」
に関して、

① 人間関係を見直す
流れ行く時の中では、付き合う人をどこまで理解しているか、疑問が多い。
「ふと立ち止まった刹那に見せる人の隠れた側面を知ることが出来るかもしれない。

② 自由な時間を造る
  時の流れから離れると多くの人は、疎外感を感じる。同時に周囲に流され、思考さえも
  漠とした何かに迎合し、停止状態にある自分もまたいる。

③ 自分のスタイルを再確認する
流れの中に浮遊することでは、確認ができない。ただの漂流物と同じだ。

④ 自分の解釈を変える。
人とは環境や周囲の思惑に左右される弱い生物だ。それ故か、頑迷に自分に固執する。

上記の4つを実践したとしても、この悩める老醜に欠けたピースが明確に提示されるか、
ふとひらめくのか、は分からない。
答えを得ずに、死地に向かうかもしれない。

止まるという行為に置かれた人の多くは、強制的、半自由の状態にある。
わたしの周囲も怨嗟と苦悶、そしてわずかの明日への希望が渦巻き、静かな波動を
見せながら消えてはまた現れる。そんな日常の繰り返しが普通だ。
動と生は人の営みの中では避けられない必然の行為だ。

そして、「止まる一刻の歩みの優雅さ」ここそが、「本来あるべきその人を見出す」
神からのある一瞬の恩寵でもあるはずだ。
しかし、時とは何だろう。時の流れをどう感じ、どこにピースの一片を形作れば
酔いのだろう。
我々は、朝起きて鏡に立った時に見る顔や周囲の活動が何も変わらず、そこに
あるのが、当たり前の行為、日常と思っている。そこに安心と安寧を感じるものだ。

ここに、あるモザイク図がある。だが、その一片にわずかでも欠落であると分かった時、
その小さな欠片でさえ、ひどく心を悩ませる。至極当然として受け入れてきたことの
変化は思う以上に大きいものだ。
朝、夕刻のいずれの行為でも同じだ。これが契機となって、「止まる一刻の歩みの
優雅さ」が始まる。白地のモザイクに赤い微小な点、黒のそれに白い白点、
黄色の面に紫のいびつな楕円、それらが、はめ込まれ、全く違う様相を
見せた時、わたしは変わる。
しかし、それが何かは未だ掴めない。

それを捉えるのが、「止まる一刻の歩みの優雅さ」を与えられた今なのかもしれない。
迎えつつある「残日の日々」に「何が残せるのか、何を残さねばならない」
のかを考えさせてくれる至福の時なのかもしれない。
しかし、生きるという所作の中では、そう単純には行かない。
台風の過ぎ去った後の櫛を梳いた薄雲とまだ半濁の色を残す青空の下に、明るさを
持ち直した人々の影が無統制に思えるかごとく動き回っているが、そこに
「時間静止の欠片」もない。

そんな茫漠とした想いを大きな窓框から見下ろしている老人が1人いるだけだ。
「老い」とは不思議なものだ。
「身体の老い」以上に「心の老い」は、「止まる一刻の歩みの優雅さ」に強い不釣り合い
を与える。それは、異常なほどの重さゆえに片方に振り切られた無様な
天秤にも似ている。
この重き形のないものは何だろう。この数年、彼を煩わしてきたはまらぬピース
にも見えた。
敢えて言えば、このピースを我が心の中にはめ込んだとき、新しい己が
生まれるのかもしれない。
それを見出すのが、「止まる一刻の歩みの優雅さ」に期待されることなのだ。

そんな想いに浸っている瞬間にも、時の流れが目の間に現れる。
灰色の分厚い雲が、比叡のやや平らな緑に覆われた山並みを押しつぶすように
琵琶湖へとたなびき過ぎ去る。
しかし、そこもまた不愛想な灰色だけの世界だ。何もない。

神の恩寵か、悪魔の成せる仕儀か、60年以上病院という存在さえも気に
していなかったこの身体が2度の類稀の訪問となった。
眼下のコンクリートの無機質な光景と甍の波が数段の階を見せ、糸筋の
雨に打たれている。一瞬赤く薄い雲の帯が比叡の山並みに色を添えたが、
それも漆黒迫る山肌に消えた。緩やかながら時は流れていく。
黒粒の人影がわずかに動き回っている。空白の思考では、それ以上は
何も見えない。

わたしの探し求めるピースは、この変わり行く中で見出せるのだろうか。

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