« 止まる一刻の歩みの優雅さと果てしない苦悶 | トップページ | 変わり行くもの »

2017.10.10

人と猫の関係

今回は、「人と猫の関係」を少し書いてみたい。

猫族と付き合って20年余り、彼らと付き合うほど、その行動に興味が増すばかりだ。
そして、犬にしろ、猫にしろ、なぜこれほどの長い時間、人間たちとパートナ-として
過ごせてきたのであろうか。
夏目漱石、大佛次郎、内田百聞、谷崎潤一郎、三島由紀夫 保坂和志、平出隆等など
猫好きな作家を上げればきりがない。
我が家でも、先ずは、トトという三毛猫、次には、ナナ、チャト、ライ、レト、ハナコ
らの家猫を中心にノロ、太郎、ジュニア、クロ、などの外猫が多数現れ、去っていった。

もっとも、我が家の猫たちは皆、野良猫だった。野良猫たちも生を受けるとすぐに、
自立の生活を強いられる。数か月は親子ともども、よく近所や庭先を仲良く歩き回って
いるのは見るが、車にはねられたり、深手を負った猫を見かけると「生き抜く」
ことの厳しさをあらためて感じる。そんな想いがどこかにあるのだろうか、20年前は
我が家のだれかが、いつも間にか仔猫と同居していた。

猫は犬よりも強い。我が家に集まる猫たちも、ちょっとした病気や怪我も自身の持つ力で
治してしまう。野性としての本能がどこかに息づいているからだろ。ノロという外猫は、
顔の右半分に大怪我をしていたが、数か月後にはいつもの調子で現れたし、びっこを
引いて現れ10日ほど我が家のポーチの下の猫用の段ボールで食べ物をもらいながらも
少し歩けるようになったら、また消えた。その逞しさは感心するだけだ。
その点、犬は中々に親離れしないように見える。病気やケガに弱くすぐに泣きついてくる。
さらには、猫たちを見ていると、その行動や姿、顔かたち、特にその眼の変幻自在さは、
一種の神秘さえ漂わせる。
これは、少し猫への買い被りもあるかもしれないが。
たとえば、古代エジプトでは「猫は神聖な存在」あり、猫は神であったということにも
関係してくるのだろう。だが、その反面、中世ヨーロッパでは猫は魔女の部下でもあった
ともいう。猫は良きにつけ、悪しきにつけても人間の行動思考とは別の超自然的な生体
とも考えられていたのであろう。
それが、多くの小説作りの要因ともなった。
人間に近い場所にいるが、人間とは一線を画する存在、そのように考えると漠然とした
猫たちとの付き合いも何か理解できる。

更に最近の人の心に関する変化も大きいと思う。
「現代人とたましい」とよく言われる「人間の心と身体」の客観的な区別、分離化
であり、あえて言えば、身体を固体化するという近代科学の悪弊なのかもしれない。
すなわち、近代化科学は「たましい」の存在を否定し、すべての物事を明確に区別する。
心と身体を1つの連続体として考えることが少なくなった。もちろん、信仰、宗教が
その役割の一端を担うべきであるが、その役割はますます矮小化され、単なる生活行動
の過程とさえなっている。

いま、仔猫を中心とした猫ブームと言われている。
しかし、写真やブログ、facebookの彼らからは、この離反された「心と身体」の
積極的なつながりは感じられない。
一瞬切り取った仔猫の顔や仕草にそれを求めること自体に無理があるはずだが、
それはわたしだけの妄想なのか。
しかしながら、どういう訳か猫たちは、人間にとって、「たましいの顕現」に
なりやすいようだ。もっとも、そこまで考えている人がどの程度いるのか、
判断できないが。
特に、猫たちをこよなく愛する小説家の文章からは、そこに描かれた猫たちを
通じてその背後に存在する(または、作家たちが作りあげた)「たましい」に触発
されることが少なくない。

わたしの好きな猫と人との交流を描いたものに「どうぶつ帖(幸田 文)」がある。
どうぶつ帖、というタイトルが示す通り、作者自身の人生に関わった犬や猫、
さまざまな動物たちが細やかで豊かな観察によって生き生きと描かれている。
犬や猫と暮らしている人、暮らしたことがある人なら多いに共感し、その温かさを
共有できる。動物たちの素晴らしい描写の中に、人々の暮らしぶりや日本の四季、
自然の趣きが心に染み込んでくる。

ここの「こがらし」は好き文章だ。それを是非、味わって欲しい。

「ちょこなんとすわって、木枯らしを聞いている様子である。風の来る方をよけて。
少し頭をををかしげているからそう見えるので、本当は風を聞いていないかもしれない。
火なし火鉢の猫板のうえに、おすめす不明の婆さんの猫が鼻面をこちらに向けて
香箱を作っている。婆さんと猫と、双方動かないでじっとしている。暗い電燈はしかし、
できるだけよく婆さんと猫をてらしているから、ぼろ綿入れ婆さんのふくらみからも、
毛づやの悪い猫の背みねからも、生きているものの持つラジウムみたいな放射が、
ときどききらりと発散するのが映る。まだ暮れて間もないのに、うちなかもうちの外も
夜深いようにしずまってこがらしは空高く行くようであり、地を擦って行くようでもあり、
風の来た時だけ、あたり一面が音になる。あらしは、さ、さ、さ、さあと遠くから
駆け寄って来て、この屋根に来るとひと際高く、ざあっと過ぎる。
しきりの障子がふうと膨らんで、がたがたと揺らぐと、ぼやっとしなびる。隅にあけた
猫くぐりの1とコマでは通し切れないほどの隙間風が、内の中へ侵入する。
障子の紙は煤でけばだった古ものにもかかわらずまだ風を孕むだけの性が残っている
と見える。阻まれて勢いを殺がれても、風はなお無遠慮に部屋を通って、ばあさんと
猫をこする。猫は普通うしろから風に吹かれるのを好まないものだが、
この黒猫は知らん顔をしている。それでもさすがに、できるだけ毛を寝かせて皮膚を
守っている。ばあさんは風の通るたびに、風に圧されて息もできないといったふうだが、
表情は平安で苦しそうではない。
間拍子を切って正しく、あらしは吹き送って来、吹き去っていく。、、、、
猫は香箱の中で折っていた前脚を立てると、猫板の上で身を震わせて伸びを
しておいて、ぽんと畳へ降りた。降りたそこで、できるだけ高く背中を持ち上げると
もう1つ伸びをした。みていて、ばあさんはもういつものような平安な顔に
かえって、むしろ微笑していた。
「おまえももういつの間にか人の言葉がしゃべれるようになっていたんだね」
猫は黙っていた。」

他にも、「猫の客(平出 隆)」のその詩的描写には、参るだけだ。
上手いですね。

« 止まる一刻の歩みの優雅さと果てしない苦悶 | トップページ | 変わり行くもの »

人生」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/79186/65901365

この記事へのトラックバック一覧です: 人と猫の関係:

« 止まる一刻の歩みの優雅さと果てしない苦悶 | トップページ | 変わり行くもの »

最近のトラックバック

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ