« 2つの好きな絵 | トップページ | 星をつなぎ、昔話を聞く子供たち »

2017.11.27

取り残される老人


焼き鳥の匂いが酔いをさらに深め、酒の深さが増せば、焼き鳥にかぶりつく。
そんな雑多な店の奥でこれも同様に白髪の多い頭を左右に振ったり、禿げた
それを撫でまわす五人の男たちがいた。いずれも六十代後半であろうか、
真っ赤な顔に浮き立つ汗を拭くもの、すでに酔いしれて舟をこぎ始まったもの、
コップを片手に持って盛んに政治談議をするもの、様々な想いがその場には
渦巻いている。紫煙が天井を伝い彼らの脇に控えながら身体の波動に合わせている。
毎月行われている同期の会の面々が相も変わらず日頃の鬱憤をさらけ出していた。
それは徒然草にもある
日暮れ、塗みち遠し。吾が生既に蹉陀たり。諸縁を放下すべき時なり
「俺の人生は大体ケリがついた。これからはもう世間のために生きるのは止めて、
自分一個のために生きよう」と考える。
の世界でもあった。彼らが「終わった人」としてライフサイクルの最後のステージに
身を置いて十年近くとなった。しかし、彼らの周囲はまだ活気のあった1980、
90年代のままに見えていた。深夜近くまで仕事をこなし、安酒と腹の足しに
なりそうな料理さえ出てくれば、満足な店で上司や会社の不満を言い合い、
翌日にはまた忠実な仕事人間として現場に立って、俺が日本の成長を支えているんだ、
という極めて曖昧な自負と自信に酔っていた時代であった。

「Kは癌だってな。この前病院に行ったが、痩せて別人に見えたよ」
Cは天井に目を向け、僅かに残った白い薄毛を右手で撫でている。Cを見ながら
退職の挨拶に来た時のCの黒く艶のある髪をオールバックにした精悍な顔が
昨日のように思い出されていた。だが、Aの姿も歴然とした老人のそれであった。
他の四人も含め、失われたのは時間ではなくその肉体も失われつつあった。
「まあ、俺たちもああなるかもしれないね。M、お前は太り過ぎだ。ちょっとは痩せろよ。
まあ、かみさんもいないし、適当に食べてるからそうなるんだ」
「近頃は、朝鏡を見るのが怖いね。鏡の中にひどくやつれた年寄りがいると思ったら、俺
なんだからな。髪を梳いていると櫛に細い白髪が何本も絡みついてくるんだ。
寂しいね」Bは入り口近くで何度となく乾杯を繰り返している中年グループに目を預けた。
眼尻が下がりやや色を失った黒目には、非難の色より懐かしさと羨ましさが浮かんでいる。
会うたびに出てくる話題は同じだ。身体と死に関することだけだ。
だが、当人たちはまだ死神ははるか遠くで見ていだけ思っている。「生より死に移ると
心うるは、これあやまり也」Dの頭の端にそんな言葉がテレビに流れるテロップのように
右から左へと流れた。

突然、その沈鬱な空気を小さなベルの音が切り裂いた。どこかで聞いた音楽であったが、
それも遠い思い出の一つとしてすぐに忘れ去られた。
Aが慌てて、スマホを取り出した。「分かった。もうそろそろ帰るよ」電話は切れた。
「お前はスマホか」皆がその黒く光る携帯電話に目を向けた。
「最近はうちの奴もスマホをパソコン代わりに使ってるよ。今のおばさんはメールや
LINEで連絡しているしな。何か知りたいことがあるとインターネットですぐにスマホから
情報を見てるぜ」「俺なんか携帯さえ持っていないよ。自慢とは言えないけどさ」
「それは遅れすぎだよ。何かあったら、どうする気だ。もっとも俺も奥さんがしつこくいう
もんだから持ってるけどさ。結構使うと便利だね」

Bは彼らの話を聞きながら八十年代のあの日のことを思い起こしていた。初めてパーソナル
コンピュータのソフト開発を言われた日であった。思いのほか大きな箱にチカチカと光る
画面が彼に対峙していた。あれから三十年経ち、何かの雑誌には今眼の前にあるスマホ
の方がその機能ははるかに高いと書いてあった。頑丈な四角い箱に小さな画面があり、
本体と合わせるとかなり重たかったことだけが手の触感として残っていた。
それがB4の本程度となり、スマホとなってあらゆる人と会話ができる時代なのだ。
しかし、それらが織りなす情報の波の中に俺たちはいない。明日もまた新聞を読み、
テレビから流れ出てくる情報に接し、その後は、、、、、、、、、何もない。
そして次の日も、同じ繰り返しの日々だ。隠遁生活と呼ぶにはあまりにも寂しい。
Bが突然顔を上げた。「またか」そんな想いが他の脳裏をかすめたのであろう。
Bが冷め始めるとしつこく議論を始める。もっとも、その多くは新聞記事か雑誌で読み知った
ことを聞いてくるのだが、老いを感じ始めている人間にとってどうでもよい内容でもあった。
今日の犠牲者はBであった。彼の夢想ただなかにいた眼がたまたま彼の顔の前にあった。

「少し前に読んだ新聞記事に(フラット化する世界)というのがあったけど、調べようとしていた
けど今思い出したんだ。それってなんだ」
それはトーマス・フリードマンが書いた本であった。題名につられて買ったが、今は埃が
何層も重なっているだろう。
「まあ、俺もよくわからないけど、インターネットの拡大で個人も企業も情報が素早く手に入る
から経済や人の行動が一体化していくような世界になるという意味だと思うけど」
他の三人は黙ってBの言葉に注意を払った。彼らにはすでに世界という言葉は災害とか
テロとか何か耳目の引く時以外すり抜けていく言葉となっていた。
だが、実は見えない敵が静かに迫るがごとく彼の生活にも大きな制約や利益を与えていた。
Bは腑に落ちないと言った顔をし、そこにあった焼酎の残りを一気に飲み干した。
喉と頭に詰まった何か分からぬものを廃絶するかのように。

« 2つの好きな絵 | トップページ | 星をつなぎ、昔話を聞く子供たち »

人生」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/79186/66094758

この記事へのトラックバック一覧です: 取り残される老人:

« 2つの好きな絵 | トップページ | 星をつなぎ、昔話を聞く子供たち »

最近のトラックバック

2018年8月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ