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2018.01.28

猫になった男その1

先週から我が家に来た野良の親子三人に捧ぐ。
二人の茶トラの仔猫と茶に黒縞のある母猫が我が家の縁の下で過ごし始めた。仔猫は飼っても
良いが、中々に難しそうだ。


猫になった男

彼が猫を飼うようになったのは、ちょっとしたきっかけであった。その日、彼は彼女と別れた。
別れた言うのは、少しかっこの良い響きだが、実際はふられた。特に喧嘩をしたのでもない。
罵られたのでもない。だが、彼女ははっきりと言った。それは群衆を前にあたかも一国の
総裁が自身の進退を世界に明言した強さと明確さを持っていた。「あなたと付き合いきれない。
これからは電話もしないで、もしどこかであったとしても声をかけないで、その目は言葉以上に
彼を拒絶していた。小雨が彼の肩を濡らし、濡れ始めた肩や背中に黒い染みが徐々に
広がっていく。道を行く人もそれに気づくが目を逸らし何もなかったように通り過ぎていく。
髪は雨に濡れそぼり耐えきれなくなった水滴が一つ二つと目がしらに落ちていく。
初めて彼は雨を感じた。天を仰ぎ、その薄墨の空を見上げて我が身の不幸をまた思い起こす。
彼女の顔が一瞬その晴れやな微笑とともに現れるが、首を振りそれを打ち消すように
また歩き出す。

その時、どこか遠い所から弱々しい音が聞こえて来た。立ち止まると一層その音は明瞭となり、
それが猫の声であることを知った。それは店の横の空き箱の方から聞こえて来ていた。
しかし、彼はそのまま行きすぎた。「今の俺に猫を構うほどの余裕はない。どうせ誰かが
捨てたんだろう。捨て猫はごめんだ」。「捨て猫」、その言葉が彼の足を止めた。雨の雫がまた一つ、
彼の鼻をかすめ道路で跳ね上がり、小さな水のお椀を作った。猫の鳴き声はまだ聞こえていた。
空き箱の横の段ボールには二匹の仔猫が此方を見るかのように縮こまり雨に打たれていた。
その四つの眼は彼をじっと見つめ、「助けて」と言っていた。

家に帰ると、先ずは、二匹の仔猫を洗った。薄汚れていた毛並みから綺麗な茶色に縞模様の
姿が風呂場の光の中に浮かび上がった。二匹は、雄と雌だった。「誰が捨てたんだ」「親は
何処へ行ったんだ」、頭の中には、見えぬものへの苛立ちと不満が渦巻き、それが一層二匹に
哀切の情を沸かせた。だが、彼も困惑した。猫を初めて飼うのだ。とりあえず近くのペットショップで
猫の餌と店員に言われた糞尿のための一式を買った。二匹は部屋の片隅でじっと彼の様子を
うかがっているようであった。餌を小分けにして二匹の前に出しても、身寄せ合うような体勢で
じっとしている。それは仲の良い兄弟が美味しそうなおやつを出されても、食べて良いのか
迷っている姿にも似て可愛い。だが、それに安心して食べなさいと言ってくれる母親はいない。
まだ彼らと彼の間には、見えない壁があった。彼は疲れていた。彼女に最後の言葉を突き付けられ、
雨の中を歩きまわった疲れが彼を心地良い眠りの世界へと引き込んでいく。
白色の光が朧の薄橙色に変わり、やがて暗闇に変じていった。彼は夢を見ていた。彼女が白い手を
差し出し、微笑みながら緑に揺れる草原を走っている。甘く切ない香りが黒髪のなびきに合わせて
彼の鼻をくすぐっていく。走っていく草むらからであろうか、カリカリという金属音を含んだ音が
二人を包み、やがてその音に耐えきれなくなった彼女は膝付き、耳を覆って苦しみの表情を見せた。
その音が高まるに連れて彼女の身体は透明になり、緑の中にやがて消えた。

目を開けると二匹の仔猫が盛んにえさ入れに首を入れて食べている。カリカリ、カリカリ、夢の
しがらみは消えていないものの、その音に彼は満足した。
数か月もすると仔猫は猫になった。牝にはハナ、牡にはチャトと名前を付けた。
彼らは捨て猫から人生のパートナーに昇格した。二人は、同じ親から生まれたはずであろうが、
その容姿、行動は全く違った。ハナは茶色の美しい毛を風になびかすかのように部屋中を
駆け巡った。足が長く、顔は全体に頬骨が張っているものの小顔で切れ長で金色の眼が
と細身のしきしまった体が印象的だ。チャトは茶に少し白が混じった毛並みをやや太めに
なりつつある体にまとい、やや動きが緩慢である。鼻の横に白く太い線が通っており、黒目の
強い眼と合わせると学者の趣を見せた。ゆっくりと部屋を歩きまわり、その大きな耳を時折
前後に揺らしながらじっと何かに見入る姿は哲学者の風情でもあった。強いて二人の似ている
処と言えば、その尻尾の長さであろう。長い茶色の尻尾を垂直に立て、ゆらりゆらりと歩く姿は
ともに心の落ち着きを彼に与えた。

彼はそんな二人に夢中になった。「なぜ俺は、あんな訳も分からない女をすきになったんだろう」、
そんな考えが彼を支配し、彼の生活のすべては二人の猫を中心に周りはじめた。
二人は、実に愛らしかった。然もその愛らしさが全く違うということが彼を更に魅了した。
チャトはゆったりと動くだけだが、彼がソファーに座っていると、ソファーに飛び乗り
彼の横に来てじっとその黒目で見上げるのである。そして、頭を膝近く寄せて太ももを
枕代わりにそのまま寝入る。いかにもそれが母親に寄り添い眠りにつく子供の姿を連想させた。
ハナは、お転婆娘そのものだ。彼が帰るとまず、カーテンに飛びつき、窓の端から端へと器用
にわたり、そこでひと鳴きすると、彼の胸に飛び込んでくる。食事の時は彼が食べているものを
あの金色の眼で追いながら、盛んに食べさせろと、要求の鳴き声を張りあげる。彼がそれを
七十、八十センチほどに上げると飛び上がり取って食べ終わると自慢げな顔を彼に見せる。
更には、カーテンに飛びつきあっという間に駆け上がりそのまま反転すると一直線に彼の膝
まで下りてくる。それは小学生の女の子が好きなだけ遊んで自分と自分の家族に「私は何でも
できるのよ」と自慢げに見せる素振りであった。彼女は来てすぐから非常に豊かな表情を見せ、
眼や、口元や、小鼻の運動や、息遣いなどで心持の変化を表す事は、人と少しも変わらなかったし、
その大きな金色の眼はいつも生き生きとよくよく動いて甘える時、いたずらをするとき、どんな時
でも愛くるしさを失わなかった。

チャトは見る間に大きくなっていった。ハナが細くしなやかな鞭のような体つきとなっていったが、
チャトはがっしりとした体に白と茶色の縞が浮き立ち、いかにもその強さを見せつけていた。
だが、実際は、張り子のトラであった。彼の生来の優しさが喧嘩を好まず、たえず穏便に済まそうと
する態度が彼を傷つけた。時折、二人は彼の眼を盗んでは、近くの庭や軒先、時には人の家に
まで入り込むことがあった。彼が休みの日の緩やかな微睡の中にいた時であった。
外で「ニヤオ、ウォ、、、」、猫のやりあうこれが響いた。慌てて彼が外に出ると、チャトよりもやや
小柄な黒猫がチャトに飛び掛かかっていた。黒猫の右足がチャトの顔面をとらえ、後ろに引いた
チャトを両足で殴りつける。チャトは驚きの表情を隠せず、ただただ黒猫の成すがままに転がされ、
耳を噛まれ、ぼこぼこにされていた。彼が脅かすと、黒猫はぱっとチャトから離れ、悠然と去って行った。
「チャト、大丈夫か」と声をかけると初めて彼に気づいたようで、彼の足元にすり寄ってきた。
何度となくすり寄りながら悲しそうにあの大きな黒目で彼を見上げて小さな声で「ニヤオ」と鳴いた。
彼には、「負けて悔しい。またやられたの」と聞こえた。黒猫とはすでに数回、渡り合っているが、
一度も勝ったことはなかった。彼はチャトを抱き上げ、その悲しみを和らげようとしたが、チャトは
目を伏せ何度も彼の頬にその顔をこすりつけた。それはちょうど小さな子どもが喧嘩で負けて
涙をこらえて親にその憤懣やるかたない気持ちをなんとかしてわかってもらおうとしているように
訴えかけているように思えた。その日は、チャトは彼の傍から離れず、膝の上でただただ目を伏せ
自分に起きた悪夢から逃れ、親に甘えている姿であった。
彼は、ハナとは違うチャトへの愛情が一層増すのを感じた。身体は大きいが、優しさ溢れるチャト、
長い毛を優雅になびかせ大きな金色の眼で魅了するハナ、二人はそのままに歳月を重ねて
彼と二人の生活は家族以上の親密さと楽しさを醸し出していった。
彼の生活は充実していた。家に帰れば二人が、ハナは彼に飛びつき、チャトはのっそりと寄って
きて彼の横でそのまま張り付いたように動かない、言葉にはならない態度や表情で出迎えてくれるのだ。

続く

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