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2018年3月19日

2018.03.19

取り残された老人たち 続き

翌朝、少し二日酔いの頭を抱えながら散歩に出た。晩秋の朝は空気が透明だ。
足元からかさかさという小気味よい音調が聞こえてくる。銀杏並木の銀杏の葉も
半分ながら美しい黄色の模様を見せている。黄色の世界とその途切れた合間に
顔を出す葉の落ちた枝がまるで老人のやせ細り干からびて皺の寄った腕に見える
その寂しげな姿に快い銀杏の調べとともに喜悦と寂寥の想いを感じる。

暫く歩くと急な坂の向こうに湖が静かな面立ちでこちらを見ている。湖の手前の街並み、
細い波縞を見せる湖、更に対岸の薄緑に映えた山の幾つかの影のような立ち姿、
その奥に頂を白く輝かせている山並み、それらが一つのキャンバスとなって優雅な
自然画を作り出している。時にその情景を勘違いする。それが道を遮る一枚の絵画と
思わせるからだ。そしてその絵の中に窮屈そうな姿勢で歩いている人影を見る。
横に介添えのためであろうか、お婆さんがしきりに彼に何かを言っている。
時にその二人連れをよく見るが、その光景にほっとする自分がいた。母は早くに死に、
父は元気に自転車に乗っていた時に車にはねられて帰らぬ人となった。
介護すべき年寄りが早くに自分の周りから消えていた。しかし、最近はあの光景は自分の
それではないかと思うことが多くなった。「老醜」という言葉が苦みを持って胃から口へと
せり上がってくる。それは、自分にとって、死と同じだ、と思ってきた。

それは果てしない砂漠を歩くかごとき思いで、何時頃かという時間感覚さえ分からなくなる
ほどの長さを持っていた。では、死とはどういうものなのだ。昨夜の酔いの中での色々な
ことがあの焼き鳥や囲炉裏の薄い煙の中に浮かんできた。誰かが、死んだらどうなるのだ
と少し感傷的な気持ちを酔いの中に吐露した。皆の頭に半年前に心臓発作に倒れ、
二日後に帰らぬ人となったZの丸坊主の顔が浮かんでいた。誰もがその想い起こす
時間には差があるだろうが、白い棺の中に横たわり、白衣をまとった自分を見ている。
またそれを棺の黒枠が邪魔だと思いつつ下から見上げる自分を思っているかもしれない。
死とはその程度のものと思う自分がいた。

昨夜の焼き鳥や安酒の匂いが湖を渡ってきた風に消えたころ、少し汗ばんだ気持ちが
我が身を反転させた。湖から家まではかなり急な坂道がある。そこを太陽に背を押される
ように上り始める。足の苦しみが少しづつ腰から胸、そして頭へとその歩みの高まりごとに
せり上がってくる。二十年以上の不可解な想いが浮かんでくる。「なぜ、こう苦しんでまで
湖まで歩いてくるのか」と。

家の扉が油の切れた不細工な音を上げる。そこは死の世界の入り口のような趣を持って
彼を出迎える。疲れ切った身体を一番手前の椅子に預ける。二十畳ほどのリビングに
どんと据えられた大きなテーブルが斜めから射しこむ朝日の影を黒く太い線を床に
描いている。かって、さざめく五人の声、五人の猫たちの鳴き声、時には口をカチカチと
歯音でなく犬、更にはボリュームいっぱいのテレビの音、小宇宙の如き小うるさい
世界がそこにあった。しかし、時の流れは音もなく流れ、先ずは一,二人と息子が消え、
猫たちも二人が消えて行った。さらにまた一人息子が消え、猫も最後の一人となった。
そして二年前、最後の人であった妻も遠くへと逝った。犬も消え、この老人が一人
まだ残っている。

彼の目の前には、ビロード様な真っ赤な花と艶やかな深緑の葉を持った薔薇が一輪あり、
大きな樫の木のテーブルで焔のような姿形を見せている。そのプリザードフラワーの
薔薇は半年ほどその姿を変えずに、彼のコーヒーを飲む時の伴侶のようでもある。
いつまでも変わらずに保ち続けるその姿に彼は一種の憧憬を持っていた。時には、
朝日の射しこむ白い光の中でそれを味わい、やがてポーチに長く赤く引く光が見え
始まってもそれに見入っていることもあった。
そこでは、時が止まっていた。

時に、妻が横でにこやかな微笑を見せているときもあった。彼は思い出す。主治医に
「亡くなった」といわれたが、その手がまだ温かく柔らかな手であったことを、そして妻は
「死に行く」のだとも思った。たしかに納棺された彼女の手は冷たく硬かったが、これが
彼女の死とは思えなかった。人は生まれ落ちた時から死に向かうと聞いたときの気持ちが
蘇った。生と死を明確に分けることは出来ない。そんな単純な思考とは思えない。
現に傍には、妻の呼吸が、匂いが漂い、一緒にコーヒーを味わっている。死に行くものの
妻は生という中にまだいる。それは、彼の心の中に同居している生かもしれない。
だが、それを感ずる人間にとってどうでも良いことなのかもしれない。
死が外生的な事象であってもそれが内生的な事象と全く同期化している必要はない。
外生的な死を認めても内生的な死が己に存在するのであれば、その死ですべてが
終わったとは言えない。冷めていくコーヒの薄く消えかかった香ばしさと湯気が彼を
見つめている。

庭の木が一斉に左へ傾いた。ごうという音が大きなガラス戸を揺るがし、流れ去って行く。
枯葉が数枚錐もみのような運動を見せ、そのガラス戸に当たるとそのまま張り付き残った。
いくつもの枯葉が私をのぞき見ている。斜めに首をかしげる様な仕草、直立不動の一寸
の乱れなき兵隊の整列のように、そして転寝の私の姿のままに、様々な姿形を直線的に
伸びる光に浮き上がらせている。私は所在なさげにそれに見入っている。
春から夏へ、秋へといつもの変わらない日々が変わらずに過ぎ去った。生ぬるい日、
格別な苦痛も苦悩も心配さえない日、絶望もない日々だった。悪い日と言えば、寝不足の
せいでひどく頭痛があったことぐらいだ。テレビの映像も右から左へと流れる川のように
私の心の襞に一片の傷も喜びも残さず、流れすぎていく。

少し前であれば、この平板な単調な日々を、これこそ究極の幸福だ、と言い切ったものだが、
今はそれに苦痛さえ感じる。しかし、いつごろからか時間という感覚が薄れ行き、それに
幸福感を感じる自分がいた。椅子に座り、ふと気づくと時計は12時を指していたり、
何かの音を聞いてまた時計を見ると短針が5時のところにあったり、やがて時計を
見ることさえなくなった。そこに嬉しささえ覚えた。日の明るさが私の時間感覚を占め始めた。
起きることが陽の強さを感じるままになる。やがて部屋が日に満ち、それが弱くなり、
薄赤や橙の色を帯び始める。そして拡がる闇に追われるように夜の食事となる。
曇りの日は少し厄介だ。光の変化が感じられないと私はテーブルに座ったままで夜の
暗闇をむかえる。そんな時、時間もまた私と同様に死んでいる。死ぬべき連れが1人
増えたのだ。

またある停電の夜、私は不思議な感覚を覚えた。その日も朝からテーブルに座っていたが、
夜になって街の明かりがすべて消えた。時間が無くなったような生活でそれがいつまで
続くのかという心配はなかったが、その日は一向に周囲の家並みを見ても明るさが
戻ってこない。指の感覚はあるものの、それが本当に指なのか目で確認することが出来ない。
座っている椅子の感覚はあるが、それが本当に椅子なのかわからない。どのくらい経った
のかもわからない時、少しづつ身体が周囲の闇の中に溶けだしていく。指が溶け、
足が氷が溶ける時のように少しづつ闇に吸収されていく。心は生きている感覚を
保っているが、身体は徐々に自分から離れ、青白く光る心がそこから遊離して部屋の中
を彷徨い始めたのを見た。この青白いものはどこに行くのだ。そんな気持ちに囚われた。

俺はこのまま死の世界に吸い込まれるのか、生まれ変わって別な人生を生きられるのか、
そんな淡い期待と想いが頭の中を浮遊していた。「もう十分に生きた。死んでも悔いは
ない」と息子たちに言ったときの晴れがましい顔が浮かんだ。
しかし、徐々に体が震えはじめた。溶け行く体なのだからそんなはずはないと思いつつ、
身体は制御できない機械のように勝手に振動、震えを起こし、やがてテーブルも震えた。
「俺はまだ死にたくないのだ」そんな本音が体から滲み出し、彼の偽りの懺悔をさせている
ようでもあった。昨夜のAとCの顔が浮かんだ。彼らを羨んだ。俺には、この無音と暗闇の
世界で生きていく自信はない。

夫婦というものが、たとえそれが形だけ、偽りのものであっても傍に誰かがいるということは
幸せなことなのだ。だが、彼らはそれが幸せだとは思っていない。幸せもさらには、
時間も己の心の世界で作り上げるものだ。
突然光が彼を包み込んだ。ガラス戸の中に真っ白な髪に薄くなった眉毛と腫上ったまぶたの
男がいた。その彼はテーブルにしっかりとしがみ付き、地獄からの使いにでも抗うような
姿勢でもう1人の老人と向かい合ったままだった。
やがて彼はゆっくりとテーブルに、それは枯れ木がその根元から折れ、庭に倒れるかのように、
うつ伏せに倒れ込んだ。その傍には、妻が微笑みながら彼の薄く白くなった頭を静かに
撫でていた。彼の顔もまた幸せそうな微笑に包まれていた。

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