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2018.04.02

春の短描

私は明け行く朝の光の中にいた。
まだ白さが半分ほど残る山並みが橙色に色づきはじめ、薄暗い蒼さに太い毛筆で描いた
尾根の緩やかな曲線が次第に溶け込んでいく、その姿に見入っていた。空の白さが
増すにつれて山並みもその荘厳さを失い、平板な何の変哲もない朝の情景に成り
下がっていく様を、肌に寄せる寒さを感じつつ、その喜びを急速に胸の内に押し込め、
この朝の自分の行動を馬鹿々々しく思った。
まだ外は、冬の情景に張るが忍び込んでくるような状態であったし、春はその隙を縫うか
のようにわずかな微笑を見せているだけであった。期待の高まりが、私の思う以上に
失望を大きくした。大きく息を吸い込み一気に吐き出す、まるで坂を全速力で上がろうと
あがく機関車のように、仕草でかじかんだ手を温めようとした。そこには望み叶わなかった
想いの色が灰色となってその白さを濁らせた。40代も終わりを迎える彼にとっては、
春は微妙な感じの肌合いになりつつあった。父親がよく言っていた「50の歳ともなると、
何故か秋の憂いと寂しさに惹かれるようになるものだ」、その言葉が耳から入り込み
腹を通ってまた喉元から吐き出される、何も付け加えられず、消化もされずに、
その感情をそのままで空気をなぞった。秋の色と春の色が微妙に混じり合い、私の心を
揺らしている。

しかし、いま心の天秤は春に傾きかけていた。それは秋色が老いという影に近づくという
潜在的な怖れと春を楽しんできた心の惰性の成せることからだったかもしれない。
今朝の馬鹿げた行動はそれを確かめたいという心根から生じていた、と私は考えた。
春の持つ生命の息吹き、秋の持っている心の安寧、いずれもが魅力的ではあるものの、
とふと私は足を止める。本当にそうなのだろうか。

そして、春と呼ばれる日々を思い起こしていく。春は立春から始まるとされている。
2月の初めだ。それは、東風と言い、春風が吹き出し頃というが、寒風はまだ凄まじく
周囲をかける。比良おろしに雪がまじあい、今年の冬は中々に寒さが厳しかった。
福井など北陸は過去最高の積雪で3メートルを超す地域もあった。こちらは大寒ほどの
雪はなかったが、寒さはどこでも変わらない。庭の梅の木も蕾が多く顔を出しているが、
寒そうに首を縮めていた。そろそろ見かけるメジロにも出会ていない。今年は例年より
2,3度低いそうだ。この時期、魚氷に上がる、の通り「春寒、余寒」の呼び名を思い
起こす日々が続いた。「冬過ぎ去りてもいまだ春寒し、遠くにあり」の言葉がよく似合う。

だが、3月初めの声が聞こえると、さすがにここ1週間ほどは暖かさが感じられる。
比良の山の雪も薄くなった。頂の付近にはまだ残るものの、緑の色が少し深くなった
ようにも見える。降る雪も雨となって地を潤していく。この時期の雨を「木の芽起こしの雨」、
「催華雨さいかう」ともいうそうだ。
近くの田圃の切り株にも春の気配が近づいた。対岸の守山の公園には菜の花が咲き
はじめた。春キャベツが美味しいころだが、今年の雪の多さが災いして野菜が高い。
菜花が売られていた。葉は柔らかく緑が鮮やかで春を告げる旬の緑黄色の野菜だ。
ほろ苦さがあるが、栄養満点の野菜だ。やはり春の心は食に傾くのだろうか。

湖の景色が薄ぼんやりとたなびいている。霞が出ていた。霧とは違う定義だそうだ。
薄ぼんやりとたなびく様が霞、目の前に深く立ち込める霧とは違うかもしれないが、
「立ち上る」場合は霧という。もっとも、見る人にとってはどちらでもよいが。
だが、私の感性にもこの言葉使いは何故か似合う。

さすがに暖かさが身体を潤す。梅の蕾もふくらみが増し、そこはかとない佇まいを
見せはじめた。よく見るとその薄ピンクの蕾が群れ騒ぐ中に1つ2つと花弁を開き白い
細毛に小さな黄色い帽子を付けて見せている。そぼ降る雨に打たれて翌日もまた
1つその姿を見出した。さらに進めば、春の兆しがようよう見えてくる。いまは冬の残照と
春の温もりがせめぎ合い、その力を競っている。庭の梅も蕾から花に変身するもの、
まだ固くその身を閉じているもの、お互いに相手を見る素振りで華を開く時期を
見計らっている。琵琶湖も澄んだ空気に対岸の伊吹の山並みを見せることもあれば、
霞の中に薄白く茫洋とした蒼さが拡がることもある。田の色も黒く畝となって春の日差し
を帯び始め、場所によっては、その茶褐色の色を田の一面に張り出ている。

旬菜をまじえた料理を味わった。鰆の西京漬け、こごみのてんぷら、鯛の造り、筍ご飯、
鱒桜寿司などなど、春が口からも感じられた。わらび、ぜんまいの新芽も味わえるだろう。
「菜虫蝶と化す」と言われるが、それもまた身近に感じられる。やはり春は捨てたものではない。
薄くなった雪を押しのけるように顔を出す早春の山菜は、ふきのとう、オレンジ色の八重咲の
花がきれいなヤブカンゾウ、にりんそうの白い花が咲き乱れる群落、更にせり、なずな、
春の7草をてんぷらや味噌あえにしたのが目に浮かぶ。
やがて山端の薄い緑が濃くなり始めると、ハハコグサ、ハコベ、セイヨウカラシナ、ノビル
(にらに似ている)、タネツケバナ、さらにヨモギ、セイヨウアブラナ、ギシギシ、スイバ、
セイヨウタンポポ、ハルノノゲシ(ぎざぎざの葉に黄色の花)、クレソン、などが、まだ眠りの
見える田圃のあぜ、河原の土手にその姿を見せる。

しかし、時には冬の残り香を嗅ぐことにもなる。夜の寒さはまだ続くし、比良の山並みにも
小さな雪帽子もあり、時にその白き絹ずれが中腹まで這いおりてくる日もある。
冬の澄み切った空気以上にその透明感を増す秋のそれであり、琵琶湖の青の深さでもある。
そこに秋の深さを知る。茫洋とした中に見えない未来を感じるか、透徹した光景と
精神の穏やかさに自身の姿を見切り、その先に存在の有無を知る。
春と秋、並び立つ2つにいまだ戸惑い悩む私がいた。

春分が見えると、いわゆる春だ。梅が満開だ。ピンクの花びらがぱっと開き我が人生
謳歌の時となる。褐色の幹や枝を覆い隠し、不細工だった褐色の庭が萌え、彩が彼方此方
から漏れ出てくる。

男2人が所在なさげに浜辺に立っている。遠く霞の中に沖島がゆらりと浮かんでいた。
松林が白砂の上に無数の短い影を投げかけている。3月も末になると、比良八講という
行事が執り行われる。琵琶湖の春はここから始まる。比良の山並みを這うように吹き
下りてくる風は荒々しい風神のごとく木々を押し曲げ、ガラス戸を叩き、また時には湖上の
舟を揺らし波に揉む。しかし、今日はその勢いは全く影を潜め林になびく幟は静かに首を
垂れている。うずたかく積まれた杉の枝の祭壇は日光の中で白く輝き、その周りを多くの
人影が風に揺られるかのように左へなびいたと思うとまた右へと戻ってきた。
2人はその無作為な動きと青空と砂浜の間を行き来するどこか浮き立ったざわめきの中にいた。
「春は通り過ぎたような天気だな。暑いわ。まだ行列は来ないのか」
彼は湖辺で水に親しむ子供たちを見て嘆息の一声を発した。子供が投げた石が見えない
航跡を残して湖に3つほどの飛沫を見せた。ポンポンという音が風音の間を縫って聞こえた。
皆の顔が一斉に左へと向いた。重く地を這うような読経が松林の影を払いのけ、
それが空中を舞い始めた。紫や黄色の袈裟が1つの流れとなりそれに続いて白い装束に
金剛棒の響きをのせた修験者が一呼吸遅れてその白い影を見せた。

読経と見物人たちのざわめきが混じり合い消し合うかのように松林の先、護摩壇へと動いていく。
「ようやく来たか」
私は少し安堵した。春が形を見せたのだ。風がその後を追うように動いた。見上げれば、
比良の山並みが笑っている。多くの人にとって、春が一番好まれるのだろう。
また私の心根に秋の静けさが寄ってきたが、護摩壇から立ち上り始めた白煙が少し黒さを
まじえて人々の顔をなぜ上がっていき、歓喜する声にそれは押し戻された。白煙の底に
ちらりと赤みをさす、それは蛇が獲物を前に赤い舌を動かしていくに似て、その凄みを
更に周りへと舐めつくす。10数人の僧たちが唱える読経が立ち上る煙に力を与える
かのように、その厚さを増し、渦巻く様は天に昇る龍の姿形に変貌しつつあった。
比良の山並みと青白く映える湖、白く輝く太陽はその太く巻き上がる煙に紛れ、天を
駆け上がろうとする龍に道を開けるかのごとき光景を見せていた。

2人は満足げにその情景に見入り、煙り巻く護摩壇を取り囲む人々と一体となっていた。
「これが湖畔の春か」
ぽつりと砂に落とすような声がした。

近くの喫茶店に2人はいた。先ほどまでいた松林が青い線を木々の間に見せながら
かなり先まで伸びている。目の前の道を満足そうな趣の人々が三々五々と駅の方へと流れていく。
「やはり春は一番いいね」
彼はコーヒーを口に当てながらそう言った。私は黙って少し翳りの見える比良の山並み
を見ていた。霞みにその山肌がおぼろに見える。中腹までせり上がった緑がまだ残る
クヌギやコナラの褐色の色と混ざり合い春と冬のせめぎ合いをしている。
だが、それもあとわずかだ。もう1ヶ月もすれば、山は緑が占拠し、夏に向けてその深さを増していく。
不意にその色が暗転した。想いの中に秋が現れた。芒の穂波が吹き下りる風に逆らうこと
なく右に傾いている。透きとおる空の青さに金色に輝き、すでに緑の強さを失った山並みを
遮るように日を一身に浴びていた。私のそのさざめきにいた。
大きく開いた鼻腔から秋の様々な香りが一気に流れ込んできた。刈り田の香ばしい香り、
薄紫に彩られた煙が吐き出す枯れ葉を焼く匂い、そこに割り込むように冷気を含んだ清涼な空気、
それは春の香りとは対極にある。制御しきれない生き物の力ではなく、自然からのすべての
力を与えられ自己完結したという満足の心根の香りだった。

「親父が1年前の今頃死んでね。その時に思ったんだ。春に死は似合わないとね。
老いて死に行くものにとって周りがどんな季節かなんて気にしないだろうけど、
残りそれを見届けるものは違うよな。それにふさわしいのは秋だよ」
私は少し驚いた。思えば、私が秋を好きになったきっかけは父の死だった。
それも秋が四方を深く支配している時期であった。父の家は山端の木々に抱かれる様に
静かにたたずんでいた。久しぶりの帰郷であったが、家は茅葺きにそのままの姿を保ち、
白木にしつられた棺を開けて見た時の父の白く穏やかな顔が煤で黒くなった柱や梁に
映えてひどく美しく見えた。出棺の前の一時、枯葉に覆われた雑木林を1人で歩きまわった。
かさかさという枯葉を踏み鎮める音と、葉の落ちた木々から射し込む薄日の橙や
黄色味を帯びた光、その間を囀り飛び渡る鳥たちの声、それらが一体となって私を
数10年前の世界へと引き込んだ。褐色の艶やかな肌に柔和な笑いを見せていた父がいた。
それにまとわりつき時に枯葉にうずまるような仕草を盛んに繰り返す私がいた。
遠くで母が何かを叫んでいた。だが、その透き通った空気にまず母が消えた。
そして今父は声なき身体となって棺に身を横たえている。哀しみより心の安らかさ、
雑木林の秋が私を癒してくれた。

「俺は、やはり秋が好きだな、心の安らぎが得られる。特にこの歳、このような世の中ではね。特にね」
春に傾きかけた心根を内に閉じ込めた。
「親父の時の想いはあるが、まだ俺は春がいいね。このわき立つような空気と人が
醸し出す生への想いは捨てきれないね。まあ、死がなんとなく俺の周りに見えたら考えが
変わるかもしれないけどね」
私は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。その苦さが彼の言葉とともに心に落ちた。

循環する季節と人の心根、時は直線的な歩みのようでいて、そうではない。
それは己の歳の積み重ねとともに、強固に私の心に棲みついてきた。
1年後にも同じ思いが私を離れずに少し色褪せたような色合いで私の心を彩っている。
それは、棚の上にそのまま置き忘れられ、埃を被った茶碗のようでもある。
循環は人に安心と安寧を与える。それを味わえるのが老いの特権でもあり、
直線的時の流れを堪能できるのが若さの強みである。春は生がわき目もふらずに
ただ進むだけのものにとっての季節なのだ。秋は過去の己を見、少し先の我が身を
見ることに喜びを見出すものの季節だ。
私はやはり秋が好きなのだ。

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