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2018年5月20日

2018.05.20

西近江路紀行3 和邇

西近江路紀行3 和邇

小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。
その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の
要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき)
神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、
地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念
に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として
仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに
歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という
旅館があり榎の大木があったことをしのばせていた。その旅館もいまは
跡形もない。この交差路を左に行けば、天皇神社から途中峠と向かう。

天皇神社は、元天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して
和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、1876年にに天皇神社と改称された。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)、三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社
本殿もあり、近世では、五か村の氏神となっている。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立された
と考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の
鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物だ。
5月8日には旧六か村の和邇祭が行われ、庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)
の境内には、各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、
今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は
若宮大明神があり、夫々の神輿が出て、中々ににぎわう。

少し和邇祭を点描してみよう。
その身、雲が一片足りとも見えない蒼く透明な空とともに祭りの日となった。
普段わずかな人影だけが残されている境内には五基ほどの神輿がきらびやかに
鎮座している。その少し先にある鳥居から三,四百メートルの道の両脇には
色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、
たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの
塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると
ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。
周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。
駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に
照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。
神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。
揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、
スマホで写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。
その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。
いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。
神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ
駆け抜けた興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。
少し前までは、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、
氏子たちが納行事を始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、
その面影は薄い。やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を
抜けてくるようで、厳粛な雰囲気は消えつつあるが、人が醸し出す
明るさは今のこの街には、ふさわしいのであろう。
神輿渡御の時間となった。五つの神輿が中天にかかった陽を浴びて、
ゆらりと動き出す。金色の光りが四方に放たれ、若者の発する熱気とともに、
周囲の空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその若さを
取り戻すかのように、先頭に立ち、走り始める。入り乱れる足音と
道路沿いの店店と人々が放つ喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。
神輿はやがてその熱気を残し浜へと向かい、金色の光りを和邇川に
映しながら、小さくなって行く。古き良き時代と新しい波の訪れ、
その混じり合う香りを残していく。
多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたち
の安堵の溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。

西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁
の伝承がおおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。
和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで
国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。
近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには
小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。
そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。
ここでは、琵琶湖特有の魦(いさざ)が捕れる浜となっていた。江戸時代初期に
あたる寛永年間にできた「毛吹草」にも諸国名物の一つとして「和邇崎の
イサザ」とあり、すでにこの地の名産として知られていた。
イサザはうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、
飴煮や汁にする。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。
ビワマス、氷魚などとともに琵琶湖八珍として親しまれている。
江戸時代の絵図に「魦漁村々絵図」と言うのがあり、そこには漁を営んでいた
14か村が描かれている。

眼を転じれば、比良の山並みが、このあたりから進み行くにつれ、覆い
かぶさるように迫ってくる。右には、遠く一本杉のあたりまで、やや灰色
がかった砂浜がゆったりとした弧を描きながら、伸び去っている。
白い砂地に無数のの足跡がその曲線に沿うかのように、不規則な点描を見せている。
湖に向かって数個の橋板が、浮かんでいる。
20数年前までは、あちらこちらの浜辺で洗濯や水洗いなどに使っていた。
その日々の営みである証左が、そこここに見えたが、今は数えるほどになった。
湖辺から百メートル先まで、えり漁の仕掛けが幾重にも伸び、波縞のきらめきに
無数の棒が湖面からつき出ている。
漁師が黙々と引き上げる網の中ではアユ、モロコやワカサギなど立ち上る朝日を
浴びて銀の色を発しながら、魚たちが、跳ね、踊るのだ。
この地域の地域の景観がまだ垣間見られる。
初夏の霞が見せる遠くかすんだ情景と夏の強さを含んだ透明感のある空気、
心地よい風に揺れる松と古木の木々が通り過ぎていく。
遠くぼんやりとした緑を見せる北の山並みのわずかな光景が進みながらも画枠に
きちりとはめ込まれたままでいる。古代からの変わらぬ自然景観である。
今も、古代の都人が歌った風情が残っている、自然との調和の世界である。
「人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ」

北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。
この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など
千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、
それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、
登山者に親しまれ愛されてきた。
一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に
まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の
一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。
また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、
新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。

以前にも描いたが、「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の
歌があるが起これ以外にも、例えば、

万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ

このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。
このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。
なお、小松地区の古名称は比良ともよばれ、日本書紀の「斉明天皇5年3月3日
庚辰の日近江平浦に幸す」とある。
万葉集にも、他にもいくつかの歌がある。
さざ浪の比良の都のかり庵いほに 尾花乱れて 秋風ぞ吹く
さざ浪の比良の大曲わだよどむとも 昔の人に また逢わめやも
なかなかに君に恋ひすは比良の浦の 海人ならましを 玉も刈りつつ
などもある。

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