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2018年5月27日

2018.05.27

西近江路紀行4 北船路

西近江路紀行 北船路

西近江路は文化面のほかにも、その特徴の1つに湖上交通の物資輸送の集散地
となっていった港との深い関係がある。
「延喜式」には、能登や越中の日本海沿岸の諸物資が敦賀から塩津、海津、
に輸送され、湖上を大津へ廻漕されて都へと運ばれたと記述されている。
江戸時代にはさらに開拓され、「淡海録」には、
大津212艘、堅田133艘、今津125艘、塩津121艘、北小松35艘、
和邇33艘、南比良27、南小松13、木戸10艘などとなっている。
これをみても西近江路にある港には、合わせて919艘という多くの船
を所持していたことがわかる。

しかし、西近江路の名称は、古絵図には「北国海道」、「北国道」と書かれている
場合が多い。さらには、石造道標にも「北国海道」、「北国道」の名称が
多く刻まれている。これらから当時の人々は西近江路と呼ぶよりも、北国海道
という呼称で親しんでいた。
北国海道の前身となる古代、中世の北陸道は、日本の官路都市て畿内あるいは平安の
郡と北陸を最短距離でつなぐ重要な道として長い歴史を刻んできた。

和邇から北船路へ
西近江路は、和邇の北浜をすぎ、暫く湖岸沿いに歩く。夏は湖岸から
吹き寄せる風と対岸の沖島や三上山の遠景に旅人もほっこりする。
JR湖西線を再びくぐり、蓬莱駅前の北船路の八所神社の前へ出る。
この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山
焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に
運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。
ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。
蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い
ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の
山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の
人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。
今も山麓の集落との結びつきが強い池である。

冬の琵琶湖は味気ない。
灰色の湖面に僅かのさざ波が遊び、対岸の三上山や野洲の平ぺったい畑や水田も
灰色の世界に閉じこもっている。すべてが灰色の薄絹の中にある。
和邇漁港の近くの砂浜もやや灰色がかった砂に残雪がまだら模様を見せている。
漁港の近くには北浜住吉神社がひっそりと建っている。
緩やかに湾曲した湖辺の細い道を行くと、枯れ葦の先に僅かに雪を頂いた比良の山々が
現われてくる。1か月前までは薄赤と茶色、薄緑の入り混じったパキスタン絨毯の趣で
あった山肌も薄く拡がる雲に溶け込むようにその肌をさらしている。ここから見る
春から夏の彩は生命の強さを感じるが、今はただ老い行く老人の体を見せているだけだ。
今の国道は古代、北国海道として京都や大津から敦賀へと向かう街道として栄えていた。
夏の暑い日には、今は別な場所に移された大きな松の木があり、旅人をその木蔭と湖の
涼やかな風で迎えたともいう。晴れた日の比良の山並みと琵琶湖の光に映える蒼さは
一服の清涼剤となった。
しかし、冬至の今、それは望めない。
冬至、冬のとばりが深い
薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。
その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。
既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく張り付き広がっている。こちらも
薄墨の背景に浮かぶ山水画の風情を見せている。
「暦便覧」では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。
日照時間が減り、夏至と反対に夜が最も長く昼が短い日だ。
冬至にかぼちゃを食べるのは風邪を引かない、金運を祈願するというような意味が
あるそうだ。ふとそんな思いが頭をかすめていく。
・乃東生(なつかれくさしょうず)十二月二十二日頃
夏枯草が芽をだす頃。夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表している。
・麋角解(さわしかのつのおつる)十二月二十七日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わる。
・雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)一月一日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特の風習だと
誰かに聞いた。
初茜、いい言葉だ。元旦、直前の茜空。夜の暗がりから白み、明るみ、茜に染まる
東雲しののめの空をさす。
近くの農家の年寄がよく言っていた。
むかし、冬至によく食べたのが、冬至がゆとかぼちゃだった。冬至がゆは小豆を
入れたおかゆのことで、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、冬至に食べて
厄祓いをするそうだ。かぼちゃは栄養豊富で長期保存がきくことから、冬の栄養補給
になり、冬至に食べたのだという。
また、冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめるといわれているともいう。
にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかん......など、「ん」のつくもの
を運盛り といって縁起をかついでいたこともあるようだ。最近はこのような話を
あまり聞かない。豊富な野菜や健康志向のレシピ、栄養剤、味覚ある冬料理、
などこの素朴な料理に注意を向けることは失われつつある。だが、人がその風土
に合わせ生きる力として数百年も培ってきた知恵を忘れるべきではない、と彼
は思いつつ昨夜はカボチャ料理を妻に頼んだ。
目はじに黒く深い緑に黄色の点描が見えた。小さな赤子のこぶしほどの黄色い実が
小ぶりの葉を押しのけるように実っていた。柚子の木が一つ、彼の背丈を超す大きさに
その直立した姿を見せている。数日前に柚子の風呂をした記憶がよみがえる。
むかしは、冬至の翌日から日が延びるため、この日は陰の極みとし、翌日から再び陽に
かえると考えられてきた。それを「一陽来復」といい、この日を境に運が向くとされていた。
厄払いするための禊(みそぎ)として身を清めるということから柚子風呂は冬の代名詞
のようなものだ。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないと
いう考えもあったのであろう。

身体の芯に迫り溶け込むような感触を今日も味わいたい、思わず体がほてるのを感じた。
茶色に広がる枯れた野原と疎林となった林が一段とその侘しさを見せていた。白く緩やかな
穂毛を見せていたススキの群れも消えていた。ただぼーとして、動きのない雑木を見つめる。
こんなとき、真っ白になった頭の中では、次第に時間が遡りはじめる。霧が少しづつ晴れてくる
ように雑木林のなかは、小さな生命にあふれていたころの様子が蘇ってくる。雑草たちの旺盛な
広がりと小さな木々の緑をまとった姿だ。秋の終わりころの陽だまりはススキの柔らかい
穂先の下で波打っていた。まだわずかの緑を残した落ち葉の上をかさかさと音を立ててかけ
走るオオオサムシが垣間見えた。彼はいま黒ずんだ朽木の中で、どのようにして眠っている
のだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、あごを乗せて物思いに
ふけっていたアマガエルは、土くれの中で春の暖かさをまっているのだろう。
雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。脚で枝をしっかりつかんで体を固定し、
体をピンと張って小枝に見せていた。その力強さに思わず見とれた。
実に他愛のないことが、頭の中を駆け巡る。生き物たちのことが無性に恋しくなるのは、すべて
が無に見える果てしない枯草の世界から少しでも逃げ出そうとする意識がそうさせているのか、
時間は逆に廻り、晩春から初秋へ、そして夏の終わりから真夏へと記憶が引き戻されていく。
そんなことを考えていると、八所神社の鳥居とJR蓬莱の駅が見えてきた。

以下に八所神社と小女郎池について少し詳しく見てみよう。
蓬莱の駅の真前には、二つの八所神社がある。

その路は、琵琶湖のさざなみが寄せ波間の音が聞こえる足元から
一直線に西へと伸びている。国道を切り取るようにそのまま大きな
石の鳥居の下から数段の石段を駆け上がり拝殿へと続く。鳥居には
大きな注連縄がかかり、鳥居の横の大きな石碑には、「八所神社」
と深く刻まれ、こちらをにらむかのように建っていた。
横道の常夜灯と道端の羊歯、南天の赤い実、風にさやぐ杉の木肌、
がひそやかに彼を迎える。地表に広がる無数の苔、その雑念とした空間
を斑模様に拡がる水溜りの薄灰色の道が、ゆくての拝殿のややくすんだ中
へと紛れ入っていた。
ゆっくりと小砂利の道を踏みしめながら周りを見れば、幹は青く照り
ながら葉は黄ばんだ竹林や無造作に打ち捨てられた朽木がさびしげに見られる。
拝殿を回り込む形で、その先に進むと小さな本殿が杉木立を後景に
その華奢な姿を木漏れ日の中に浮き立たせている。
右手の社務所とある建物は、数十年という風雪がしみ込む形で杉陰の中に
見えた。
石碑の横にある神社の由来によれば、
「祭神は、大己貴命、 白山菊理姫命の二座です。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼
を避けて日吉七社の御神体をこの地に遷し日吉神社再興までこの地で奉祀
したと伝えています。日吉大社七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて
八所神社と称するとしています。
日吉大社が再興されるまで日吉祭りはこの八所神社で実施されたため、現在、
日吉山王と書かれた菊入りの高張りがあり、五か祭には使用されます。
天正6年(1578)の再建とされました。
例祭は、5月5日で木戸の樹下神社の例祭とあわして行われ、湖岸を朝早く
木戸の樹下神社に渡御し、夕方還御します。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りで、柱間を桁裄三間、梁間二間とした
木割の太い建物です」とある。
静けさの中に水音がわずかな動きを伝える。右横の竜神の口からは、幾筋かの
水滴が落ちている。本殿の後ろには、隠れるように、祝部行丸の墓や愛宕さん
の石灯篭、山ノ神を祀る石像などがあり、その銅色の錆びた青色の屋根
とともに静かな世界を造っていた。
拝殿から来た道を振り返れば、まっすぐ伸びた道は湖へと消えている。
拝殿の柱間にその碧き色が光をくねらすように見えていた。
更にここには、同じ名前の八所神社がもう一つある。
先ほどの八所神社の横の参道の少し先に同じ石の鳥居が建っている。
鳥居の後ろから注連縄が顔を出しているが、薄茶色に化した樒がそこに吊り
下げられている。
注連縄の先には、拝殿と本殿が石畳の直線の上に乗るかのように鎮座し、
杉木立が並走するかのように奥へと伸び、後背の林へと消えていく。
石段の手前には、神社由来の辻立てがある。
「祭神は八所大神 住吉大神の二座です。
創祀年代不詳ですが、神護景雲2年(768)に良弁(ろうべん 689~773)
によって創建されたと伝えられています。良弁は、奈良時代の学僧として
名高いが、南船路辺りの出身とする伝承があります。
斎明天皇5年比良行幸の際、当社にも臨幸ありと伝えられます。
又良弁僧正と深い関係があり、天平宝字6年(762)社宇を改造し社側に
一字一石経塚を建て(此経塚現存す)法楽を修しました。
又足利将軍が安産の神として崇め、和邇金蔵坊が郷の産土神と崇敬し
社領若干を寄進されたともあります。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りです。
中には、伝良弁納経の石塔があり、良弁が書いた経文を納めたものと
伝えられます。層塔の残欠で、厚さ6~7cmの自然石の上に三層の笠
を置き、その上に宝珠形の石をのせ、良弁が一石一字の法華経を納めた
塚であると伝えます。
例祭は、5月5日、神輿二基が湖岸の御旅所へ渡御します」とある。
くすんだ杉板には黒い染みが点々とあり、年代を感じる。
拝殿の西側に、タブイキの林が広がり、境内にその静けさをもたらしている。
中には、胸高周囲4メートル以上のタボノキ・コジイの巨木が深き境界を
創りだし、中央に鎮座する拝殿に千々たる光の葉影を落としていた。
拝殿の後ろ、陰となるところに朽ちた大木が何条もの割れ目を見せて
その枯れ肌をみせて苔地の上に座っている。
昔はかなりの大木であったのだろう。
その根の周りには深緑の苔たちがかしずくかのように四方に伸びている。
老いてもこのように存在感を示せれば、老木も幸せ者だ。
拝殿から湖を見れば、柱のフレームに切り取られた碧い水模様が午後の
光りの中で絶えず変化するように煌めいている。この拝殿もその昔は、
国道や湖西線の無様な遮蔽物もなく、1つのつながりとして湖へ伸びて
いたのであろう。静かに目を閉じれば、湖の小さきさえずりが聞こえ、
幾重の葉影がこの身を包みこんでいる。
良弁(689~773)については、奈良時代に活躍した僧。石山寺の
建立に尽力しました。出自について諸説ありますが、良弁は南船路辺り
の出身とする伝承があり、また近江国志賀里の百済氏とする説もあります。
残された伝承によると、良弁が2歳の頃、大きな鷹が良弁をつかんで飛び去り、
行方不明になり、奈良の春日社で義淵(ぎえん)という僧が鷹につかまった
子どもを見つけ自分の弟子とし、「良弁」と名づけ大切に育てたとのことです。
その後、良弁は成長して僧正にまでなり、母親は奈良まで出向き、30数年
ぶりに親子の再会がかないました。良弁の師匠の義淵は、飛鳥の岡寺の創健者
と知られる高僧で、弟子に行基や玄昉(げんぼう)などの著名人が多くいます。
良弁は聖武天皇や光明皇后とのつながりも深く、東大寺の初代別当にもなっています。
これは、地元の古老から聞いた話である。
この奥には、円墳横穴式石室の古墳があったが、今は見ることが出来ない。

小女郎池までは、先ほどの蓬莱駅から中学校を通り、500メートルほど蓬莱の
山麓を上ると雑木林の先に見えてくる。冬の雪に浮かぶ姿は美しいが、夏には
ただの池としか見えないのが残念だ。だが、この池にまつわる昔話は中々に楽しい。

その途中にある棚田も栗原の棚田と同じようにこの地を彩る1つだ。
棚田の淡描
蓬莱の駅は無人駅だ。少し前まで手打ちそばの蕎麦屋があったが、すでに休業
している。やや硬めのそばは歯ごたえがよく結構通ったものだ。そこは琵琶湖
が近くに迫り、わずかに茶褐色を見せる畑と田んぼの薄緑が混じり合い湖の青さ
の中に消えていく、その風景を店の窓辺から見たものだが、いまはない。
駅前からの道はやや勾配を保ち、比良の山端に向かって伸びている。
初夏の日差しがさえぎるものがない舗装道路に強く照りかえり、その白さを一段と
強めながら、私の体を突き抜いていく。小さな影がわたしの歩みに合わせ静か
についてくる。集落を外れ、砂利道に入ると、草草の発する息がむっとした
水蒸気となり、朝日をうけて金色に輝き、体にまとわりつき始める。
すでに十センチほどに伸びた稲穂が鋭い穂先を見せながらゆったりと風に
乗って動いている。朝の雫に光り輝く蜘蛛糸がそのあり様を誰の目にも
明らかにするかのように水平な網を稲穂の揺れ、あぜ道の草むらの中に
見せている。その細く雫を帯びた糸は、五線の譜のようでゆらゆらと揺れている。
大きな水玉がしなった葉の上を転がりすっとんと落ちた。深緑、薄い緑、
白い小さな花、その群生の中を日差しを跳ね返しながら、川が顔を出す。
小さな凹凸が水にいくつかの階を作り、下へと流れていく。数条の水の筋
を作りながらそのくねり進む様は悠々たる大河の趣を感じさせた。
夏の暑い日、友達とパンツ一つとなり、ザリガニや小魚を捕りあった日、
小魚がその銀色を一ひねりしながら水草に隠れるのをさらに追いかけた友
の水浸しの体、足に伝わる泥と小石の感触と水の冷たさ、さらには背中に
刺す太陽の熱さ、ふとそんな昔の情景が浮かぶ。
川を少し上ったところにその情景はあった。

蓬莱山に横たわるかのように何十となく緑に熟れた水田が上へ上と重なっていた。
北船路の棚田だ。伸びた先に森の一団がこれも蓬莱の山に溶け込む形で棚田
と青い空を仕切り、横一線に伸びている。飛行機雲が一つ、青く広やかな空
を二分するかのように西へと伸びている。覚悟を決めて、棚田の最上部へと
一歩踏む出す。見た目でもその勾配の強さが感じられるが、歩き始めると
その強さが足の裏を伝わり、体全体に感じられる。かなりきつい。
夏の田んぼには、浮草がその水面を覆うかのようにひろく生えわたっている。
その中にいくつかの目がこちらをうかがうように水面に盛り上がっている。
蛙たちだ。その緑の肌と大きな目は闖入者の動きを見張るかのようにじっと
眼を据えて動かない。チャトがあぜ道に身を伏せるかのようにそれに近づくと
一瞬にしてそれは消えた。横でぽちゃりと水音がはねた。
途中、紅色の花が群れ咲く三本の木に寄り添って、強烈な日差しを避け、
ひと時の息休めをする。頬を撫ぜる風がわずかな流れで心地よさを与える。
成長の途中であろう稲たちが一斉に右へとその穂先を傾け、また左へと
揺れ動いている。渡る風の音は聞こえない。棚田の中ごろあたりであるが、
平板な青さの湖に白い帆を揺らめかせているヨットや二筋の波線を引きながら
右から左へと流れるボートが見られる。その先は初夏の霞の中にただ茫洋
と白さが広がり、いつも見える三上山の小さくも華麗な姿はその白き霞の
中に消えている。

比良は山端が琵琶湖の湖岸まで直接伸びており、平地が少ない。
伝承によれば、明智光秀の時代から山麓の傾斜地に水田の開発が進められて
きたという。どこの地域の棚田もそうだが、水をたたえるため、石垣等をつくり、
等高線に従い平坦な土地を確保している。棚田百選などと言われているが、
ここも先人たちの努力が営々と続けてこられた結果でもある。我々は写真など
で美しいとは思うものの、その地道な毎日の生業を忘れてはならない。
ここも、後継者の問題などで一時その姿を失う状況ともなったが、水田を
大きな区画につくりかえる圃場整備事業を行うことで、大きな区画の水田が
雛壇状に並ぶような棚田になったという。多分かってあった棚田の形は
だいぶ消えたのかもしれない。千地と寄せる光の中で、わたしはそんな
ことを思った。
最上部の棚田の横に来た。途中の道で見た情景よりもさらに艶やかに広がる
緑と琵琶湖の千地に光る群青、雲の幾重にも重なった空の薄青きが一つの
フレームにはめ込まれたように目の前にある。既にここでは棚段という
意識は覚えず、幾重にも重なる緑の絨毯がいくつもの黒い線で区切られ、
下へ下へとと延びている、ただそれだけだ。その緑も平板なそれとは
違い、そばの森のざわつきに合すかのようにその緑の中に小さな影が
出来、全体がふわり浮き上がりまた下がる、その緩やかなリズムがわたし
の鼓動と同期し、緩やかな和らぎを与えていく。ゆったりとした水縞を描きながら
水音が流れる。その溝の横に、ツユ草が群れ咲いていた。真っ青な花びらには、
紺色の筋が枝葉のように広がり、さながらガラス細工のようである。黄色の
おしべはその目の覚めるような色をさらに強めている。ここはちょうど梅の木
の下、強く光る日差しの中で、ややくつろいだ空気が占めている。
小さな草花たちもその日陰の中で、休息している。静かな時間が流れ、

わたしは一刻の眠りにつく。
棚田は自然と人の結節点だ。ひな壇のように落ちていくそれぞれの水田の
すぐ横には、樫の木や栗の木がその葉群をざわつかせながら取り巻き
騒いでいる。今はのびやかに育つ稲たちも人の手が手控えられた瞬間
からこれらの森の様々な木々や草たちに侵略され朽ちていく。
どこの棚田もそのような宿命の中で生き続けるのだ。春先に聞こえる
田植えに集まった人々、そこには幼児の初々しい声もある、がある限り
この水田たちも永く生きていけるのだ。午睡の中で、そんな取り止めの
ない思いが湧きまた消えた。そのウツらとした中にブーンという羽音が
わたしを引き戻す。虎模様のカミキリムシがわたしの肩に止まり、
その長い触角を揺らしていた。チャトは、彼の得意の腹だしスタイルで、
まだ夢の中だ。空を飛び回る夢でも見ているのでろう。
緑続く水田と湖の照り映える蒼さの中を一直線に白い線が通っている。
やや高めのブレーキ音を出して緑色の電車が駅に滑り込んできた。数時間前
までの灼熱の空はやや柔らかさを増し、頬を撫でる風にも涼やかさが加わり
始めている。わたしは木陰から重たげに体を起こし、少し周りを見るかの
仕草で棚田の外れへとあぜ道をたどりながら進む。かっ、かっ、かっ、と
少し早いヒグラシの声が近くの林、遠くの森から木霊してくるようだ。
その澄んだ声が足元の草藁を撫ぜるかのようにわたしの耳に届く。
やがてここにもアブラゼミやミンミンゼミの声があふれその穂先を
揺るがすかのように四方に飛び交う。

小女郎ケ池の昔話
昔この蓬莱山の麓に忠右衛門という人のいえがありました。妻をはなといい、
2人の間には生まれて間もないかわいい赤ん坊がいました。
ある夏の日、山へ行ってこの小女郎がのそばで草刈りをしていたはなは、
暑さのあまり池の水でも飲もうと思って池に近づくと、かたわらに真っ白な
蛇が1匹いるのを見つけました。はなは蛇に「お前はいいな、暑くなると
池で泳ぐことが出来てさぞかし涼しいことやろうが、私は人間と生まれたばっかりに
こんなに暑うても仕事をせんならん」と何の気もなしに愚痴をこぼしました。
ところが、その夜中はなは暑さのあまり寝苦しくてふと目を覚ましました。
そして、そのうえ夢中のままで家を飛び出し、気が付いてみると昼間水を飲みに来た池の中に
我が身を横たえて居たのです。不思議なことに厚さはかき消すようになくなり、はなは
そのまま家に帰りました。このことがあって、より奇妙なことには、毎夜
きまった時刻になるとはなの身体は焼け付くような暑さに襲われ、その度に
はなは夢中のまま山へ行き、小女郎が池に身を浸さねばならないのでした。
夜ごとに床を抜け出す妻の様子に不思議に思った夫の忠右衛門は、ある夜ひそかに
妻の後をつけていきました。ところが、こともあろうに池の面に横たわり
泳ぐ真っ白な大蛇と化したはなの姿を見て、大声を出して驚きました。
その声に気が付いたはなは「今はいたしかたございません。実は池のほとりに住む
蛇の主に魅入られてしまいました。と泣く、すべてを打ち明けました。
忠右衛門は因果の恐ろしさ覚り、すべたは前世の因縁と諦めて妻をこの池の
畔に住まわせることにしました。しかし、気がかりなのは手元に残された
赤ん坊に乳を飲ませることでした。このため、2人は相談の末、妻は山を下り、
夫は山に登って1日1度だけ逢うことにことにしたのです。こうして、
赤ん坊に乳を与えるために休んだ石は、丘石といい、そこには今も赤ん坊の
足あとが残っていると伝えられています。
「雨たもれ小女郎が池。」と旱魃の際、土地の人らが唱える雨乞いの風習は
はなが夫と別れる時に「干ばつののため、村が困るようなことがあったら、
ここへきて「小女郎が池の歌を詠ってください」と言い残したという伝説に
基づくものだと言われています。

これもまた志賀の昔話として語り継がれてきたものである。
北浜住吉神社にまつわる話

旧栗原村に,大教寺という大寺院がありました。今の妙道会敷地内と思われます。後に
宗派の争いで焼かれたとのことですが、皇室が直参される格式高い寺でもありました。
寛弘7年2月、花山天皇の皇子清仁せいにん親王が、比良山最勝寺へ参詣の帰途に
御座船で北浜の湊にお着きになりました。御座船には、貴船神社を祀り、船の安全を
祈っておりました。親王は栗原道を通られて、無事大教寺参詣を澄まされ、再び
御座船を召されて、帰路につきました。
御座船が沖に出た時、湖上に突如すさまじい突風が吹き、船も危うくなりました。
これを見て、北浜の人は、漁船に乗って急ぎ救援に向かいました。と同時に、南浜
の方からも救助の船が出ました。
風いよいよ烈しく、すくいの方法もありませんでしたが、親王が御座船の舳先に
立たれて、一心に住吉大明神を祈念されると、さすがに風も収まり、波も静まって
難を逃れることが出来、御座船は漁船に守れらながら、一時寺浜(南浜)に御安着
になりました。
なお、寺浜跡を残す南浜の町道端には、わたしたちの子供の頃には、住吉大明神
と書かれた木柱がありましたが、朽ちて古くなったので、今は住吉神社、八幡神社、
貴船神社と3神社の社名が書かれた石碑が建て直されています。
皇室は、このことを痛く感じられ、同年4月、北浜湊の上に住吉神社を建立され、
合わせて神饌田を下したまわりました。当時、御神体は木造でしたが、昭和12年に
何ものかに盗まれました。ちなみにその木造御神体は、国宝級のものだと言い伝えられています。
さらに、親王はこの時救援に向かった漁師に感謝され、南浜、北浜の長男に
限り、和邇祭礼に我と同じ服装をして稚児として出るよう、お許しになりました。
今、行われている「駒被り」はその名残です。
また、嵐のあった26日を住吉神社の祭日とされていますが、とりわけ秋の大祭には、
南浜におもむいて沖に出て、竹筒に湖中の水をくみ取り、その水でお湯を立ててお祝いを
しますが、この南浜の水を入れないとお湯が立たないというのも、不思議なことです。

また、同じような話が住吉神社の由来として伝わってもいる。
北浜の真光寺の浜から船に乗られた一行は途中風と浪が強くなって南浜につきましたが、
南浜の南喜左衛門さんの屋敷で住吉さんへ祈願すると、たちまち湖は静かになって
お帰りなることが出来たという。それがあり、喜左衛門さんから住吉さんをお祀り
して欲しいと北浜が頼まれ、今の土地の近くに祀られることになったという。

この話もそうであるが、志賀が古来より北国海道として敦賀などの北陸地域と京都
を結ぶ重要な中継地域であったことや都人が琵琶湖や比良山系などのこの地の景観に
触れるため、よく訪れていたことがわかる。民話であるからその真実性には疑問も
残るが、一般庶民の生活や今残る神社や寺院の由来などは面白くも読める。
まず、この話に出てくる寺院や神社は石碑や古文書からも見えるものであり、当時の
古地図などからも和邇周辺はいくつかの舟入もあり、親王が舟を使ったのは、本当
なのであろう。さらに、2月、3月は比良おろしと言われる突風が今も列車を止める
ほどであるからこの突風にまつわる事態は予想できることでもある。
もっとも、南浜の水を入れないとお湯が立たないというのは、ちょっと理解が
難しいが。

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