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2018.05.12

西近江路紀行2  小野周辺

西近江路紀行2  小野周辺

古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過する要所であった。
北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用をおびた役人が乗り継ぐ馬が用意された。
更に、その駅制度は一層整備される。和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、
和邇中にその遺跡が残っている。
近江の北陸道は、平安時代から江戸時代に至るまで平安の都と北陸をつなぐ最短距離
の道として重要な機能を有していた。
平安時代の法令集と言うべき「延喜式」の兵部省の「諸国駅馬条」によれば、北陸道の
駅馬はすべて五疋である。
しかし伝馬数は穴太五疋、和邇七疋、三尾七疋、鞆結九疋の四駅が設置された。
(古代)
小関越え → 穴多(太)駅(大津市穴太) → 和邇駅(大津市和邇中浜) → 三尾駅
(高島市安曇川町三尾) → 鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭) →
愛発関(敦賀市疋田か)

西近江路は長く交通の要路であった。
古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい要路
となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。
平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の交通路の
概要が掴める。源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返されるれる
ことにより、堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺の
後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。

本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。水路、漁業の中心としては、北小松、
北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における重要な浜津
であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の中心的な集落になる事例は
多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが考えられる。
(近世)
大津宿・札の辻(大津市札の辻) → 衣川宿(大津市衣川) → 和邇宿(大津市
和邇中) → 木戸宿(大津市木戸) → 北小松宿(大津市北小松) → 河原市宿
(高島市新旭町安井川) → 今津宿(高島市今津町今津) → 海津宿(高島市
マキノ町海津) → 敦賀宿(敦賀市元町)

西近江路は大津町のやや西よりをまっすぐ湖岸に向かって出て、湖岸よりの道を下阪本
まで北上する。この付近で古北陸道と合流して、湖岸沿いにかっての古北陸道を踏襲しながら
北へ進む。海津から七里半越を経て敦賀へと通じていた。
道筋について享保一九年(1734)編述の「近江輿地誌略」によれば、西近江路は、
大津より坂本へ二里、坂本より衣川(大津市)へ一里半、衣川より木戸(志賀町)
へ一里、木戸より小松(志賀町)へ二里、小松より新庄(新旭町)へ三里半、
新庄より今津へ一里半、今津より海津へ三里、海津より山中へ三里半、
山中より駄口へ一里、駄口より疋田(敦賀市)へ一里、疋田より二つ屋へ
二里、二つ屋より今庄へ二里あるなり、とある。
これによれば、滋賀県内を通る西近江路の距離は、およそ72キロとなる。
この間の宿場は、いつ設置されたかは不明であるが、衣川、和邇今宿、木戸、北小松、
河原市、今津、海津の7宿であった。

堅田から和邇への道
司馬遼太郎の「街道をゆく」の第1巻は、この地から始まっている。
「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩が始まっている
ほど、この国が好きである。、、、、、、、、、、
近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪
のふるさとであるよう、においを残している。
「近江からはじめましょう」というと、編集部のH氏は微笑した。
この湖岸の古称「志賀」に、「楽浪さざなみの」というまくらことばをつけてよばれるように
なったのは、そういう消息によるものにちがいない。
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、真野を過ぎ、
さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押しかぶさってきて、車が湖に押し
やられそうなあやうさを覚える。大津を北に走ってわずか20キロというのに、
すでに粉雪が舞い、気象の上では北国の圏内に入る。
とその書き出しに始まっている。とても喜ばしいが、なぜ、冬の日なのか、ちょっと
気に入らない。白洲正子や井上靖などの作品で、多くは冬の情景が描かれている
ことが多い。万葉集などの歌にもよく読み込まれているように春や秋の情景も多く
描いてほしいものだ。

西近江路は、JR堅田駅を通り抜けるとあたらしい東西に走る広い道路に出る。
左の道をとれば、真野から伊香立を経て途中峠へ、更に京都へと通じている。
旧街道は、再び国道161号線と合流し、真野川をこえ真野の集落に入る。
春は桜が川沿いを走り、ピンクの彩を映えて、湖まで続いている。
右側の湖岸べりには、真野川によって大きな砂洲ができ、長く松林が続いている。
夏には水泳場としてにぎわう。161号線は、北小松まで湖畔に沿って北上する。
この真野周辺は、古くは湖岸線が今より深く入り込み、それを「真野の入り江」といわれ、
歌枕として著名な風光の地であった。平安時代末期の歌人、源俊頼は、
「うずらなく真野の入り江の浜風に、尾花すすきなみよる秋の夕暮れ」
の歌を詠んでいる。また、街道沿いにある正源寺の梵鐘には、鎌倉時代に真野庄人々
が願主となって梵鐘を神田社へ奉納、その二百年後に野洲郡中主町の兵主神社
へ移り、さらに約三百七十年後に地元に帰ったことなど、珍しい銘文が刻まれている。

道は大きく左へ曲がり西へ進むが、正面に大規模な団地があり、その背後に
標高百八十七メートルの曼陀羅山が見える。この山頂には、全長七十二メートルの
前方後円墳の形態を有する和邇大塚山古墳がある。JR小野駅はその手前、湖岸の傍にある。
ところで、道は右へ曲がりしばらく行くと、国道161号西近江路の分岐点がある。
左側の道をとれば、志賀町小野の集落にさしかかる。この小野の里は、古代近江を
代表する豪族小野氏の本貫の地であった。JR湖西線の下をくぐると、左側の道脇に
「外交始祖大徳冠小野妹子墓是より三丁余」と刻まれた石造道標がある。
この道標に導かれて進めば、団地に囲まれるように妹子公園がある。
その頂上部分には、小野妹子の墓と伝えられる石室の露出した円墳がある。妹子は
六百七年、六百八年と日本最初の遣隋使として活躍した人であった。
小野の集落は、西近江路を挟んで形成されている。その真ん中辺りの左側を少し
入ったところに小野道風をまつった道風神社がある。静寂の中に三間社流造りの
美しい本殿の形姿を見せている。道風はいうまでもなく平安時代末期の書家で、
藤原佐理すけまさ、藤原行成とともに天下の三蹟といわれた。

この地の情景は白洲正子の「近江山河抄」にも描かれている。
「小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「篁たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、大きな
古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の尾根つづきにあり、
老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと重なっているのは、みるからに
凄まじい風景である。が、そこからの眺めはすばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、
その向こうには三上山から湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山
がそびえる景色は、思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように迫り、
無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている」。
だが、現在はその様相をかなり変えていた。

さらに、街道を北へ進むと、白壁に囲まれた上品寺の手前にある左側の参道の突き当り
には2つの小野神社がある。県下一と言われるムクロジの大きな木を見ながら石の鳥居
を過ぎると小野神社と小野篁が並び立つような形である。
小野神社は、小野の鎮守であるが、その境内には小野篁たかむら神社がある。
これも道風と同じ様式で切妻平入三間社流造りでいずれも重要文化財に指定されている。
篁は平安時代前期の漢学者、歌人として著名である。いずれにせよ、小野の集落は
古代社会の文化に貢献した小野氏を生んだ土地らしく、いまもそれを物語る貴重な
遺跡が多く残されている。
しかし、小野氏より早くからこの地を支配してきたといわれる和邇氏や同族の和邇部氏の
遺跡がほとんどないのが、不思議だ。

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