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2018年6月3日

2018.06.03

西近江路紀行5 八屋戸守山

西近江路紀行5 八屋戸守山

八所神社の森がこじんまりとわたしを見送っている。
鎮守の森というのは、かつては神社を囲むようにして必ず存在した
森林のことで、杜の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」
と読ませている例もあり古神道から神社神道が派生したことがうかがえる]。
また、「社叢」(しゃそう)と称されることも多い、そんな話が浮かんでみた。
現在の神社神道の神体は本殿や拝殿などの、注連縄の張られた「社」
であり、それを囲むものが鎮守の森であると理解されているが、
本来の神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)
信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や
海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の
対象になっていたという。
神社神道の神社も、もともとはこのような神域や、常世(とこよ)と
現世(うつしよ)の端境と考えられた、神籬や磐座のある場所に
建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども
見ることができる。なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、
森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・
精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。

北船路を少し行くと八屋戸と呼ばれる地域が現れる。道路の脇には、
お地蔵さんがいた。
道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。この守山は、明治7年に
隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となったところだ。
守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口として知られている。
この集落の中を歩きはじめるとすぐに石畳の道が続いている。庭までも石
が敷き詰められ、春には梅が、夏には向日葵の大輪が私を迎えるように
その季節の風情を色と形、更には匂いで包んでくれる。更に道を
上がれば、標高500メートル付近に文政11年に勧請した湖上航行
の安全の神金毘羅さんを祀る金刀比羅神社(ことひら)がある。
江戸時代は柴、割り木、庭石を運ぶための50石、百石船が出入りし、
白い帆で埋め尽くされたものだ、と土地の古老が懐かし気に話してくれる。
神社は、漁師や船頭衆はこの金毘羅さんを海の守り神として信仰し、
毎月十日には例祭を行っていた。三月十日は大祭で、集落の辻々に猿
のぬいぐるみや幟が立てられ村人が参詣したという。
現在も大祭には、多くの人が訪れる。更に進むと金毘羅峠を越えて蓬莱山
へと道は続くが、ちとしんどいので国道に沿って先へと向かう。
守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接しているが、この浜から江戸時代
には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で運び出されていたのである。
この地域は守山石、木戸石といわれ多くの石材は採れた。先ほどのように
庭先までも石が敷き詰められ、山並みから湧き出てくる水を三面水路を
使って生活に利用してきた。石の文化が生活に根付いている、といえる。
石に映える日の光は柔らかい。杉の屋敷林が家々を包み込み、石たちが
それを支えている。道の横にあったチャート石で一休みするが、水路の
さざめく水音と石畳をゆるく吹き落ちる風にしばしの安らぎを得る。
更に北へと向かえば、比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した
多くの歴史的な構造物が今も残っている。これらは、河川や琵琶湖の
水害から地域を守るための百間堤などの堤防、獣害を防ぐしし垣、利水の
ための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、高度な技術を
持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。
個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための石造り
のかわとなど生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、
石灯篭、家の基礎石、車石など様々な形でも使われて来た。
古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁
や天井に使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、
日々の生活の中にも、様々に姿を変え、関わってきた。江戸時代初期
の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。
ここで少し石工の話を聞きたいものだ。

「旧志賀町域の石工たち」の記述では、
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」に、県内の各町村
における農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。
ただ、「滋賀県物産誌」の記述は、滋賀県内の石工を網羅的に記録している
訳ではない。「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、
旧志賀町周辺の状況である。この地域では「木戸村」の項に特産物として
「石燈籠」「石塔」などが挙げられているなど、石工の分布密度は
他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、
明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が
特筆されるべき状況であった。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている
資料と
・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、
文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」
という刻銘。、、、」ともある。

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