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2018.06.17

西近江路紀行7 荒川大物

西近江路紀行7 荒川大物

木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。
江戸時代には四つ子川、大谷川が大雨のたびに氾濫を起こし、特に大物の村に多大な
被害を与えた。このため、大物、荒川村には堤が何回となく作られ、水との闘いが
あった。古地図には、そのような石垣の提が集落を囲むように描かれている。特に、
四つ子川の百閒堤は今もその頼もしい姿を見せている。もし、寄り道するようであれば、
この百閒堤を見るのも楽しい。

この周辺の情景を少し小説に書いたその1節、
「湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを感じながら歩を進める。
大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の集落側に堤防のような幾重にも石積み
をなして、数百メートルほど続いていた。乾いた土の褐色の道が先まで続き、
二人はゆっくりと進んだ。苔むした石の一つ一つが時代の流れを感じさせる。
この地域、昔はあちらこちらにしし垣や堤防があり、集落の出入り口にもなっていたが、
今は石の柱がわずかにその姿をとどめている。しし垣の役目にもなっていたのであろう
二メートルの高さで集落の周囲を囲むような形になっている。大谷川などの氾濫に
備えて江戸時代には水防ぎの石垣としてその役目を果たしていた。
ドロが邪魔くさそうにそんな話をしていたが、彼はその石垣に飛び上がると悠然と
歩き始めた。チャトは少し考えたが、やめにした。彼のジャンプ力では、厳しいと思ったからだ。
この大谷川の上流には、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社がある。
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという、ドロが石垣の上からまたそのような説明をした。結構話好きな猫なのだ。
以前に見た百閒堤と合わせ、この辺は水との戦いの場所でもあったのだろう。
茶畑からひょっこり白い猫が立ち現われ、その黒めの長いまなざし二人に向けたが、
これも愛想なく消えた。黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような
小さな森、野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に三筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の上には櫛
を梳いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。」

さらに以下で「新近江名所図会 大規模治水工事の歴史」という記事からその
様子を垣間見てみる。
「平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの
被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を
経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで
浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と
琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な
扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の
斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を
守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。
百間堤
 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)
の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀
バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパス
の側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると
突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町
教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦で
いうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失
する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、
それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害を
もたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。
そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、
水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の
「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合
で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。
百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。
また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さ
と優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも
運べる程度の石で造られています。
こうもり穴出口
JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山集落に
入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)の庭石
が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を進みます。
集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の山荘住宅に
向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴」とよばれる
トンネルがありました。
湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に周辺の発掘調査が行われました
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1986『国道161号線バイパス・湖西
道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面を
さかのぼるように、長さ約310mのトンネルが見つかりました。そのうちの約245m分は完全な
トンネルで、ひと1人がかろうじて立って歩けるほどの幅と高さでした。トンネルの内部は
所々にロウソクを立てたと思われる穴や窪みもありましたが、土器などの人工遺物
は見つかりませんでした。
地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、その由来
や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在では、
山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解消する
ために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の守山の、
水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(199
2)頃までは中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まって
しまったようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。
山中の歓喜寺薬師堂
百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基した
と伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。
お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られたいくつかの
郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。歓喜寺は、元亀3年(1572)の
元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、
薬師堂が建立されたとされ、今日に至っています。また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡
も残されています。」

この地域は水との闘いの地域でもあった。

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