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2018.07.15

西近江路紀行11 北小松

西近江路紀行11 北小松

国道のすぐ横に大きな石碑と石の鳥居が悠然と立っている。
北小松の樹下神社である。湖から続く参道を行くと、境内社には、
比較的大きな社務所があり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社が仲良く
一線に鎮座している。本殿の前には石造りの社があり、天保時代の
石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰の篤さを感じる。
珍しいのは大きな石をくり抜いたであろう石棺や緑の縞が明瞭に
出ている2メートルほどの守山石。
この地域の石文化の一端が感じられる。湧水も豊富であり、3箇所
ほどの湧き口からは絶えることなくなく流れ、竜神像の口からも出ている。
神社の鳥居を湖へと向い、北小松の集落に入る。ここは、伊藤城跡
(小松城跡)といわれ、集落をめぐる石の水路が城下の面影を見せる。
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡の余韻を残している。
現在の北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」
「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地があるが、十分な形ではない。
集落は湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館
も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろうと思われる。集落を歩くと、幾重にも伸びている溝や
石垣の造りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」
の道沿いには、土塁の上に欅が6,7本あったと言われているし、
民部屋敷にも前栽の一部になっている土塁の残欠があり、モチの木
が植えられている。土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと
伝えられる。

前述の司馬遼太郎の「街道をゆく」では、
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が
塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪に
よく映えてこういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと
思った。、、、、私の足元に、溝がある。
水がわずかに流れている。村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、
おそらく何百年経つに相違ないほどに石の面が磨耗していた。
石垣や石積みの上手さは、湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな
距離を走って湖に落ちる。その水走りの傾斜面に田畑が広がっている
のだが、ところがこの付近の川は眼に見えない。
この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっているのである。この地方の
言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという」とある。
いまでも、それらは残っている。

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれも
その影すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。
交通の要路としての重要性を示すものだが、北小松と比良の平城跡以外は
その残香さえない。
さらに、この北小松を含め、志賀には、14箇所ほどの鉄生産の場所がある。
もっとも、多くはすでにその残骸さえ確認できないが、集落の手前の山麓
には、今でもその鉄の残滓を掘り出せる。小さな名所にでもなれば、と思うが。

「志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より
平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松の
オクビ山遺跡、谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、
南比良の天神山金糞峠入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社
遺跡、北船路の福谷川遺跡、栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、
小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産
も炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮
されたのか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上
の操業はなかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750
メートルとかなり均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、
その効率化も図ったとも考えられる」。
北小松以外でも、このいくつかの遺構では、赤さびた鉄滓が探し出すことが
出来るが、民家に近いという点では北小松が最適かもしれない。枯葉の中を
夢を追いながら1千年以上前の残り香を嗅げる、素晴らしいことかもしれない。

集落の外れには、小松漁港がある。志賀町史では、「北小松、北比良、南比良、
和邇の北浜、中浜、南浜があった。和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、
堅田や坂本と並んで湖西における重要な浜津であった」とあるが、今も港
として残っているのは、和邇とこの小松漁港だけだ。また、小松漁港も石造り
の防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われており、近世からの時代
の趣を残しているのだ。

漁港を出て、さらに北へと進むと、左側の比良山系に一筋の滝を見ること
が出来る。この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が
比良小松に遊んだ時に「楊梅の滝」と名付けたと伝えられている。
「楊梅」とは、高さ十数mにもなる「ヤマモモ」の木を意味し、山中を
堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、「楊梅の滝」と名付け
られたといわれている。この「楊梅の滝」は、県下一の落差を誇る滝で、
雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で
21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになる。湖上船や
JR湖西線の車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を
垂れかけたように見える事から「白布の滝」や「布引の滝」とも
呼ばれている。この滝への道の途中には、苔むした石碑が
あり、「涼しさや 一足づつに瀧の音」と刻まれている。多くの旅人が
ここを訪れたのであろう。
少し前までは色々な品種の桜が植えてあり、春になると桃色、白に
わずかな朱がさしているもの、紫色の花や形の違う花などその艶やかさ
を競ったというが、今その面影はない。
雄滝の主は大蛇で、山頂付近の小女郎には雌の大蛇という昔話も
あったそうだ。
また、この滝を更に登ったところには、昔氷室があり、冬に切り出した
氷を保存していたとも言われている。平清盛が熱病に罹った時には、
このあたりの氷を運んだといういつ伝承もある。

江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には「滝壺5間四方
ばかり滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、滝の状況
を記すとともに、比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を示している。
揚梅の滝への道は、北小松の集落の外れが登り口になっている。
その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の
「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。

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