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2018.07.29

西近江路紀行13 琵琶湖は生活と文化の原点

西近江路紀行13 琵琶湖は生活と文化の原点

古代から近世へとこの地域の特徴つけていたのは、敦賀などから来る
大陸文化や物産の中継的役割と琵琶湖を中心とした経済と食文化の存在であろう。
それは志賀町史に描かれた内容からでもよくわかる。
今は遺跡となった塩津港には最盛期1千隻以上の丸子船が集まり、さすがの湖も
白く塗られたと言われている。今はその面影さえないが、この志賀の地域
でも船と人の往来の盛んなことを言われている。今は、和邇港と北小松港の
2つが港の姿を残し、漁業もおこなわれているが、木戸も含め、当時の
状況を知ることも今この地に住む人間にとって重要ではないだろうか。

「本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、
北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西
における重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。
古代の駅家がその後の中心的な集落になる事例は多くある。
現在の和邇今宿が和邇宿であったことが考えられる。

「和邇のみなと文化(似内 惠子氏)」にもその記述がある。
「近世前後の海上輸送
琵琶湖で旅客および物資の輸送に用いられてきたのは丸子船と呼ばれる
和船であった。丸子船は丸船、丸木船とも呼ばれ船型の一つである。
丸子船は丸木を縦に半分割ったような形で、側板を丸味をもたせて
つなぎ合わせた船のことである。船の大きさによって積み込む量が
異なっていた。大きなものは400石積から小さいものは6石積まで
あったが、100石積前後が最も多かった。
堅田にある湖族の展示館に模型と写真がある。
琵琶湖ではこの丸子船以外に、ひらた船と呼ばれる底の平で細長い形
をした船も使われていた。これは当初は物資輸送に使用されていたが、
船奉行が設置され、登録制になって湖上の物資や旅客の輪送が禁止
されてからは、もっぱら農家の自家用に使われた。
丸子船の構造で最も特徴的なのは「おも木」である。多くの和船には、
おも木といわれる部分は存在するが、大木を二つ割にして、そのまま取り付ける
という例は他にない。素材は主に「槇の木」で作られた。船体のほとんどは
槇の木であるが、「おも木」には杉や檜が使われていた。おも木は船の側面
に合わせ、木を曲げて取り付ける。
湖東地区では江戸時代から水産業が盛んで、和邇の沖手繰網や小松などの
氷魚網のように、幕府からその使用免許を得ているものもあった。
明治11年(1878)には南浜でイサザ・エビ・アメ・ハス・アユ、中浜では
ヒウオ氷魚(アユの稚魚)・エビ、小野ではアユ、北比良でヒウオなどの
漁獲があり、それぞれ近村あるいは大津方面へ出荷されていた。
旧和邇村では、明治24年(1891)に35戸が漁業に従事しており、
3戸の専業を除いて他はすべて農業との兼業で、これら全部がめいめい
漁船や漁具を所有して、ヒウオ・アユなどを獲り、当時の価格にして
3,766円の収入を得ていた。
また、北小松の小アユ飴煮はその特異な風味で知られている。」

さらに、志賀町史より古代の状況を概観する。
「水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代
以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半
越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。
琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」
で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、
塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに
なっていた。古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運
にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心
であったという。和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う
意味に由来していると思われる。つまり、和邇とは船のことを意味する
と解釈できる。または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、
和邇一族と呼ばれていたのかも知れない。または、和邇部氏との同族関係
から比良が和邇になったのかもしれない。」

なお、志賀町史などの記述から、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、
和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘と
言う記録があり、 明治11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・アユ、
北比良でヒウオ、北小松でシジミなどの漁獲があったと言う。
現在でもこれらの湖魚は量的には少なくなったとはいえ、大きな差異は
ないようであるし、志賀の郷土料理としても地元でこれらの湖魚を使った
料理が伝承されている。煮物、刺身さらにはなれずしとして多様な魚の食文化が
歴史の中で育まれていった。
更には、北小松の古史には、昭和の初めまでこれらの丸子船を使って割り木
(燃料用の薪)や小柴を大津へ輸送して商売をしていたという記録もある。
比良山系の成す木々は木戸から北小松と燃料用として広く恩恵していた。
女性たちの小柴刈り取りだけでも生計が成り立っていたという。それらは
湖を通じて大津や対岸の各地へ積み出されていた。

また、文化の交流という点では、都人が琵琶湖と比良山系の景観の美しさに
魅かれ訪問することが多かったようであるが、民間でも、例えば、満月の
夜の明るさを利用して安土など対岸の地域と祭りを行うなどの十五日祭があり、
湖上を行くことの便利さを利用した活動が見られた。
更に、後年になれば、多くの小説に琵琶湖を中心とした情景や人のならいが
描かれている。
満月に光り輝く湖面の美しさは水墨画と言えども描き切れないモノクロの見事な
世界である。この情景を見れば、黒い色と言えども、万象深遠の深さを描きうる
ということがよくわかる。
以前にもあげた泉鏡花の瓔珞品(ようらくぽん)
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん
日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の
調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」

更には、田山花袋の「湖のほとり」
「湖水でとれるヒガイ、若鮎、蜆の汁、そういうもので私たちは午飯をすましたが、
昼ややすぎて餓を覚えつつあったときには、殊に一層の美味を感じた。
私たちはやがて再び汽船に乗った。少し酔った顔を風に吹かせながら、潤い湖上
を東から西へと横切っていく感じはなんとも言われなかった。、、、、
湖上から見た大津の町は、いかにも趣きに富んでいた。白亜と瓦甍、その間を
縫った楊柳の緑、その上に緩やかに靡いている逢坂山の丘陵、それも汽船の
進むに連れて次第に遠く、比叡、比良の翠らんをその前に見る様になる頃には
唐崎の根を張った松も蓮や志賀の都の址も、明智佐馬之助の自害した阪本の
城の位置もそれとさやかに差す事が出来るようになった。」
ほぼ湖の沿岸全域を訪れ、同行者との会話や蕎麦やビールなどの食べ物関係の
記述が多く、雑感的な仄々とした味わいがある。
また、田山花袋の文にもあるように湖魚はその味わいに透明感があり、古くから
天皇への献上も行われていた。
「鰉ヒガイ」はその名の示すように明治天皇をはじめ多くの高貴な方々が好んで
食したことからこの名がついたとある。また鮎もまた朝廷への献上品でもあり、
その香りの良さから香魚ともいわれた。7月前後の鮎は香りもよく味もさっぱりして
抜群だ。琵琶湖は食文化への影響としても大きかった。ここでは2つほど事例
をあげたが、このように志賀を含め、琵琶湖と周辺の情景や食について描いた本は、
100冊近くはあるようだ。
これは、湖上交易により育まれてきた文化がその背景にもあるのだろう。

しかし、同じく「和邇のみなと文化(似内 惠子氏)」に記述されている以下の文も
注意を向けるべきなのかもしれない。
以下記述、
3)交易により育ってきた「みなと文化」
(1)交易・運行制度
琵琶湖は、中世から様々な利権が交錯し、紛争を生んできた。特に漁業権と船の輸送権
については、諸浦同士の争いが絶えなかった。
それを統制するための諸制度の中で、特に重要な大津百艘船・船奉行の制度を中心に、
琵琶湖の交易・運行制度について解説する。
これらの制度は琵琶湖全域に及び、和邇もその影響下にあった。
大津百艘船(おおつひゃくそうぶね)とは
大坂に城を築いた豊臣秀吉は、北国-琵琶湖-大津-伏見-大坂のラインに
重きを置いた。当時大津港に船が少ないのを見て、近くの港から百艘の船
を集め「大津百艘船」とよぶ船持仲間を創設したのである。
五力条からなる定書を発し、そのなかで大津港の百般船以外にはすべて
の荷物・旅人を乗せないという特権を与えた。
天正15年2月16日に浅野長吉が下した高札は次のようなもので、近世
を通じて大津百艘船の特権として認められていく。


一、 当津荷物・諸旅人、いりふねにのせましき事、
一、 当所へ役義つかまつらさる舟に、荷物・旅人のせましき事、
一、 他浦にてくしふねにとられ候ハ、此方へ可申上候、かたく可申付事、
一、 くじふねにめしつかい候とき、あけおろしの儀、せんとう共仕ましき事、
一、 家中の者下にて舟めしつかい候儀、曲事候、もし舟つかい候ハんと申もの候ハ、
此方へ申上候事、
右之旨相そむくともがらあらハ可加成敗者也、
天正十五年二月十六日 弾正少弼(花押)

琵琶湖を中心とするその交易の多さは、多くの経済的政治的仕組みを作り
上げているが、江戸時代までは堅田や湖北のみなと中心の文化の醸成も
同時に進んでいる。これは、倉敷や尾道などの海上交易で豊かな街を
作り上げていった地域と似たような状況であろう。
それを考えれば、やはり琵琶湖は大きい。しかし、それも明治以降の
大きな変化には呑み込まれていった。残念ながらわれわれはその遺構に
懐かしさを覚えるだけだ。

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