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2018.07.23

西近江路紀行12 北小松周辺

西近江路紀行12 北小松周辺

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社
や歌枕を実際に見聞しに行く者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。
宋雅とは出家後の号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経
の頃から幕府、武家との関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が
非常に厚かった。そんな雅縁が越前国気比大社参詣に出立したのが、
応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌がある
だろとまとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で
進んでいたようで、日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上
より伊吹山を眺め、比良の宿に宿泊している。そこで、比良の海や
わか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉と自分の年齢をかけた
和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を目の当たり
にして、小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ同じく
長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ
と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。
そして、竹生島を船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、
29日には気比大社に詣で、参籠して3月17日に帰京している。

将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船
に乗り湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながら
の通航であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。
「ヤウカウ」は影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際
に生じたという神体的な要素を持つ松のことである。

また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧アリ、麓に天神マシマス」
として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分
より流る。瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては
亦三間ばかり、この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて
東へ出、曲折して南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。
瀧の辺り,岩に苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広の時代にもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ
帰っている。

北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌がある。
昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に
大切なものと言う喩えもあった。
「柴刈りうた」
山へ行くならわし誘とくれ
山はよいとこ気が晴れて
涼みむき上げて花一越えて
どんどと下がれば畑の小場
大滝小滝は唄で越す
どんどと下がればしたえ松
したえ松からかきの小場までも
まだも待つのか弁当箱

北小松を含め、柴や枯れ木は当時重要なエネルギーであり、小松の港等を
中心に大津や対岸の村々に運ばれたのであろう。この囃子歌はその名残でもある。
「小松の歴史」という本には、近代のこの地域の生活の様子の一端が
描かれているが、それは志賀地域全体の生活の姿でもあったのだろう。
「電気もない、ガスもない、石油もない大正初期までは薪炭や小柴は夜の
燈火であり、熱源であり暖源でもあった。、、、、
山林資源は、早馬で駆け回る位ともいわれるくらい採伐枝、間引き、下草刈り
に専念し、小柴、薪炭、建築用材として伐り出し、小柴、割り木は、燈煮暖
の火源でもあった。「ニケ山」と称する女の人の小柴刈「ダンド刈」という
小柴刈は6束の小柴で十分生活が維持できた。
蚕を養い、麻を作り、これを織り小柴や木材を伐りだしても運搬の困難な奥山、
高山は一木も生えさせないように、村内総出の木引作業の総出で、大草原化
してこのこの青草を刈り帰り、牛の飼料と寝藁にして堆肥化し、余分は高島郡
の農家に刈り権を売却した。
木材を伐り出し、石材を切り出し、南小松は藻を刈り肥料とし、稲作りは何とか
自給できた。衣服も綿以外はほとんど自活、漁業収入、山林、木材、薪炭収入は、
生活外の収入となり、住みよい土地であった。、、、、
北陸より京都に、また近江各地より集められる物資を積んだ白帆が万帆で、
さしも広い琵琶湖を埋め尽くしていたと古老の幼児時代を思い出す。」
だが、徳永真一郎の「琵琶湖に命をかけて」にも描かれているように、
大雨による琵琶湖周辺の田畑の被害は大きく、彼らは絶えずそれに悩まされていた。
「少し雨が降り続くと、すぐに琵琶湖の水かさがふえ、魔物のように泥水が
這い上がってきて、湖岸一帯の田畑は、忽ち水の底に沈むのだ。それが隔年
ごとに起こるのだ。大雨が降っても、すぐに水込になることはない。
「後込7日」といって、7日後に水位が最高潮に達する。それを見計らって
朝早くから夕方遅くまでみんなが交代で水車を踏んで、排水に汗を流さねば
ならなかった。」

さらに、少し山側にそれると、徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜
があり、種徳禅寺は「弘法大師堂」は安産祈願を司り、庭園は、大きな
坐禅台があり、枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭
が配置されている。琵琶湖の景観が素晴らしい。また、種徳寺には、隣村
との境界争いで、江戸まで直訴におよんだ村人53人の碑石「種徳寺七代寿王和尚建之 
享保二年二月」がある。
八月一七日には、碑前で北小松五ケ寺の住職による供養が行われる。
江戸時代の直訴に対する厳しさを知るものだ。
この争論は、「鵜川山境争論」として200年余りも隣村との入会山をめぐって
のモノとして有名であり、最初の自伝書として明治までよく読まれていた
新井白石の「折りたく柴の記」にもその記述がある。

小松漁港を出ると再び国道と合流する。この付近から比良山地と湖が
接近している。道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町の境をなす鵜川
にさしかかる。このあたりは、かって鵜を使っていたところから川名と
旧村名のその名がついたといわれている。
西近江路はさらに続くが志賀の街はここまでだ。  (完)

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