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2018.08.26

西近江路紀行17 城跡を見る

西近江路紀行17 城跡を見る

山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所
にも上るいうが、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した
遺跡は数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期
にかけて築かれたことが知られている。
北小松の伊藤氏の城もそうであり、少し足を延ばした比良でもその盛衰は同じ
ようなモノであろう。
この築城の歴史は、応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃(1570~92)
に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの100有余年の短い
期間に築かれたものであることが分かる。
城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に
備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣
時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど
土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは
木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。
城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。
だが、この地域の城跡はそのような構造を確認できるものは残っていない。

比良の山端を右に見て、西近江路を南へ下ると、湖岸に田中坊城(北比良城、
福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路に面して同じく比良城が館城
としてあったという。湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として
野々口山城があり、両者の間は約2キロほど離れていた。比良城ー田中坊城ー
南比良城はほぼ一直線上にあったと言われるから、連動して戦に備えていた
のであろう。
さらに下がれば、西近江路に面して木戸城や荒川城が平地館城となって、山端
に作られていたという歓喜寺城がこれらの詰城であった。
その築城は、大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
時代が進み、浅井氏や信長の侵攻が活発化し、1540年代以降は本格的な山城
の築城と合わせた平地館城との連携をしていたという。
だが、山城も平地館城も、時の流れの中で、すべてが自然に帰っている。

もっとも、山城は、中々に行けない。今回は、比良城周辺の残滓を少し見たかった。
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる西近江路
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。
大きな石の鳥居の奥では、黒さの増したブナの木に囲まれた本殿が佇んいた。
その姿は、周辺の神社と変わらない。すでに朽ち果てた城の面影を思い描こうとする
が、明確な形となって現れてこない。それは、昔の友を呼び起こそうとするが、
かすみの中に茫洋とした形が見えるのと変わらない。ただ、古老にもこの場所に
城があったとの伝承が残っているという。北比良村誌によると「元亀二辛未年
九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院より兵火
蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、家並みの先に見える瓦屋根の下にあろう本立寺より数100メートル
西北西とされるが特定できていない。樹下神社天満宮からまっすぐ琵琶湖へ
と伸びている道路を行くと、左手に白壁に囲まれた福田寺がみえた。
小ぶりの門をくぐり、石畳の境内を進むと、本堂の横に城跡の石碑が建っていた。
それ以外何もない、寂しいきもちで寺を去る。

ちなみに、この志賀周辺汚城跡は、
①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)

また志賀町史第4巻に幾つかの城跡について、記述がある。
1)小松城跡
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろう。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に
なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、
跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。
2)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。
北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、
境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。
3)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。
4)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。
5)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。

形あるものは時の波間に消えるのみ。

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