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2018.08.12

西近江路紀行15 湖西の鉄と古代豪族

西近江路紀行15 湖西の鉄と古代豪族

古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。
交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、
ヤマト政権やヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野に
あったことに関係する。
古代近江は鉄を生産する国である。
湖西や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に
近江における国家的地方支配の拠点が置かれていたことにより、
七世紀末以後には大津市や草津市等の湖南地方に製鉄所が
営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では鉄生産が
おこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。
それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れを
みわたさなければならない。
鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。
それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても
通用していたばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。
権力の世界でも生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。
当時の製鉄方法の詳細はまだよくわかっていないが、原始的な
製鉄は古くからおこなわれていた。
しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、
大半が朝鮮半島洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入
されてた慶尚道の鉄延であったとみられる。三世紀なかばのことを
書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は鉄を出す。韓、わい、
倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の初頭以来、
朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部
まで駐屯させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が
難しくなった。五世紀なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の
有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動するのは、鉄の本格的な国産化
を必要とする時代となっていたことを示す、という。

古代の豪族たち、和邇部氏と小野氏
農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器
が行き渡るようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、
民衆と司祭者、つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。
各地に豪族が発生し、それらの統一に向かって原始的な国家の形態
へと発展していく。それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。
鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、
反折さかおりの池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。
多くの古墳にも、鉄器の副葬品が増えてくる。
鉄が武器となり、農耕具としてその活用が高まるのは、それなりの集団
が形成されているからである。この周辺では、和邇部氏と小野氏を考えておく
必要がある。
1)和邇部氏
志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、
ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に
奈良盆地東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、
社会的な職能集団でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。
和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、
和邇大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材
を生産し、和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。
中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、
その立場を利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、
ヤマト王権での地位を高めたと思われる。

以下の記述は、和邇部氏が鉄素材を運んだルートの想定としても面白い。
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。
そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、
椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであった
という。それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を
利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門か
または服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。

2)小野神社
和邇部氏も、製鉄に関係していたようであるが、小野氏の小野神社の
祭神である「米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)は、元来、鍛冶師
の神であり、鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇部氏の後、和邇臣
配下の鍛冶師に供給していたと思われる。「鏨着」の場合、タガネは
金属や石を割ったり彫ったりする道具である。
「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、
神名はタガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも
平安時代の初めには餅搗の神と思われていたとされる。

米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。
火が信仰の対象となったり、古事記や日本書紀にあるように剣が
その伝説となったり、代表的な金屋子信仰にあるように鉄に対する
信仰はあったはずであり、この地では、小野神社がそれの役割となった
気もする。

3)日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。
古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、
「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命
いしこりどめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じような
ことが「日本書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし
天香山の金を採りて日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、
天羽ぶきに作る。これを用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す
日前神なり」とあって、技術的にかなり具体的になっている。

この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用する
ほどに進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。
弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風
に依存して天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を
燃やし続け、ごく粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび
火中にいれて赤め、打ったり、叩いたりして、小さな鉄製品を造る
というきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことを
あたかも見ていたかのように述べてもいる。
この比良山系にも、何条もの煙が山間より立ち上り、琵琶湖や比良の
高嶺に立ち昇っていたのであろう。

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