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2018.12.01

西近江路紀行31 生活と文化

西近江路紀行31 生活と文化

西近江路紀行も今回でとりあえず終りとなるが、最後に少し
宗教と生活、文化について志賀町史を中心に概説しよう。
見る、感じるを深めるためにも、この地域の生活、風土を少し
ながらでも理解しておくことが肝要である。

日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。
白山信仰、富士信仰などは、その代表的なものであろうか。
水や稲作を支配する霊は山に籠り、生を受けるのも、死んでいく
のも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山と認識された
「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。
北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時
遺跡、栗原の大教寺野遺跡などがある。
しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、真言系
の当山系などのように、宗教集団を形成していった。
朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時の建立を認め、官寺とした。
最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、
天台宗の勢力拡大にともない比良山地はその修行地となり、
多くの寺院が建てられた。
その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に歓喜寺、法喜寺、
長法寺などが描かれている。
比良八講についても、「北比良村天神縁起絵巻」に、そのときの様子が
書かれている。また、「日次紀事」にも以下の様な記述がある。
「比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、
法華八講を修むこの日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時
非ずんば即ち出ず」
比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。
北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神
としている。しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗
が近江では、急激な広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏
を唱えれば、誰でも極楽浄土にいけると説いた。蓮如は、その
布教に対して、木像よりも絵像、絵像よりも、十字名号(紺地の
絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いたもの)を重視した。
この地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。
浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と
寛正の大飢饉である。12世紀以降には、鉄製農具が普及して
いたが、天候不順に対しては無力であった。
また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した
村落共同体の「惣村」が結成されるようになった。
慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、
一日三食の習慣が定着し,衣服も木綿が主となった。

志賀の文化、芸術
比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反
(かえ)る見ゆ
また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、
大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを
とある。
この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、
有名である。また、春の季節には、
ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし
花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を
民衆に受ける。しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道
を説く教義では、仏像、仏画も盛んに作られている。この地域では、
西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中)
上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野)
いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。
安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。
大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。
徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松)
などがある。

さらに古代に思いを馳せれば、
万葉集に、
「山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)
なす 海も広し」

これを「海」から「湖(うみ)」とすれば、ここ、さざなみの里
志賀でもある。文明のあり難さを十分に、感じた昨今としては、
伊勢神宮など、自然の豊かな場所での自然循環の中で、自給自足
という伝統を守っている人々の智慧を活用したいもの。

志賀町史第1巻では、
かって滋賀県は、近江国と呼ばれた。「近つ淡海の国」である。
静岡県の西部を浜名湖にちなんで「遠つ淡海の国」と呼ぶが、
それに対して近江国は、琵琶湖によってその名がついた。
古代の湖西地方には2つの特徴がある。交通の要所である
ことと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト王権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことと関係する。

近江は、日本列島における水上及び陸上の交通路の要であったと
言える。まず陸路から述べよう。旧いヤマト国家の時代には、
近江は「北」の国、海路で「越」(北陸地方)につうじる国と
見られていた。ならの平城京の時代には、東山道・北陸道の2つの
幹線道路(官道)が近江をとおっていた。実際には、伊勢湾がいまより
もはるかに深く湾入し、三重県桑名郡多度町と愛知県津島市との間の
渡しが難所であったため、東海道の諸国を往還する人も、しばしば
近江をとおって不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)を越えた。
官道には国家が管理する交通の拠点「駅(うまや)」が置かれ、
常時、緊急事態の通信連絡に備えていた。

志賀町域の古代の特徴は、なんと言っても、ヤマト政権・ヤマト王権
の中心地と北陸地方とを結ぶ大動脈が通っていたことである。
奈良盆地から後のなら街道を北上し、逢坂山をこえて湖西に入り、
小野、和邇などを経て音羽(高島郡高島町)あたりにでる。そのあと
上古賀(高島郡安曇川町)・追分などをとおって水坂峠(高島郡今津町)
を越え、若狭を回って鶴賀に至った。この道をとおる人は極めて多く
当時最大の豪族和邇部氏が運営する休息や宿泊の施設もたくさん
おかれていたはずである。
ヤマトの文化に触れることもあったので、早くから開けていたが、
それよりも北陸地方、特に、若狭・越前とのつながりが強かった
こと、それが当地の一番大きな特徴である。

次に水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代
以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半
越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。
琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」
で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、
塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに
なっていた。
その後は、瀬田川、宇治川、また木津川、淀川を使う水上交通路である。
この交通路は、5世紀後半には、開かれていた。6世紀後半からは国家
管理となった。その頃湖南の要港は、唐崎の南の方の「志賀津」(現在
の唐崎、西大津)であった。そこから京都府設楽郡の木津や大阪の難波津
に下っていった。船は再び琵琶湖に戻すのだが、「狭狭波山に控き引した」
とある(日本書紀)。宇治川、瀬田川の急流は、崖っぷちで足場が悪く、
とても船を引いてさかのぼることなど出来ない。そのため、巨椋池の
6地蔵あたりから山科川に入って船を引き、四ノ宮付近で陸揚げし、
逢坂山をこえて琵琶湖に戻していたのである。

この水上交通路の運営には、船大工や船頭などのほか、多くの人々の
労働が必要である。本町域の古代の人々も多数駆り出されたことであろう。
この様な労働は、無償ではなかったので、6世紀前半以前は、湖西北部
の「製鉄王」がその費用を支出していたと思われる。6世紀後半に国営
となってからは、「ミヤケ制支配」によってまかなわれた。「ミヤケ制
支配」とは、国家の企画で開拓した水田の経営と結びついた、労働力
と必要現物との国家的調達システムである。近江のミヤケの水田は
ほとんどが湖東に開拓されたが、その小作料としての収入は湖西の
交通労働者にも使われた。

以上のように、古代の近江は、日本海と瀬戸内海とを連絡する、本州横断の
「道の国」であった。その道が旧志賀町とその沖合いを通っていたのである。
この楽浪(さざなみ)の里は、当時としては、経済的にも、政治的にも、
非常に重要な地域であったのだ。

「木戸の歴史めぐり」というかっての木戸村の村史の序文からは、
短いながらこの地に住む人々の自然との関わり、その思いが
伝わってくる。
自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、神々しく輝く
偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。

時は移ろい、柳田や白洲の著作の中でも、ただ静かな湖岸の
地域の認識が強い。残念ではあるが、時は、全てを変えていく。

ほんの40年ほど前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、
湖は、地元のものにとってはそれこそ家の一部、生きていく上での
家族といってもいいほど親しみのある存在だった。
だが、人間の求める便利さや効率性のため、広い道路や遠浅の
砂浜は埋められ、湖辺はコンクリートと言う無粋なもので
固められ、湖と人々の関係は薄くなってしまった。朝や黄昏に
一歩踏み出せば逢えたさざ波や浜辺の鳥たちがひどく遠い存在となった。
日常的に体を支配してきた波のさざめきを失った人々は、不安でもあった。
長く人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、日常から離れ、
人の心根からも遠くなり、昔の語り草のような存在となった。
洗濯や野菜を洗うために湖に突き出しておかれた「橋板」も
ほとんど姿を消した。そこで交わされた日常も消えた。

この西近江路を歩きながらも、今の景観とかってあったであろう情景
を思い起こしつつ味わってもらいたい。

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